断罪舞踏会
「ええい、鬱陶しい! 貴様の顔など二度と見たくもないわ! 婚約はなし! 破棄! 破棄する!!」
わたくし、ネブラ・オリエンスがその声を聴いたのは、マーシュヴァリ王国の宮廷舞踏会でだった。
王国は、都にある莫大な蔵書量を誇る王立図書館と、それに付随する教育機関「アカデミー」で、世界に名をとどろかせている。数十年前に帝国に従属したが、宗主国である帝国からも、アカデミーへ留学する王侯貴族が居るくらいに、王国の学問の水準は高い。
かくいうわたくしも、帝国から王国に留学したくちだった。
三方を山に囲まれ、他国に攻めいることはあっても攻められることが稀だった王国は、内乱以外で領土が傷付いたことはほとんどない。長い歴史の間で王国の王侯貴族達、そして官僚達は、書物という形あるものを尋常ではない熱量で追い求めた。
その結果が、王立図書館とアカデミーである。そして、帝国への従属も、彼らの知識や書物への欲求からのことだった。帝国から、従属するか戦うかを迫られた時、王国はほとんど時間をおかずに従属を選んだのだ。彼らにとって、領土が大幅に侵攻されるかもしれない戦いというのは、忌むべきものだった。
何故って、書物がなくなったらことだからである。
図書館を命の次に――もしかしたら命よりも――大切にしていた当時の国王が、議会の承認を得ることなく従属を決めた。当時の国王は独断で返事をしたが、あとから報された議会はそれに一切反発せず、満場一致で事後承認したというのは有名な話だ。
そんな訳で、貴重な書物や資料、歴史的にも社会的にも意義も価値もある図書館とアカデミーは無事に、まったく傷ひとつつかずに、国外からの学生も受け容れることとなった。少なくとも、帝国領内からの学生であれば、ほぼ受け容れられる。留学するだけの費用があれば、貴族であろうと一般市民であろうと関係はない。学生達は皆、均等に授業をうけることができ、均等に試験された。勿論、宗主国である帝国の、その貴族の娘であるわたくしでも、試験を免除されたり特別に目こぼししてもらったりなんてことはない。
わたくしは帝国貴族の娘なので、学生間での階級は、かなり上だった。
学生間での、誰も口にしないが確実にそこに存在する階級は、宗主国である帝国の王侯貴族が一番上だ。
その次が、帝国内でも力のある、南方のハイアーンの王侯貴族達。
続いて、宗主国からも図書館が重宝されている、ここマーシュヴァリの王侯貴族達。今現在、アカデミーには王太子をはじめ、王子達が三人も通っている。王国では、知識や賢さは本人を構成する重要な要素であると捉えられ、男女問わず「賢い」会話ができない人間は下等なものだとみなされた。王子達や貴族の子女が機知に富んだ会話をできないのでは王国の面汚しと云わんばかり、おそろしいほどに勉強に力をいれている。
諸王国の上流階級が続き、大商人など、留学費用だけでなくその後の交際費も潤沢な留学生達がその下。運よく王国に生まれた一般学生達は、非常に肩身がせまそうにしている。
わたくしは侍女に、持っていたゴブレットを押しつけ、声の方角へと足を向けた。「お嬢さま、ヴェンセドルさまがお嬢さまを見失われます」
「かまわないわ。ヴェンセドルさまはそれくらいで腹をたてるかたじゃございません。それに、すぐに戻ればいいでしょう」
