002
恋に落ちた二人
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かもめ岬の麓には、石積みのギリシャ風劇場が設けられている。地形を利用した擂り鉢のような構造をしており、 斜面に設けられた観客席は上から見下ろすと扇形となる構造になっていた。シナモンの父君レオノイス伯爵と地元の有志が資金を出し合ってつくったものだ。
商工会の青年は舞台監督も兼ねていた。
「姫様、悪いですねえ、レオノイス夏祭りまであと二日、本番までちょっとしかリハーサルができません。多少のアドリブはあってもいいですよ、周りでカバーしますからね」
青年は、サトウ卿と一緒に劇場へやってきたカンカン帽の少女に、罰が悪そうに、笑った。スタッフたちはシナモンの来訪を待ちわびていた様子で、すぐに第一幕がはじまった。
昔、このあたり一帯にはコンウォール王国が存在し、慈悲深いマルク王治下、平和であった。王城には、竪琴が奏でられ、王と廷臣たちが楽しんでいたところに、突然伝令がやってきて美酒に酔う人々に冷水を浴びせかけた。
「──主公マルク王、西の海からアイルランド軍が侵入し、城近くの浜辺に船団を乗りつけました。敵将が、『われは騎士モルオルト、アイルランド一の勇者。わが母国は、コンウォールに求める。従うなら朝貢を、拒むなら剣を持参してわが前へこられよ!』と名乗りをあげて上陸したとのこと」
思慮深き王がつぶやいた。
「敵は一騎討ちを挑んでおるようだな。わが国一番の騎士で対抗せねば……」
竪琴を弾いていたのは青年騎士だった。一見すれば華奢で、剣より竪琴を携えている方がよほど似合う感じだ。その人が、軽くひとかき弦を鳴らしてから、竪琴を剣にかえて立ち上がった。
「叔父上、私・トリスタンが参りましょう」
浜辺には陣幕が張られ一騎討ちの支度はととのっている。乗りつけたトリスタンは、馬をかって、騎士モルオルトと対峙した。モルオルトは黒い甲冑を身にまとった偉丈夫、対する騎士トリスタンは銀の甲冑を身にまとった細身の青年であった。
「おとなしく属国となればよいものを、しかもこんな華奢な騎士をよこすとはコンウォールも落ちたものよな」
「コンウォールは自由だ。アイルランドの属国などにはならぬ」
双方はしばしにらみあうと、やがて、長槍を構えすれ違いざまに一撃をくらわそうと試み、衝撃でトリスタンの槍が折れた。モルオルトが不敵に笑った。トリスタンは剣を抜き、モルオルトの第二撃を剣でなぎはらい敵も剣を抜いた。幾度もの剣撃で火花を散らし、互いに血を流しながら、最後までどうにか立っていたのはトリスタンであった。騎士モルオルトの討ち死にをみとったアイルランド勢は遺体を載せて船を返した。
トリスタンの傷は深い。砂浜で倒れそうになったトリスタンに肩を貸したのはゴルヴナルという忠実な従者であった。
「トリスタン様、モルオルトは剣に毒を塗っていたに違いありません。海の彼方にあらゆる病気を治すという姫君がいるそうです。私がご案内いたしましょう」
そういって意識朦朧の状態にあったトリスタンを小舟に乗せて海に漕ぎ出した。ところが従者ゴルヴナルが目指したのは、なんと敵国アイルランドだったのだ。あらゆる病気を治すという姫君こそアイルランド王女イゾルテであった。宿敵同士、禁断の恋がここに始まる……。
リハーサルの第一幕をみていたアーネスト・サトウが、舞台監督である商工会の青年にいった。
「ワーグナーの歌劇『トリスタンとイゾルテ』とはだいぶ違うな」
「地元の伝説がベースなんですよ。一口に、『トリスタンとイゾルテ』とはいっても、いろありますからね。コンウォールの伝説は、中世以来、吟遊詩人たちが欧州各国を巡って、思い思いの弾き語りをしてきたものだから、星の数ほどのバリエーションがあります。主に、本格的な演劇は、フランスやドイツで行われ、劇作家たちが、いろいろ脚色してきました。ワーグナーだってその一人に過ぎません。つまらなかったですか?」
「いやいや素晴らしかったよ。ノーミスだ……シナモンにはこんな才能もあったんだね」 老勲爵士は、そういって喝采を贈った。
【登場人物】
●レディー・シナモン/後に「コンウォールの才媛」の異名をとる英国伯爵令嬢。13 歳。
●伯爵夫妻(シナモンの両親)及び使用人たち
●ウルフレザー家宰、老庭師夫妻、ジョン(庭師の孫)、調理師夫妻。
●サトウ卿/英国考古学者・元外交官・勲爵士。サー・アーネスト・サトウ。歴史上の人物。
●T.E.ロレンス大佐/アラビアのロレンス。第一次世界大戦の英雄。歴史上の人物。
●オットー・スコルツェニー/後にナチスドイツ大佐となる。歴史上の人物。
●ミューラー/スコルツェニーの友人。
●ジョージ・セシル及び関係者/レオノイスの町の大地主(第1の被害者)。エリー(妻)、モーガン(友人)、チャールズ(従弟)、エディック(従弟)
●その他/灯台守(第2の被害者)、商工会会長(劇団座長)、駐在の巡査、レザー警部(コンウォール警察)