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パディトン駅は、ロンドン市・ウェストミンスター区にある。――世界一古い地下鉄を降りて、ここから西に向かうとコンウォールへ向かうことができる。鉄骨とガラスを組み合わせた、造られた当時としては斬新なデザインで、一八五一年のパリ万博で世界を驚かせた〈水晶宮〉を模倣したものである。
伯爵夫妻とその娘のシナモンは、ロンドン市内の邸宅〈タウンハウス〉から、本宅のあるコンウォール州の田舎町レオノイスに帰省うするのが恒例になっている。毎年のことなのだが、見送りにきた老修道女が、どういうわけだか、まだあどけなさの残る貴婦人を抱きしめて離さなかった。
「シナモン、何だかあなたが帰郷したまま戻ってこないような気がしてならなくて……」
汽笛がなった。相部屋のシスター・ローズが促したので、老修道女マーガレットは、仕方なく孫のような年ごろである少女を解放した。
シナモンは何度も振り返りながら手を振り、両親が座っている客車に歩いていった。
列車が軌道を西に向けて走り出しだした。
閑話余談
一九二一年制定、二三年施行の〈英国鉄道法〉により、あまたあった鉄道会社は四大鉄道〈ビック・フォー〉に統合されていた。〈ビック・フォー〉は、第一のロンドン、ミッドランドの工業地帯、イングランド北西部、スコットランドの工業地帯を結んでいた、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道 (LMS)、第二のロンドンと南西・西部イングランドおよびウェールズの大半を結んでいた、グレート・ウェスタン鉄道 (GWR)、第三のロンドンの北から東にあたる地域・ペナイン山脈の東側にあるイースト・アングリアの広大な平地部に鉄道網をもったロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER)、第四のロンドンの南側を領域としドーバー港にむかう鉄道網を支配化に置く、ビックフォーではもっとも弱小のサザン鉄道(SR)がある。
当時、ブリテン島の南に寄ったロンドン市から西のはずれコンウォール州にむかうには、エーボン州都ブリストル市経由の北回り路線と、ウィルトシャー州都ソールズベリー市経由の南回り路線とがあった。北回り路線がロンドンのグレートウェスタン鉄道で、南回り路線がサザンプトン鉄道が管轄していた旧ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道の区間だ。両鉄道はコンウォール州の東隣の州、デボン州都エクセクター市で乗りかえ、そこから先はまたサザン鉄道が管轄する旧サウスウエスト鉄道区間となる。
毎時六十二マイル(約百キロ)を誇る4073型機関車〈キャッスル〉が急行旅客列車を牽引した。機関車はブランズウィック・グリーンで、客車はチョコレートとクリームのツートーンカラーで塗装していた。車両は、一等から三等車両のほかに食堂車を備え、一等車は、個室一室あたりの床面積を広くするため、側廊を設けていた。
さて。
伯爵一家は、デボン州都エクセクター市にある駅を経由してローカル線列車に乗り換え、コンウォール州都トゥーロ市を抜け、家領レオノイスにある駅で降りた。
レオノイスの町は州の西側で、大西洋を臨んだ岬にゴシック建築の城館レオノイス城と城下の港町以外は何も述べるところがない町だった。
麓の市街地から城館にたどり着くまでにはかなりの坂道を登らなければならない。どうにか頂きにたどりつくと、城壁に阻まれる。ゆえに、内部にはいるには、北門か南門のいずれかを通ることになる。重厚な北門をくぐり抜けると、意表をつくかのように華やかな薔薇園となり、左に曲がったところにあるのが北館だ。
城の郭は、薔薇園を中心に、西にたたずむ本館と、北門・南門に隣接した南北の別館が存在する。
城の〈姫君〉はちょっとした有名人になりつつあり、少しずつ報道関係者が取材で訪ねるようになってくるようになった。
記者たちが、取次ぎの召使に声をかけると、きまって、北館にある執務室の扉が開いて燕尾服を着た初老の人物が姿を現す。
「姫様が伯爵御夫妻とお戻りになられる。――町が華やぐな」
家令が〈姫様〉とよぶ人の部屋の扉を開けると、おびただしい蔵書を収めた広間となっており、テーブルの上には、古代の壺、大理石の彫刻、青銅剣、開かれた数冊のノートが置かれていた。勉強部屋というよりは〈研究室〉だ。奥には大きな事務机があり。手前にはソファとテーブルの応接セットがある。
「私はレオノイス伯爵セシル家の家令ウルフレザー。当家は、他家とは少しばかりいささか格式が違います。他家の相続は、〈元嗣相続制〉というのがあって、御正室の若君しか爵位の相続ができないのに対し、当家はチューダー朝から続く古い家柄でして、特例によって、姫君でも相続することができるのです。レディー・シナモン。正式には、――ザ・ライト・オノラブル・レディー・シナモン・セシル・オブ・レオノイス。――いずれは伯爵家を継いで女伯となられる当家自慢の姫様で、あだ名は、<コンウォールの才媛>。聡明にして優雅。さらにお茶目なところもある。……さてさて本日は、数ある姫様のエピソードのどれを話しましょうかな」
振り返った家令が客人に微笑みを浮かべてそういった。
庭では召使たちが勢ぞろいして、その人の迎えの車が戻ってくるの待っていた。
【登場人物】
●レディー・シナモン/後に「コンウォールの才媛」の異名をとる英国伯爵令嬢。13 歳。
●伯爵夫妻(シナモンの両親)及び使用人たち
●ウルフレザー家宰、老庭師夫妻、ジョン(庭師の孫)、調理師夫妻。
●サトウ卿/英国考古学者・元外交官・勲爵士。サー・アーネスト・サトウ。歴史上の人物。
●T.E.ロレンス大佐/アラビアのロレンス。第一次世界大戦の英雄。歴史上の人物。
●オットー・スコルツェニー/後にナチスドイツ大佐となる。歴史上の人物。
●ミューラー/スコルツェニーの友人。
ジョージ・セシル及び関係者/レオノイスの町の大地主(第1の被害者)。エリー(妻)、モーガン(友人)、チャールズ(従弟)、エディック(従弟)
●その他/灯台守(第2の被害者)、商工会会長(劇団座長)、駐在の巡査、レザー警部(コンウォール警察)