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一章 エリゼッタ〜砂漠の皇帝に求婚されたので、家出してやりました。


 疑いようもなく、彼女は器用だった。

 メイドのエプロンのリボンがうまく結べず、両手を後ろに回して、体をもぞもぞ動かしている。

 しきりに首をかしげながら奇妙なダンスを踊る姿は、実に初々しく間抜けだった。

 救いといえば癇癪も起こさず、ひたすら努力する純粋さであろうが、これは単にのんきで鈍いだけともとれる。

 第一今の彼女に、()()()()服を着替えている暇などないはずである。


「新入りさん、着替えはすんだ? こっちに来てちょうだい」


 ドアの外から声をかけられて、彼女は縦結びのリボンのまま──ついでに靴を片方はき忘れたまま、慌てて部屋から飛び出していった。

 靴が片方だけでは歩きづらいのは当然で、女官長の目の前で彼女はすっ転んだ。

 さっさと床に手をつければよいものを、ぐずぐずしていたので鼻から先に地面に挨拶してしまった。


「まぁ……」


 鼻の頭を押さえて恥入るドジな娘を、女官長は呆れて見つめた。

 亜麻色髪と黒い瞳の、まんまるい目をした彼女が、この物語のヒロインである。誤解なきよう、ここに記しておく。

 とりあえずは、彼女が今日からお仕えするお城の姫君にスポットをあててみたい。

 この姫君のほうが、おそらく波瀾万丈なドラマのヒロイン向きである。


 その名を、エリゼッタという。


 ◇◇◇


「もう嫌っ!」

 エリゼッタは叫ぶのと同時にテーブルをひっくり返した。

 赤や紫、桃色などの糸の束が床にばさりと落ちた。白い絹にわずか十分の一ほど出来上がった孔雀の刺繍を、足でズン! と踏んづけ、女性教師を睨みつけた。


「刺繍なんて大嫌いよ! お兄さまが孔雀の絵を刺繍したマントが欲しいっていうなら、このまえ東の国の、なんとか大王から送られてきた、あの孔雀の羽をむしりとってマントに貼りつけとけばいいんだわ。さぞ斬新なマントになるでしょうよ」


 だいたい三番目の兄王子の結婚式の贈り物に、手作りのマントをプレゼントしましょうなんていうのは、口実なのだ。

 父王たちがなんとか理由をつけて、エリゼッタに裁縫やダンスや文学を習わせようと企んでいることは、よくわかっている。


 ──おまえの義姉(あね)になる姫は、それは教養のある貴婦人だ。おまえも話し相手ができるように勉強せねばな。


 ──大切な兄の婚礼で、不作法は許されぬぞ。よい機会だから一国の王女としての礼儀をしっかり身につけるといい。


 等々……。

 長兄と次兄の結婚式のときは、これほどうるさいことは言わなかった。

 今回にかぎってやかましく注文をつけるのは、エリゼッタの十六歳という年齢のために違いなかった。

 王族の娘にとって十六歳は、結婚適齢期なのだ。


 案の定、女性教師は上品な作り笑いを浮かべて言った。

「まぁまぁ、姫さま。刺繍がお嫌いでは、お嫁入りの支度ができませんよ。花嫁のベールの縁飾りはどうされるおつもりですか?」


「結婚なんてしないわよ、あたしは」


 エリゼッタは頬をふくらませて宣言した。

「絶対に、絶対に、お父さまになんと言われても、するもんですか。色白で顔がひょろ長いのも、金魚みたいに口をほけっと開けているのも、妙な流し目の口髭男も、みんなお断りだわ!」

 次々持ち込まれる縁談相手の肖像画を思い出しながら、エリゼッタの胸に新たな怒りが込み上げる。

 どれもろくなもんじゃない! 一枚だって五秒以上見つめていたいと思う殿方はいなかった。そんな相手と一生顔を付き合わせて暮らすなんて、考えただけでうんざりする。


(あたしは一人で、好きなことをして暮らしたいのよ!)


