三章 運命の女の子は誰ですか?
「よくもダマしてくれたわね〜」
エリゼッタは憎々しげにコニィを睨みつけた。
「あ、あのね、エリゼッタ姫、道々説明したとおり、わけが……」
朝食の乗ったトレイをテーブルに置きながら、コニィはおずおずと言った。
さる国の姫君というふれこみでコニィが連れ帰った客人に、侍女たちは恐れをなし、食事を運ぶのを嫌がったのである。
コニィも、いつエリゼッタがスープのお皿を投げつけてくるかとビクビクしていた。
今朝はスープ皿の代わりにベッドのシーツを、きぃーっと叫んで引き裂いた。
「どんなわけがあろうと、あたしの知ったことじゃないわよ。あんたたちはグルになって、あたしをダマしたのよ。なにがペルーシアの皇帝の使者よ。お姫さまをお助けしたいのです、よ。調子のいいことをぺらぺら並べ立てて、ひ、人の弱みにつけこむなんてサイテーよっ! あなたのこと友達だと思ったあたしは、大まぬけだったわっっ!」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい、でも……」
「また、でもなの? 言い訳なんてまっぴらよ! それに、いつまでも侍女の真似をして世話をやいてくださらなくてもけっこうよ、マリア=コルディーヌ姫さま!」
とりつく島もないとは、まったくこのことである。
予想していた以上にエリゼッタの怒りはすさまじかった。
ここへ来るまでのあいだ何度も脱走を試み、そのたびジンに連れ戻されては、じたばた暴れて、「人さらい! 悪魔!」とわめきちらした。
城に着いてからも一向に機嫌が治らず、食事はテーブルごとひっくり返す。人さらいの用意したベッドでなんか眠れないと言って、自前の枕を抱えて床に横になる始末だった。
城のみんなは、コニィが帰ってきて喜んだものの、一緒にやってきた客人にはキリキリ舞いさせられ、「なんてあんな女連れてきたんですか!」と文句を言う。
高名な音楽家と若い声楽教師も、さんざん悪口を言いあっていた王女が現れ、仰天していた。
エリゼッタのほうは、顔見知りに再会したからといって気持ちをやわらげることはこれっぽっちもなく、音楽家が、
──ひ、久しぶりだね。
と言うなり、罵りの言葉を浴びせた。
──あんたたちもグルなの? 大した才能もなくて、ろくな演奏をできもしないんで、音楽家をやめて誘拐団に職業替えしたわけ?
音楽家も声楽教師も心に傷を受け、二度とエリゼッタの部屋を訪れなかった。
庭のベンチに並んで座り、二人で慰めあっている。
「ああもう、どいつもこいつも大っ嫌いよ! 大嘘つきのペテン師! あたしの前からさっさと消えちゃってよッ!」
「ば、バイオリンを……弾いてもらいたいな……と思って」
エリゼッタはコニィを、ぎろりと睨んだ。
「バイオリン、ですってぇぇぇ」
「うん、わたし、エリゼッタ姫のバイオリン、好き……です」
「嘘つき! あんたが、あたしにバイオリンを弾かせたいのは、そのなんとかっていう男を助けるためじゃない。誰が弾いてやるもんですか」
「そうそう、そのほうがおまえさんのなけなしのプライドも保たれようってもんだ」
意地の悪い声が降ってきた。
黒いマントをまとって忽然と現れたのは、魔法使いのジンだった。
「あなたの話なんて聞きたくないわ」
エリゼッタが叫んだ。
ジンは笑っていなければ冷たくすら見える灰色の目で、じっとエリゼッタを見つめながら言った。
「海の妖精ドゥーサは、真に優れた音楽にしか心を動かさない。どうせおまえさんには、そんな力はないだろう」
「聞いたこともないくせに」
「聞かなくてもわかるさ。おまえさんのその、きぃーきぃーうるさい喚き声を聞いてればな。なんの潤いも情緒もない。ただ煩いだけの騒音だ」
「よくも!」
「ここにいるのが嫌なら、父王のいる国へ帰るか? そうしたきゃ好きにしていいんだぞ。もっともあの厳格な父君のことだ。二度と勝手な真似ができないように、嫁入りまで塔に幽閉するくらいやりかねんだろうな。もちろんバイオリンも取り上げられて、叩き壊される……かな?」