今の声は……。
今夜は宮廷舞踏会だ。夏から秋にかけて、毎週のように催されるもので、留学してきている王侯貴族はほぼ無条件に宮廷からチケットが贈られる。わたくしのもとにも、すでにシーズン終わりまでのチケットが届いていた。試験答案のように、束になって。
帝国の認める称号を持たない、商人や学者の子どもだとしても、舞踏会への参加は不可能ではない。目の玉が飛び出るような高値で売られているチケットを入手すればいいのだ。噂に拠れば、この宮廷舞踏会のチケット代は、王家の屋台骨であるらしい。王家の収入の半分以上が、シーズン中の舞踏会チケットのあがりである、なんて話もあった。そのお金がどこへ消えるのか、といえば、書物となって図書館へ収蔵されるのだが。
その、舞踏会のチケットを売って荒稼ぎしているらしい王家の、王太子が、豊かな黒髪の令嬢を睨みつけていた。王太子の腕には白金色の髪をした、瞳の美しい女性が、ぶらさがるようにしがみついている。そちらも、黒髪の令嬢を睨んでいた。
彼女はたしか、伯爵令嬢、ロビン・ボードンだ。この間の試験でトップをとった才媛である。賢いだけでなく見目麗しく、男子学生の人気が高かった。女子学生の口の端にも度々上っている。ボードン嬢のように賢く、美しくなりたい、という者は、少なくない。
さて睨まれている当の本人は、きょとんとしている。きちんと結いあげようとした形跡はあるものの、どういう訳だか崩れた髪がばさりと肩にかかり、帽子は頭の上で潰れたようになっている。しゃれたレースの手袋を何故か左手にだけつけていた。
足許を見て、わたくしは事態を諒解する。彼女は右手につけていた手袋を破壊したらしい。そこには手袋だったと覚しきものが落ちていた。ヘアピンも幾つか。
「はえ?」少々大きめの頭を振りまわすようにして首を傾げ、彼女は甲高い声を出した。「こんやくはき……ですの? みぇ? なんで?」
「貴様と喋っていると頭が溶けそうになるからだッ! 貴様のようなばかは見たことがない!!」
王太子はとどろくような声で云い、ボードン嬢が激しく頷く。まったく失礼な話である。
しかし、ばかだと指弾されたほうは、けたけた笑った。王太子が顔をまっかにする。「僕はロビンと婚約する! ロビンは貴様と違って賢いからな! 貴様は将来の王妃になど相応でない、そぐわない! これ以上貴様のような者が居てはマーシュヴァリの面汚しだ! 即刻出て行け、ウィンター!」
指をつきつけられたウィンター・リッチ嬢は、くすくす笑いながら王太子に背を向け、妖精のような軽いあしどりで大広間を出て行った。
「侍女もつけずに、このようなところでなにをしておいでなの」
バルコニーの手摺に、ウィンターは腰掛け、おそろしくないのか下を覗くように見ている。
わたくしの侍女が、幅のひろい手摺にランタンを置いた。ウィンターは可愛らしい表情でわたくしを振り返り、にっこり笑う。その顔には、疱瘡によるあばたがあった。王太子はボードン嬢の賢さを云々したが、おそらくそれは口実の一部にすぎず、実際はボードン嬢の見た目にひかれたのが大きいだろう。それならばそうと云えばいい。彼女をことさらおとしめるようなことを云う必要があるだろうか?