 エリゼッタは教師のほうへ、すっと手を差し出した。

「返してよ、あたしのバイオリン。もう朝からずっと針と糸を持ってチクチクやったんだから、じゅうぶんでしょう?」

「いけません。ジュリオさまへの贈り物が完成するまで、バイオリンは弾かないお約束です」

 そんな約束、あんたが勝手に決めたんじゃない!

 エリゼッタは叫びそうになったが、思いとどまって、代わりに言った。


「じゃあいいわよ、歌うから」


「歌うって、姫さま──」

 息を目一杯吸い込むなり、エリゼッタは高らかに歌いはじめた。

 素晴らしい美声だった。

 張りもあり、音程もしっかりしている。微妙な節回しなど、プロの吟遊詩人でも舌を巻いて負けを認めるに違いない出来栄えである。

 しかしどんなに美声でも、真っ昼間から城中に響き渡る声で歌われたのではたまらない。

 ましてやその内容というのが──。


 うちの殿さま ひどい殿さま

 戦と女が大好きで

 征服した土地にひとつに愛妾(よめさん)十人

 領土を広げるそのたびに

 子供もわんさか増えてゆく


 なのにわたしら腹ペコで

 家でガキども泣きわめく


「殿さまどうにかしてください〜〜〜〜!」

 エリゼッタは舌を使って、声をる〜〜〜〜っと震わせた。

 誇張ではなくエリゼッタは城中に響き渡る声を持っていたので、すぐに大臣たちが血相を変えてやってきた。

「おやめください、姫さま。ただいま外国から使者のかたがお見えです。そんなお歌をうたわれては、我が国の品位に関わります。使者のかたが姫の父王さまのことだと思われたら、どうなさいます」


 うちの殿さま暴君で〜〜〜〜


 エリゼッタはすまして続けた。


 可愛い娘をしいたげる

 姫のバイオリン取り上げた

 王女に恋の自由なし

 国を富ませるそのために

 結婚しろと殿さまいう


 バカでもボケでもかまわない

 財産たっぷり持ってれば


「バイオリンを返してお父さま〜〜〜〜! さもなきゃお父さまの秘密を、みんなにバラしてしまうわよ〜〜〜〜!」

 もちろんエリゼッタは嫌がらせで適当に言っただけだが、誰でも秘密のひとつやふたつは持っているものだ。それを城中に聞こえる声で歌い上げられてはたまらない。

 すぐに別の家来が飛んできた。


「先生、姫にバイオリンを」

「誰か、バイオリンを早く」


 教師の言葉を待っていたように「はいっ」という声が返ってきた。バイオリンを抱えて走ってきたのは、新入りの侍女だった。

 あらっ、とエリゼッタの注意が侍女のほうへ向く。


(あの子だわ)


 他人に無関心なエリゼッタだったが、彼女の顔は三日で覚えた。

 あまりにもドジだったからだ。

 花びんやグラスをダース単位で割る。

 羽枕を叩きすぎて中身をぶちまけてしまう。

 掃除をすれば、ほうきの柄で歴代国王の肖像画の鼻に穴を開ける。

 ただ歩いているだけでつまずいて転ぶ。ついでに近くの壺や石膏像を巻き添えにする等々……。

 彼女が城で働きはじめてから十日ほどしか経っていないが、失敗をあげればきりがなかった。


 仕事をしているときの彼女は真剣そのもので、見ているエリゼッタまで手に汗握ってしまうほどだったが、とにかく不器用でトロくさかった。


 いつぞや床を磨いていたときも、雑巾をまじまじと見つめ(これはどう使うのかしら?)とでもいうようにしきりと首をひねり、水にびしゃびしゃにひたしたあと、ただ絞るのにも四苦八苦し、ようやく床を拭きはじめたものの、タイルをじぃーっと見つめ、美術品でも磨き上げるみたいに一枚一枚丁寧にこすってゆく。

