四章 花冠をください。
海岸には大勢の人々が集まっていた。
これからなにがはじまるのか知っている者はほとんどいなかったが、とにかく“すごい”ことが起こるらしいと、好奇心にかられてやってきたのだ。
「すんごい立派なバイオリンの先生が、コンサートを開くんだってさ」
「コンサートって、海でか?」
「いや、おれは、美人の歌姫のワンマンショーだって聞いたぞ」
「なんだ、てっきり奇術ショーかと」
わけがわからないなりに、民衆の期待は高まるのであった。
バイオリンを抱いて海岸へやってきたエリゼッタは、この有様を見て唖然とした。
「な、なんなのよ! この部外者の群れはッ!」
とっとと追い払ってよッ! と、わめくエリゼッタを、ジンが涼しい顔で止める。
「ギャラリーがいるほうが、張り合いがあるとだろう」
「あんたの差金なのっ!」
「好意だよ、王女サマ」
「信じられるもんですか。いいから、みんな帰して──」
エリゼッタが言い終わる前に、見物人たちがこちらに気づいて、わーっ! と声援を上げた。
「来たぞ! あの子だ!」
「わーっ、可愛い! 綺麗!」
「やっぱりバイオリンだ!」
盛大な拍手で迎えられ、エリゼッタはそれ以上怒れなくなってしまった。
ジンに向かって思い切りしかめつらし、波打ち際に用意された小船に乗り込んだ。
「あのっ、エリゼッタ姫」
コニィが呼び止めた。
「がんばってね。わたし、応援しかできないけれど」
エリゼッタの表情が、ほんの少しやわらいだ。ホッとしたように唇をゆるめて、
「あたしの演奏は、いつだって完璧よ」
そう言って、寄せては返す波のほうへ凛と向き直った。
エリゼッタを乗せた小舟が海の上をゆっくり進んでゆくのを見るふりをしながら、ジンの目は群衆に混じる幾人かの男たちを、油断なくとらえていた。
地味ななりをしているが、どこか風格があるお忍び貴族ふうなのが二人。
似合わない村人の衣装を着込んだ、目つきの悪いのが一人。
(あっちがお目つけで、こっちが連絡役ってわけか。それとも暗殺者かな?)
どちらにしても、この音楽会が終わってエリゼッタとフォルトーニオをくっつければ、彼の契約は完了する。
あとはどうなろうと知ったことではない。
(ま、しばらくのあいだ、そこでオレの仕事ぶりを見ているといい。もっとも主役はあくまで、あの王女サマだがね)
そうこうするうちに、小舟は海の中に突き出た小さな岩山まで辿りついた。エリゼッタ一人をそこに残し、舟は離れてゆく。
白いドレスを着て金の髪をときほぐしたエリゼットは、もともと美少女なのだが、さらに美しかった。
華奢な腕がすっとバイオリンをかまえたとたん、不思議な威厳が周囲を圧し、見物人たちは口をつぐんだ。
ゆっくりと……美しいメロディが流れ出す。
少しずつ少しずつ……しだいに豊かに広がってゆく音を、みんなまばたきもせず、息を殺して聴いている。
ふいに、海上に緑の髪が海藻のように、ゆらゆらと広がった。
「海の妖精だ!」
誰かが叫び、どよめきがさざなみのように広がってゆく。
緑の髪に白い花冠をかぶった妖精ドゥーサは、ばしゃりと顔を出し、好奇心に満ちた表情を浮かべて、エリゼッタのほうへ近づいていった。
バイオリンを奏でるエリゼッタの喉から、歌がほとばしった。
ガラスの塔に閉じ込められ
少女は嘆く
愛する人よ 我が君よ
二度とあなたに会えませぬ
少女の名前はミューラ=ミュウ
この世で一番気高い娘
ドゥーサの顔に、雷に撃たれたような驚きが走った。
それは砂浜にいる見物人たちも同じだった。
バイオリンを弾きながら歌う。
そんなことが可能なのか?