「ネブラ、お顔がかたい」
わたくしはその言葉で、眉間にはいっていた力をぬいた。いけないいけない。わたくしが腹をたてているのは、王太子に、だ。ウィンターにしかめ面をしても意味はない。
ウィンターはわたくしのことをそれ以上気にした様子はなく、虫のような動きで器用に向きをかえた。ドレスの裾にはかぎ裂きがあるが、彼女の侍女達はそれをどうにかするつもりはないようだ。彼女に侍女が存在するとして。
ウィンターはあばたの残る顔で、にっこり、実に気持ちよく笑った。「ここから下を見ると面白いの。ひとがありみたいにぞろぞろ移動してる。馬車にのりこむのが、虫がとかげに食べられてるみたいなんだよ!」
ウィンターは、名前の通り冬生まれであるらしい。彼女には妹がふたり居るが、驚くべきことに「オータム」と「サマー」だ。どっちもわたしと違って賢いけど、とウィンターはくすくす笑っていた。
ウィンター・リッチを充分に表現しようとすれば、おそらく二千語ほど必要になる。無理にひと言で表現するとすれば「愚か」だろう。ふたことまでならゆるしてもらえる? であれば、「愚か」で「下品」だ。
少なくとも、王国の社交界において、ウィンターはそういう評判を得ていた。
愚かであっても好かれる者はある。がしかし、彼女は多くの王国貴族から、避けられていた。王太子の婚約者なので、誰も面と向かってばかにはしなかったが、これ以降はどうなるかわからない。王太子が公衆の面前で彼女を罵倒し、婚約を破棄したから。
ウィンターはまったく、破格のひとだった。
まず、令嬢らしくない。ダンスをすれば息が切れるほど踊り、笑いすぎて失神するし、男のように走りまわり、髪を振り乱して遊ぶ。普通のご令嬢のように、甘いものや可愛らしいものには興味を持たない。アカデミーに在籍しているが、成績は非常に悪かった。
彼女は山野での遊び、なかでも特に釣りが好きで、このところはナマズにご執心だった。ドレスを汚すという理由で両親にこっぴどく叱られ、それでも釣りをはじめとした野山での遊びをやめないので、都で暮らしていくのに必要最低限の援助まで打ち切られたほどだ。
彼女の両親には同情する。おとなしい下の娘達と違い、長女のウィンターはどこまで行ってもウィンターだった。
並みのご令嬢なら、援助が打ち切られたら両親に謝り、なんとかご機嫌をとろうとする。しかしウィンターは、「要らないから」と宝石や装飾品を売り払って都での生活を続け、それも厳しくなってくると残り少ないお金を競馬につぎ込んだ。
それで、彼女は大勝ちしたのだ。「一番元気がいい馬に賭けた」とは彼女の言だが、彼女のその野生の勘は、銀貨一枚を何箱もの金貨にかえた。彼女はそれからしばらく、「可愛い」「元気」「強そう」などの理由で馬に金をつぎ込むのにはまっていたが、邸に金貨の箱をしまう場所がなくなったので競馬を辞めた。彼女自身はまだやりたいらしいのだが、金貨を運ぶのにもお金がかかるしひとを雇うのって面倒だし、と不満げだった。
ウィンターがどうして、そこまでして都に居たいのか、といえば、都にはナマズ含む魚がうようよしている大河があり、毎夜のように舞踏会が開かれるからだ。
彼女は釣りと、ダンスに、血道を上げていた。釣り竿は数え切れないほど持っているし、ダンスシューズもそれ用の部屋があるほど揃えている。ドレスも、動きやすい特別製のものをあつらえていた。なんでも、彼女の地元では舞踏会はめったに開かれるものではなく、社交場もないに等しくて、ダンスをする機会はほとんど訪れないのだという。王太子の婚約者として、踊れる相手に制限はあるものの、ダンスをできない地元と比べたら都は天国のような場所だそうだ。
わたくしはバルコニーに用意されている椅子へ腰掛け、ウィンターは手摺の上で寝そべった。
