転生したら格ゲーのコマンドでしか会話できない世界でした
頭に鈍い痛みが走り、俺は意識を取り戻した。
(…ここは?)
見知らぬ豪奢な天蓋付きベッドの上。見慣れた安アパートの天井ではない。混乱する頭で記憶を探り、思い出す。俺は、平凡な会社員だった。確か、徹夜で仕上げた企画書を届けに走っていて、交差点で……トラックが……。
そこまで思い出したところで、脳内に奔流のように情報が流れ込んできた。
ここは、俺が妹に無理やりプレイさせられた女性向け恋愛ゲーム『王立セレブリティ学園の君へ』の世界。
そして俺は、ギルフォード・フォン・アッシュクロフト。ヒロインに執着し、嫌がらせを繰り返した末に、卒業パーティで攻略対象の王子たちから断罪され、没落する運命にある、最悪の悪役令息。
――終わった。人生(二度目)が始まる前に終わった。
何より最悪なのは、この世界のコミュニケーション手段だ。人々は「格闘ゲームのコマンド」によって意思を疎通する。筆談は存在しない。意味が分からない。よくこんなゲームを購入したな妹よ。
そして我がアッシュクロフト家は、代々脳筋の武闘派貴族。当然、使えるコマンド(語彙)も推して知るべし。友好的な会話など、夢のまた夢だ。
と、そこへ執事のセバスが、丁寧なコマンドで告げる。
「←タメ→+K」
意味:「ギルフォード様、学園へ向かう時間でございます」
俺は絶望的な気分で頷き、こう応えるしかなかった。
「→↓↘+P」
意味:「ああ、分かっている」
なんとまあ、物騒なコミュニケーションだろうか。
***
破滅フラグを回避するため、俺は学園で「石」になることを決意した。誰とも関わらない。特に、物語の中心であるヒロインの「リリア」とは、絶対に。彼女は平民でありながら、類稀なる言霊の才能を見出され、この学園に特待生として入学してきた、健気で可憐な少女だ。
……のはずだった。
中庭を通りかかった時、俺は見てしまった。複数の派手な貴族令息たちが、リリアを取り囲んでいるのを。
「挑発ボタン」
意味:「平民の出のくせに」
「↓↓↓↓↓↓↓↓」
意味:「我々と同格だと思うなよ」
彼らが放つのは、嫌味や侮辱を意味する粘っこいコマンドの数々。リリアは青ざめ、俯いて震えている。
(関わるな、ギルフォード。あれが君の破滅フラグだ)
頭の中の俺が警告する。そうだ、ここで俺が出ていけば、ゲームのシナリオ通り、彼女への執着の始まりだと見なされる。
分かっている。分かっているんだ。だが、前世で培われた平凡な正義感が、足に鉛を縫い付けた。
「おい、やめろよ」。そう言いたかった。ただ、それだけでよかったんだ。
だが、俺の口から飛び出したコマンドは、全く別の響きを持っていた。
「→←↙↓↘→+P」
空気が凍りついた。
そのコマンドが持つ意味は、「その女に手を出すな。そいつは俺のものだ」。
絡んでいた貴族たちが、恐怖に顔を引きつらせて俺を見る。近くで見ていた女生徒たちが、悲鳴を上げて散っていく。そして、渦中にいたリリアが、信じられないものを見る目で、絶望的に俺を見上げていた。
違う。違うんだ、リリアさん。俺はただ、君を助けようと……。
弁解しようにも、俺の語彙には「誤解だ」なんて便利なコマンドは存在しない。俺にできるのは、固まったまま、悪役令息の冷酷な笑みを顔に貼り付けることだけだった。
***
あの日以来、俺は学園で「ヒロインを己の所有物だと公言した、凶悪な暴君」として完全に認知された。リリアは俺の姿を見かけるだけで、ビクリと肩を震わせ、逃げるように去っていく。順調に破滅フラグが育っている。素晴らしい。ちっとも素晴らしくない。
罪悪感だけが募る中、俺は原作の知識を思い出した。彼女は義理の家族に虐げられ、ろくに食事も与えられずに育った、と。
あの細い体を見ていると、どうにも放っておけない。食堂で、トレイを持って所在なげにしているリリアを見つけ、俺は行動を起こした。
パンとスープを余分に買い、彼女の前に立つ。リリアが怯えた目で俺を見上げる。
(これを食べてくれ。無理しないでいいから)
心の中でそう唱え、俺はパンとスープを彼女のテーブルにドン、と置いた。そして口を開く。
「←タメ→←→+P」
意味:「これを食え。残したら殺す」
ヒィッ、とリリアが小さな悲鳴を上げた。周りの生徒たちも、俺を鬼か何かのように見ている。ああ、もうダメだ。
俺はいたたまれなくなって、その場を足早に去った。
***
【リリア視点】
ギルフォード様が、私の前にパンとスープを置いて去っていった。
「←タメ→←→+P」
とても怖いコマンドだった。でも…。
目の前のパンは、まだ温かい。食堂で一番高い、栄養満点のスープだ。
「→←↙↓↘→+P」
あの時の言葉も、もしかして、他の貴族たちから私を守るための「牽制」だった……?
