【第1話】生命の樹と五人のクルー
航海日誌、Day 1542。
乗組員は全員異常なし。本日の記録担当は、僕、星島秋人 (アキト)。
ステーションの中央に位置する球体テラリウム「生命の樹」は、今日も静かな光に満ちていた。僕は霧吹きを手に、地球から持ち込んだシダの葉に細かな水を噴霧する。薄緑色の葉の上を、水滴が真珠のように転がり落ちていく。その一つ一つが、この無機質な箱舟の中で、かろうじて輝きを許された生命の証のように見えた。
「アキトさん、いつもありがとう。この子たちが元気だと、私も元気になれるわ」
振り返ると、医療士の天野ミサキさんが、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。彼女の白衣は、テラリウムの照明を反射して、まるで後光が差しているように見える。僕が管理するこの植物園は、彼女のお気に入りの場所だった。
「いえ、これが僕の仕事ですから。それに、ミサキさんこそ、僕らの健康管理をいつも……」
「おいおいアキト、そいつにばっか構ってないで、俺のコーヒーメーカーも見てくれよ。また機嫌が悪いんだ」
軽口を叩きながら大股で歩いてきたのは、機関士の速水ジンだ。オイルの匂いをかすかに漂わせた彼の手には、無骨なレンチが握られている。彼は僕の肩を軽く叩くと、巨大なシダの葉を面白そうにつついた。
「植物より、機械のほうがよっぽど素直だぜ? なあ、アキト」
「そうかな。僕には、機械のほうが気難しいと思うけど」
「違いない」と、僕とジンは同時に言って、顔を見合わせて笑った。彼とのこんなやり取りが、この長い航海における数少ない娯楽の一つだった。
「無駄口はそこまでにしろ」
背後から響いた低く、厳しい声に、僕とジンの肩がかすかに跳ねる。保安主任の後藤テツジさんが、腕を組んで僕らを睨んでいた。元軍人だという彼の視線は、テラリウムの滅菌灯より鋭い。
「速水、お前の持ち場は機関室のはずだ。星島も、記録の更新を怠るな。規律の乱れは、事故の第一歩だぞ」
「へいへい、わかってますよ、主任」
ジンはわざとらしく敬礼すると、ひらひらと手を振ってテラリウムを後にしていく。ミサキさんも「じゃあ、また後で」と小さく会釈して、医務室の方へ戻っていった。後藤さんは、僕がテラリウムの管理データをコンソールに入力し終えるのを黙って見届けると、満足したように頷き、巡回へと戻っていった。
一人残されたテラリウムに、静寂が戻る。
そうだ、これでいい。それぞれが、それぞれの役割を果たしている。頼れる仲間たちがいる。この閉鎖された宇宙で正気を保つためには、その事実が何よりも重要だった。
***
その日の夕食は、食堂にクルー全員が顔を揃えた。
僕の向かいにはジンが座り、隣にはミサキさんがいる。テーブルの向こうでは、後藤主任が黙々と栄養ペーストを口に運んでいた。そして、上座に座るのは、この宇宙ステーション『アルゴ・ノヴァ』の指揮官、海上イサミ船長だ。
「ミサキくん、今日のハーブは風味が良いな」
船長が、穏やかな声で言った。彼の言葉には、不思議な重みと安心感がある。
「医務室の小さな水耕プラントで、少しだけ。皆さん、毎日同じ味では飽きてしまうでしょうから」
はにかむミサキさんに、ジンが「最高だぜ、ミサキ! 主任の説教よりよっぽど効く!」と茶化し、後藤主任から「速水……」と地を這うような声で咎められていた。
僕はその光景を眺めながら、かすかに笑みを漏らした。
この賑やかさが、僕の心をどれだけ救ってくれていることか。
やがて、船長がテーブルに静かに両肘をついた。全員の視線が、自然と彼に集まる。
「皆、順調な航海に感謝する。だが、気を緩めるな。我々の任務はまだ始まったばかりだ。人類の未来が、我々の双肩にかかっていることを忘れるな」
「はい、船長」
僕らは、まるで一つの声であるかのように、そう返事をした。
***
自室に戻り、今日の出来事を航海日誌に記録する。
ペン型デバイスを手に、僕はコンソールに最後の報告を打ち込んだ。
『――今日も賑やかな一日だった。船長のリーダーシップ、ジンの気安さ、ミサキさんの優しさ、そして後藤主任の厳格さ。全てが完璧なバランスで、この『アルゴ・ノヴァ』を支えている。僕も、その一員でいられることを誇りに思う』
書き終えて、僕はふと、今日の食事のことを思い出した。
皆で食べた食事は美味しかったが、そういえば、ステーションの統合管理AI『マザー』が示す食料備蓄のデータに、今日も目立った変動はなかった。誤差の範囲、と言われればそれまでだが、これがもう何日も続いている。
AIの自動補充と在庫管理が、僕の想像を絶するほど優秀すぎるのだろうか。まあ、生命維持に関わるセクションは後藤主任とジンの管轄だ。植物学者である僕の専門外でもある。
僕は小さく首を振って、些細な疑問を思考の隅に追いやった。
虚空の深淵を進むこの箱舟の中で、疑念は最も危険な積荷だ。
明日も、きっと今日と同じような一日が来る。
僕たちは、そう信じていた。この果てしない闇の中を進むために、信じ続けることだけが、唯一の道標だったから。