【第6話】鏡の中の他人
航海日誌、Day 1550。
あの夜、廊下で謎の足音を聞いてから、僕の世界からは「安全な場所」という概念が消滅した。自室のベッドも、研究室の椅子も、もはや安息の地ではない。ステーションのあらゆる角、あらゆる暗がりに、未知の何かが息を潜めているような気がしてならなかった。不眠は常態化し、僕の思考は濃い霧の中を彷徨っているようだった。
クルー間の断絶は、もはや決定的だった。ジンは機関室に篭城し、後藤主任は監視カメラのログを繰り返しチェックしている。僕らは互いを潜在的な脅威とみなし、必要な連絡事項以外、一切の言葉を交わさなくなった。
そんな息の詰まる毎日の中で、僕が唯一、人間らしい心を取り戻せるのはミサキさんと話している時だけだった。
「アキトさん、眠れていないでしょう。顔色が悪いわ」
テラリウムで、枯れ始めた蘭の世話をしていた僕に、彼女は心配そうに声をかけた。その声だけが、この冷たい船内で唯一の温もりを持っていた。
「ミサキさんこそ……」
「私……」彼女は声を潜め、不安そうに周囲を見回した。「私も、聞いた気がするの。夜中に、誰かが廊下を歩くような音を……」
彼女の告白に、僕は息をのんだ。幻聴ではなかったのか? それとも、僕の恐怖が彼女にまで伝染してしまったのだろうか。どちらにせよ、僕と同じ恐怖を分かち合える人間がここにいるという事実が、僕をわずかに安堵させた。
「一人じゃない……」
僕がそう呟くと、彼女は力なく、しかし確かに頷いた。僕らは傷ついた獣のように、互いの存在に寄り添うことでしか、この極限状況を生き延びることができなかった。彼女がいる。それだけが、僕がまだ正気でいられる最後の理由だった。
***
テラリウムでの作業を終え、僕は自室のユニットバスで顔を洗った。冷たい水が、火照った思考をわずかに冷ましてくれる。タオルで顔を拭き、ぼんやりと正面の鏡を見上げた。
そこに映っていたのは、ひどく痩せ、目の下に深い隈を刻んだ、見慣れた自分の顔だった。この男が、本当に僕なのだろうか。こんな弱々しい顔で、この先の恐怖に耐えられるのだろうか。
そう思った、瞬間だった。
鏡の中の僕の顔が、すっと表情を変えた。
僕の意思とは全く関係なく、その唇の片端が吊り上がり、冷たい、全てを見透かしたような嘲笑を形作ったのだ。その目は、僕が今まで一度もしたことのない、底知れない愉悦と狂気を湛えていた。
それは、僕の顔をした、全くの「他人」だった。
「ひっ……!」
短い悲鳴を上げて、僕は後ずさった。背中が冷たい壁にぶつかる。心臓が、肋骨を内側から叩き割るのではないかと思うほど激しく脈打った。
震える手で目を擦り、恐る恐る、もう一度鏡を見る。
そこにいたのは、ただ青ざめて恐怖に引きつった、いつもの僕の顔だけだった。嘲笑も、狂気も、跡形もなく消えている。
「幻覚だ……」僕は喘ぐように呟いた。「疲れているんだ。眠れていないから……」
そう、これは幻覚だ。そうに決まっている。僕は必死に自分に言い聞かせた。だが、一度見てしまったあの「他人」の顔は、まぶたの裏に焼き付いて、消えようとはしなかった。
***
僕とミサキさんが、テラリウムの今後の管理計画について話し合っていた時だった。背後から、荒々しい足音が近づいてきた。ジンだった。
彼の顔は不眠と過労で土気色になり、目は血走っていた。僕らを交互に睨みつけ、歪んだ唇から言葉を吐き出す。
「船長がいなくなって、随分と仲が良いじゃないか」
その声には、剥き出しの敵意がこもっていた。
「お前、何か知ってるんだろ、アキト。船長に最後に会ったのはお前だ。本当は何を聞いた? ミサキさんを誑かして、何を企んでる?」
「ち、違う、ジン……僕は……」
「やめて、ジンさん!」ミサキさんが、僕を庇うように前に立った。「アキトさんは何も悪くありません! 今、私達は協力しあうべき時でしょう!」
「協力?」ジンは、鼻で笑った。「この中に、船長を消した奴がいるかもしれないってのによ。あんたも、そいつに騙されてるだけかもしれねえぜ、ミサキさん」
その言葉は、もはや僕たちの友情が、修復不可能なほどに破壊されてしまったことを示していた。ジンは僕に憎悪の視線を投げかけると、踵を返し、機関室の方へと去っていった。
一人、テラリウムに残された僕は、震える自分の手を見つめていた。
ジンの疑いの言葉が、頭の中で反響する。だが、それ以上に僕を恐怖させていたのは、先ほどの鏡の中の出来事だった。
その夜の日誌に、僕は混乱した思考をそのまま書きつけた。
『ジンは僕を疑っている。だが、彼は知らない。僕が今、一番疑っているのは、他の誰でもない、僕自身だということを。あの鏡の中の男は、一体誰だったんだ? あれも、僕なのか?』
自分の正体さえも、この深い闇に溶け始めていた。