第12話 最強の女官
昨夜見つけた軍靴の跡のせいで、森の空気はどこかぴりぴりとしていました。
カイル様は夜通しで境界付近を見回っていたらしく、朝食の席でも鋭い眼光を崩しません。
「……フローラ、当面の間は一人で森の奥へ行かないでください。帝国の連中が何を狙っているか分からん」
「分かりました。でもカイル様、あまり根を詰めるとまた不眠に戻ってしまいますよ?」
私が心配して煎じ茶を差し出した、その時でした。
庭の転移地点が、眩い黄金の光を放ちました。
「また陛下か……!? いや、この魔力の揺らぎは……」
カイル様が反射的に剣の柄に手をかけます。
光の中から現れたのは、豪奢な馬車でも、威厳ある老人でもありませんでした。
背筋を定規で測ったように真っ直ぐに伸ばした、一人の女性です。
藍色の簡素ながら上質な官服に身を包み、髪は一筋の乱れもなく後ろで束ねられています。
手には国王の印章が押された親書。
そしてもう片方の手には――なぜか、見事な細工の施された箒が握られていました。
「オーレリア王宮女官、エルザ・ヴァレンタイン。国王陛下のご命により、本日よりフローラ・グリーンフィールド様のご支援に参りました」
鈴を転がすような、けれど冷徹なまでに無駄のない声。
彼女は私の方へ歩み寄ると、完璧な角度で一礼しました。
「支援、ですか? 私はここでカイル様と静かに暮らしているのですが……」
「陛下からは、こちらの騎士団長殿が家事の役に立たず、フローラ様の憩いが損なわれていると伺っております。……失礼ながら」
エルザさんの視線が、カイル様が今朝うっかり溢したお茶の染みに向けられました。
「このような淀み、私の前では万死に値します」
「……何だと?」
カイル様が眉を寄せましたが、エルザさんの動きの方が早かった。
彼女は音もなく踏み込むと、持っていた箒を一閃させました。
魔力が込められたその一払いで、床の染みだけでなく、暖炉の隅に溜まっていた微かな灰までが霧散したのです。
「掃浄魔法・全域展開。……完了いたしました」
唖然とする私たちの前で、エルザさんは僅か数瞬でログハウスの全室を磨き上げてしまいました。
窓の硝子は存在を忘れるほどに透き通り、床は顔が映るほどに輝いています。
「凄いわ……。これ、私の魔法よりも掃浄に特化している……」
「当然です。私は王宮の汚物を掃き出すためだけに、二十年を捧げて参りました」
エルザさんはそう断じると、次に私の顔をじっと見つめました。
「さて、フローラ様。掃除は済みました。次は、貴女様の生活習慣を是正させていただきます。昼まで微睡むなどという怠慢、このエルザが許しません。本日の刻限表を作成いたしました。これに従い、正しき労働を――」
「拒否いたします」
私は彼女の言葉を遮り、きっぱりと告げました。
「エルザさん。貴女は掃浄の手練れかもしれませんが、真の休息を知らないようですね」
エルザさんの眉が、ぴくりと動きました。
「憩いは怠慢ではありません。明日、より善き働きをするための、魂の掃浄なのです。貴女が部屋を磨くように、私は自分の心を磨くために眠るのです」
「心を……磨く?」
「ええ。見てください。貴女の今の顔は、何年も磨いていない銀食器のように、疲れで曇っていますわ。それでは陛下の信頼に応えることはできません」
私は、自分が育てた鎮静作用のある香草を、そっと彼女の鼻先に漂わせました。
雑草魔法を応用した、精神の弛緩を促す香気の術です。
「……あ、……」
エルザさんの鋭い眼差しが、一瞬だけ揺らぎました。
彼女は自分でも気づかないうちに、過剰な緊張状態にあったのでしょう。
私の言葉と香りに誘われるように、彼女は近くの椅子にすとんと腰を下ろしました。
「半刻だけ、目を閉じてください。これからの務めは、その後に考えればよいのです。……これは、この地の主としての命令です」
「……フローラ様……。……承知、いたしました……」
最強の掃除女官が、そのまま静かに寝息を立て始めました。
その顔は、先ほどまでの鉄の仮面のような厳しさが消え、穏やかさに満ちています。
「……やるな、フローラ。あの『王宮の鉄女』を黙らせるとは」
カイル様が感心したように呟きました。
「味方なら、これほど心強い人はいないわ。彼女が日計の事務を引き受けてくれれば、私は本当にお昼寝に専念できるもの」
帝国の足跡。外からの脅威。
けれど、この内側の守りは、エルザさんの加入で鉄壁のものになりました。
有能な掃浄人、兼・事務官。
私の楽園は、また一歩、完成へと近づいたのです。
「さて、彼女が起きるまで、私も二度寝を楽しもうかしら」
私は満足げに、自分専用の特製枕を引き寄せました。




