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考古淑女ガトルード覚書

   考古淑女ガトルード覚書


    001 嵐を呼ぶボクっ

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 窓から地面までは三メートルはあるだろう。

 少女が弟にいった。

「さあ、一緒に跳ぶわよ」

「やだ。跳べない」

 弟が尻込みしているときに、無鉄砲な女の子は、白い歯をみせて、芝生の庭に飛び降りた。スカートが逆立ち、下着がまるみえ状態。

 ドスン。

 両足で踏ん張ってから、地面に弾き飛ばされるように、尻もちを着く。

 ワンワン泣いたのは、姉ではなく弟のほうだ。

 すると、叔母と家庭教師が、まだ弟のいる部屋に駆け込んできて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、窓下をのぞきこんだ。

 てへっ。

「なにが、てへっよ!」

 きかん坊娘が、スカートの尻についた草を払って、上を見上げた。とび色の髪で緑がかかった瞳は好奇心であふれていた。

 食事の時間、一門が行儀よくテーブルに就いているとき、女の子はダダダと屋敷中を駆け回っていて、取り押さえたメイドは、思いっきり咬まれて、生涯消えない歯型を腕に残した。

 夏は水泳、冬はスケートを好んだ。――ここまでならふつうに闊達なお嬢様だ。そこから先が少し問題。幼少時から乗馬に嗜み、得意とするのはフェンシング。苦手だったのは、ピアノ、刺繍、料理。――レディーとして、学業以上に必要な嗜みというものに対して、まったく、関心を寄せなかった。筆記は尋常ならぬ速さがある。その代り、見直しというものをしないので、一ページに一字以上のつづり間違いが必ずあった。……そのくせ、嫌味なまでに、学業はトップクラス。ファッションやみだしなみに対してずぼらだ。

 ――〈ブス〉ではないが男にモテない。

 ガトルード・マーガレット・ロージアン・ベル(一八六八‐一九二六年)。

 彼女の弟分で有名なのがアラビアのロレンスで、メッカ太守の息子ファイサルを担いで、トルコ帝国をアラビアに釘付けにし、枢軸国であるドイツ、オーストリア両国への合流を阻止した、第一次世界大戦最大の英雄だ。戦後、ファイサルが戴冠してイラク王国が成立すると、ガトルードはロレンスが散らかしたままにした王国整備に乗り出す。辺境に出向いて、癖だらけの諸部族と渡りあい、国境線を線引きした。そして、第一線を退くと、ファイサルに博物館建設を持ちかけた。

 かつて世界の中心であったメソポタミア文明。一万年文明のコレクションを集めたのがイラク博物館で、そこを立ち上げたのが彼女だった。

 ガトルードの生家・ベル家の屋敷は、ロウントン・クレンジと呼ばれる、イングランド東北の町にあるニューカスル・アポン・タインの町はスコットランドとの境目にあった。一八〇〇年代初頭に製鉄で巨万の富を得たベル家は一八五〇年、後にヴィクトリア女王から準男爵の称号を賜ることになる創始者ロージアンのとき、町の南郊にあるなだらかな丘の上に、土地を求め、ネオゴシック様式四階建ての豪壮な居館を建設し、十人を超える使用人を雇った。ロンドン屋敷が、ハイドパークの南にある高級住宅地・ベルグレイヴァだ。

 ロージアンの後継ぎ息子が勲爵士ヒューで、ロージアン死後は準男爵位も相続する。その長女がガトルード・ベル(一八六八‐一九二六年)だ。ベルにはモーリスという弟がいて、この人が七一年に生まれたとき、産後に体調を崩した母親メアリーが亡くなった。ヒューは、きかん気が強いガトルードを溺愛した。

 幼い姉弟を育てたのが、未婚の叔母エイダと、ドイツ人家庭教師クルークだ。

 七十六年、ヒューは、同じ勲爵士の称号を冠していた医師の娘、フローレンスを後妻に迎える。継母フローレンスは、ルイ・フィリップ王やナポレオン三世帝時代の宮廷も垣間見ていたフランス育ちの才媛で、『ウルスラ』ほか小説や脚本を手掛けていた。

 継母が産んだのが、ガトルードの次弟ヒューゴー(ヒュー)と、妹のエルザだ。

 ガトルードは、十四歳でケンブリッジ大学中等部に合格。十五歳でオックスフォード大学マーガレットホールに合格。寄宿舎からガトルードが継母に手紙を書くと、

「ガトルート、相変わらず、誤字脱字が目立ちますよ」

 と、クレームが書かれた返書が届くと、才気あふれる少女は、毎度の〈接頭語〉にウンザリした顔になった。

「ええ判ってますとも。お母様の〈接頭語〉の一字一句を暗記しましたわ」 

 そういいながら、兄弟姉妹のなかで、才媛である継母フローレンスの影響をもっとも強く受けた。継母は義理の娘のために書籍を選んでやった。他の子供たちと一緒に余興で、芝居もした。優雅なところの大半は継母から学び、なんだかんだと、人生の節目では、助言をきいていた。師であり、憧れの人でもあった。

