第5話 雪白の記憶 後編
今回も紅玉、桃里それぞれの視点パートで分かれています。
この物語はフィクションであり、作中の団体、病院、企業、学校、神社、人物、出来事、法律などは現実とは一切関係ありません。また作中の病院、医療内容、医療行為も現実とは一切関係ありません。
<紅玉語り>
会場に向かう車中で桃里さんは言った。
「頭を冷やしていたんだ。1人になってずっと考えていた」
と。そして、
「君の言う通りなんだ。それが正しい。けれど俺は、君の時間の1分1秒でも自分と共にあることを望み、君にそれを押し付けてしまっていた。君のことを思うあまり、君が自由に出かけたり、人と知り合う機会を、豊かになる機会を奪うようなことをしていたのかもしれない。本当にすまない」
と辛そうな表情で言った。
「そんな……」
私は罪悪感に胸が痛くなった。
だって本当は私自身が彼にそう思ってもらえることを望んでいたのに!
「ごめんなさい。私ほんとうは……」
そう言う途中で、
「今日は楽しんでおいで」
彼は切なそうに微笑んで私を見送った。
会場に入ってからも胸が痛かった。
友人に挨拶をしてプレゼントを渡すと、来たことをとても喜んでくれた。
他の友人たち数人も交えて歓談している間も楽しいはずが、ずっと彼の表情が頭を離れなくて、その度に胸が痛くなった。
そして途中でお手洗いに行って、戻ろうとしたところで1人の男性がひょいと私の前に現れた。
「君、神楽のお嬢様だよね」
突然そう言って私の前に立ちふさがった。
「オレ、あの子の兄なんだけど。ちょっと向こうで話さない?」
少々軽薄な見た目のその男性は会場の向こう側を指してそう言った。
(もしかして待ち伏せされていた⁉)
桃里さんの影響ですぐにそう思った。
(会場にいた時から尾行されていたのかもしれない⁉)
とも。
「いえ結構です。私には婚約者がいますので」
そうきっぱり断ったが、
「知ってるよ~。邪魔はしないから大丈夫♪ちょっとお話だけしない?ほら飲み物も持ってきたし」
とグラスも持っていた。
もうあからさまに胡散臭くて、これが桃里さんだったら、
「何が邪魔しないだ。明らかに妨害じゃないか。その飲み物だって何が入っているかわかったものじゃない。場合によっては犯罪になるぞ。他人の人生を壊す様な人間は断固として許さない」
と言いそうな姿が頭に浮かんだ。
あえてチャラ男と呼ばせて頂こう。そのしつこいチャラ男は私の背後を見て腰を抜かした。
「なっ……そっ……」
おそらく「なんだ、それは?」と言いたいのだろうが恐怖で言葉を発することが出来ないのだろう。
私には最強のボディガードが憑いて、いや付いているのだ。
そして再び私は桃里さんを思った。
彼ならきっとこう考えるはずだ。
「今後、付きまとわれたり、仲間とつるんで複数でやって来ないとは限らない。最も良いのは君から関心をなくしてもらうことだ」
と。
私は小さなバッグから取り出したお守りを手に握り、腰を抜かしたチャラ男に向かい思いを込めて祈った。
(どうか、この人が私のことを忘れてくれますように。もしお仲間がいたらその人達も。そして正しくまっとうに生きてくれますように)
そう優しく博愛の気持ちを込めて願った。
すると、チャラ男は一旦静かに目を閉じた。
次に開いた時には、
「はっ!僕はなぜこんな所に……?あっ!床に飲み物が。掃除をしなければ」
そう言って立ち上がり、ふと私を見ると、
「君は迷子かい?会場は真っ直ぐ行った所だよ。僕は掃除用具を取りに行かなければ」
では、と言って去っていった。
すると私の背後から、
「今のは一体何が起こったんだ⁉」
と桃里さんが駆け寄ってきて言った。
「桃里さん、来ていたのですか?」
そう聞くと、彼は何か嫌な予感がして、神楽家と鳳条家の名前をしかるべき正しい方法で提示した結果、ご厚意で特別な許可を頂き入場したそうだ。
「それで、今のは?」
再びそう聞かれたので、
「いえ、私にもよくわかりません」
そう答えた。
だが彼は私のことをじいっと見つめた。私は緊張してドキドキした。
彼は周囲と頭上をぐるりと見渡した。
「何を見ているのですか?」
そう聞くと、
「防犯カメラ。来る時に向こうにはあったけど、ここにはなさそうだな。場合によっては買い取る必要もあるかもしれない」
そう呟いた。
「とにかく!もう帰ろう。真咲さんも」
そう桃里さんがキビキビと言うと、真咲さんは、
「御意」
と一言残して姿を消した。
友人には急遽、家の用事が入ったと伝えて会場を後にした。
私は少し力が抜けて、疲労が溜まったような感覚を覚えていた。
まだ発進せず停止した車中で、私は、
「本当に怖かった。あなたの言う通り、行かなければ良かった」
そう言うと、彼は私の頭を優しく撫でた。
私はホッとして涙が零れるのを感じた。
「君は何も間違っていないんだ」
そう言ってくれた。
でも私は、
「ううん。本当は桃里さんが言ってくれたことを私もずっと望んでいたの」
そう泣きながら言うと、彼ははっとした様な顔になった。
「本当は私も1分1秒も無駄にせず、あなたといる時間を大事にしたいの。それなのに私は世間一般では、とかそんな事に囚われてしまっていたの」
「紅玉……」
「心ではあなたと過ごす時間がかけがえのないもので、あなたと想い合えてここにいることが奇跡なんだって、わかっているの」