しかも歌も旋律も互いを打ち消すことなく、輝きを増しながら海上に響き渡る。
体を楽しげに揺らしてバイオリンの弦を長い弓でかき鳴らしながら、口を開き、波の響きにも負けない声量で歌い上げるという──この奇跡を行っているのは、まだ幼さの残る十六歳の少女なのだ。
清く一途な想いをすべて
あなたに捧げてきたものを
今は悲しき妖魔の虜
彼が裏切ったから
開けてはならない禁断の扉
彼が開けたから
封印が解けて妖魔は逃げた
一緒に来てもらおう
清き娘ミューラ=ミュウ
美しいおまえはおれの虜
世界の果てのガラスの城が
ミューラ=ミュウの場所となる
コニィは夢中でエリゼッタを見て、その旋律を、その歌声を、聴いていた。
なんという音だろう。
なんという声だろう。
たしかに、たしかに、たしかに、エリゼッタは天才だ!
(素敵だわ、エリゼッタ姫)
みんな、うっとりと聞き惚れている。
ドゥーサも例外ではなかった。恍惚たる表情がその顔に浮かんでいる。
七つの苦難を乗り越えて
七つの勇気と七つの知恵を身につけて
若者はガラスの城に辿り着く
ミューラ=ミュウ ミューラ=ミュウ 愛しい娘よ
今こそ罪の赦しを
きみを我が手に返したまえ
ドゥーサを横目で見ながら、エリゼッタはゆっくりと口をつぐんだ。
そのまま焦らすように、ゆるやかな曲を奏でている。
「なぜやめるの? 続けなさい」
緑の髪の妖精が不満そうに言った。
「いいわよ、あなたかぶっているその花冠を、あたしにくれればね」
するとドゥーサはニヤッと笑った。
「ふふーん、あなた、カニのぼうやに頼まれたのね。生憎と、あたくしはあの子を手放すつもりはなくってよ」
「じゃあ、あたしもこれ以上歌う気もバイオリンを弾く気もないわ」
エリゼッタはバイオリンをおろした。
ドゥーサは身をよじって懇願した。
「そんなことは言わないで。さぁ──代わりに真珠と珊瑚でブーケを作ってあげてよ」
「花冠以外欲しくないわ」
エリゼッタがツンと横を向く。
「なんて、わがままな子なのっ」
ドゥーサは怒ってしまった。
「あのぼうやは、この先百年は、あたくしを楽しませてくれるでしょう。あなたのバイオリンと歌に、それだけの価値があるの?」
「千億年分の価値があるわ!」
あざやかに言い放ち、エリゼッタは朗らかで軽快な曲を弾きはじめた。ドゥーサがじっとしていられず、海の中で体を揺らしはじめる。
弓を動かす速度はどんどん増してゆき、ドゥーサは波に乗ってくるくる踊りながら、声をあげて笑い出した。
「まだまだよ! あの子は渡せないわ! でも、なんて楽しいのかしら。体が勝手に動いてしまうわ」
バイオリンの音が一層、速く激しくなる。
浜辺にいる人たちも、手をとって踊りはじめた。
エリゼッタの奏でる旋律に振り回されるように、踊って踊って踊り続け、くたくたになってもやめられない。
「はぁはぁ、もうよして。踊りすぎて苦しいわ。でも楽しくてたまらない。うきうきする!」
ドゥーサは頬を紅潮させ、幾度も身震いし、昂る感情のまま、自分の頭から花冠をつかみ、
「いやっほ──!」
と奇声をあげて、空高く投げ上げた。
「あっ」
「うそっ!」
コニィとエリゼッタは同時に叫んだ。
白い花冠は、揺れる波間に落ちた。
エリゼッタは泳げない。
青ざめて海を睨みつける。
コニィはざぶざぶと海へ入っていった。
「おい、コニィ!」
ジンが止めようとしたときにはもう、花冠を目指して泳ぎ出していた。
「バカっ! 戻りなさい、コニィ!」
エリゼッタが岩山から身を乗り出して叫ぶ。
ドゥーサは夢中で踊り続けている。
その動きに呼応するように波が高くなり、海が荒れ狂う。
「ひ、姫さま──」
「誰か姫さまをお助けしろ」
浜辺は大騒ぎだ。
コニィは波にのまれそうになりながら、必死で泳いだ。
花冠を拾わなきゃ。
フォルトーニオを助けなきゃ。
約束だもの。
白い花びらに手を伸ばしたとき、大きな波がコニィにかぶさった。
その衝撃に気が遠くなりながら、
(これだけはっ)
指先が花びらにふれ、コニィは夢中で引き寄せ胸に抱きしめた。