エリゼッタは自分の手に唯一残された友人を、決して離さないというように、ギュッと抱きしめた。
「あなたって本当に嫌な男だわ」
「自分の性格の悪さを気にせずにすんで、いいだろう」
エリゼッタは皿を両手に一枚づつつかみ、ジンに向かって投げた。皿はジンの手前で薔薇の花に変わり、かぐわしい香りが部屋に満ちた。
悠然と笑う魔法使いを、エリゼッタは絞め殺したそうな目で睨んでいる。
コニィは急いで言った。
「ね、ねぇ、お庭に出てみない? ブクブクに会えば、エリゼッタ姫もきっと……」
「い、や、よ」
エリゼッタは、ふんっと横を向いた。
「国には帰らない。この部屋からも出ない」
「じゃあ、わたしがブクブクを連れてくるわ」
「えっ? ちょっと待って──」
コニィはとてとてと部屋から走り出ていった。
あいかわらず不器用な足運びだ。
エリゼッタはコニィの出ていったほうを、ぽかんと見ていた。
連れてくるって……まさか……。
そのまさかであった。
しばらくして、真っ赤な巨大ガニを背中に担いでコニィが戻ってきた。グロテスクなはさみやギョロリとした目に、エリゼッタは、
「きゃ──っ!」
と悲鳴をあげた。
「怖くないよ。ブクブクはとってもおとなしくて──」
「いやぁ! こっちに来ないで!」
エリゼッタは花瓶だの皿だの、部屋にあるものを手あたりしだい投げつけ、そのうちバイオリンを抱きしめてわーっと泣き出してしまった。
「もういやっ! 一人にしてよ! 放っておいてよぉぉぉぉ!」
エリゼッタの錯乱ぶりに、さすがのジンも表情をあらためる。
気丈そうに見えて人一倍過敏な少女なのだ。立て続けの災難に、ついに張りつめていた糸が切れたのだろう。容易には泣き止まない。
「……ごめん、ね」
コニィは罪悪感が込み上げて、ぽつりと言った。
エリゼッタは鼻をすすりながら、コニィを見た。
コニィはカニを背中におぶったまま、しょんぼりしている。
「ごめんね、帰るね」
「あの……」
そのままよろよろと出ていった。
カニをおんぶした後ろ姿が、悲しげだった。
ジンも軽く肩をすくめ、宙に消えてしまった。
一人取り残されたエリゼッタは、急に静かになった部屋の中で、理不尽な罪悪感を抱えてじりじりしていた。
◇◇◇
次の日も、その次の日も、コニィは姿を見せなかった。
おっかなびっくり食事を運んできた侍女に、エリゼッタはなんにも気にしてないふりをして、コニィはどうしたのかと尋ねた。
「姫さまなら、池で魚をごらんになっていると思います。いつもそうですから」
妙なもので、そう聞いたとたん、むらむらと怒りがわいてきた。
お魚ですって!
客人のあたしを無視して、カニやボラを眺めているなんて!
放っておいてと言ったのは自分のくせに、むやみと腹が立った。
窓からこっそり庭を見下ろすと、なるほど、ひょうたん池のほとりに、みじろぎもせずに座り込んでいる。
小さな体をますますちんまり丸めて、そのまま一時間、二時間──コニィは動こうとしない。
いつまで、あそこで、ああやっている気かしら?
エリゼッタはイライラしてきた。
魚を見ているのが、そんなにおもしろいの?
あんな、ぬめぬめした薄気味悪い生き物のどこがいいのよ!
小さいころに、城の池で溺れかけたとき、魚に体をつつきまくられた経験を持つエリゼッタは、水に連なるすべてが苦手で大嫌いだった。
だけど……。
──ブクブクはね、とっても綺麗なカニなのよ。甲羅がきらきらしていて、カニの王さまみたいなの。
ここへ来る道すがら、エリゼッタは腹を立てていたのでろくすっぽ聞いていなかったが、コニィはそれは愛おし気に『ブクブク』のことを語っていたような気がする。
その夜。
みんなが寝静まったころ、エリゼッタはこっそり部屋を抜け出して、ひょうたん池のほとりまで歩いていった。
おずおずと中をのぞきこんでいると、月に照らされて赤い光がチカッと輝くのが見えた。
(ブクブク?)
