【第8話】最後の口論
僕の胸ぐらを掴むジンの手は、油と汗にまみれ、小刻みに震えていた。彼の背後で、非常灯が狂ったように明滅を繰り返し、僕らの顔に不安な影を落とす。
「答えろ、アキト!」
ジンの叫びは、怒りというよりも、悲鳴に近かった。
「この船はもうダメだ……あちこちガタガタで、いつ生命維持が止まってもおかしくない。船長は何かを知ってたんだ。だから消された。……なあ、アキト。お前がやったのか? 船長を。この船の異常に気づいた船長を、お前が……」
その言葉は、毒の矢のように僕の心に突き刺さった。僕が、船長を? この僕が?
「違う……」
僕の喉から、か細い声が漏れた。
「違う、僕はそんなこと……」
「じゃあ何だってんだよ!」ジンは僕を壁にさらに強く押し付けた。「お前が何もかもおかしくしたんだ! お前が船長と会ってから、この船は呪われたんだ!」
その瞬間、僕の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
今まで抑え込んできた恐怖、不安、そして理不尽な疑いに対する怒りが、熱い奔流となって噴き出した。
「僕のせいじゃない!」
僕は叫びながら、ありったけの力でジンを突き飛ばした。不意をつかれたジンが、よろめいて数歩後ずさる。初めて見せた僕の激しい抵抗に、彼の目が驚きに見開かれた。
「ジンこそ、何も分かってないじゃないか!」僕は、震える声で続けた。「船がおかしいのも、夜中に物音がするのも、僕だって感じてる! 怖いんだよ、僕だって! 船長がいなくなって、一番辛いのはジンだけだと思ってるのか! 僕だって、僕だって……!」
言葉が続かない。ただ、熱いものが頬を伝っていくのが分かった。
僕の反撃に、ジンは一瞬だけ怯んだように見えた。だが、彼の顔はすぐに、より深い絶望の色に染まっていく。彼は、僕に救いを求めていたのかもしれない。明確な「敵」を見つけることで、この出口のない恐怖から逃れたかったのかもしれない。だが、僕が差し出したのは、彼と同じ、ただの混乱と恐怖だけだった。
「……ふざけるな」
ジンは獣のように低い声で唸ると、再び僕に掴みかかってきた。僕も、もはや自分を抑えることができなかった。僕らは、憎しみからではなく、あまりの恐怖と絶望から、互いを傷つけることでしか平静を保てない子供のように、もつれ合った。鈍い打撃音と、荒い呼吸だけが、明滅する廊下に響く。
「やめて!」
悲痛な叫び声が、僕らの間に割って入った。ミサキさんだった。彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、僕とジンの腕を掴んで引き離そうとする。
「お願いだから、やめて! こんなことしても、何も解決しないわ! 仲間同士で傷つけあって、どうするの!」
彼女の涙を見て、僕らの動きが止まった。僕の拳も、ジンの拳も、やり場のないまま宙で固まる。僕らは、一体何をしているのだろう。この宇宙でたった四人しかいない仲間と、殴り合って。
ジンは、ゆっくりと僕から体を離した。そして、憎しみと、深い悲しみが混じり合った目で僕を睨みつけると、床に唾を吐き捨てるように言った。
「……もういい。勝手にしろ」
その声は、ひどく乾いていた。
「お前の顔なんて、二度と見たくない」
その言葉は、僕の心臓を直接抉るような、鋭い痛みを伴った。
ジンは僕らに背を向けると、力なく、引きずるような足取りで自室の方へと消えていった。その背中は、僕が知っている親友のそれよりも、ずっと小さく見えた。
***
後に残されたのは、僕と、泣きじゃくるミサキさんと、そして重すぎる沈黙だけだった。ミサキさんが何かを言おうとしていたが、その言葉は僕の耳には届かなかった。僕は彼女に背を向け、自分の部屋へと逃げ帰った。
ドアをロックし、壁に背中を預けてずるずると座り込む。自分の手を見つめた。この手で、僕はジンを殴った。親友を、傷つけた。
違う。一番彼を傷つけたのは、僕の拳じゃない。彼の絶望を、恐怖を、真正面から受け止めてやれなかった、僕の弱さだ。
僕は、航海日誌のコンソールに向かった。そして、乱れた文字で、殴りつけるように書き記した。
『僕は親友を傷つけた。彼を、一番追い詰めていたのは僕だったのかもしれない。最後の言葉。彼の最後の言葉が、頭から離れない。「顔も見たくない」。そうだ、僕が彼を拒絶したんだ。僕が、彼を……。僕が、いなければよかったのか?』
罪悪感が、黒いインクのように心に染み渡っていく。
あの時、僕はまだ知らなかった。
彼の最後の言葉が、決して消えることのない呪いとなって、僕の未来永劫を縛り付けることになるということを。