「どうするんです、ウィンター?」わたくしは侍女に手を振り、侍女のひとりがお辞儀して走っていった。「これからアカデミーに居づらいのじゃないですか」
「もともと居づらいよ。いつもびりっけつだし。ウィンターはおばかさんなんです」
ウィンターは芋虫のような動きをして、くすくす笑う。
「笑いごとではないのですよ」
「みゅー」
彼女は不満げな猫のような声を出すと、ぐるりと寝返りを打った。残っている侍女がひっと息をのむが、ウィンターは手摺から落ちはしない。
「ウィンター?」
「わたしは釣りとダンスができればそれでいいのっ」ウィンターは体の力をぬき、四肢をだらんと垂らした。「これで、誰とダンスしても文句云われないし、丁度いいじゃん?」
どうやら本気で云っているらしい。わたくしは笑ってしまった。
わたくしの笑い声で、ウィンターは上体を起こし、にこっとした。侍女があたたかいお茶を持って戻ってきて、ウィンターは手摺を飛び降り、わたくしの斜向かいへ座る。「ミルクいっぱいいれてね。お砂糖はなし」
「はい、ウィンターお嬢さま」
「ネブラ……」
掠れた声に目を向けると、わたくしの婚約者、ヴェンセドルさまがのっそりとやってきた。背後には、疲れた顔のチェスナット・ウォーターホイールが居る。
ウィンターがぱっと席を立ち、ヴェンセドルさまの手をとった。ヴェンセドルさまの顔から緊張が抜け落ち、表情が華やぐ。「やあ、ウィンター、ここに居たのか?」
「うん!」ウィンターは至極嬉しそうだ。「ヴェン、丁度お茶があるよ。ミルクはいってるけど、飲む?」
「君をさがしてたんだ……ああ、君とネブラを」
「気を遣わなくって宜しいですわ」
わたくしは笑ってしまって、なんとか笑いをおさめようとするのだが、うまくいかない。ヴェンセドルさまは決まり悪そうに頭をかいた。ウィンターはあばたの残るあどけない顔を十割の笑みにして、ヴェンセドルさまをひっぱる。ヴェンセドルさまはすぐに微笑みになって、ウィンターと並んで座る。
チェスナットは、ふたりの様子にくすっとして、眼鏡の位置を直した。彼はウィンターのはとこで、都生まれ都育ちの学生である。ウィンターの親族は安直な名付けをする傾向にあるようで、彼の場合は生まれてすぐにチェスナット製のおもちゃを片時もはなさなかったから、それを名前にしたのだそうだ。
賢く、成績もいいが、砕けたところのある人物で、親戚中から厄介者認定されているウィンターと、彼だけは親しくしていた。チェスナットは、ウィンターと同じく釣りをたしなむのだ。なので、彼女がそれに夢中になる気持ちもわかるらしい。
結局、チェスナットがわたくしの隣に腰掛けた。侍女達はその席順に不満そうだが、わたくしは手をひらひらと振る。「ヴェンセドルさまとチェスナットになにか、甘いものを持ってきて。おいしいケーキがあると、さっき殿下が自慢してらしたから、それがいいのじゃないかしら」
「かしこまりました」
「あなたはお茶をもらってきなさい」
「はい」
侍女ふたりを追い払うと、わたくしは息を吐いて、扇で顔を仰いだ。「ああ、これで少しは楽ですわ。チェスナット、あなたは甘いものがお好きでしたわよね?」
「ええ、オリエンス嬢」
ウィンターがくすくす笑う。可愛らしい様子に、こちらまで笑ってしまう。まったくもって、王太子はばかだ。あれこそ真性の愚か者だろう。ウィンターのように明るく、朗らかで、裏表のない素晴らしい女性を、あのように口汚く罵るなど。
「君がなにか、厄介なことになっていると聴いたのだけど」
ヴェンセドルさまはウィンターの手をとって、彼女の目を覗きこむ。ウィンターは目をきらきらさせて、ヴェンセドルさまを見ていた。「大丈夫だよ。なんでもないの」
「ほんとうに?」
「うん!」