 ガトルードは、誤字脱字以外で反発しなかった継母に対して、最初にして最後の反逆が、大学卒業後のシリア砂漠縦断旅行を初めとする数々の冒険だった。……冒険家にして詩人、考古学者。貴婦人である継母が終生のライバル。

 ――そんなヴィクトリア朝生まれの才媛だった。

     ノート20150322

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   002 社交界デビュー

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 つまり君の脳ミソはクリームシチューみたいに溶けて、ベッドで寝ている間に耳から枕に流れ落ちてしまったようだね。

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 十九世紀末、英国上流階級社交界。

 政治・ビジネス・文化方面で活躍する名士たちが、顔を広げるための宴会場だが、婚活・合コン会場という意味合いも大きかった。子息令嬢の社交界デビューは二十歳前後。社交界に出入りするのは、同族・同階級であるので、男爵居館や大富豪邸宅で催されるパーティーで、気に入ったパートナーをみつけ、結婚したものだった。

 ゴシック様式の古い城館に手入れの行き届いた庭に何台もの車が停まり、貴顕富裕な人々が盛装して降りてくる。紳士はシルクハットに燕尾服、淑女はコルセットを効かせたドレスといったところ。そのなかに、継母フローレンスにいざなわれ、オクスフォード大学をトップクラスで卒業した新興貴族ベル家の令嬢ガトルートもいた。

 社交界デビュー。したはいいが……フローレンスは義理の娘の行儀の悪さには閉口した。

 大学で覚えた煙草をプカプカふかし、あっちの殿方の群れ、そっちの殿方の群れに歩いてゆく。男漁りではない。論争をふっかけにゆくのだ。ベル家と付き合いがあったのは、大臣・大使・将軍級の人々で、文化人には『進化論』の著者ダーウィンまでいたくらいだ。知識人でもあった社交界・紳士の会話はそのまま国政を左右する世論になり得た。

 身長百六六センチ。当時の英国男性の平均身長とほぼ同じ高さ。とび色の髪に、好奇心旺盛なところを隠さない緑色がかった碧眼の娘は、あっちこっちで、殿方をやっつけまくっていた。

 稀にだが、同じくらいの名門子息がやってきて、

「あの、ガトルードさん、オクスフォードでは優秀な成績を収められたというお話を父からきかされています。素敵ですね」

 ガトールートの口のきき方は、学校生活に染まりガサツで、まるで男のようだった。

「でも、僕は、主席卒業ではなかった。くだらないね。そんなつまらない話より、地政学的に英国にとってもっとも重要な中東の政策をどのようにすべきか考えてみないかね?」

「地政学……中東……」

「あのお、君、腕を貸してくれたまえ」

 パーティーに雇われた楽師たちが、素敵な音楽を奏でている。名家御子息は、ソーシャルダンスのエスコートでも、と誘われて舞い上がりかけたとこで、長手袋をはめたソバカスのご令嬢が、クンクンと臭いを嗅ぎだした。

「わぎゃあっ。男臭っさー!」

 親戚筋の人々と話をしていた継母フローレンスが、義理の娘の慇懃無礼な振る舞いをみかねてやってきた。

「しばらく、貴女はこっちです」

 腕を引っ張られながらガトルートは継母が装っている、帽子、ドレス、ヒール。……化粧の具合から香水の匂いまで、堪能してうっとりといていた。

 ああ……ああああ。いい……もう、どうにでもして。やっぱ、母上って最高!

 準男爵家令嬢ガトールートの装いときたら、ドレスやヒールはまあいいとしよう。しかし青のタイツはどうみてもダサイ。結婚適齢期の若い紳士は彼女から逃げた。

 継母が、社交界での振る舞い方が上手くできるように、自分の友人たちを紹介した。富裕にして文豪を夫にもつ淑女たちだ。さすがにガトルートも、継母の友人だから、殿方のように遠慮なくとっちめるようなマネはしなかった。

 しかし退屈な人々だった。

 それにつけても席の隣にいる継母フローレンスの才色兼備といったらなんだ。文豪にして貴婦人。自分の知る限り、センスも世界一ときている。

 ――貴婦人といったら母上だなあ。……ああ、オヤジから奪って嫁にしてえ!

 心のなかはまだまだ学生言葉だった。

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 一八八八年の暮れ。

 駐ルーマニア公使夫人である伯母メアリがベル家を訪ねてきた。継母フローレンスが、義娘の結婚について相談したところ。

「ちょっとオクスフォードの匂いを、淑女らしく宮廷で洗い流してみるっていうのはどうかしら。ルーマニアではよく王宮でパーティーが催されるのよ」

 当時は女性の一人旅はタブーだった。そういうわけで、弟ヒューがパリまで姉を引率し、そこから先は従兄のビリー、ミュンヘンでビリーの弟ジェラルドが合流してルーマニア宮廷が置かれたブカレスト都城に着いた。

