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【第4話】疑心という名のウイルス

 航海日誌、Day 1545。

 船長が消えて、最初の夜が明けた。だが、ステーションに朝の光が訪れることはない。ここは永遠の夜の中だ。昨夜の間に、ステーションの空気に含まれる酸素が、信頼という別の気体にすり替えられてしまったかのようだった。誰もが口数を減らし、息苦しそうに、互いの顔色を窺っている。


 その重苦しい沈黙を破ったのは、後藤主任からの全クルーへの招集命令だった。


 ブリーフィングルームの大きな円卓に、僕たち残された四人は座っていた。いつも船長が座っていた席が、ぽっかりと空いている。その空席が、僕らが失ったものの大きさを無言で物語っていた。


 後藤主任は、全員の顔をゆっくりと見回した後、静かに、しかし刃物のような鋭さで口火を切った。

「船長の消失から12時間が経過した。ステーション内の全センサー、カメラログを再調査したが、船長の姿はどこにも確認できない。彼は……この船から完全に“消えた”」


 彼の言葉に、ミサキさんが小さく肩を震わせるのが見えた。


「考えられる可能性は三つだ」後藤主任は、指を一本ずつ折りながら言った。

「一、船長自身の意思による失踪。何らかの理由で、我々の前から姿を消す必要があった。可能性は低いが、ゼロではない」

 彼は二本目の指を折る。

「二、我々の中に、船長を“消した”者がいる」


 その瞬間、部屋の空気が凍りついた。ジンが舌打ちをし、ミサキさんはか細い悲鳴を飲み込んだ。僕も、隣に座る彼らの体温が、急に感じられなくなったような気がした。誰もが、他の三人の顔を探るように見つめている。


「そして、三つ目」後藤主任の声が一層低くなる。「我々の知らない“何か”が、この船には存在する」


「くだらねえ!」

 沈黙を破ったのは、ジンだった。彼はテーブルを拳で叩き、がたりと音を立てて立ち上がった。

「仲間を疑えってのか? それとも、宇宙の幽霊でも信じろって言うのか? 俺は機関室に戻る。こんな不毛な会議をしてる暇があったら、船の安全を守る方が先だ!」

 彼は僕らに背を向けると、荒々しい足取りで部屋を出て行ってしまった。


「そんな……」ミサキさんが、震える声で呟いた。「私達の中に、船長にあんなことをする人がいるなんて、信じられません……」

「信じるか信じないかの問題ではない。可能性の問題だ」後藤主任は冷たく言い放つと、その鋭い視線を僕に向けた。「星島。改めて聞く。船長は最後に、お前に何を話したんだ? お前が最後に接触したクルーだ」


 三つの視線が、僕に突き刺さる。僕は、展望デッキでの会話を思い出しながら、言葉を探した。

「…この航海の、本当の意味について、と。それと、僕の目で見たものを、記録し続けろと……。それが、唯一の真実になるかもしれない、と」


 僕が話終えると、後藤主任の目がさらに細められた。

「『真実の記録』……か。まるで、自分の身に何か起こることを予期して、後を託すような口ぶりじゃないか」


 その言葉は、僕の胸に新たな疑念の種を植え付けた。そうだ、あの時の船長は、まるで何かから逃げるように、あるいは何かを告発するように、僕に言葉を託したのではなかったか?


 会議室の空気が、張り詰めた弦のように震えた、その時だった。


 パッ、と一瞬、部屋の全ての照明が強い光を放って明滅し、すぐに元に戻った。


「チッ、電圧が不安定なのか?」廊下から戻ってきたジンが、ドアの入り口で悪態をついた。

「速水、後で機関室の全系統をチェックしろ」後藤主任が指示を出す。

 それは、クルーたちにとっては単なる機材の不調だった。だが、僕には分かった。あの照明が明滅した瞬間、自分の心臓が大きく波打ったのと、完全に同期していたことを。まるで、僕の不安がステーション全体に伝染したかのように。


 ***


 結局、会議はなんの結論も出ないまま解散となった。残ったのは、修復しようのない不信感だけだ。


 自室に戻り、僕は今日の航海日誌を開く。

 昨日までは、仲間との絆を記していたはずのこの場所に、今日は一体何を書けばいいのだろう。


 僕は、ただ事実だけを書き連ねた。船長が消えたこと。後藤主任が立てた三つの仮説。そして、僕らがお互いを信じられなくなったこと。


 ペン型デバイスを置き、僕は自分の両手を見つめた。この手のひらが、この指が、正常に機能しているという保証は、どこにあるのだろう。


 船長が消えてから、僕らの間にあった見えない壁が、分厚く、そして氷のように冷たくなった気がする。誰もが何かを隠し、疑っている。僕自身も、彼らを、そして自分自身でさえ、信じられなくなりそうだ。


 虚空に浮かぶこの密室で、次に消えるのは、一体誰なんだろうか。


 その問いに答えてくれる者は、もうどこにもいなかった。

『アルゴ・ノヴァ』の、静かで長い、悪夢が始まった。


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