【第5話】静寂の足音
航海日誌、Day 1548。
船長が消えてから、四日が過ぎた。
たった四日。しかし、ステーションの時間は、まるで重力が変わってしまったかのように、重く、緩慢に流れていた。僕らの間にあった見えない壁は、今や触れることさえできそうなほど厚く、冷たいものになっていた。
食堂に三々五々集まっても、そこに会話はない。ジンはいつも隅の席で、コンソールから機関室のデータを睨みつけている。ミサキさんは、食事を半分も口にしないまま、俯いてフォークの先で皿をつついているだけだ。後藤主任は、まるで僕ら全員を尋問するかのように、鋭い視線で一人一人の顔を順番に眺めている。誰も、互いの目を合わせようとはしなかった。食器がテーブルに当たる、硬い音だけが気まずく響いていた。
僕にとっての唯一の聖域は、中央テラリウム「生命の樹」だけだった。仲間たちの疑心暗鬼から逃れるように、僕は一日の大半をそこで過ごした。植物は嘘をつかない。裏切らない。ただ、与えられた環境の中で、懸命に生きている。その健気な姿だけが、ささくれだった僕の心を慰めてくれた。
だが、その日、僕は聖域にさえも異変が起き始めていることに気づいてしまった。
船長が特に気に入っていた、古い品種の地球産の蘭。そのビロードのような光沢を持つ葉の縁が、僅かに、しかしはっきりと黄ばんでいたのだ。僕はすぐに土壌センサーと水分供給システムのログを確認した。データは完璧だった。栄養も、光量も、全てが最適値のはずだ。
「どうして……」
僕の呟きは、テラリウムのガラスに虚しく吸い込まれていった。まるで、この船の生命そのものが、目に見えない病に蝕まれ始めているかのようだった。
***
その夜、僕は自室のベッドで、眠れずにいた。
船の駆動音が、いつもより低く、まるで息を殺しているように聞こえる。この完全な静寂の中では、自分の心臓の音さえも、誰かに聞かれているような気がして落ち着かなかった。
目を閉じて、意識を無にしようと努めていた、その時だった。
――コツン。
微かな、しかし明瞭な音。
僕は、はっと目を開けた。耳を澄ます。気のせいか? いや、違う。
自室のドアの向こう、誰もいないはずの廊下からだった。金属製の床を、硬いもので引きずるような、あるいは、誰かがゆっくりと歩くような……。
――コツン……コツン……
足音だ。
僕の全身の血が、急速に冷えていくのを感じた。こんな深夜に、廊下を歩いている者などいるはずがない。クルーは全員、自室にいるはずだ。だとしたら、これは一体、何の音だ?
僕は息を殺し、ベッドの中で身じろぎもせず、ドアの向こうの闇に全神経を集中させた。足音は、僕の部屋の前を通り過ぎ、そして、遠ざかっていくようだった。やがて、それも聞こえなくなり、再び絶対的な静寂が戻ってきた。
幻聴だったのだろうか。船長の一件以来、僕の神経は過敏になっている。きっと、そのせいだ。そう自分に言い聞かせようとしたが、心臓はまだ、警鐘のように激しく鳴り響いていた。
確かめなければ。
恐怖と、それを上回る抗いがたい衝動に駆られ、僕はベッドから這い出した。そして、自室のコンソールを起動し、管理権限を持つ廊下の監視カメラのログにアクセスした。時刻は、午前2時33分。僕が足音を聞いた、まさにその時間帯だ。
再生された映像には、静まり返った無人の廊下が映っているだけだった。ほら、やっぱり気のせいだ。そう安堵しかけた僕の視線が、映像の隅に表示されているタイムスタンプに吸い寄せられた。
【02:33:14】
次の瞬間、フレームがわずかに飛ぶ。
【02:33:17】
三秒。
映像の記録が、三秒間だけ、まるで綺麗に切り取られたかのように消えていた。僕は何度も、何度もその部分を再生した。だが、結果は同じだった。滑らかに流れるはずの映像が、そこだけ、不自然に跳躍する。僕が、あの足音を聞いたはずの時間だった。
幻聴ではなかった。
何かが、いたのだ。
そしてそれは、ステーションの監視カメラの記録さえも歪める、僕らの常識を超えた何か、だった。
僕は、コンソールの電源を切ることも忘れ、呆然と椅子に座り込んだ。
廊下の暗闇は、もうただの暗闇ではない。
日誌に、僕は震える手で書き記した。
『廊下の暗闇は、もう僕が知っている暗闇ではない。そこには僕らの知らない“何か”が潜んでいるのかもしれない。後藤主任の言った、第三の可能性。僕はもう、それを笑い飛ばすことができなくなっていた』