 ルーマニア公使公邸で、鯨骨と鋼でできたコルセットをつけてドレスをその上に被せ、ダチョウの扇をそよそよ羽ばたかせ、完璧なテーブルマナーを踏まえた上で、貴紳たちとシャンパングラスを傾けるようになった。爪をかんだり前髪を指にからめたり、という悪癖も直させた。これでレディーの体裁は整った。

 しかしだ。

 ガトルートときたら、英国社交界にいたときと同様に、宮廷パーティーでもあっちの紳士、こっちの紳士に喧嘩を吹っかけて歩き、従兄弟たちを冷や冷やさせた。それは、伯母メアリが開く公使公邸でのサロンで、各国公使がいるなかでも同様だった。そしてついに、爆発したのはプロイセン・ドイツの公使だった。

「――この鼻持ちならないインテリ小娘!」

 フォン・ビューローという名のドイツ貴族は怒鳴った後に、意を正して、

「淑女に対しての礼を失しましたな」

 と素直に謝った。後にプロイセン・ドイツ帝国宰相になる人物だ。この人を介して、ガトルートは、詩人として著名であったドイツ皇后とも懇意になる。

ブカレストは古都で、十八、九世紀の壮麗な建造物が建ち並び、ガトルートはすっかり魅了された。

 ――なんて美しいんだ。

 ガトルートの脳裏では往時の人々が、街並みを行き交う光景を鮮明に再現されていた。

 単なるイメージというよりも、それは幻視の域に達していた。

 街を歩くとき同伴してくれた従兄ビリーが、何度か口説いてきた。大聖堂を見学したときは、彼と口づけをかわそうとしたとき、見事な天井壁画の天使にみいって上をむき、タイミングを逸した。

 オリエント急行で帰国の途についたとき、ラストチャンスだ、とばかりにビリーが告白してきたのだが、どことなく上の空で、けっきょく二人の仲は先に進まなかった。……ガトルートにとって結婚はどうでもいいことだった。

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 英国帰国後。

 ガトルートは異母妹を二年間教育した。

 それから、継母フローレンスの助手になって、工場労働者の待遇改善をめざすための実態把握のため、聞き取り調査を行い、報告書を作成するのを手伝った。才色兼備の継母は貧困撲滅のための論文を書いていたのだ。

 ――やっぱり、母上って最高! そばにいるだけで僕的に幸せ!

 うっとり。

 エレガントな香水の匂いが漂っている。

 貧民街のアパートを訪ねて、オバちゃんたちの愚痴をききながら、インタビューをする貴婦人の継母。ノートしてゆく義理の娘。

 継母フローレンスの存在は、ある種、罪であった。

     ノート20150323

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    003 テヘランの恋

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 一八九一年夏。

 女子力アップのためのチャレンジその一、料理。

 準男爵ベル家のロンドン屋敷である。

 厨房からリビングにきた淑女見習い中のガトルードが妹にいった。

「さあ、美味しくなーれって、僕が呪文をかけてつくったんだ。さあ、召し上がれ。……どう、美味しい? 美味しいでしょ? ねっ、ねっ!」

 形が崩れている、なんて不恰好なんだ!

 妹エルサは焼き立てのスコーンを姉から御給仕されたことに一抹の不安を覚えた。――うっ。不安は的中した。吐きそうになるのを、紅茶と一緒に無理して喉の奥に押し込んだ。胃がもたれる。涙目。

「そう、涙がでるほど美味しいのだね。またつくって、あ・げ・る」

 ぞぞ……。

 女子力アップのためのチャレンジその二、裁縫。

 弟ヒューはデートに出かけた。待ち合わせの場所で、恋人をみつけ、気の利いたレストランまでエスコートしようとしたときのことだ。深呼吸をして、はい、と腕をさしだし、彼女がその腕に自分の手を添えようとしたときのことだ。胸を張った瞬間に、スーツとシャツのボタンがポロポロと地面に落ちた。姉がつけてくれたものだ。

 ガトルードの弟や妹にとって、生体実験はDVそのものだった。

 レディー・ベルの称号がある継母フローレンスに、義娘ガトルードは恋していた節がある。そんなものだから、近づいてくる男性はいたにはいたが、オクスフォード出の才媛は、男女の出会いの場でもある社交界で若い紳士をみかけるたびに論陣を張って喧嘩を吹っかけるのに終始していたため、毎度のごとく敬遠されていた。

 大使夫人である叔母メアリーが、「これじゃ殿方に逃げられるばかりよ」と、ジャジャ馴らしすべく、ルーマニア王宮を含めた社交界に呼び寄せ淑女教育を施したものの、古都の建築物に興味をもつばかりで、告白してきた親戚筋の男性は、呆れて逃げるように立ち去ってしまった。

 恋に燃えない。

 モテない。

 そんなガトルードが、一生一度というくらい激しく男性に恋をした。

 転機となる事件がペルシャで起きた。いまでいうところのイランだ。彼の国の国王は、『機動戦士ガンダム』の登場人物宜しく称号をシャアとする。そのシャアが、某英国人大佐と煙草の独占販売契約を締結した。当時はロシア帝国が英国と彼の地を巡って、暗闘を繰り返しており、同帝国が送った工作員の煽動が入ったらしく、暴動が起きた。