 あんまり床ばかり見ていて、通りかかった大臣にぶつかって、倒れる大臣の下敷きになってしまった。


 万事がこの調子だから、女官長にしょっちゅうお叱言をもらっていた。

 ガミガミ文句を言われて、しょんぼり肩を落としている侍女の姿は、世の中の哀れを一身に背負っている(ふう)で、エリゼッタは女官長に反感を持った。

(あんなにしつこく言うことないのに。なにさ、ガミガミ女)


 しかし当の侍女は恨みがましい顔もせず、それどころか、よし、今度は失敗しないようにがんばるゾ、とばかりにせっせと仕事に励むのである。

 きっとバカで鈍いのだと、エリゼッタは呆れつつも、この侍女がつい気になってしまうのだった。


 今も侍女のよたよたした走りかたを見て、いつ転ぶかとひやひやしていた。

 転ぶ前にバイオリンを避難させねばと、こちらから近づいたが、遅かった。

 毎日力を込めてぴかぴかにした床で足をすべらせ、侍女はすてんと転んだ。

 その拍子にバイオリンが宙を舞う。

 エリゼッタは自ら落下地点にすべり込んで、夢中で抱きとめた。


 危機一髪であった。


 床にぺたりと座り込み、ぜいぜいと肩であえぐエリゼッタを、侍女はぽかんと見ている。それからワンテンポ遅れて、(よかった、無事だわ)というように嬉しそうな表情になった。

「あのねぇ、あなた」

 のんきな侍女に文句を言いかけたエリゼッタだが、それより先に大臣が叫んだ。

「なんたること! 姫さまの大切なバイオリンが壊れたら、どうするつもりだ! だいたいおまえは、いつもボーッとしていて、仕事に対する真剣さが足りん!」

 とたんにエリゼッタはむっとして言った。


「なに言ってんの。あなたたちが、あたしからバイオリンを取り上げたりしなけりゃ、問題はなかったわよ。さぁ、みんな出ていって。あたしはエリノアと話をするんだから」


 エリノアというのは侍女の名ではなく、バイオリンのことである。エリゼッタは自分の愛器に人間の少女の名前をつけて大切にしていた。

 大臣たちは大人しく追い払われていったが、侍女だけはドアのところでもぞもぞしていた。隠れているつもりらしいが、ちんまりした腕も足もしっかり見えている。


 エリゼッタはぶっきらぼうに声をかけた。

「入ってらっしゃい。そこに座って聴いていてもいいわよ」


 侍女は、にこにこしながら姿を現し、椅子にちょこんと座った。

 エリゼッタは、むっつりしたまま弓を引いた。

 とたんに奇跡のように美しいメロディがあふれ出す。

 音はゆるやかに優しく二人の周りをめぐり、天上の響きをもって高く昇ってゆく。

 性格はともかく、エリゼッタのバイオリンの音はどこまでも汚れなく澄み切っていて、高貴で情熱的だった。

 神々は彼女に気立のよさとか愛くるしい微笑みとか、ダイヤモンドの粒みたいな涙は与えなかったが、代わりにきらめく音と光をくださったのだ。

 侍女は心から感心しきった、うっとりした顔でエリゼッタをバイオリンを聴いている。

 エリゼッタがバイオリンを弾くとき、彼女はいつもそろそろとやってきて、こんなふうに熱心に耳をかたむけていた。


 丸い目に浮かぶ素朴な賛美は、エリゼッタにぞくぞくするほどの快感をもたらした。

(単に仕事がサボれて嬉しいのかもしれないけど)

 そんなふうにひねくれて考えてしまうのも、あんまり嬉しくて気恥ずかしいからだった。

 油断するとゆるみそうになる頬を、エリゼッタはぎゅっと引きしめ、音を鳴らし続けた。

 彼女が聴いていると、いつもよりずっといい演奏ができた。

 何曲何曲も、奏でる。


(ああ、なんていい気持ちなのかしら)

(このままずーっとバイオリンだけ弾いていられたらいいのに)