月光をまとった巨大なカニは、昼間に見たときとはうってかわって神秘的で、堂々として見えた。赤い甲羅が水滴をはじいて、きらきら輝いている。
銀色の光に包まれているみたいだ。
もっとじっくり見たくなり、ちょっとこっちへ来なさいよ、と手招きすると、驚いたことに本当に近づいてきた。
「言葉……わかるの?」
びっくりして尋ねると、ブクブクは“うん”というように、はさみをちょきちょきさせた。
「ふーん……」
まじまじ見ていると、ブクブクのほうでも池のほとりまで這い上がってきて、エリゼッタをじっと見つめた。
(……知ってる?)
まさか、と思った。
カニなんて、実物は見るのもはじめてだ。
だけどなぜだか、懐かしい気がして……。
突然カニが、エリゼッタの服の裾を引っ張った。
「な、なによ、ちょっと──きゃっ!」
池に引きずりこまれて、エリゼッタは悲鳴を上げた。
冷たい! 気持ち悪い!
カニはさらにエリゼッタを池の底へと引っ張ってゆこうとする。
「やめてよぉ、あたし、あたし、泳げないんだからぁっ!」
急に体が楽になった。
ブクブクが服を離したのだ。
エリゼッタは池のほとりに手をつき、やっとのことで這い上がった。
カニがちょこちょことやってきて、エリゼッタの顔を下からのぞきこむ。
笑っているみたいに見える。
「もぉーっ、このバカガニ!」
腹を立てかけて、ふと、小さいころに遊んだ男の子のことを思い出した。
あたしは泳げないのよ! と頬をぷっくりふくらませる小さなエリゼッタに、男の子は池をすいすい泳ぎながら言ったのだ。
──海に比べたら、こんなのなんでもないよ。知ってる? 海はもっと広くて大きくて、宝物をいっぱい隠しているんだよ。
船で海を渡ってエリゼッタの国へ来たのだと、男の子は言った。そう、あの子は式典のあいだ滞在していた外国の王子だったのだ。
──宝物なんて、どうせイソギンチャクとかコンブとかでしょう。あたし、本で見て知ってるもん。
──エリゼッタは真珠は嫌い?
──好きよ。
──じゃあ、珊瑚は? 桜貝は?
エリゼッタがうなずくと、王子は得意気に言った。
──みんな海の宝物だよ!
──ふーん……でも、あたし泳げないもん。
すると男の子は、天使のようにふんわり微笑んだ。
──なら、ぼくがエリゼッタに真珠をとってきてあげる。そしたら、ぼくのお嫁さんになってくれる?
エリゼッタの小さな胸が、とくん、と鳴った。
──うん……──となら、いいわ。
恥ずかしくて、ぶっきらぼうになってしまうエリゼッタの唇に、あのエリゼッタより少しだけ年上で、とってもマセていた男の子は、さっとキスしたのだ。
まさか!