乱暴なコマンドの裏に、何か別の意味が隠れているのかもしれない。私は恐る恐る、パンに手を伸ばした。
***
それからも、俺の「不器用すぎるお節介」は続いた。
図書館で難しい課題に唸る彼女の机に、参考書を叩きつけるように置いて一言。
「↓↙←↙↓↘→+K」
意味:「こんなものも解けんのか。愚図め」
(本心:これを使えば分かるはずだ。頑張れ)
急な雨に降られ、雨宿りする彼女を見つけ、自分の上着を乱暴に頭から被せて一言。
「→↘↓↙←→↘↓↙←+P」
意味:「風邪などひいて俺の手を煩わせるな」
(本心:濡れたままだと風邪をひくだろ。ちゃんと拭けよ)
俺の評判は地に落ちていく一方だが、リリアの俺に対する反応だけが、少しずつ変わっていった。怯えが戸惑いに、戸惑いが、何かを確かめるような眼差しに。その変化に気づかないほど、俺は鈍くなかった。
***
運命の日は、突然やってきた。
リリアの義父が、借金のカタに彼女を悪徳商人に売り飛ばそうとしている、と。情報を掴んだ俺は、気づけば屋敷を飛び出していた。もう破滅フラグなんてどうでもいい。
取引場所だという港の倉庫に乗り込むと、そこには痩せこけた義父と、下品に笑う悪徳商人、そして屈強な護衛たちがいた。リリアは青ざめた顔で、腕を掴まれている。
「→↓↘→↓↘+K・K」
意味:「ギルフォード様!? どうしてここに!?」
リリアが驚きの声を上げる。悪徳商人がせせら笑う。
「↓↙←+A or B or C」
意味:「ほう、アッシュクロフトの若様じゃないか。こんな所で何用で?」
護衛たちが、じりじりと俺を取り囲んだ。多勢に無勢。だが、退く気はなかった。
「←←+P」
意味:「その手を離せ」
それを合図に、乱闘が始まった。アッシュクロフト家に伝わる戦闘コマンドは、一対一では強力無比だ。だが、次から次へと襲いかかる護衛を相手にするには、あまりに分が悪い。
リリアを庇いながら戦い、俺の体にはいくつもの傷が刻まれていった。視界が霞み、足がもつれる。残り体力(HP)が、危険水域に達したことを、体が告げていた。
「↓↘→↘↓↙←+P」
意味:「ハハハ! お貴族様もこれまでだな!」
商人の高笑いが響く。もうダメか。そう思った瞬間、脳内に閃光が走った。
これまで知覚することさえなかった、シーケンシャルで、不吉で、そして神聖ささえ感じるコマンドが流れ込んでくる。
瀕死の時にのみ使用可能となる、超必殺技。特定の相手との間でしか成立しない、伝説の契約コマンド。
俺は最後の力を振り絞り、リリアの手を掴んだ。
戸惑う彼女の目を見て、俺は震える声で、そのコマンドを一音ずつ、区切るように発した。
「弱P・弱P・→・弱K・強P」
そのコマンドが持つ、真の意味は。
「貴様の魂、そのすべてを俺に寄越せ」
発した瞬間、俺とリリアの体を眩い光が包み込んだ。背中に刻まれた傷の痛みが和らぎ、代わりにリリアの驚きと、温かい信頼感が流れ込んでくる。これが、「魂の契約」。互いの体力を共有し、感覚を同調させる古代魔法。
俺はリリアを背に庇い、再び護衛たちと向き合った。
「コイン投入+START」
意味:「さあ、第二ラウンドだ」
もはや、口から出るコマンドの意味などどうでもよかった。俺たちは一心同体となり、朝日が昇る頃、倉庫には倒れ伏した護衛たちだけが転がっていた。
***
そして、運命の卒業パーティの日。
案の定、俺は壇上に引きずり出された。第一王子が、糾弾のコマンドを放とうと口を開く。
「↓↘→↓↘→+P」
意味:「悪役令息ギルフォード! 貴様がリリア嬢に行った数々の蛮行、断じて許されるものでは……」
その時だった。
「→→+P」
意味:「お待ちください!」
凛とした声が響く。リリアが、俺の前に進み出た。
「↓↘→↓↘→+K」
意味:「ギルフォード様は、悪などではありません!」
彼女は満場の貴族たちを前に、堂々と宣言した。
「→↘↓↙←+P (ホールド)……←↙↓↘→+K (リリース)」
意味:「彼が放つ言葉は、いつも乱暴で、攻撃的です。けれど、その行動は、いつも私を救ってくださいました。寒い日には上着を、お腹が空いた日にはパンを、そして、命の危機からは、その身を賭して……!」
リリアはくるりと俺の方を向き、悪戯っぽく微笑んだ。
そして、高らかに告げる。
「P・K・→・K・P」
意味:「私を救い、私の魂の半身となったのは、他の誰でもない、ギルフォード様です!」
会場が、水を打ったように静まり返る。「魂の契約」が何を意味するか、貴族で知らぬ者はいない。それは、何よりも強い婚約の証。
王子は口をパクパクさせ、他の攻略対象たちも呆然としている。
リリアは俺の腕にそっと自分の腕を絡め、幸せそうに頬を寄せた。
「←↙↓↘→←↙↓↘→+P+K」
意味:「これから、ずっと一緒ですわね、ギルフォード様」
そんな彼女の笑顔を前に、俺はただ一つ、心の中で絶叫するしかなかった。
(そんな契約、聞いてない!)
こうして俺の破滅フラグは、本人も知らないうちに、最強の恋のフラグへと姿を変えたのだった。