ドレスの下の歴史/ノート040
『ドレスの下の歴史』
欧米で女性地位向上運動がありコルセットは封建的な産物として槍玉に挙げられた1911-1914年。仏国女工は、百円相当の時給6~9フランで1日10時間働いた。婦人用ランジェリーは孤児院の少女たちが3フラン、女囚たちが1.5フランで手縫いしていた(83-95頁)。当時、南米のタンゴに加えて、米国の「ターキー・トロット」、「バニー・ハグ」、「ラブ・タイム」といったダンス流行、富裕層婦女子のコルセットは動きにくくなった。
第一次世界大戦が勃発すると、男たちが戦地にでかけたため、女たちが農場や工場、列車やバスの運転をする。17年には婦人警官まで登場。物資不足からスカート生地も節約して短くなり下着も簡素化、シュミーズ、コルセコルセットが廃れる。乳房を支えたコルセットの代用品としてブラジャーが開発された。補正下着はガードルが普及した。……第一次世界大戦に米国が参戦したとき、同国女性はコルセットを買うのをやめ、軍艦二隻分2万8千tの鉄鋼を節約、連合国の勝利に貢献した(99-101頁)。
前線から百キロ離れたパリに、塹壕からでてきた兵士たちが東駅を降り立つと、日暮を待って、オペラ座広場やカフェ・ド・ラペ、大通りで、小粋なパリジェンヌたちが将校たちにエスコートされて歩いているのをみた。
フロランス・モントレーノは、『女性たちの二〇世紀』の中で、「女性の救護兵や看護婦はその現代的ないでたちでセンセーションを巻き起こした」と述べ、「彼女たちは外出するとき何もかぶらず、煙草を吸った。髪は短く、パーマをかけていた。夫人衛生に関しても、新しい方法をとっていた。生理のとき、ガーゼのついた脱脂綿を使い。布製の生理帯をつけずにすんだのである」と続けた。――フランス女性は六〇年代まで使った。
ギャルソンヌ(ボーイッシュな女性)は、髪を短く切り、煙草を吸い、ズボンを履くか、より露出度の高い服を身に纏った。古代ローマ女性のような胸にまきつけるブラジャーやブラシェールを身に着けた。この下着は一枚の布からなり上下に軽くダーツがとってあって、背中で留める帯のようだった。素材も重たいレースよりもローンやクレープが好まれるようになった。……二〇年代になると、全コルセット業者がブラシェールを製造した(103-106頁)。
第一次大戦が終結した二〇年代、人々は再びダンスに熱狂した。ダンスホール、バーが続々とつくられ、初期のジャズ・オーケストラがスイングしていた。人々はぴったり密着させて踊り、目に入るのは背中だけだったので、ドレスの最中を大きく開けるようになった。ドレスの襟ぐりが深くなり、腕がむきだしになったため、女性たちは、新しい美容術を取り入れ、わきの下や脚を眉と同様にそり落とした。――当時の理想の女性は、眉目秀麗で凹凸少ない肢体、低い声で話す、グレタ・ガルボだ。
20年代にはガードル、ペチコート、パンティ、ブラシェール、シュミーズ、コルセットといった新様式の下着が出そろう。色はピンク、スカイブルー、金色、黄色みがかった薄ピンク、真紅、象牙色、シャンパンイエロー、緑がかったサックスブルー、シクラメンの薄い赤紫色、青りんご色、翡翠色、黒など、現代よりもバラエティーに富んでおり、生地も良質、手縫いだったので高級品だった。23年にブラジャー(スティアン=ゴルジュ)という用語が仏国辞書にのる。
30年代になるとギャルソンヌ・スタイルは廃れ「平な胸」は時代遅れだと新しい雑誌『ヴォートル・ボーテ』は宣言した。当時のデザイナーたちのニュー・モードはボーイッシュからフェミニンに移行していた。マドレーヌ・ヴォネのバイアスに裁断したドレス、のちのマダム・グレことアリックスのグレープは、当時の広告写真・下着〝スキャンダル〟のモデル女性のごとく、それを着て身体を動かすと流れるかのように動いた(109-111頁)。