 外交官であるガトルードの伯父フランク・ラセルズが、ルーマニアからペルシャの公使として派遣され、英国に降りかかった火の粉をなんとか振り払った。問題解決後、伯母がその娘とペルシャ王都テヘランへむかう片道二週間の旅に強引に割り込んだ。……以前、自分を、(淑女に仕立て直す)といっていた伯母メアリーの言葉を逆手にとって、継母も巻き込みおねだりして、ペルシャゆきの旅にくわわらせてもらったのだ。随員として公使夫人の身の回りの世話をするメイド一人がついてきていた。

 出立までに、天才的な語学力を誇るガトルードは、ペルシャ語を学習・修得してまった。

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 翌一九八二年四月七日。

 当時の英国からペルシャにゆくにはいくつかルートがあった。一行が利用したと考えられる有力な説は、ドーバー海峡を渡ってフランスに渡り、パリ市からオリエント急行でヨーロッパ大陸を縦断してトルコ帝国都城イスタンブールで下車する。定期便に乗ってグルジアのバトゥーミで下船。ティフリス経由の鉄道でカフカスを横断しカスピ海沿岸の町バーグへ到着。ロシアの定期船に乗ってカスピ海を渡航して、向こう岸であるペルシャ側の港町エンゼリーに入港。そこからアルボルズ山脈に沿った街道をつかって、ペルシャ王国の都城テヘランに入城したのだとされる。

 エンゼリーからテヘランに至る街道は治安が悪い。そこで英国公使館職員二名、公使の従者とコックが三人、下僕二十人も派遣された。

 月末にテヘラン到着。六月になると、前回のルーマニア旅行のときに、付き添ってくれた従兄弟のうち、兄のビリーと一緒に付き添ってくれた弟のジェラルドが合流した。

 さて。

 テヘランにある英国公使館には英国から派遣された職員一同が住んでいた。公使夫人一行の中に、ガトルードと、継母と同名の従妹フローレンスが含まれているのを知られると、英国公使館はもとより、欧州系外交官筋は大いに盛り上がった。年下のフローレンスは十六歳で少し若く手をだすにはやや犯罪。二人の若い娘のうち、二十歳を超えた結婚適齢期なのはガトルード。つまり、英国にいるときは、殿方が逃げだし、絶対にモテなかった〈ボクっ〉が、あたかも王女様のごとく、ちやほやされだした。

 当時のテヘランは、市場に近いところにある、狭長な水路のような白亜の池のむこうがわに宮殿を遠望するという趣向の王城と人口二十万からなる市井。それを市壁で取り囲むという景観だった。

 英国公使夫人メアリー夫人は、仲良しの独国公使夫人を誘って、それぞれの公使随員や家族とともに、馬に乗ってピクニックにでかけたようだ。ご婦人方の馬の乗り方は、乗馬ズボンを履いて鞍をまたぐのではなく、長く優雅なスカートをなるべくはためかせないように行儀よく脚をそろえ、椅子に腰掛けるようにして乗るのだ。

 英国公使随員のなかに、一等書記官ヘンリー・カドガンがいた。赤毛で痩せて背が高い、物腰がスマートな青年だった。カドガン伯爵の孫にあたる貴族で、家格としては悪くない。

 それから。

 ヘンリー青年はガトルードをデートに誘うようになった。馬で遠出して木陰の長い干し草に横たわってみたり、冷たい小川に脚を浸してみたりしておしゃべりをした。それから、古代ローマ時代の詩をとび色の髪をした娘に朗読してきかせてやったりもした。青年は古典に通じていた。崇拝する当代きっての女流作家である継母の手ほどきを受けたオックスフォード卒の元女学生は、ここにきて、恋に燃えた!

「ここは静かね。夕暮れに近づくにつれ、山脈の陰が麓にだんだん降りてきて、緑深い村々をそれからテヘランの町を覆ってゆくわ。なんて美しいの!」

 ガトルードは、公使夫人である伯母メアリの薫陶を受け、ダサいオクスフォードでたて娘から淑女へ大改造を受け、実態はともかく少なくとも外面的に格段に、女子力に磨きをかけている。どうだ、参ったか! 口づけなんかかわしちゃっただろう。二人は婚約し、新人淑女は本国にいる家族にせっせと手紙を書いた。

 手紙をもらった心配性の父親ヒュー卿は、いろいろなルートで娘の結婚相手の素行調査をやった。

 結果、ヘンリー青年は確かに由緒正しい貴族なのだが、同僚に横柄で、遊蕩癖があり、実家は莫大な借金抱え込んで破産寸前だということをつきとめた。もしかすると、粗野な性格を隠し、億万長者ベル準男爵家令嬢であるウブな娘に近づき騙そうとしている。莫大な持参金目当てに結婚を目論んでいるのに違いない。