エリゼッタが息をのんだとき、カニが口から、なにか白いものを吐き出した。
それは淡い光をまとって、エリゼッタの手もとに転がってきた。
真珠だった。
長いあいだ忘れていた初恋の少年の名を、エリゼッタはつぶやいた。
「フォル……トーニオ?」
そうだよ、エリゼッタちゃん、というように、カニは左右に体を揺らした。
◇◇◇
「ダメだ、邪魔しちゃいけない」
茂みのあいだで息をひそめていたコニィは、思わず立ち上がりかけたところ、肩を抑えつけられて、また座り込んだ。
「ジン……どうして」
池のほとりで見つめあっているカニと少女のほうを気にしながら、コニィは声をひそめた。
昼間、エリゼッタに泣かれてしまって、いろいろ考えて眠れずにいたところ、突然庭の池のほうから悲鳴が聞こえたので、急いでやってきたのだ。
そこでは、ずぶぬれのエリゼッタとブクブクが意味ありげに見つめあっていて、エリゼッタがブクブクのほうへ身を乗り出して、熱心に語りかけていた。
なぜか二人のあいだに割って入ってはいけない気がして──コニィはここに身をひそめていたのだ。
ジンが現れたことで、コニィはこんなふうにこっそりのぞき見をしていたことが、恥ずかしくてたまらなくなった。
コニィの頬が赤く染まっている。
ジンが言った。
「まさしく運命の再会、というやつだな」
「うんめい?」
コニィが聞き返すと、ジンは涼し気な声で語る。
「あの二人──フォルトーニオ王子とエリゼッタ姫は、幼ななじみだ。昔、フォルトーニオが父親にくっついてエリゼッタの国の式典に出席したときに、二人は出会っている。仲が良くてなぁ、結婚の約束なんかしてたみたいだぜ。それだけじゃない。これはエリゼッタも知らんだろうが、二人は国同士が正式な約束を交わした許嫁だ。もっともそのあと王子が海で行方不明になったんで、縁談は自然消滅ってことになったがね」
「……」
コニィは黙ったままジンの言葉を聞いていた。
以前にフォルトーニオが話していたことが、思い出された。
小さいころに遊んだ幼ななじみとも、約束しっぱなしだったと……。
あれはエリゼッタのことだったのだ。
会いたい人というのも、やっぱり……。
「エリゼッタが音楽の天才として成長していたことも、運命という気がするね。あの姫は知らないうちに、許嫁の王子を救う力を身につけていたというわけだ」
ジンの言葉はコニィの胸に、残酷に響いた。
(わたしじゃないんだわ……)
フォルトーニオを救えるのは、コニィではない。
コニィには、その力がなかった。
エリゼッタだけが、囚われの王子を救うことができるのだ。
それはジンの言うとおり、運命なのだという気がした。
「……悪かったな」
突然、ジンが優しい声で言った。
「つらい話だったな。ただ、今から覚悟しておいたほうが、あとで苦しまずにすむ」
「わたし、平気だよ」
コニィの口調は普段と変わらずほんわりしていたので、ジンでさえ、本当になんとも思ってないのかと疑うほどだった。
「幼なじみの女の子に会えて、ブクブクはよかったね。でも、どうしてジンはそんなにいろいろ知っているの?」
「……魔法使いだからさ」
かわいた声で、ジンは答えた。
コニィは曖昧な笑みを浮かべて、自分の部屋に戻った。
「……イヤな役目だぜ」
黒衣の魔法使いは、つぶやいた。
池のほとりでは、エリゼッタ姫と、カニに姿を変えられたフォルトーニオ王子が恋人同志のように寄り添っていた。
◇◇◇
翌朝、エリゼッタは、はじめて国王とコニィと同じ食卓についた。
「おはよう」
先に座っていたエリゼッタに、ぶっきらぼうに挨拶されたコニィは、びっくりしている顔で、しばし硬直していた。
「お、はよう」
二人はお互いに相手をちらちら見ながら、黙って食事を続けた。
父王だけが上機嫌で、エリゼッタにサラダやソーセージをとりわけている。
出されたものを全部食べ終えると、エリゼッタは照れくさそうにもじもじしながら、コニィに言ったのだった。
「あたし……バイオリン、弾いてもいいわよ。その……海で……さ」
「……うん」
コニィはぎくしゃくと笑った。
「ありがとう」
エリゼッタは気が抜けた。
コニィのことだから、顔中をぱーっと輝かせて、大喜びすると思っていたのに。
「あなた、嬉しくないの?」
「う、ううん、嬉しいよ、とても」
コニィは慌てて、わーい、ばんざーい、と両手あげてみせた。
「じゃ、わたし、ジンに報告して、いろいろ相談してくるね」
「それなら、わたしも行くわ」
あのペテン師に会うのは嫌だけど、とエリゼッタは言った。
「いいの、いいの、エリゼッタ姫はブクブクと、どうぞごゆっくり……はは……ははは……」
笑顔を引きつらせながら、コニィはとてとてと出ていってしまった。
(なにか変だわ)
エリゼッタは顔をしかめた。
「おたくの娘さん、変じゃありません?」
国王に意見を求めると、のんびり笑いながら言う。
「なに、いつもあんなものですよ」
エリゼッタはため息をついた。