皇帝の意ならぬ者~玄宗皇帝と吉備真備~(3)
さて、真備が苦悩しているところを暗闇から見ている一匹の獣がいた。
ヤマネコである。
かつて則天武后が皇帝を称した時、西域から四匹のヤマネコが献上された。
ヤマネコだから性格はキツイ。ただ、全くの野生というわけでもなく、西域の国で経蔵の鼠退治にと代々飼われていた半野生の猫である。
ある時、武后は臣下を前にしてヤマネコの一匹とかねてから飼っていたオウムを披露した。
「猫は鳥を好む物と決まっています。しかし、ご覧なさい。このタンタンはオウムのメイニャンととっても仲良しなのです。このように種族は違っても同じ一つの屋根の下で一緒に暮らしていけるのです。まして、私たち人間が仲良く出来ないなどということがあるでしょうか。国の姿とはかくあるべきなのです」
とまあ、ヤマネコとオウムをだしにして訓話をしたわけだが、この時、まずいことにタンタンはとても腹を減らしていた。どうやら世話係の宦官が餌をピンハネして自分の腹に収めていたらしい。
タンタンは、ゆるゆるとメイニャンのところに近づくと、やおらジャンプしてとびかかった。
脚を止まり木に結わえつけられていたオウムには逃げ場所がない。あわれオウムはタンタンの腹の中に収まってしまった。武太后は悲鳴をあげ、世話係は床に額を打ちつけて不手際を詫びた。
この事件は朝廷にひと波乱を引き起こした。
ヤマネコは離猫と呼ばれ、離は唐王朝の皇帝の姓「李」と音が同じだ。オウムの漢字「鸚鵡」には武の字が含まれ、則天武后の姓「武」と通じる。
――李が武を喰った!
廷臣たちは武后の天下が本来の唐の王家に亡ぼされる予兆だ、と解釈した。
ライバルとなりそうな女官や王子には血も涙もない仕打ちをした則天武后であるが、さすがに猫に対してはむごいことはできない。餌係の宦官をしたたかに打ち据えて、猫は禁苑の森へと放逐された。野良になれという勅命である。
こうして、連座した他のヤマネコたちも宮廷から放り出され、ペットからネズミの駆除係へと降格したというわけだ。
そのヤマネコたちの子孫は、禁苑のあちこちに出没していた。
地元の猫と交雑して次の世代があらわれ、気性の激しさは薄まり、時に人間にこびて餌を求めるようになったのである。
その一匹が太真宮にも住み着いていた。
普段はネズミや小鳥、コウモリを狩っていたヤマネコである。が、真備がおいしい食事を摂っているのを見ると、おそるおそると姿を現したのである。
「なんだ、タヌキではないか」
離猫は時に狸猫とも書く。真備はそれにちなんで、太清宮の猫をこっそりタヌキと名づけていたのだ。
タヌキは用心深くお膳に近づく。そして、真備が食べ残した食器の中身のにおいを嗅ぐ。
「食べろ食べろ。わしは食欲がわかん」
気配で察したのか、猫は魚をくわえて隅の方へ持って行くと食べ始める。可愛く賢い生き物である。
「お前が猫でよかったぞ。猫の王ならわしは有無を言わさず喰われていたところだ」
そこで、ふと前に作った「東海姫氏國」の図を思い出す。
「確かこのあたりに……」
書き散らした紙の中に図面が見つかった。順に文字をつないで図研にしたのだ。
その図形は上に三つ、王の字が並んでいるように見える。
道教経典に似たような字がないかと探してみたのだが、まだ見つかっていない。これを吉祥の文字として解き明かしてみたらどうだろう。則天武后は則天文字と呼ばれる新しい文字をいくつか作り出した。四方と書いて圀(国)、明らかな空と書いて曌(照)、などである。武后が権勢を誇っていた期間は使われていたが、中宗に位を譲って武后が亡くなると、その文字も禁止された。今の皇帝が改めて新しい字を作ろうと思うはずもない。この案も詰んでしまった。
真備が悩んでいる間に日は過ぎていき、月はかわった。
その日、太清宮に先触れの宦官がやってきた。
「皇帝陛下のおなーりー」
万歳、万歳、の声が鳴り響く。
皇帝はいささかゆるい常服で現れた。後ろには、碁盤と碁笥を捧げた女官たちが続く。
「吉真備、解読は進んでおるか」
「ははっ、何とか読み進めております」
「そうか」
皇帝は、幣のように切られた詩が壁に掛かっているのを不思議そうに眺める。
「これは日本の神を祀る時の紙の切り方を試した物でございます」
「ふむ、面白い。他には?」
「始まりと終りの文字までの文字のつらなりは定まりました」
「なんと!」
真備は、東から始まり空に終る読み方を示す。そして、蜘蛛が教えてくれたこと、猫が教えてくれたことを話した。
そして声をひそめて核心について語った。
「おそらくこれは、武太后の御代に誰かが新しい字を広めようとして画策した讖緯の書でございます」
「というと、宝誌和尚の詩と言うのは」
「仮託でございます」
「で、その文字とは」
「全く先例のない字で、王朝の興亡を一字に収めた字でございます」
皇帝に、元の詩で文字の連なりが描き出した字を示す。
「ふむ」
皇帝は、碁盤を持ってこさせるとその交点に詩を記し、間に碁石を置いて文字の形を再現する。
「武后様の御代にはさまざまな讖緯の書や碑が世に現れました。『中岳馬先生讖』に『紫微夫人玉策天成緯』、そして『広武銘』。この詩もまた、その一つだったのでしょう。日の目を見なかった讖緯の書がたまたま楊貴妃様の目にとまり、陛下のお手元にやって来たのだと小臣は思うのです」
皇帝は腕を組み、しばし口をつぐんでいた。
そして、女官に別の碁盤を持ってくるように言いつける。碁石を碁笥にもどすと真備に言った。
「適当な文字を書け。元の文が読み取れぬようにな」
「ははっ。しかし、このみごとな碁盤、どうなさるおつもりなのですか」
「何、尚方署に命じて削り直させるだけだ。皇帝の真筆とありがたがるバカが出てはいかんのでな」
「ならば、女官たちにも書かせましょう。女の手が混じっていれば、ただのイタズラで終るでしょうから」
「おお、それはよいな」
皇帝は、女官たちを手招きする。
真備は「猫在樹上苗苗叫。樹下洞天老鼠鬧」と書いて女官に筆を預けた。たわいもない文言が続いて行く。
皇帝は笑いながら言った。
「讖緯の書などというものは、存外こうして作られていくのかもしれんな」
そして、新しく届いた碁盤を前に据えると、真備に黒石が入った碁笥を渡して言った。
「今日は天元から初めてみぬか」
「仰せのままに」
そして、久しぶりの対局が始まったのだった。