 当然のことながら破談となった。

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 十月七日。

 ガトルードがテヘランを離れて帰国する際に、

「早く公使に昇進してね。そうすればお給料も上がるし借金が返済できる。それまで私、待ってる」

 と、まだ好青年を演じているヘンリーにいった。

 月末にロンドンに到着。

 翌一九八三年三月、青年はテヘラン郊外に同僚と鮒釣りにゆき、アルポルズ山脈の冷たい雪解け水が流れる川に溺れて助けだされたが、衰弱してそのまま息を引き取ったのだという訃報がロンドンに届く。

 ガトルードは悲嘆にくれ、外見レディーから、もとのダサい、オクスフォード女学生じみた〈ボクっ〉に戻ってしまった。

 寝ては夢、おきてはうつつ幻の……。

 目の下にクマをつくって自室に閉じこもった娘をみかねた息子と同名の父親ヒュー卿が、憂さ晴らしに、イタリア旅行に連れ出した。ガトルードの妄想は極めて強烈で、ときに、古代ローマの街並みや往時のローマ人が歩く姿を幻視した。そして脈絡もなく愛しい恋人が、あちらの宮殿、こちらの噴水の陰からひょっこり顔をだし、笑みを浮かべて手招きをするのだ。

 ヒュー卿は、噴水の池や小舟が浮かぶ運河に飛び込みそうな娘の腕を、ときどき取り押さえる羽目になった。

    ノート20140326

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    004 冒険作家!

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(お初にお目にかかります、ガトルードお嬢様。私めの名前はザンギス。貴女様の執事を仰せつかりました)

 執事と名乗った男はシルクハットに燕尾服姿で片眼鏡をかけている。プルルンと張った頬、タラコ唇だ。不細工なだけならまだいい。異様なのは、上半身が人間で下半身がコブラだということだ。……仏教説話に、菩提樹の下で悟りを得ようとした釈迦を魔神から守護したとされる蛇神一族がいる。ナーガだ。ザンギスはその一族に違いない。戸口にいたそいつは、夜通し調べものをして朝方、机に突っ伏したガトルードが、半身を起こしたところに、恭しい宮廷風のお辞儀をした。その所作は、ボウ・アンド・スクレイプをしているつもりらしい。右脚を後ろに引きつつ、右手を胸にあてがいつつ、左手を横にやって宙に停める。

「残念ながら君には脚がないね」

(さようにございます。しかしこれなら)

 ワハハワハハ……。

 尻尾をバンバン床に叩きつけて笑いだした。

 思いっきり変な奴!

 ガトルードもつられて笑転げた。

 夢か幻か。

 継母フローレンスが、様子がおかしい義娘むすめの部屋に素っ飛んできて、ドアを開けた。

「ガトルード。だ、大丈夫?」

 椅子にのけぞって笑い転げていた義娘をみて少し引く。涙までだしている。

 こないだの失恋で狂ったのか。

「あっ、母上。どうなされました。……あ、そうそう、例の原稿ができましたので、読んで頂きたいのです」

 いやそうでもないようだ。

 この子は変っている。――いつものことだわ。

 継母フローレンスは当代一流の文化人だった。幼いときに実母を亡くしたガトルードは、この継母に憧れて、教養というものを身に着けた。フローレンスにとっては、自分が産んだ子供同様に可愛い娘だった。ヴィクトリア朝時代はまだまだ男尊女卑で、女性としては特異な経歴であるオクスフォード大学卒業生である義娘は誇りだ。

 暖炉の前にある椅子に座らせ、紀行文『ペルシャの情景』を読んで聞かせた。継母と義妹・二人の才媛は師弟関係にあり、女流文士は、速記を重視して誤字脱字などまるで意に介さなかった義娘の文章を、目を通せば思わず引きこまれるような流麗なものへと変えていった。ガトルードの原稿は出版社の目にとまり出版された。

 一八九三年から九六年の三年間の文芸活動は、テヘランでの失恋に沈むガトルードにとっていい気晴らしになり、完全とはいえないまでも、どん底の痛手から回復させせた。

 継母の個人レッスンで美文術をマスターしたガトルードは、『ペルシャの情景』に続いて、十四世紀のペルシャ詩人ハーフィズの翻訳を手がけた。ペルシャ旅行の直前に覚えたペルシャ語に、オクスフォード大学で学んだ、学門の方法論が加わった。膨大な引用参考文献を駆使したもので、歳をとった大学教授でもない二十代前半に過ぎない〈ボクっ〉が、いっぱしの古典文学者足りうる業績を成し遂げてしまった。

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 一八八九年一月。

 ルーマニアでガトルードに淑女教育をし、ペルシャ旅行随行も許してくれた伯母メアリー。その夫である外交官ラセルズがドイツ大使となって、姪をベルリンに招いてくれた。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、ヴィクトリアの孫で、祖母の戴冠六十周年記念の催しがいくつも用意されていた。

 伯父夫妻と従妹フローレンスに随行したガトルートは、舞踏会で、皇帝ウィルヘルム二世とダンスした。曲目は皮肉めいた『皇帝円舞曲』。皇帝は上機嫌で踊りながら若い娘とお喋りした。

