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第二章 男装の伶人
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イングランドの南西に細長く伸びたコンウォール半島。先端にあるのが同名となった州である。岩場に拠た深い入江港には港が築かれおり、ときたま大都市の富豪がヴァカンスでやってきて乗るヨットやクルーザーが少し、加えて、アイルランドやフランスといった周辺諸国と交易する船舶がある。どれも小さいものばかりで数も少なく、漁船が大半を占める。港湾には倉庫、缶詰工場。そこで働く人々を相手にしたささやかな歓楽街があった。レオノイスはそういう街だった。市街地中央部にあるのが町と同名の教会。通りを挟んだ南向いに平屋となった赤煉瓦の警察署がある。
若い巡査が頭を掻きながらでてきて、シナモンが持参したバスケットを受け取った。
「姫様、すみませんねえ。こないだも頂戴していますのに──またも手作り……」
朝食の時間だ。なかに入っているのはスコーンと果物、それに紅茶の入ったポットである。巡査の表情がいまにも溶けだしそうなのはいうまでもない。十三歳の貴婦人が小首をかしげて微笑んだ。
「ところで? 灯台守のお爺さんですけれど、ご身内の方はいらっしゃるのですか?」
「孫娘が一人います。町の病院で入退院を繰り返しているのだとか。けっこう費用もかさんでいるはずです。灯台守の収入ではかなりきつかったでしょう」
シナモンは若い巡査に礼をいって立ち去ろうとするとしたとき、建物の陰から、何者かがこちらをみているように感じた。玄関先まで見送った若い巡査が少女にいった。
「どうしたんですか、姫様?」
「いいえ、なんでも……」
外では伯爵家の馬車が待っている。シナモンは怪しげな気配を感じた街角をみやってから、サトウ卿の手を借りてその馬車に乗り込もうとした。すると別な方向から声がした。
「ひっ、姫様。いいところでみつけた。助けてください!」
カンカン帽の少女が、ちょっと驚き振り返るとすぐに微笑みに代わった。情けない声をあげた主は、レオノイス商工会の幹事をしている青年だった。
「夏祭り恒例の演劇で、主役の子が怪我をしちゃいましてねえ。姫様なら去年、主役をやっていらっしゃる。ここはどうかまたお願いしたいのですよ」
サー・アーネスト・サトウが、シナモンに訊き返した。
「主役? 演目はなんだね、シナモン?」
「『トリスタンとイゾルテ』です」
「『トリスタンとイゾルテ』? ではイゾルテ役だね?」
シナモンは困ったように笑った。
「いえ……それがトリスタン役なのです」
老勲爵士は意外な顔をした。そこに商工会幹事の若者が口を挟んだ。
「イゾルテ役に見合う女の子なら、化粧でもすればなんとかなるんですがねえ。トリスタンといったら色男でしょう。適役がいないんです。去年、姫様がトリスタン役をやったら大ウケけでしてね。姫様のトリスタンをみて興奮のあまり失神した娘っ子がいたくらいですよ」
(なるほど、男装の麗人というものか──)
シナモンがためらっていると、青年はが話をべらべら話を続けた。
「連続殺人事件があって、町の人たちも不安なんですよ。ここはなんとか姫様のお添えで助けて欲しいんですよ」
「判りました。お受けいたしましょう」
(命を狙われているこのようなときに……人のよさにもほどがある)
老紳士は、カンカン帽の少女がうなずくのをみて、半ばあきれた。
【登場人物】
●レディー・シナモン/後に「コンウォールの才媛」の異名をとる英国伯爵令嬢。13 歳。
●伯爵夫妻(シナモンの両親)及び使用人たち
●ウルフレザー家宰、老庭師夫妻、ジョン(庭師の孫)、調理師夫妻。
●サトウ卿/英国考古学者・元外交官・勲爵士。サー・アーネスト・サトウ。歴史上の人物。
●T.E.ロレンス大佐/アラビアのロレンス。第一次世界大戦の英雄。歴史上の人物。
●オットー・スコルツェニー/後にナチスドイツ大佐となる。歴史上の人物。
●ミューラー/スコルツェニーの友人。
●ジョージ・セシル及び関係者/レオノイスの町の大地主(第1の被害者)。エリー(妻)、モーガン(友人)、チャールズ(従弟)、エディック(従弟)
●その他/灯台守(第2の被害者)、商工会会長(劇団座長)、駐在の巡査、レザー警部(コンウォール警察)