 そう思ったとき、無情にも父王から呼び出しがかかった。

 どうせさっきのことで、ぐちぐち説教するつもりだろう。

 行きたくなかったが、城内で父たる国王の権限は絶対で、さしものわがまま娘のエリゼッタも、そうそう逆らえるものではなかった。

(けれど、絶対謝ったりするものですか)

 固く決意し、父王の待つ部屋へ入る。


 とたんに、口をあんぐりと開けた。


 部屋の中は、たくさんの箱であふれかえっていた。開いている箱の中から、きらきらした宝飾品やベール、色とりどりの織物がこぼれ出ている。


「なに……これ」


「みんな、おまえへの贈り物だそうだ、エリゼッタ」

 父王が上機嫌に告げた。

 父の近くにいた褐色の肌の若い男が、うやうやしく頭を下げる。


「我が主君シャラハーンさまの、姫に対するお気持ちでございます」


「え、シャ、シャラ……」

 聞きなれない響きの名前に、エリゼッタは戸惑った。

 見れば男が身につけているのも、裾の長いガウンのような上着と、足首ですぼまったふくらんだズボンという妙なものだった。頭には青い布をぐるぐる巻きつけている。


「シャラハーンさまでございます。砂漠の民の支配者にして、偉大なるペルーシア帝国の皇帝陛下」


 ペルーシアとは、ずっと東方にある大国で、その首都は豊かで美しい都であると男は語った。

「そのペルーシアの皇帝は、どうしてあたしに、こんな贈り物をくれたりするの?」

「もちろん、姫君への求婚のためです」

「求婚!」

 エリゼッタは驚いて叫んだ。

 今までも、どこそこの王子はどうかとか、隣国のなんとか公爵がぜひにとも、という話は山のようにあった。

 エリゼッタの父ロレンツォは名君の呼び名も高く、諸王の中でも力のある存在だったので、その姫を妻に迎えたいという男たちはたくさんいたのである。

 しかしペルーシアの皇帝とは──。

 贈り物の豪華さとともに、エリゼッタにはまるで現実感がわかない。

 だいたい相手が誰であれ、結婚するつもりなどないのだ。

 エリゼッタは使者の男に向かって、きっぱり言った。


「宝石も織物もいらないわ。全部持って帰ってちょうだい」


「それが姫君のお返事ですか?」

 そういう訓練をされているか、顔色ひとつ変えず使者が尋ねる。


「そうよ」


「シャラハーンさまは、姫の肖像画をごらんになって、姫の豊かな金色の髪や、エメラルドのようにきらめく緑の瞳に、すっかり夢中でいらっしゃいます。姫から良いお返事をいただくまで、私に帝国の砂を踏むことは許さぬとおおせられました」

「とんでもない暴君だわ。そんなひとを夫に持つのはお断りよ」

「誤解なさらないでください。我が主君は、心の広い立派なおかたです。私が姫を花嫁としてお連れすることができると信じてくださったからこそ、そのようにご命令されたのです」

 使者はさらさらと告げた。父王が感心してうなずく。


「ごらんのとおりのわがままものだが、使者どのはこの娘を口説き落とす自信がおありかな?」

「できない役目を与えるほど、我が主君は愚かではありません」


 満点の答えだった。

 父王は、ぴしゃりと膝を打った。

「よろしい、娘をそなたの主殿(あるじどの)に差し上げよう。おとなしくついてゆくよう、出発までしっかり口説いておくといい」


「お父さま!」


 エリゼッタは抗議したが、父王は聞く耳を持たなかった。父がこうと決めたら、それはもう決定なのだ。

「絶対にペルーシアになんか行かないから!」

 そう叫んで、エリゼッタは宝石や絹を使者の男に投げつけ、部屋を飛び出したが、翌日からもう嫁入りの準備がはじめられた。

 使者は父王に言われたように、日に何度もエリゼッタのもとを訪れては、皇帝シャラハーンの素晴らしさや、彼が統治する帝国の豊かさについて語るのだ。


「シャラハーンさまに選ばれた姫は、世界で一番幸せなかたですよ」


 なんの疑いもない涼しげな顔と声で、使者は断言した。

 エリゼッタは、むかむかした。


(世界で一番不幸よ、あたしは!)