そう伝えると、
「そう思ってくれて嬉しい。俺もずっとそう思っていた」
彼は微笑んで言った。
私は涙を零し続けた。
ふとした瞬間、私は猛烈な眠気に襲われた。
「紅玉!」
閉じてゆく視界の中で、彼の姿が見えた。
薄れゆく意識の中で、心配そうに私の名前を呼ぶ声だけが耳にこだました。
真っ暗な中、声が聞こえる。
自分の声だった。私は祈っていた。
だが真っ暗で自分の姿も見えない。声だけだった。
私は唱えていた。
「また、あの人とめぐり合いたい」
「今度はもう少しだけ早く。そう、たとえば13の齢のときに」
「齢13の冬の日、お祝い事の時に、このお宮にあの人が来てくれますように」
「もし来られない時は、あの人にお知らせくださいませ」
「まためぐり合い、愛し合いたい。生涯あの人唯一人だけ。それが叶うなら、また同じ病で同じ齢で儚くなってもいい」
目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。
桃里さんの目から一筋涙が流れるのを私は見た。
「桃里さん……」
私がそう呼ぶと、彼はそっと私の頬を撫でた。
パーティー会場からの帰りの車の中で気を失った私を、桃里さんが叔母がいる病院へと至急担ぎ込んだという。
この病院は祖母が経営し、叔母が医師として在籍する女性専用の総合病院でスタッフも9割が女性であった。こちらを私は生まれた頃から掛かりつけとしていた。
ここに運ばれて丸1日経ったという。
私が眠っている間、彼はずっと私の傍らから離れず居てくれたと母が言った。
突然の昏睡の理由は原因不明だった。
私は眠りに落ちた際にうわ言で、
「胸が痛い」
と言ったそうだ。
念のためこちらも検査したが、特に異常は見られなかったと言う。
眠っている間、不思議な夢を見ていた気がする。
けれど目が覚めた私は、その内容を覚えていなかった。
<桃里語り>
紅玉が突然意識を失った時、俺は息が止まるかと思った。
そして意識を手放す直前、彼女はうわ言のように「胸が痛い」と言った。
これを聞いて、俺は動悸が激しくなるのを感じた。全身が冷えていくのを感じた。
急いで彼女を彼女の叔母がいる病院へと連れて行った。
そこで検査をしたが、突然の昏睡の原因はわからなかった。
また心臓にも特に異常は見られなかった。
彼女は丸1日眠り続けた。
俺は彼女がいつ目を覚ましてもいいように傍らにずっと控えていた。
眠る彼女はまるでおとぎ話のように氷の中で眠るお姫様みたいだった。
氷の中ですべての機能を眠らせて再起の時を待っているかの様だった。
彼女が目を覚ました時、どうやら自分は泣いていたようだ。
後で彼女から聞いてそれを知った。
目覚めてくれて、本当に良かった……。
俺はもう紅玉がいないと生きていけない。
君がいない世界では息をすることも出来ない。
目覚めてからの彼女はすっかり元気になっていた。
「もともと健康優良児なのに本当に珍しいことなんです」
と彼女は言った。そして、
「でも意識を失う前、少し疲労感とか力が入らない感じはありました」
そう言った。
ようやく心も落ち着いた数日後、あのチャラ男が何かよからぬ事を画策していなかったかどうか徹底追及した。
調査によると、可愛い子と出会うために妹の誕生会に出席したのは確かなようで、事前に誰が可愛いのかをそれとなく自分の妹に聞いていたようだ。また、つるんでいた仲間内で彼女の名が出たことは無いようだった。念のためチャラ男と仲間内の過去の素行も調査したところ、犯罪になるようなことはしない連中で、揉み消した様な形跡も見当たらなかった。結果としてはまだマシな部類ではあったようだ。彼女に声を掛けたこと自体は許せないが。
チャラ男はあれから真人間として清く正しく、規則正しい生活を送っているということだ。
そして先日のパーティー会場でしかるべき手続きの上、すべての防犯カメラを確認したが、あのチャラ男が真人間になる瞬間はどこにも映っていなかった。だが映っていないことに安堵した。
なぜなら、あれは紅玉によるものだと確信していたからだ。
直接、手を下した様には見えなかったが。
背後からだが、何か祈っている様に見えた。
そして祈っている時、彼女はおそらく手にお守りを握っていたはずだ。
車中で意識を失った彼女の手からお守りがぽとりと落ちた。
そのお守りはとても珍しい形状をしていたが、俺はその形状の元になったものをよく知っていた。
以上のことには根拠がある。
それは俺が見た不思議な夢によるものだった。
毎年、冬になると見る長い夢。
初めて見たのは、大学1年生の元旦、インフルエンザで寝込んでいた時。
「君」に会いに行きたいのに、行くことは叶わなかった。
少しだけ症状が和らいだ頃、この夢は始まり、そして途切れた。
再び見たのは翌年の大晦日。大学2年生の時。
初めて神楽家を訪れた年で、客間でうたた寝のつもりが本気寝をしていた時だ。
昨年の夢の内容はもうすっかり忘れていたのに、夢が始まった途端、当然の様に思い出していた。
そしてまた夢は途切れた。
翌々年の大晦日、大学3年生の時、
その翌年の大晦日、大学4年生の時も同様だった。
そして昨年末、約半年前となる日の大晦日。
社会人1年目のこの年。
この日、夢は終わった。