003
ロレンス
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かもめ岬の麓にある劇場でリハーサルをしているころだ。夏になるとカンカン帽の少女が戻ってくるように、同じ季節、かもめ岬の頂きに現れる人がいる。
青銅器時代に構築されたストーンサクル(環状列石)は「オークルのまな板」と呼ばれる。近くには、BMWのサイドカー仕様オートバイが停められていた。石柱を環状に巡らし、その上に梁を載せた環状列石の上で輪をつくったロープを、ぶるんぶるん、と回転させて宙に投げるウェールズからやってくる男だ。
青灰色の瞳、女性的な容貌、どちらかといえば小柄。その男がいま宙に向かって投げたロープを抱きしめるようにたぐりよせ、「そーら、シルフィー捕まえた!」というと、いつの間に来たのだろう、少年二人がすぐ下に現れた。
「『知恵の七柱』の著者トーマス・エドワード・ロレンスさんですね?」
ロレンスと呼ばれた男が、石の梁の上に腰を降ろし、立てた片膝に片腕を載せ、そこにかしげた頭を載せた。
「君たちは?」
「僕はウイーンからフェンシングの親善試合にきたオッートー・スコルツェニーといいます。隣にいるのが親友のミューラーです」
「ほう、どうして僕がロレンスだと判ったんだい?」
頬に傷のある少年が笑みを浮かべて答えた。
「〈アラビアのロレンス〉、あなたの肖像は世に溢れている──新聞、雑誌、もろもろの書籍……そしてなにより、あなたの放つオーラは常人よりも強くまぶしい」
青灰色の瞳をした男は、少年たちを──正確にいえばスコルツェニーを凝視した。
「スコルツェニー君、ここにいるのは偶然ではないね?」
少年はその質問には答える代わりにこう告げた。
「あなたと親しくしている〈かもめ岬の姫君〉が、麓の劇場でレオノイス夏祭りのだしもの『トリスタンとイゾルテ』のリハーサルをしています──知っていますか、ロレンスさん。姫君がいま命を狙われているということを?」
ロレンスの目が大きく見開かれ丸くなった。
同じ頃、レオノイス川右岸に臨んで構えてある主を失ったマナー・ハウス(荘園屋敷)に、ロールスロイス・シルバーゴーストが乗りつけてきた。車から降りてきたのは白のスーツを着こなした長身の男である。男は仏頂面をした使用人老婦人の案内で、今は亡き館の主ジョージ・セシルの書斎に通された。書斎のある二階からは手入れの行き届いた庭を眺望することができ、幼少期にジョージ・セシルがシナモンのためにブランコをこしらえたオークの木もみえる。
やがて男は、書斎南東隅に置かれた白いグランドピアノに備えられた椅子に腰掛け、ワーグナーの歌劇『トリスタンとイゾルテ』の前奏曲をピアノ用に編曲したものを奏でだした。曲はイ短調和音で始まり、ハ長調となり、やがてまたイ単調へと戻っていくトリスタン和音である。二小節が終わり三小節めに入ろうとしたとき、ジョージ・セシルの夫人エリーが書斎に入ってきた。
「モーガン、来てくれたのね」
モーガンと呼ばれた男は、窓辺にもたれてエリーを抱擁し髪を優しくなではじめたのだった。
【登場人物】
●レディー・シナモン/後に「コンウォールの才媛」の異名をとる英国伯爵令嬢。13 歳。
●伯爵夫妻(シナモンの両親)及び使用人たち
●ウルフレザー家宰、老庭師夫妻、ジョン(庭師の孫)、調理師夫妻。
●サトウ卿/英国考古学者・元外交官・勲爵士。サー・アーネスト・サトウ。歴史上の人物。
●T.E.ロレンス大佐/アラビアのロレンス。第一次世界大戦の英雄。歴史上の人物。
●オットー・スコルツェニー/後にナチスドイツ大佐となる。歴史上の人物。
●ミューラー/スコルツェニーの友人。
●ジョージ・セシル及び関係者/レオノイスの町の大地主(第1の被害者)。エリー(妻)、モーガン(友人)、チャールズ(従弟)、エディック(従弟)
●その他/灯台守(第2の被害者)、商工会会長(劇団座長)、駐在の巡査、レザー警部(コンウォール警察)