ウィンターはまったくもって、真剣に、ヴェンセドルさまを見詰めていた。彼女はヴェンセドルさまの「顔が好き!」なのだ。彼の婚約者であるわたくしに堂々とそれを云うような、屈託のないウィンターを、わたくしはきらいになれない。
というよりも、好きだ。彼女のような気持ちのいい女性もめずらしい。それに、後ろ肢で砂をかけるような真似をした王太子には、天罰でもくだればいいのにと思っている。そううまくいかないのが、世の常と云え……。
ヴェンセドルさまがわたくしを思い出したようだ。気遣わしげに云う。「ネブラ?」
「はい、ヴェンセドルさま」
「なにがあったのか、聴いてもいいかな。俺は、王太子殿下が、彼女になにかその……失礼なことを云ったと……」
「なんでもないよ」ウィンターはきょとんとしている。「ばかだっていわれただけ。ウィンター・リッチがばかなのは誰でも知ってるもん。そんなこと今更指摘してもかしこくも偉くもないよね」
ウィンターが実に淡々と云い、わたくしは笑ってしまった。ヴェンセドルさまとチェスナットも微笑んでいる。
ウィンターは「夜釣り!」と、唐突に会場を去ってしまった。使用人部屋で賭けに興じていたらしい侍女と従僕が一緒だ。彼女は親につけられた侍女は釣りを阻止しようとすると遠ざけ、釣りや山野での遊びに喜んでついてくる者達をあらたに雇った。その者達は、釣りや野営にはくわしいが、社交界のマナーにはくわしくないし、ウィンターがそれを求めていない。
「どうですの?」
「うん?」
ケーキをひたすらつついているヴェンセドルさまは、びくっと顔を上げた。彼はケーキをつつくものの、なかなか口へ運ばない。チェスナットはウィンターがバルコニーから居なくなった途端、微笑みを消し、険しい表情でマグを掴んで黙りこんでしまった。
わたくしが微笑んでいると、ヴェンセドルさまは慌てたみたいにもごもごと云った。
「いや、あの、本当に君もさがしていたんだ……」
「そうではありませんわ。ケーキは、殿下が自慢していたくらいおいしいのですかと訊きたかったのです」
ヴェンセドルさまはもごもごとなにか云い、ぼろぼろになったケーキを口へいれた。「……うむ、うまいよ」
「あら、それじゃあわたくしも戴こうかしら。適当に見繕って、持ってきて」
「はい、お嬢さま」
侍女がひとり居なくなる。もうひとりは、ちょっとしかめ面で、ヴェンセドルさまのマグにお茶のおかわりを注いだ。以前はストレートティしか飲まなかったヴェンセドルさまは、最近ミルクをたっぷりいれたお茶をよく飲んでいる。誰かさんの影響だろう。
侍女がテーブルを離れると、チェスナットが素敵な低音を響かせた。彼は歌手も顔負けの素晴らしい咽をしている。「ウィンターに対して、ろくでもないことをしてくれたものですよ」
王太子のことだ。ウィンターが去ったあと、わたくしはふたりに、自分がみききしたことを伝えた。ヴェンセドルさまは顔をまっかにして怒っていたし、チェスナットは反対に顔をまっさおにした。話を終えると、ふたりはどちらも段々と、いつもの顔色に戻ったけれど、どちらも怒りや不満を隠そうとはしない。
わたくしはチェスナットの様子をうかがいながら、お茶をすする。テーブルにはカードをひろげていた。誰かが来ても、カードゲームに興じていたといいわけがきくからだ。
チェスナットは眼鏡の位置を調え、脚を組みかえた。眼鏡をかけている男性はめずらしくもないが、チェスナットはそのなかでも一番男ぶりがいいだろう。しっかりした輪郭と、鋭い目は、じっと見ていると蕩けそうになってくる。彼の素敵さをわからない令嬢が多いのは、一体どうしてだろう? 不思議で仕方ない。
ヴェンセドルさまが咳払いした。
「婚約が……解消されること自体は、めずらしくもないのだろう」