 神殿の巫女に生まれたかったと、エリゼッタは思った。

 巫女なら一生清い身で、神殿の奥でバイオリンを弾いて歌をうたって過ごせるのに。

 未亡人でもよかったわ。

 婚約者が若死にしちゃって、そのひとのことを想いながら、一生黒い喪服に身をかためて生きてゆくのよ。朝も夜も、ただ一人の恋人に捧げる歌をうたって、バイオリンを弾きまくって……。

 ああ、そんな相手がいたらよかったのに。


 ここでエリゼッタの脳裏に、一人の少年の姿が浮かんだ。


 エリゼッタがまだ小さかったころ、一緒に遊んだ青い目の男の子。

 あの子は今、どうしているだろう?


「あたし、砂漠の皇帝とは結婚できないわ。だって──」


 ええい、とばかりにエリゼッタは使者に向かって言った。


「だって他に好きな人がいるんですもの」


 本当は今まで忘れていたが、他に適当な男は思いつかない。

 エリゼッタはつっかえながら続けた。

「幼なじみの男の子で、あたしたち結婚の約束までしてたんだから」

「そのかたは今どちらに?」

 使者は冷静に聞き返した。

 エリゼッタはうっ、と言葉につまった。

「ゆ、行方不明なのよ。あたし、今でも彼を待っているの。だから彼以外の人とは……」

「お名前はなんとおっしゃるのでしょう」


「それは、えーと……」

 どうしたことだろう。

 名前が思い出せない。


 無理もない。

 男の子と遊んだのはエリゼッタがようやく片言で話せるようになったころで、もうずっと会ってもいないのだ。

 子供ながら品のいい綺麗な顔をしていて身なりも良かったから、身分のある家の子供に違いないとは思う。

 母か兄たちに聞けば、なにかわかるかもしれないが、出まかせを並べたことがバレてしまう。


 エリゼッタは仕方なく、ぼそぼそと言った。

「言わない。彼の名が汚れるもの」


 使者の口もとに、ちらりと笑みが浮かんだ。エリゼッタの浅はかな計略などお見通しなのだ。

 てか、こいつ、清廉そうな顔をして、実は性格が悪くない?

「う、嘘じゃないわよ!」

 エリゼッタはムキになって言った。

 使者は噛んで含めるような優しい口調で、


「きっと素晴らしい若者なのでしょう。姫にそこまで思い込まれるとは。我が主君は心の広いおかたですから、姫の大切な思い出を踏みつけるようなことはなさらぬでしょう。姫と互いに思い出を語り合って、ともに未来を生きることを望まれることでしょう」