「レディー・ガトルード。オクスフォード出の才媛だときく。ルーマニア宮廷で君と知り合ったという、うちのビューローが、君の著書を妻に買って贈った。知っての通り妻は詩をやっている。さすがは女流文学者でもある母君譲りの才能だって褒めておった。あとで話をしてやってくれ」

「光栄ですわ」

 皇帝はシェークスピアについても語った。

「わがドイツでは、英国よりもはるかにシェークスピアを理解している。上演回数も桁違いだ」

 国民的作家のシェークスピアを英国人が無視している。――ききようによっては祖国にむかって喧嘩を売っているようにも受け取れる。

 アンタねえ、洒落にならねぇんだよ。と、内心思いつつ、

「そういう噂も耳にしておりますわ」

 エレガントにお茶を濁した。

 五年前ならガトルードは皇帝といえども、噛みついただろう。少し大人になった。

 そのあたりの事情を知ったのか、以前、ルーマニア王国のブカレスト宮廷で無礼口を叩いて怒らせたフォン・ビューローが、伯母メアリの努力によって外見上、淑女の嗜みを身に着けたガトルードをみつけて、「見違えるようだ」と世辞をいった。

 同年四月、従妹フローレンスから手紙をもらった。それで、仲がいい伯母メアリが、ガトルードの帰国してからほどなく、突然病死したことを知り、ショックを受けながらこう思った。

 ――人生はいつ終わるか判らない。限られた時間のなかで、なすべきことをすべきだ。

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 翌一八九〇年八月。

 ガトルードはベテラン・ガイドを随行させて、アルプス山頂を目指した。

 ざっくり開いたクレパスに落っこちそうになり、命綱で宙ぶらりんにもなった。一瞬、死んだ昔の婚約者ヘンリーが幻となって手招きしているのがみえた。しかし追慕の情を打ち消すように、

 ワハハワハハ……

 下半身が蛇でガトルードの執事を自称する妄想世界の住人ザンギスが、宙に浮いて、クレパスの壁に尻尾を派手にぶつけて、笑っていた。

 崖の上にいるガイドが声をかけた。

「ガトルードお嬢様、大丈夫ですか?」

 大丈夫なわけないだろ!

 ガイドが男勝りな令嬢をそろそろと引き揚げる。

 ガトルードも、岩にしがみついて、危機を脱した。

 そしてついに山頂に立った。

 ――僕は無敵だ~っ。ワハハワハハ……。

 アルプス山頂を征服した〈ボクっ娘〉がザンギスを真似て豪快に笑ってみた。

 こうしてガトルードは女性冒険家としてだんだんと世に知られてゆくようになった。

     ノート20150328

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    005 世界一周旅行

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 大英帝国のバックアップで、東郷平八郎率いる日本連合艦隊が、日露戦争において、ロシア・バルチック艦隊を日本海の藻屑にする二年前にあたる一九〇三年。

 駅で雇った人力車の車夫はまるで自称執事のザンギスみたいな印象を受けた。

 ピョンピョン。

 乳母車のようなそれを引く小男はまさにそんな感じで路上を駆けてゆく。北欧の伝説にでてくる職人気質で小柄な種族ドワーフをラテン語っぽくいうとノームになる。ガトルードは当時の日本人をノームとあだ名した。彼女が日本を訪れたのは、日露戦争直前と直後だ。

 当時の旅行では女性の一人旅は非常識なものだった。そういうわけで、緑がかった瞳にとび色の髪をした背の高い〈ボクっ〉は、十九世紀末の一回目の旅では上の弟モーリスを、二十世紀初頭の二回目の旅では下の弟ヒューゴーをエスコートさせた。

 旅行代理店が企画する世界一周旅行の費用は一名様四百五十ポンドで、回り道のオプションコースをとったので、実際には五百ポンドくらいになったようだ。シャーロック・ホームズの時代、年収百五十ポンドもあれば紳士と呼ばれた。その三倍かかる旅費で姉弟二人で旅行したわけだ。準男爵ベル家は富豪だった。

 語学の天才であるガトルードは、第一回世界旅行で。たまたま旅をともにしていた日本人から日本語を学び、旅行するのに支障がない程度の言葉を覚えた。カリブ海や中南米北米……アフリカ・インド・中国。いくつもの国をみてきたのだが、横浜に上陸し、関東周辺の名勝地・温泉。京都・奈良一帯の仏閣をみて職人技に驚嘆し、「久しぶり」に文明をみたと日記に書いた。下関からでた船に乗ったとき、瀬戸内海に浮かぶ厳島神社をみたときの美しさに感銘を受けたりもした。

 白豪主義絶頂期で、若干だが彼女にもそれがあった。しかし当時の知識人に比べればかなり少ないほうで、好奇心が上回った。

 日本での宿舎は露天風呂があるような温泉旅館をつかうこともあるが、もっぱら、欧米人の扱いに馴れた帝国ホテルやそれに類した宿泊施設を利用した。

 下の弟ヒューゴーははっきりいって足手まといだった。靴擦れしてベソをかくし、よく食あたりもするし。……しかしホテルが準備してくれた弁当を忘れて、駅弁を買ったときは面食らった。いまでこそ欧米人にも親しまれている寿司だが、馴染のない、ちらし寿司がでてきて、ビックリして、もう一回蓋をしたことがあった。

