【第10話】残された工具
航海日誌、Day……もうわからない。
日付を記録することに、何の意味があるというのだろう。僕の時間は、ジンが消えたあの瞬間から、止まってしまった。
僕は自室の床に座り込み、壁に背を預けていた。「僕じゃない」と、何度も、何度も繰り返した。だが、その言葉は誰に届くでもなく、ただ虚しく部屋の静寂に吸い込まれていくだけだった。鏡を見るのが怖かった。そこに、僕ではない「誰か」が、満足そうに微笑んでいるのが見える気がしたからだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。部屋のインターホンが、強制的に作動した。スピーカーから、後藤主任の感情のない声が響く。
『星島。ブリーフィングルームへ来い。今すぐにだ』
抵抗する気力もなかった。ドアを開けると、心配そうな顔をしたミサキさんが立っていた。彼女に支えられるようにして、僕は重い足を引きずった。
ブリーフィングルームの円卓。空席が、二つに増えていた。船長が座っていた席と、ジンが座っていた席。その二つの空虚が、残された僕たち三人に、逃れようのない事実を突きつけていた。
「状況を報告する」
後藤主任は、コンソールの画面から目を離さずに言った。その声には、今までにない焦燥感が滲んでいた。
「機関士の不在により、ステーションの機能維持は極めて困難になった。複数の系統で致命的なエラーが頻発している。特に、空気循環システムの効率が著しく低下している。我々は、このまま座して死を待つわけにはいかない」
彼の指が、素早くコンソールを操作する。僕らの目の前のメインディスプレイに、一つの映像が映し出された。
ジンの部屋だ。そして、ベッドの上に整然と並べられた、あの工具。
「これだ」と後藤主任は言った。「我々が対峙している敵の、正体を示すヒントだ」
彼は映像を拡大し、磨き上げられたレンチの表面を指し示した。
「これは、ジン自身がやったことではない。自ら失踪する人間が、こんな手間のかかることをする理由がない。パニックに陥った人間の行動とも考えにくい。これは犯人による、何らかのメッセージだ。自らの犯行を誇示するような、歪んだ自己顕示欲の表れだ」
後藤主任は、一度言葉を切ると、僕とミサキさんを順番に見た。
「犯人は、極めて冷静で、几帳面な性格の持ち主だ。自らの犯行を、まるで芸術作品のように仕上げる、歪んだ美意識を持っている。パニックに陥るタイプではない。むしろ、この状況を、心のどこかで楽しんでいる可能性すらある」
彼の分析を聞きながら、僕は自分の心臓が凍りついていくのを感じた。冷静。几帳面。そんな人間が、この船にいるというのか。少なくとも、今の僕とは正反対だ。
だが、あの鏡の中の「他人」は? あの冷たい嘲笑を浮かべていた男は、どうだろうか。
僕の思考を読み取ったかのように、後藤主任の視線が、真っ直ぐに僕を射抜いた。
「星島。昨夜、お前はジンと激しく口論したな」
その声は、尋問官のそれだった。
「そして『顔も見たくない』と言い放った。その直後、ジンは消えた。これは偶然か?」
「僕は……」声が、喉に張り付いて出てこない。「僕は、眠っていたはずです……部屋から、一歩も出ていません……」
か細く答えるのが精一杯だった。
「やめてください、主任!」
隣で、ミサキさんが悲痛な声を上げた。
「アキトさんがそんなことをするはずありません! 昨日の彼は、ひどく思い詰めていました。ジンさんを傷つけてしまったと、自分を責めていたんです! 彼が誰よりも優しい人だということは、あなたが一番よく知っているはずです!」
彼女は必死に僕を庇ってくれた。その優しさが、今は鋭い刃のように僕の胸を抉る。
だが、後藤主任は冷ややかに、その訴えを切り捨てた。
「天野。お前のその感情的な擁護が、逆に彼を怪しく見せていることに気づかないのか。それとも」
彼は、ミサキさんさえも疑いの目で見つめた。
「お前は、共犯か?」
ミサキさんが、息をのんで言葉を失う。
後藤主任はゆっくりと立ち上がると、まるで判決を言い渡す裁判官のように、僕を見下ろした。
「これより、星島アキトを、海上船長及び速水機関士の失踪事件における、最重要容疑者と断定する」
その宣告は、不思議なほど、すんなりと僕の心に入ってきた。
「お前の行動は、これより24時間、全て私の監視下に置く。自室とテラリウム以外の区画への立ち入りを禁ずる。抵抗すれば、拘束も辞さない。いいな」
僕は、何も言い返せなかった。
ただ、ミサキさんが崩れ落ちるように椅子に座り込むのが、スローモーションのように見えた。
その夜、日誌に僕はこう記した。
『僕は、容疑者になった。違う、僕は最初から犯人だったのかもしれない。僕の中にいる、僕ではない誰かが、僕の知らないうちに。だとしたら、後藤主任の監視は、もしかしたら僕を守ってくれるのかもしれない。あの鏡の中の“他人”から……』
自室のドアの向こうに、後藤主任の気配を感じる。
僕は、その監視の目に、絶望と、そしてほんのわずかな奇妙な安堵を感じながら、長い夜の闇へと沈んでいった。




