002
遺跡測量をするシナモン
岬に近い海上には二つの島があった。トリスタン島とイゾルテ島である。二つの島の名前トリスタンとイゾルテは中世の騎士物語にちなんだものである。イゾルテは、現地でイゾートと発音するのだがドイツのワーグナーの歌曲によってこちらのほうが日本では馴染み深いため、物語中でも、ドイツ語音訳を用いたい。
十三歳の貴婦人シナモンが望遠鏡で二つの島を代わる代わるのぞいたが人影はない。若い調理師夫妻の夫も望遠鏡をのぞいたがやはりみつけられない。
「ねえジョン、人が殺されたっていうのはトリスタン島? それともイゾルテ島?」
「トリスタン島だよ、姫様。男の人が棒で、もう一人の男の人を後ろから殴ったんだ。殴られた人が崖から海に落ちたんだ」
「おいっ、ジョン、エイプリル・フールはとっくに過ぎているぞ」
「本当だってばシェフ、信じてよ」
ジョンと呼ばれた少年の祖父が、「ジョンが正直者であることはシェフ、あんただって知っているだろう?」と文句をいった。調理師の妻も、「そうよあんた、決めつけちゃ駄目さ。ともかく駐在さんに報せましょうよ」と加勢した。
若い調理師は頭を掻いてから大きくうなずいた。
「判った。姫様、ひとっ走りいってきます。ジョンも来い」
早速、二人はかもめ岬の丘から麓の町へ駆け下りていった。
サー・アーネスト・サトウは、同じように望遠鏡で二つの島をのぞいてみたが、人影は確かにない。かもめ岬に近いトリスタン島は無人島だ。望遠鏡で眼を凝らさなくても、目のいい人ならば岬から丸見えである。人殺しなどあればすぐに判ってしまうだろう。犯人はこちらがみていることに気づいて、すぐに崖の反対側に隠れたというのか? それならいずれ、ボートが島影から出てくるはずだ。
町の駐在はジェイという若い巡査である。調理師と少年は、ボートでジェイ巡査とともにトリスタン島に漕ぎ出し、シナモンたちがいるかもめ岬にたどり着いたときは、もう夕刻になっていた。ジェイ巡査はシナモンたちに敬礼してから、少年の肩に手をやった。
「やはり島には、人が殺されたような痕跡はみつかりませんでした。自分もジョンが正直者であることは知っております。しかし何かの見間違いということもあるでしょうから……」
少年は傷ついたようで涙目になっている。
サトウ卿が提案した。
「今日はもう遅い。明日また調べてみるといいだろう」
捜査も、シナモンの自由研究の調査もその日は終了したのだった。老勲爵士は、シナモンの父親の友人で少しの間シナモンのところに厄介になることになっている。シナモンの実家はかもめ岬の南側で、入り江に臨んだレオノイス港を挟んだ向こう側の城ノ岬にある。城ノ岬の断崖には、文字通り中世風の城館が築かれている。その城館がレオノイス城。シナモンの実家である。
若い調理師は実に段取りがよく、昼までに夕食の下準備をしてしまうためシナモンの宿題につきあう余裕があるのだ。しかしサトウ卿の来訪については当主のレオノイス伯爵が、若い調理師に一言告げるのを忘れたため、調理師夫妻は、帰ってきてから宴の支度でてんやわんやとなり、伯爵は若い調理師にご機嫌をとるため上等なワイン・ボトルを一本贈ることになったのである。
サトウ卿の姓は、スラブ人の一派で東ドイツに住んでいたゾルブ人のものである。父親がイギリス・ロンドンに渡って、英国女性と結婚して生まれた。若いときに日本に訪れ、幕末・明治における激動の時代を外交官として過ごした経緯がある。姓が日本のものに酷似しているため、日本では洒落て、佐藤愛之助と名乗った。妻は日本人・武田兼である。
城館を訪れた老勲爵士は、そんなレオノイス城の住人たちをことごとく好きになった。
【登場人物】
レディー・シナモン/後に「コンウォールの才媛」の異名をとる英国伯爵令嬢。13 歳。
シナモン及びレイオノイス城関係者/伯爵夫妻(シナモンの両親)、
ウルフレザー家宰、老庭師夫妻、ジョン(庭師の孫)、調理師夫妻。
サトウ卿/英国考古学者・元外交官・勲爵士。サー・アーネスト・サトウ。歴史上の人物。
T.E.ロレンス中佐/アラビアのロレンス。第一次世界大戦の英雄。歴史上の人物。
オットー・スコルツェニー/後にナチスドイツ中佐となる。歴史上の人物。
ミューラー/スコルツェニーの友人。
ジョージ・セシル及び関係者/レオノイスの町の大地主(第1の被害者)。エリー(妻)、モーガン(友人)、チャールズ(従弟)、エディック(従弟)
その他/灯台守(第2の被害者)、商工会会長(劇団座長)、駐在の巡査、レザー警部(コンウォール警察)