 オクスフォード大学卒の〈ボクっ〉は、二度目の境旅行にでるまえに、なにかと小馬鹿にしていた十歳離れた下の弟ヒューゴーについて、義母のフローレンスとある賭けをした。

「母上、今回の旅で僕は泣き虫ヒューゴーを堕落させちゃうかも」

「大丈夫、ヒューゴーはたしかに弱弱しくみえるかもしれないけれど、信仰心だけは貴女よりも上よ」

 実際のところヒューゴー少年は、滞在した町で教会があれば、日曜日には必ず教会で祈りを捧げ、信仰よりも科学を信奉する姉が、「楽しいイベントがあるから一緒にきてよ」とどんなに誘っても頑としても受け付かなかった。また、長い船旅の間の退屈な時間に、旅で友人になった紳士淑女たちとのカードゲームやビリヤードといった時間外では、姉は語学学習をしていたが、弟はもっぱら聖書を読んでいた。姉はそんな弟を堕落させようと、せっせとちょっかいをだした。大したものである。

 箱根の温泉宿に宿泊し、弟が露天風呂にいっている間、読書をしていたガトルードの横に、下半身蛇でシルクハットに燕尾服を羽織ったモノグルをかけた自称執事が現れた。

(おやおや、お嬢様。なにを落ち込んでいらっしゃるのですかな?)

「ま、負けた……」

 ちゃぶ台に突っ伏す。

(高慢ちきなお嬢様。知識だけで人は支配できないのですよ)

「うるさい!」

 湯呑を投げつけるのだが、それは押入れの襖に当たってしみをつくっただけだった。さらりと避けた、蛇神ナーガ一族・ザンギスは、畳をバンバン叩きながら笑い転げていた。

 第一回の旅行においての日本では、親日家で有名なサー・アーネスト・サトウ公使と会食した。公使は考古学者でもあり、この人と会食し、東京の北にある群馬県には巨大古墳があって興味深いという話をきいた。サムライに興味をもち、勤王の志士で大臣にもなった明治の元勲の家を訪ねて日本刀をみせてもらい感銘を受けもした。

 第二回の旅行のとき日本の公使館に詰めていたオーブリー・ハバー氏と知り合った。第一次世界大戦のおり、英国がメッカ太守を担いでヒジャーズ王国を立ち上げた際、息子のファイサルに砂漠の民ベドウィンを率いさせ、トルコ帝国に対しゲリラ戦で挑ませた。ファイサルの軍師役が〈アラビアのロレンス〉ことT・E・ロレンスだ。ハバー氏にはその際多大な協力を受けることになる。……そういう出会いがあった。

 インドを訪れたのは、ビクトリア女王崩御の後を襲って即位したエドワード七世が、母親が英領インドの皇帝も兼ねていたため、そっちの式典にも顔をだすことになっていたのだ。残念ながら本人は盲腸手術のため、代理で弟を送った。

 紙ふぶきが舞っている。

 大群衆のなかを、英国騎兵隊、インド人部隊と戦象なんかが整然と行進してゆく。在インド著名人は、式典を演出した名門出で三十代の若さで総督になったカーゾン卿の悪口を言いあった。彼は若さゆえの愚かさで現地人の不興をかっていたのだ。――そのあたりにガトルードは絶頂期にあった大英帝国のかげりをみた。

     ノート20150329

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    006 エルサレム巡礼?

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 エピソードを少し遡らせる。

 フランス領にかかるアルプス山脈の西側に、西峰・中央峰・東峰の三峰を連ねた山稜・ラメージュ山は超難関ルートで一八七七年になってようやく征服された。尾根道の両横である南北側が絶壁になっている。女性冒険家ガトルードも白銀に覆われた山頂を一八九九年十一月に制覇した。

 ラメージュを下山した女性冒険家ガトルードは、フランス南部にあるマルセイユ港から、地中海を南下してトルコ・イズミル港に滞在した。そこを拠点にギリシャ・アテネにむかいエーゲ海沿岸の古代都市をいくつかみて回った。十二月になると、ロシアのオンボロ船に乗って、アフリカ北岸にあるリビア・トリポリ港を中継し、ベイルート港に上陸した。

 出迎えに来たのは見覚えのあるドイツ紳士・ローゼン氏だ。

 仲が良かった伯母・故メアリーは英国外交官夫人で、ドイツ外交官ローゼン夫妻と親しかった。英国大富豪・準男爵家の娘ガトルードは、伯母の存命のころよく出入りして淑女修行をしたもので、伯母の死後もこのドイツ外交官夫妻との交流が続き、駐エルサレムドイツ領事に任命されたローゼン氏と夫人の招きを受けて、半年ほど聖地に滞在した。当時、ベイルートからは鉄道が敷設されており、三時間でエルサレムに着くことができた。

