第2話 薄紅色の出会い (桃里がたり)
この物語はフィクションであり、作中に登場する団体、企業、住宅、人物などは現実とは一切関係ありません。
数年前の雪が降った元日。俺はインフルエンザで寝込んでいた。
頭痛が酷くて、身体が痛くて、水を飲むのもやっとだった。
ようやく眠気が訪れて痛みから解放された頃、俺は夢うつつの中で、
(君に会いにいかなければ)
と何度も呟いていた。
「君」とは誰なのだろう。そしてどこに行けばいいのだろう。だが行くことは叶わない。
(君に会いたい)
そう強く思いながらも意識は俺の手を離れた。
初めて会った時、一目見た時から彼女に惹かれていた。
多角的に輝く宝石の様に煌びやかな瞳、憂いに濡れたような睫毛、朝露に濡れた花びらのように瑞々しく艶やかで可憐な小さい唇。陶器の様な白い肌、淡い色のサラサラでフワフワとした美しく長い髪。
彼女を形成するすべてが可憐で美しかった。
彼女の美しさは容姿のみならずその内面にもあり、優しくて穏やかな明るい少女だった。
そして最初に彼女に会った時に感じたのは、そのお姫様のような凛とした佇まいであった。
まるで荘厳なヴェールに包まれて守られているかのような雰囲気だった。
だが、まだ少女なので一緒に本の感想を語り合い、たわいない話をするだけで良かった。
同じ時を共に過ごせるだけで幸せを感じた。
他の人間に絶対に奪われるわけには行かないため、その辺は警戒していた。
叶うなら将来を約束した婚約者になりたいと願った。
そして3年後、その願いは叶った。
俺が社会人1年目の23歳、紅玉が高校2年生の17歳の時であった。
この時の自分には彼女を愛しはじめている自覚があった。
心から彼女が自分のもとに舞い降りてきてくれることを望んだ。そして自分の腕の中に飛び込んできてくれたら、二度と離すことはないと心に誓った。
彼女が相手でなかった場合、この政略結婚は断っていた。
誰とも結婚するつもりがなかったからだ。彼女と出会うまでは。
それに親の決めた政略結婚など時代遅れにも程がある。
現代では強制することは出来ず、また断る権利だってある。
親の言いなりになるのは御免だった。
だがその話を俺に持ち込んできたのは、意外にも彼女の父・神楽青一郎氏だった。
両家の間で婚約の話が持ち上がった時に、鳳条側は弟の紫音で話を進めようとしていたようだ。
だが神楽氏は俺の婿入りを希望したのだ。
この政略結婚は自分にとってまさに幸運の鍵となった。
神楽氏は本来は政略結婚を良しとせず、紅玉には彼女自身が愛する人と結ばれて欲しいと願っていたが、
「なぜか娘と君は互いに想い合うような予感がしていたんだよね」
と、後にそう朗らかに語った。
大晦日の夕方。
彼女と気持ちが重なった。
自分たちは両想いであることが甘酸っぱい喜びとともに心に深い充足感を与えた。
プロポーズでは誤解を与えて彼女を泣かせてしまった。
だが彼女は「ずっと私のそばにいて。毎日連絡をして」と可愛い要求をすることで自分に猶予を与えてくれた。
彼女に会いたかった。忙しいほど余計に彼女に会いたくなった。電話で彼女の声を聴くと一日の疲れも吹き飛んだ。
だが連日の睡眠不足と疲労の蓄積は、ついに自分を彼女の部屋のソファで寝落ち爆睡させるという事態を招いた。
そんな自分を彼女は心の底から労わってくれた。もう無理をしないで欲しいと泣きながら伝えてくれた。
今度は彼女が婚約者として自分のところに来てくれると言った。
そうして俺と紅玉は将来を誓い合い、結婚を約束した婚約者となった。
本心では彼女を自分の腕の中に閉じ込めて外に逃がさない。他の人間の目に触れさせたくない。そう思っていた。
もちろん彼女の行動の意志には自由があり、尊重するべきことは理解している。だが心の奥の願望もまた自由だ。
ゆえに自分は彼女が関西にある自分の下宿に来るまでに妙な虫どもが纏わりつかぬよう細心の注意を払っていた。
彼女にはもともと護衛と送迎がついていた。
神楽家には古来からこの家に仕えている元忍びの一族がいて、現在は一応普通の家としてメイドやドライバーの仕事に従事している。
中でも超有能スーパーメイドの息吹さんが彼女の生活全般の諸々を面倒みてくれている。
息吹さんがメイド修行中の頃は、その母親が彼女の世話と護衛の両方を担っていた。
そして現在の護衛には、息吹さんの妹で真咲さんと言う常人の域を超えたボディガードがいた。
紅玉の婚約者となり、息吹さん達にはこれからも彼女をくれぐれも宜しくお願いしますと伝えた。
息吹さんは言った。
「お嬢様には感謝の言葉もございません。妹の真咲は忍びの能力を最大限に受け継ぎ生れ落ちた逸材でございますが、そのあまりの特異能力ゆえに通常のスポーツではその才を活かしきれず、SPや警備の仕事は本人のコミュニケーション能力に難があり、やむなく引きこもっておりました。引きこもり中も修行は欠かさず行っておりましたが。お嬢様はそんな妹の乏しいコミュニケーション能力にもまったくお気になさらずに接して下さいました」
