荘園屋敷マナーハウスとカントリーハウスの違い/ノート010
荘園屋敷マナーハウスとカントリーハウス
11世紀。北欧スカンジナビア半島の海賊文明が北大西洋から地中海を席巻しつつ、欧州各地の王侯として土着していった。イングランド島においてはノルマン朝が、地元サクソン系王朝を打倒し、麾下の貴族たちがサクソン系貴族の土地を奪った。中世の土地の単位は荘園で示され、そこでは後に小作人化してゆく農奴がいて村落をつくっていた。多数の荘園を所有する王侯たちは、勲功のある家臣たちに荘園を分配した。広大な所領をもつ王侯は広大な敷地を伴う城館を建てたのだが、一つかそこらの荘園くらいしかもたぬ下位貴族たちは、分相応の中小邸宅を構えることになる。それが荘園屋敷である。貴族たちは領主裁判権があるため、屋敷には聴衆を集めるための大きなホールを必要とし、そこはまた社交場ともなった。
下位貴族は、豪族とでもいうべき地主層で、爵位がなく法律上では庶民として扱われるのだが、王侯の末裔であり、紳士である。15世紀の王位継承戦争「薔薇戦争」によって王侯が29家に減り、代わって、下位貴族が国家の職責を担うエリート層になった。ジェントルマンは19世紀ヴィクトリア朝のころは500家を数えるようになった。……書名は忘れたが、当時の紳士と呼ばれる階層の年収は、150ポンド以上が基準だったと書いてある記事を目にしたことがある。
田中良三『図説・英国貴族の城館』写真・増田彰久 河出書房1999年 4頁、
wikiほか
所見/
中世荘園屋敷マナーハウスの類義語が近世・近代のカントリーハウスだ。カントリーハウスは、薔薇戦争が終結した16世紀から第一次世界大戦が始まる直前1914年までの期間に建設されたものをいうようだ。
貴族・紳士層が地主として広大な農園を得て、そこの経営拠点として建てた城館ということではマナーハウスもカントリーハウスも同じだが、薔薇戦争以前のマナーハウスみたいなバリバリの中世封建制荘園経営拠点というよりは、近世の囲い込み運動から近代の産業革命を経て、富裕層が、ステータスシンボルとして中世的なムードを楽しむために建設した、農園付郊外型邸宅だと、私は理解している。
ホームズの「僧坊荘園」にでてくる、修道院を改装した邸宅は、マナーハウスの一種としてみていいだろう。また第一次世界大戦のころ、父方祖母からもらった遺産と文筆活動とで財をなしたチャーチルがロンドン郊外に構えた屋敷は典型的なカントリーハウスだ。