第2話 死にかけの英雄を拾いました
小鳥のさえずりと、スープの煮える良い香りで目が覚める。
最高の朝だ。
森での生活は、三日目を迎えていた。
私は蔦のハンモックから這い出し、大きく伸びをする。
背中の痛みはない。睡眠不足による頭痛もない。
肌の調子もすこぶる良い。
やはり、貴族社会のストレスこそが、私の美容を害する最大の毒素だったのだ。
「さて、朝食にしましょうか」
私は拠点の中央に作った「かまど」へ向かう。
といっても石を積んだだけではない。『耐熱粘土草』という、熱を加えると陶器のように硬化する植物で固めた特製品だ。
鍋の中では、森で採れた野草のスープが湯気を立てている。
おたまで一口すする。
……美味しい。
具材はただの雑草に見えるが、私の魔力で品種改良した『甘味ほうれん草』の変種だ。
肉などは入っていないのに、コンソメスープのように深いコクがある。
「平和だわ……」
誰にも邪魔されず、好きな時に起き、好きなものを食べる。
この生活を守るためなら、私は何だってするつもりだ。
そう。
固くそう決意していた矢先のことだった。
ドサッ、と。
何かが落ちてくるような、重く湿った音が響いた。
同時に、スープの香りをかき消すような、生臭い鉄の臭いが漂ってくる。
「……?」
スプーンを止める。
音は、拠点を囲む『拒絶草』の外側からした。
魔獣だろうか?
いや、拒絶草の強烈なハーブ臭を突破できる動物はいないはずだ。
私は警戒しつつ、護身用のスコップ(魔法で硬度強化済み)を握りしめて茂みを覗き込んだ。
「嘘でしょう」
そこに落ちていたのは、巨大なゴミ袋――ではなく。
全身を血に染めた、人間だった。
銀色の髪。
泥と血で汚れているが、仕立ての良い騎士服。
腰には高価そうな長剣を差している。
体格の良い、成人男性だ。
(どうして人間がここに? 騎士? まさか、追っ手?)
心臓が早鐘を打つ。
けれど、男はピクリとも動かない。
よく見れば、護衛の騎士たちのように口から泡を吹いていない。
この高濃度の魔素の中で、平然と呼吸をしている。相当な実力者か、あるいはよほど鈍感なのか。
私はスコップを構えたまま、恐る恐る近づいた。
まだ息はある。けれど、浅くて早い。
肩や腹から血が流れている。魔獣にでも襲われたのだろうか。
選択肢は二つ。
一、見なかったことにして放置する。
二、助ける。
感情的には「一」だ。
関わりたくない。もし追っ手なら、助けた後に私が捕まるかもしれない。
(でも……ここで死なれたら、死体の処理はどうするの?)
このまま放置すれば腐敗臭が漂い、ウジが湧き、疫病の元になる。
せっかく作った私の安眠環境が汚染されてしまうのは耐え難い。
かといって、この巨体を森の外まで運ぶ腕力は私にはない。
かといって、私の畑の肥料にするには、サイズが大きすぎる。
「……はぁ。仕方ないわね」
私は深いため息をつき、しゃがみ込んだ。
これは慈悲ではない。環境保全活動だ。
生かして、自力で帰ってもらう。それが一番合理的だ。
私は周囲の雑草に手をかざした。
「『薬用ヨモギ』、活性化。成分濃縮」
ブワッと緑の光が溢れる。
そこら辺に生えていた雑草が、急速に葉を肉厚にし、強い薬効の香りを放ち始めた。
私はそれをむしり取り、手の中で魔力を込めてすり潰す。
即席の緑色のペーストが出来上がった。
見た目は魔女の鍋の底のようだが、細胞活性化の効果は高級ポーション以上のはずだ。
「しみますよ」
男の傷口にペーストを塗りたくる。
傷がジュワジュワと音を立てて塞がっていく。
荒療治だが、出血は止まった。
その時。
ガシッ、と。
強い力で手首を掴まれた。
「……っ!」
男が目を開けていた。
氷のように冷たく、鋭い青色の瞳。
獲物を狙う猛獣のような、明確な殺気。
「……何者、だ」
掠れた、低い声。
威圧感が凄まじい。
私はとっさに身を引こうとしたが、万力のような握力で動けない。
「離してください。私はただの、通りすがりの森の管理人です」
「管理人……? ここは……呪いの、森……」
男は焦点の合わない目で周囲を見回した。
そして、ふと何かに気づいたように表情を緩めた。
「……静かだ」
「は?」
「頭が……割れない。音が、しない……」
男の瞳から、殺気が霧散していく。
代わりに浮かんだのは、泣き出しそうなほどの安堵の色だった。
掴まれていた腕の力がふっと抜ける。
「ここは、いい場所だ……」
言い終えるが早いか、彼は糸が切れたように脱力した。
死んだ!?
私は慌てて脈を確認する。
「……スー……スー……」
寝息だ。
気絶ですらない。
規則正しい、深い寝息を立てて爆睡している。
(な、なんなのこの人……)
さっきまでの殺気はどこへ行ったのか。
よく見れば、彼の目の下には濃い隈がある。
頬もこけていて、何日も寝ていない人の顔だ。
私の治療のおかげか、それともこの場所の空気が合ったのか。
彼は泥のように眠り続けている。
「……とりあえず、武器は没収ね」
私は彼が腰に差していた長剣を引き抜き、遠くへ放り投げた。
さらに念には念を入れる。
地面の蔦を操り、男の身体をぐるぐると巻き付けた。
これなら起きて暴れ出してもすぐには動けないし、寝相が悪くて私の畑を荒らす心配もない。
出来上がったのは、巨大な銀髪のミノムシだ。
「よし」
私は冷めかけたスープを飲み干すと、スコップを手に取った。
今日は家庭菜園を拡張する予定なのだ。
男の横のスペースが日当たり良好でちょうどいい。
ザクッ、ザクッ。
私が土を掘り返す音が響く。
男は起きない。
むしろ、土を掘るリズミカルな音を子守唄にして、より深く眠っているようにさえ見える。
(邪魔だなぁ……)
私は足元に転がる「国宝級の美形(ただし拘束済み)」を跨ぎながら、畝を作り続けた。
彼が目を覚ますのは、それから丸三日後のこと。
その間に私の畑が二倍に広がり、彼がうっかり肥料にされかける未来が待っているのだが――それはまた、別の話。