 どう言っても、この若い使者には勝てなかった。

 彼を追い出しベッドに倒れ込む。

 エリゼッタの苛立ちは高まる一方だった。

 このままでは花嫁衣装を着せられ砂漠の国へ連れていかれるのを、待つばかりだ。

 どうすればいいのよ、どうすれば。


「いっそ家出でもしてやろうかしら。王女の身分を捨てて、旅のバイオリン弾きになって……」


 やけくそでつぶやいたとき、近くで思いがけず声がした。

「お城を出られるんですか?」

 グラスをのせたトレイを持って立っていたのは、あの侍女だった。

 侍女は一言一言に力を込めながら言った。


「わ、わたしも、お供させてください」


 エリゼッタは驚いて身を起こした。

「お供って、ピクニックに行くんじゃないのよ。家出よ? い、え、で。状況はより悲劇的で破滅的だわ」

 けれど侍女は大きくうなずき、エリゼッタのほうへ顔を近づけた。侍女の丸い目に必死さがみなぎっている。本気でエリゼッタについてくるつもりなのだ。


「わたし、お姫さまを、その、お助けしたいんです。わたしの家に来てもらえれば、きっとお姫さまをかくまえると思います。わたしの家は田舎なので……」


 エリゼッタはジーンとしてしまった。

 あたしのために、こんなに一生懸命になってくれるなんて。

「わかったわ、あなたに任せるわ。えーと……」

「こ、コニィです。お姫さま」

「コニィ、あなたはあたしの救世主よ」

 エリゼッタは侍女のちんまりしたやわらかな手を、ぎゅっと握りしめた。


「さ、善は急げだわ。身の回りのものをまとめて逃げ出す準備をしましょう」


「あのぉ……」

 コニィがおずおずと申し出る。

「荷物ならもうできてます。あとはバイオリンだけで。バイオリンは絶対に持っていってくださいね」

「コニィ!」

 エリゼッタはますます感激し、侍女に抱きついた。

 なんて気が効くのかしら。

 なんて可愛い子なのかしら。

 はじめて自分を理解してくれる人間に出会ったと、エリゼッタは思った。


 しかし感動は長くは続かなかった。

 散歩に行くふりをして、コニィと二人で城を出たところまではよかった。

 大胆な冒険にエリゼッタの胸はドキドキし、たった一人の同志の手を握りしめて、ふふっと笑ったものだった。

 ところがこの侍女は、決して彼女の救世主になれる器ではなかった。

 王女であるエリゼッタが世間知らずなのはもちろんだが、コニィも負けず劣らず世間に疎かった。エリゼッタのほうが目端がきいて行動力があるぶん、まだマシだろう。

 馬もなく、食事をとるための方法もわからず、街からどんどん離れてゆくうちに、どういうわけか森に迷い込んでしまった。

 日がとっぷりと暮れ、風も冷え冷えとしてきた。

 なのにコニィが荷造りした鞄の中には、マントの一枚さえないのである。

 代わりに枕なんかが入っている。

 エリゼッタが文句を言うと、ちょっと怯えながら答えた。


「だって……マントや服はいっぱいあるけれど……お姫さまがいつも使っている枕はひとつしかないから……」


「どこにマントや服がいっぱいあるのよ!」

「あの、おし……いえ、わたしの家に」

「だから、そのおうちはどこにあるの!」


 エリゼッタは手を広げ、二人を囲む木々を示した。

 ほーほー、とふくろうの鳴く声が聞こえる。

 家どころか人の気配もないこんな森の中で立ち往生するはめになろうとは、思ってもみなかった。

 こんなとぼけた子の言葉を信じて、のこのこついてきた自分は本当にバカだったと、エリゼッタは唇を噛んだ。

 コニィは枕を抱きしめて、しょんぼりしている。

 そうすると怒鳴り散らしたことが恥ずかしくなって、エリゼッタはコニィの肩にそっとふれた。


「仕方ないわね。とにかくここを抜け出しましょう。この辺はクマが棲みついているというから……」


 エリゼッタの声は途中で凍りついた。タイミング良く、ぐるるる……という唸り声が聞こえてきたのだ」

 ばさっ、ばさっ、と木々をかきわける音がする。なにかが二人のほうへ近づいてくる。

「こ、コニィ」

「お姫さま〜」

 二人は抱き合って、がたがた震え出した。

 木々のあいだから巨大なクマが舌なめずりをしてやってくる。

 恐怖で頭の中が真っ白になったとき、信じられないことが起こった。クマが突如後ろ足で立ち上がり、踊りはじめたのである。


「そうだ、そのまま行っちまいな」


 若い男の声が、すぐ近くで聞こえた。

 エリゼッタはぎょっとした。

 いつ、どうやって彼が現れたのかはわからない。だけど黒いマントに身を包んだ褐色の肌のこの男に、エリゼッタは見覚えがある。


「あ、あなた、ペルーシアの皇帝の使者の──」


 男は、これまでとは打って変わった野生み溢れる表情で、ニヤニヤと笑いかけてきた。

 エリゼッタに抱きついていた侍女が嬉しそうに叫んだ。


「ジン! よかったぁ! 来てくれたのね」

「なかなか上出来だよ、マリア=コルディーヌ姫さま」


 エリゼッタは茫然と二人の顔を見比べた。


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