 エルサレムは乾いた町だ。旧約聖書にでてくるユダヤ人の古都ではあるが、十九世紀の聖地の住人は圧倒的にアラビア人で、ユダヤ人が占める割合が少なかった。支配者トルコ人と被支配者アラビア人・ユダヤ人。キリスト教を信奉する欧州系外国人といったらロシア人がその小さな町に六千人も滞在していた。

 旧市街地のなかにドイツ領事館があり、そこから歩いて二分ゆくと、ホテル・エルサレムがある。白亜の壁に赤絨毯。トルコ帽のボーイが給仕する優雅なホテルだ。ガトルードは二間あるスィートルームを借り、到着して数日のうちに領事の案内で、名跡を見学し終えた。

ドイツ領事館に滞在中の日課は、一日のうち五、六時間をアラビア語学習に費やし、昼食と夕食をローゼン領事のところでした。

「レディー・ガトルード、語学教師を雇ってアラビア語と格闘中だとか。上達されましたかな?」

「どうにかホテルのボーイに指示をだす程度です。アラビア文字とペルシャ文字は似た感じですが、言語系統がまったく違い、欧州にはない発生法がいくつもあって、もう泣きそう」

「語学の天才ガトルード嬢をもってしてもくじけそうになる。……いやはや。しかし人間味があっていいですよ」

 ローゼン領事の父親も外交官で、やはりエルサレム領事をしていたことがある。そのためアラビア語は堪能だ。英国令嬢を招いたドイツ紳士が笑うと、白いクロスのテーブルに並んだ彼の家族も品よく笑った。

 ガトルードは、旅行先で、ドイツ、フランス、イタリア語、ついでにペルシャ語、日本語、インド・ヒンディー語、それに加えてヘブライ語まで修得している。登山家でもガトルートは、未登頂のアルプス山頂を征服するのと同様に、アラビア語修得にメラメラと野心を燃やした。辞書もテキストもない。現地での実践トレーニングがすべてだ。

 アラビア語学習のほかは、領事に誘われ、週に何度かドミニコ教会の修道士のもとに通って古代宗教史を学んだ。

 ヴィクトリア朝生まれのボクッは日記を毎日書く。

 師あり友であり、ときにはライバルとなり、恋人のようにさえ感じる大好きな継母フローレンスには週二、三回手紙を書いたものだ。

「母上、僕は十六ポンドで馬を買いました。欧州でも中東でも、古式ゆかしい淑女の騎乗方法は、椅子みたいに鞍にちょこんと横座りするやり方ですが、上体をひねって手綱をとるこの方法は腰が痛くなります。……聞き及びましたところ、昔、エルサレムに住んでいた欧州のとあるレディーが中東にきた際、船が難破して持参したドレスをすべて失ってしまったとのこと。仕方なく現地で男物の服を着るようになった。ついでに彼女は乗馬する際、袴乗りを始めたそうです」

 レディーは長いスカート脚をすっぽり隠すもので、男みたいにズボンを履き、股下から両脚のラインを衆人にさらし鞍にまたがるということは、古い人からいわせれば、エッチ! っていう感じの乗り方だった。

 炎天を免れるために、顔面にはミイラみたいに布をぐるぐる巻きつけた、キュロットスカートの英国淑女は三十歳を超えた独身。その人が馬にまたがった。

 ――なんて快適なんだ。横座りなんて金輪際御免だ。

旦那様スルタン、どちらへ?」

「エリコへでも」

 どこにいってもアラビア人たちがきさくに声をかけてくる。第一次世界大戦で三枚舌外交をやり、中東問題という状態をつくった英国だが、それ以前のアラブ世界では、彼の地を支配していたトルコ帝国への不満から、英国人に好感をもっていた。ことによったら、宗主国をトルコから英国に乗り換えてもよい、という空気さえも感じられたものだった。

 外出する際ガトルードが身に着けていた乗馬ズボンに近いキュロットスカートは、現地の男性民族衣装とさして変わらない。その上、アラビア人みたいな被り物までしていたものだから、若い貴婦人は女性にみられていなかった。彼女は聖地エルサレムを拠点に、ロバに乗ったアラビア人の従者一人を伴って、砂漠や高原に点在する遺跡を訪ねるようになる。

 手紙をもらうたびロンドンにある高級住宅地に住む継母フローレンスは、義娘が、宗教心からではなく考古学的興味からエルサレムを訪れたのだと悟った。また、結婚よりもそうしているほうがガトルードらしいとも感じた。

 エルサレム滞在のあと、ガトルードは、数々の冒険を支えてきた資金的なスポンサーである父親ヒュー卿を案内して地中海クルージングにでかけた。船縁で地中海をながめていると、また脈絡もなく、かつての婚約者故ヘンリー・カドガンの幻が浮かぶ。……贅沢に遊んでいるだけで生涯をおえていいのか。才媛は焦燥を覚えていた。

     ノート20150401

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