「ええ。ですが、このような話はめったに聴きません。うら若い令嬢を傷付けるような方法をとる必要はなかった。誰にもね」
その点はまったくもって、チェスナットと同意見だった。わたくしが頷くと、ヴェンセドルさまも大きく頷く。
侍女が戻り、テーブルにはちいさなばらをかたどった砂糖菓子を飾ってあるケーキが鎮座した。わたくしは砂糖菓子をつまみあげ、口へ含む。ばらの香りが鼻へぬけた。
ヴェンセドルさまが席を立った。
「すまん、少し庭を歩いてくる」
「供をしましょう」
「いや、君はネブラをまもっていてくれ」
ヴェンセドルさまはそう云って微笑むと、大広間へと戻っていく。
砂糖菓子をもうひとつ、つまみあげた。チェスナットへさしだすと、彼はようやくと表情をゆるめる。苦笑、だが。「オリエンス嬢、わたしに対してそのようなことをするのは、控えられたほうがいいと思いますが」
「あら、どうしてですの?」
「下らん噂を立てるものがあります」
「噂に振りまわされるほうがくだらないのではございません? あなたはそういうくだらない人間ではないと、わたくしは思っています」
チェスナットはくすくす笑って、砂糖菓子をソーサーでうけた。
わたくしはケーキのクリームを、匙で掬い、舐める。甘くて、レモンの香りがした。王国ではレモンはほとんど採れないから、他国から輸入している。このレモンも、ハイアーン産のものだろう。
ふと視線を感じて、チェスナットと目を合わせた。彼は眼鏡のレンズ越しに、鋭くわたくしを見ている。「あなたはウィンターを好いているんですか? できれば、本音を聴かせてもらいたいんですが」
彼はウィンターを大切にしているのだ。無邪気で可愛らしいはとこを。
そのことに嫉妬を覚えた。ずっと嫉妬している。ウィンターに。彼女に。
わたくしは頷いた。自然と声が低くなる。「彼女のようなひとをきらう人間はばかよ。わたくしだって、あなたに心配してもらえる彼女に嫉妬しているのに、きらいにはなれません。あのようなひとを貶めようとする人間には、どこの神でもいいから天罰を下してくれればいいのに。そうしたらわたくしは、その神のいけにえになったって宜しいわ」
彼は驚いたみたいに片眉を上げ、それから低く笑った。肩がかすかに上下している。
「あなたはかわったひとだ、オリエンス嬢」彼は眼鏡を外し、丁寧に手巾で拭って、もう一度かけた。「それじゃあ、あなたにはいけにえになってもらいましょうか」
その声には、なにかわくわくするものが含まれていた。わくわくする企みが。
「ネブラ・オリエンス嬢、僕と結婚してください」
王太子とウィンターの婚約の解消、そして王太子とロビン・ボードン嬢との婚約が発表されてひと月のち、わたくしは宮廷舞踏会に来ていた。
勿論、婚約者であるヴェンセドルさまが一緒だ。そして、最近「釣り竿をつかわない方法もあるんだよ!」と川にはいってナマズのすみかに手をつっこむという令嬢どころか文明人らしからぬ釣りを楽しんでいるウィンターも、わたくしがどうしても来てほしいと頼んだので、お気にいりのダンス用ドレスとシューズでやってきていた。
彼女の思惑どおりには、社交界は動かなかった。王太子と婚約を解消した彼女は、多くの王侯貴族がダンスの相手に選んでくれなくなったのだ。折角誰とでもダンスできると思ったのにと、彼女は不満たらたらで、王侯貴族主催の舞踏会にはこのところ姿をあらわさなかった。商人達でも出入りするような社交場へ行っては、体力自慢と夜通しダンスをし、ダンスをしない日には釣りを楽しんでいる。
ウィンターは先程まで、王国社交界の影響をほぼ受けない、ハイアーンの老伯爵と楽しそうにダンスをしていたのだが、ざわめきが耳に届いたようで、伯爵と腕を組んだままやってきた。伯爵はわたくし達に目をとめ、おっという顔になってお辞儀した。ウィンターは彼に断って腕を解き、わたくしの前まで心配げな顔で歩いてくる。