そして新素材レーヨンの発明されるとランジェリーに革命が起った。レーヨンは、1883年、英国のサー・ジョセス・スワンが電球カーボンの素材フィラメントを発明し特許をとったとき、夫人が余興で酢酸セルロースの繊維を集め、釣り針で編んでみせた。これが人類史上初の合成繊維だ。やがて、89年、仏国化学者・実業家シャルドンネ・ド・グランジュ伯爵イレール・ベルニゴーによって製品化、パリ万国博覧会に出品され、プザンソンで起業・合成繊維の創始者となった。他方、英国ではクロス、ヴァン、ビードルの三人の化学者がレーヨンの特許を取得、ビスコースレーヨンとして大成功をおさめた。 1905年には量産が開始されるようになったのだが、大衆化するのは20代に入ってからだ。こうして庶民の女性たちが絹やサテンに似た食感のランジェリーを購入できるようになった。
1926年ブラジャーのコンセプトは、左右の乳房をくっきり分け、よりフィットしたデザインで、製造業者たちはそれを開発してゆく。ケストスの女性店長ロザリンド・クラウンは、カレス・クロスビーがしたように二枚のネッカチーフでブラジャーを作った。ケストスの製品はブラジャーの代名詞となった(112-114頁)。
ゴム製コルセットは30年代に画期となったが、盛行するのは第二次大戦後で、創始は1911年だ。「スポーツ用コルセット」が始まりとなった。30年代に盛んになったのは、自動車タイヤメーカー・ダンロップ社の功績が大きい。第一次大戦中、米国で、肉体労働をする女性用に開発され、それが、「ダンシング・コルセット」と呼ばれた。20年代のゴム質は悪く、短いものしか作れず、小さな断片を縫い付けたもので、非衛生的で着心地も悪い。〝マダムX〟の名で売られた。30年、メゾン・シャルノーもゴム製コルセットをつくった。これは穴をあけて皮膚呼吸できるようにし、少しましになり、60年まで生産された。――30年代は、伸縮する下着とそれを織る機械が登場。米ゴーサード、濠バーリー社ほか、ブレイテックス、ワーナーブラザース社も勃興。試行錯誤によりゴムにアンモニアを混ぜることで得た新素材ラステックスというゴム紐ができ、それまでの欠点を解決する。「ロールオン」のように素早く着脱ができ、英米ではコルセットの代名詞となった。
1929-38年、米デュポン社がH・カロザース博士を首班として、フェノール、水素、硝酸からナイロンを開発し、38年10月にナイロン・ストッキングを発明した。しかし、2年後、第二次大戦となると、下着部門から撤退し、テントやロープ、シートといった軍需品になった。……ゴム、ナイロンが制限されていた時代、女性はストッキングをしているかのように脚を染め、縫い目を鉛筆で描いた。またナイロンはパラシュートとなって、戦後はその形に酷似したブラジャーが生産される。40年代の理想の女性は薄化粧の女優キャサリン・ヘップバーンで、映画で大衆にアピールした。戦後、『ヴォーグ』誌が、「貴女に必要なのはウェストだ」と主張し、コルセットと長いスカートを一時的に復活させた(114-129頁)。
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所見
ロジーナ・ハリソン『おだまり、ローズ』(白水社2014年)によると第一次大戦前のアスター子爵家ではメイドが下着を手縫いしている。また第2次大戦中・戦後、クリスティーの探偵ポワロやマニクールのスパイ・ホープ嬢の小説でストッキング不足のくだりを散見する。
引用・参考文献
ベアトリス・フォンタネル著 『ドレスの下の歴史――女性の衣装と身体の2000年』(吉田晴美訳 原書房2001年)
ノート20160411