妹は現在活き活きとお嬢様の護衛に努めております、と息吹さんは言った。
真咲さんを初めて「視た」時、自分は死を悟ったが生きていた。
紅玉の傍らに井戸の底から這い出てきたような存在が居て、だが紅玉の方は何も気にしている様子はなかった。視えているのは俺だけかと思ったが、彼女は普通に話しかけており、
「なんで君は心霊現象を普通に受け入れているんだ」
と驚いて問いただしたところ、くだんのボディガードだとわかった。
その身体能力は人智を遥かに超え、ある時、紅玉が階段で躓きそうになった際にはどこからともなく現れて支え、気づけばもう姿はなかった。外を見ると空中を舞っていた。
2月に入り、そんな姉妹とともに彼女は俺の関西の下宿先にやって来た。
下宿先には彼女の父である青一郎氏から先に連絡をしていた。
「2人は婚約者であり、今回の宿泊は親である自分が承諾している」
と。
姉妹は駐車場に停めたキャンピングカーで寝泊まりするとのことだった。
順番ですぐ近くにある24時間営業のスーパーな銭湯に行くと言っていた。
下宿先の広くない部屋にはあまり物はなく、冷蔵庫や洗濯機、テレビや電子レンジは備え付けのものだった。
他はデスクとベッド、小さなテーブルくらいで、ただ本棚だけは大きなものを置いていて、本をぎっしり並べていた。彼女は新鮮な感じで部屋を眺めていた。
大学生時代の4年間と社会人の1年間を過ごした部屋。3月いっぱいで引き払うことになる。
ここに最後に紅玉が居てくれて、共に過ごしていることに深い感慨を感じた。
2人でのんびりしながら過ごした。
夜、風呂場から出て来た彼女は可愛らしいパジャマ姿だった。
彼女は恥ずかしそうにもじもじしていた。
彼女には俺のベッドで寝てもらい、俺は床に布団を敷いて寝た。
そして大学の話や仕事の話を囁くような可愛らしい声で聞いてきた。
彼女は今年受験生だ。高校では英語サークルの活動に精を出しており、外国語学部への進路を希望していた。
将来は神楽コーポレーションで語学力を生かした仕事に就きたいと彼女は言った。
そしてさらなる将来として、
「あなたと2人、協力して共に神楽を守っていきたい」
そう語った。自分も心からそう願っていたことだった。
そして、
「勉強はきちんとします。だから、あなたとの時間を減らしたくない。あなたの無理がない範囲で」
そう再び俺にとっても願望だったことを言葉にしてくれた。
「ああ約束する」
そう彼女に誓いった。
3月は異動のための引継ぎ、本社へ事前の挨拶に訪問、そして引っ越しがあり、多忙すぎてほとんど記憶に残っていない。そんな中でも紅玉のことだけは記憶に焼き付けていた。
本社勤務に伴い都内へ引っ越してきた自分が住む場所は神楽邸の「離れ」住宅だった。
俺が気を遣わなくていいように1人で暮らせるように、そして紅玉と2人で過ごせるように神楽家の家族が配慮してくれた。
この離れは彼女の祖母・桔梗さんが管理しているもので数年前にリフォームをして日本家屋の良さを残しながらも室内は最新式の設備、だが家具や雰囲気は大正モダンという耽美な世界観で、俺の美意識を大いに刺激した。
まだ引っ越しをする前の休日、神楽邸宅に来ていた自分を離れに案内してくれた紅玉は淡い桜色と白の着物を着ていた。そのあまりの可憐さ、可愛らしさ、美しさに思わず言葉を失った。
「かわいすぎる。きれいだ。また着てほしい」を繰り返した。
離れの家屋の雰囲気とのあまりの調和性に陶酔した気分になった。
これからはようやく毎日の彼女を見つめることが出来る。
離れている時間は苦行のようだった。
愛する彼女の大事な時間、大事な一瞬をすべて見ていたい。
神楽邸の敷地には従業員用の住宅、と言っても息吹さんファミリー用の住宅と、もう1つの戸建てが2軒並べて建てられていた。そのもう1つの戸建てに俺の2人の友人が入居する運びとなった。
この2人は双子で大学からの付き合いだ。憎まれ口を叩きながらもやたらと気が合った。
彼らも自分と同じで都内から関西の大学に入学したクチだったが、弟の方がウチの大学のサッカー部に入部することを希望し、兄の方は「それならば関西の神社仏閣を巡りたい」という理由で同じ大学を選んでやって来たのだ。
兄の方は神楽コーポレーションに昨年4月、今年度の新入社員として入社し、一足先に本社に勤務し色々と状況を伝えてくれている。
弟の方は1年間のフリーター生活を経て、神楽家へ就職した。
現在、紅玉の送迎は息吹さんの心優しく正義感が強い大柄でクマの様な旦那さんがおこなっている。
ここに、この双子の弟を組み込む予定だ。割と何でも小器用にこなし、人当たりが良くてあけっぴろげの様でいて口が固いので重宝されるだろう。
新たな生活と共に、自分の人生の新章が始まる様な気持ちだった。