「うわぁぁぁ! 姫さまぁぁぁっ!」
みんなの絶叫が耳の奥で鈍く反響したとき、沈んでゆくコニィの体が下からぐいっと押し上げられた。
ブクブクだった。
ブクブクはコニィを背中に乗せ、岸辺に向かって泳いでいった。
「ブクブクー、ありがとう」
コニィは泣きそうになりながら、固い甲羅にしっかりしがみついた。
何度も波に押し戻されそながら、一人と一匹は、ようやく砂浜に辿り着いた。
コニィはだいぶ海水を飲んでおり、ジンが背中を叩いて水を吐き出させる。
小舟で戻ってきたエリゼッタも、血相を変えてコニィに駆け寄った。
「ちょっと、大丈夫なんでしょうね!」
「ああ、幸い怪我はないようだし、それにしても無茶をしたもんだ、お姫さま」
「ホント、心臓が止まるかと思ったわよ。自分の適性を考えてから行動しなさいよね」
あきれたり怒ったりするジンとエリゼッタに、コニィは咳き込みながら言った。
「だ、だって、ブクブクに花冠をあげたかったんだもん」
真摯そのものの声と眼差しで言われては、ジンもエリゼッタも引き下がるしかなかった。
ブクブクが感謝の気持ちを表すように、コニィの腕にそっとふれる。
「さっさと冠をかぶせてやったら?」
「そうとも、それはおまえさんの役目だよ、コニィ姫」
二人に言われて、コニィはちょっと緊張しながら、白い花冠をブクブクの赤い頭にそっと置いた。
とたんにブクブクは口から大量の泡を吐き出した。
泡はどんどんこぼれて、甲羅からはさみまですっかりおおいつくした。
それでも泡は高く高く積み重なっていって、砂浜にぺたりと座っているコニィの目線からさらに上へ上へ──ぷちぷちはじける泡の中に、すんなりと伸びた白い手足が見え隠れして──。
泡が完全に消滅したとき、浜辺には目もくらむような美しい若者が、はにかみながら立っていたのだった。
エリゼッタが、
「フォルトーニオ!」
と叫んで、飛びついた。
「やっぱりフォルトーニオだったのね!」
「ぼくもきみのことを覚えているよ、エリゼッタちゃん」
二人は七歳と五歳のころに戻ったみたいに無邪気に抱きあい、幼なじみとの再会を喜びあった。
フォルトーニオは美青年だけど、エリゼッタも美少女で、特に今日はめかしこんでいるので、見物人たちにもお似合いの恋人同士に見えただろう。
魔法にかけられた愛しい王子を救うために、海の中の岩山でバイオリンを弾き、歌声を響かせ、ついに恋人を取り戻した気高い少女が、エリゼッタだった。
王子の胸に飛び込むヒロインの役は、エリゼッタこそふさわしかったし、それはもうずっと前から決まっていたことなのだ。
コニィの入れる場所は、どこにもなかった。
フォルトーニオが人間に戻れてすごく嬉しいのに、コニィは淋しい気持ちで二人を見ていた。
フォルトーニオの目がコニィをとらえ、にっこり笑いかけてきた。コニィが一生懸命になにか返事をしようとしたとき、見物人たちを押し分けて、二人の男たちが進み出た。
彼らはフォルトーニオの足もとにひざまづき、うやうやしく言った。
「お迎えにあがりました。我らが国王陛下」
「きみたちは?」
驚くフォルトーニオに、彼らはフォルトーニオの故郷の名前を告げた。
「でも、国王って……」
「父君のホアン二世は、昨年崩御されました。我々は正当な王位継承者であるあなたさまを、ずっとお探ししていたのです」
「父上が……?」
フォルトーニオは茫然とつぶやいた。
コニィとエリゼッタも、この急展開に考える力をなくしたように立っている。
その周りを取り巻く見物人たちだけが、ひたすら平和に、「やっぱりショーだったんだ」「今度は芝居らしいぞ」と期待のこもる眼差しを、こちらに向けていたのだった。
◇◇◇
その群衆から──。
音もなく抜け出して、遠ざかってゆく暗い目の男がいた。
魔法使いのジンは皮肉げに、それを見送った。
(さぁ、ここからが試練のはじまりだ。海の妖精の囲われ者でいたほうが、のんきに暮らせたかもしれないぜ。どうする? フォルトーニオ王子サマ。いや、もう王サマだったっけな)