第1話 雑草令嬢、呪いの森でハンモックを作る
「降りろ。ここがお前の墓場だ」
吐き捨てるような声とともに、馬車の扉が乱暴に開けられた。
途端に、鼻をつく腐臭と、舌が痺れるような金属の味が口内に広がる。
薄暗い森の境界線。
ここがオーレリア王国の東の果て。「呪いの森」の入り口だ。
私は座席からゆっくりと腰を上げた。
膝の上に置いていた布鞄をしっかりと握りしめる。
中身は硬いパンと水筒、それに着替えが数枚だけ。
公爵令嬢だった私が、家から持ち出しを許された全財産がこれだ。
「……ここまで、ご苦労様でした」
馬車を降り、砂利道に革靴を下ろす。
視界の奥は、濃い紫色の靄で霞んでいた。
護衛の騎士たちは、誰も私と目を合わせようとしない。
彼らの顔色は死人のように青白く、一人は恐怖のあまり鼻血を垂らしているのに気づいてさえいないようだった。
繋がれた馬も白目をむき、口から泡を吹いて暴れている。
無理もない。
この森から漂う高濃度の魔素は、耐性のない人間にとっては猛毒だ。
数分吸い込めば肺が焼けつき、一時間で精神が崩壊すると言われている。
「ひっ、早くだせ! 結界が持たんぞ!」
「悪女にはお似合いの末路だ! 二度と戻ってくるな!」
騎士の絶叫とともに、御者が半狂乱で鞭を振るった。
車輪が悲鳴を上げ、土を噛む。
彼らは一度も振り返ることなく、全速力で街道を逆走していった。
砂煙が晴れるまで、数秒。
周囲には誰もいなくなった。
聞こえるのは、風に揺れる不気味な枝葉の音と、遠くで鳴く得体の知れない鳥の声だけ。
私は深く、深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで森の空気を満たす。
そして。
「……やったぁ」
口からこぼれたのは、絶望の悲鳴ではなく、歓喜の声だった。
「終わった……! やっと終わったんだわ……!」
私はその場にへたり込むと、地面に生い茂る雑草を愛おしげに撫で回した。
頬が勝手に緩む。
笑いが止まらない。
毎朝四時起きでの書類整理。
理不尽な予算会議の根回し。
妹のロゼッタが癇癪を起こして枯らした花壇の、深夜の修復作業。
婚約者だったエドワード様からの、「君は地味で可愛げがない」という冷たい説教を聞くだけのお茶会。
全部、もうやらなくていいのだ。
追放万歳。
勘当最高。
ここには、文句を言う人間は一人もいない。
「さて」
スカートについた砂を払い、立ち上がる。
自由を噛み締めるのは後だ。まずは今夜の寝床を確保しなくてはならない。
私は森へ向かって一歩踏み出した。
肌にまとわりつくような、ねっとりと重い空気を感じる。
これが「瘴気」と呼ばれるものだ。普通の人間なら、この時点で嘔吐して動けなくなる。
けれど、私には平気だった。
足元に生えている名もなき下草たちが、私の歩みに合わせて淡い緑色の光を放っている。
(みんな、ありがとう。悪い空気を吸ってくれているのね)
私の固有魔法、【雑草魔法】。
正式な鑑定結果は「植物への微弱な干渉」というゴミ扱いだったけれど、実際はもう少し融通が利く。
私の魔力に反応した植物たちが、周囲の有害な魔素を吸収し、清浄な酸素に変えてくれているのだ。
いわば、森全体が私のための巨大な空気清浄機である。
「ここなら良さそう」
街道から少し離れた、巨木の間にある開けた場所を見つけた。
日当たりも悪くない。
地面は湿っているけれど、資材は無限にある。
私は鞄を置き、意識を集中させた。
魔力を指先から地面へと流し込む。
イメージするのは、強く、しなやかで、雲のような寝心地。
「――お願い、『編み込み蔦』」
ザワッ、と土が盛り上がる。
私の足元から、手首ほどの太さがある緑色の蔦が勢いよく伸びた。
蔦は意思を持つ蛇のように二本の巨木へと這い上がり、複雑に絡み合いながら空中に網目を描いていく。
ギシ、ミシ。
植物が高速で成長する音が森に響く。
わずか十秒ほどで、木と木の間に大人一人が余裕で寝られる巨大なハンモックが出来上がった。
「強度は十分……次は、湿気対策と水場ね」
地面に向けて手をかざす。
今度は『吸水苔』の種を活性化させる。
じわりと広がった苔の絨毯が、地面のぬかるみから水分を一瞬で吸い上げた。
じめじめしていた地表が、さらりとした乾燥地帯に変わる。
吸い上げた水は苔の中に溜め込まれているから、あとで濾過すれば飲み水にも困らない。
さらに、周囲の茂みに向かって『拒絶草』の群生を促す。
鋭い棘のある植物が、私の拠点を囲むように壁を作った。
この草は、動物が嫌がる独特の刺激臭を出す。
不思議なことに、私にとっては高級ハーブのような安らぐ香りだ。
これで魔獣避けも完璧。
「よし」
所要時間、約三分。
公爵邸にいた頃は、こんな魔法を使うと「庭が雑草だらけになる! 貧乏くさい!」と父に怒鳴られたものだ。
ロゼッタの咲かせる、根のない綺麗な薔薇ばかりが褒めそやされていた。
すぐに枯れてゴミになるだけの花が、どうしてあんなに重宝されるのか、私には未だに理解できない。
でも、もう関係ない。
私は雑草だ。
踏まれても抜かれても、勝手に生えて、勝手に生きる。
出来たばかりの蔦のハンモックに手をかける。
ゴツゴツした布鞄を『綿毛草』で包み込み、ふかふかの枕に変えてから、身体を預けた。
ふわり。
宙に浮く感覚。
植物のひんやりとした感触と、適度な弾力が背中を優しく包み込む。
最高だ。
王都の高級な羽毛布団よりも、ずっと身体に馴染む。
見上げれば、木漏れ日が優しく揺れていた。
瘴気の靄も、ここだけは晴れている。
「……あぁ」
身体の力が抜けていく。
鉛のように重かった肩が、嘘のように軽い。
まぶたが自然と降りてくる。
明日の予定は?
ない。
誰かに報告書を出す必要は?
ない。
お茶会のためにドレスを縫い直す時間は?
もう、二度と来ない。
(おやすみなさい、私)
私は泥のような幸福感に包まれながら、深い眠りの底へと落ちていった。
まさかこの数日後。
血まみれの男がこの楽園に転がり込み、私の平穏を揺るがすことになるなんて――今はまだ、夢にも思わずに。




