【第7話】軋む船体
航海日誌、Day 1552。
僕の精神が蝕まれていくのと歩調を合わせるように、『アルゴ・ノヴァ』そのものが悲鳴を上げ始めた。
船長がいた頃は、揺りかごのように穏やかだったこの箱舟は、今や軋み、呻き、まるで末期の病に苦しむ巨大な生物のように、その身を震わせるようになっていた。
最初は、些細な異常だった。
廊下の照明が、まるで誰かが深呼吸をするかのように、ゆっくりと明滅を繰り返す。空調の通気口からは、気のせいだと思いたいような、低い呻き声のような音が断続的に聞こえてくる。誰もいないのに、食堂の自動ドアが、客を招き入れるように開閉を繰り返すこともあった。
その一つひとつが、僕らのすり減った神経を、やすりのように削っていく。ミサキさんは、些細な物音にも肩を震わせるようになり、医務室の隅で膝を抱えている時間が増えた。僕らは皆、この船がゆっくりと死に向かっていることを、肌で感じていた。
その日、ブリーフィングルームには、怒号が響き渡っていた。
「だから、これは単なる故障じゃないと言ってるだろう!」
ジンが、テーブルにコンソールの立体映像を叩きつけるように表示させた。エネルギー系統を示す複雑なラインが、赤く点滅している。
「特定の系統に、断続的に、意図的な過負荷がかけられている。誰かがこの船を内部から破壊しようとしてるんだ! 後藤主任、あんたにもこれが分かるはずだ!」
彼の血走った目は、明らかに僕を犯人だと告発していた。
しかし、後藤主任は冷静に首を振った。
「速水、お前の見立ては浅い。その負荷のかかり方を見てみろ。人間の手によるものにしては、パターンがあまりにも不規則で、周期的すぎる。まるで、船自体が意志を持って痙攣しているかのようだ」
「意志だと? 鉄の塊が、勝手に痙攣するってのかよ!」
「そうだ」と後藤主任は断言した。「我々が航行しているこの未知の宙域では、我々の物理法則が通用しない可能性を考慮すべきだ。あるいは、例の“何か”が、船のシステムそのものに寄生し、内側から食い荒らしているとも考えられる」
サボタージュか、未知の侵略か。二人の議論は平行線を辿り、そこには敵意だけが澱のように溜まっていく。
僕は、その口論を聞きながら、全く別の、そしてより根源的な恐怖に襲われていた。
彼らは気づいていない。
この船の異常が、僕の心の状態と、完全にリンクしていることに。
僕が鏡の中の「他人」を思い出して、恐怖で心臓が跳ね上がった、まさにその瞬間に、遠くの貨物室からけたたましい金属音が鳴り響いた。ミサキさんの怯える姿を見て、胸が痛んだ時、僕らの頭上で照明が悲しげに明滅した。ジンに憎悪の視線を向けられ、強い不安に襲われた時には、足元の床が微かに、しかし確かに振動したのだ。
まさか。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。僕の精神が、この巨大な宇宙船のシステムに影響を与えるなど。だが、一度芽生えたその妄想は、毒草のように僕の思考に根を張っていく。
僕が狂うと、この船も狂うのか?
僕が死ねば、この船も死ぬのか?
それは、誰にも打ち明けられない、究極の孤独感を伴う恐怖だった。僕はこの船と、二人きりで狂っていくのかもしれない。
口論を終え、憤然とブリーフィングルームを出てきたジンが、僕の前に仁王立ちになった。彼の顔は、長期間の不眠と、出口のない怒りと、そして深い絶望で歪んでいた。
「アキト」
絞り出すような声だった。彼は、僕の胸ぐらを掴むと、壁に叩きつけた。背中に走った衝撃に、僕は小さく呻く。
「お前、船長から一体何を聞いたんだ!? あの人が消えてから、この船は、何もかもがおかしい! 白状しろ、アキト! お前は一体、何なんだ!」
僕は何も答えられない。ただ、彼の怒りに燃える瞳の奥に、助けを求めるような怯えの色が浮かんでいるのが見えた。
そして、そのジンの背後で、廊下の非常灯が、狂った心臓のように、激しい明滅を繰り返していた。
僕が何かを言えば、この船は、そしてジンは、どうなってしまうのだろう。
僕の口から出る言葉が、破滅への引き金になるような気がして、僕はただ、唇を固く結ぶことしかできなかった。