「チェスナット、どうしたの?」
「ちょっとね」
わたくしの向かいには、チェスナットが居た。微笑んで眼鏡の位置を調える。「オリエンス嬢に結婚を申し込んでいた」
「え? ネブラはヴェン……セドルさまの、婚約者でしょ?」
ウィンターが不安そうに、わたくしを見る。わたくしは頷いた。わたくしの隣に立つヴェンセドルさまも。彼はらしくなく、険しい表情をうかべている。
「スピナー卿」
スピナーというのは、チェスナットの爵位だ。彼は王国の侯爵位を持っている。「君は、俺とネブラの婚約に異を唱えるつもりか?」
「ええ」
チェスナットが臆面もなく認め、周囲がざわめいた。ウィンターが不安げに、チェスナットの腕を掴むが、チェスナットは乱暴にそれを振りほどいた。「まったくもって、不満があります。オリエンス嬢はあなたに相応ではない。そぐわない」
「ちょっと、チェスナット?」
「こんな話は聴いたことがない」
ヴェンセドルさまがぎこちなく云い、チェスナットは声を高くした。
「ええ、本当にそうですね。ですが、わたしは彼女を愛しています。あなたよりも愛していると断言できます」
ざわめきが停まらなくなった。大広間中のひとが集まってくる。チェスナットが云ったことが伝わっていき、その誰もが驚いているようだった。だが、誰よりも驚いたのはウィンターだろう。ぽかんと大口を開け、わたくし、ヴェンセドルさま、チェスナット、と視線を移動させる。
「ええと……つまり……どういうこと?」
チェスナットが素敵な声を響かせて笑った。
人垣のなかに王太子とボードン嬢を見付け、わたくしは咳払いする。
「ヴェンセドルさま……」
「う、うむ」
「ねえ、なんのはなし? ネブラとヴェンは結婚するんでしょ?」
わたくしは頭を振る。「チェスナット、あなたのお話を受けます」
王太子が顔色を失ったのが見えた。彼はお客達を搔き分けてやってくるや、叫ぶ。「スピナー卿、なにをばかなことをしている!? 貴様、相手が誰だと思っているのだ!」
「存じていますよ」チェスナットは実に冷静だった。「オリエンス嬢は、帝国公爵の娘で、ハイアーン王家の血をひいてらっしゃる、高貴なかたです。ですが、我らの結婚に障害はない筈」
「そのようなことは云っておらん! 皇帝陛下の弟君の婚約者を奪うなど……!」
「監督不行き届きだな、王太子」
皇帝陛下の弟で、次期皇帝として指名されているヴェンセドルさまが、ひややかに云う。ざわめきはすうっとおさまった。
わたくしはヴェンセドルさまからはなれ、チェスナットの腕をとった。彼はにやっとするが、すぐに表情をひきしめる。わたくしは声を張り上げる。「申し訳ございませんが、ヴェンセドルさま、婚約は解消させて戴きます」
「オリエンス嬢!」
王太子が悲鳴をあげる。それから思い出したように、ウィンターを見た。「ウィンター! 貴様の一族は王家に迷惑をかけることしかしないのか!」
「え? みゃ、えっと、だって……ええと、チェスナット、ネブラのこと好きなの?」
混乱気味のウィンターに、チェスナットはこっくりと頷いた。わたくしはチェスナットの腕をぎゅっと掴み、ウィンターを見る。「わたくしも彼を愛しているわ。ウィンター、祝福してくれませんこと?」
「ええ? えーと、じゃあ……おめでと。よかったね!」
ウィンターがにっこりした。王太子が口をあんぐり開ける。
ごほんと、ヴェンセドルさまが咳払いする。「こんなにはじをかかされたことはない」
「こ、皇太弟殿下……」
「君のお国では、婚約をこういう場で結ぶのがはやっているのか? 乱暴に解消したのちに?」
王太子が震えている。ヴェンセドルさまがそれを睨んでいた。チェスナットは眼鏡をくいっと動かし、かすかに笑みをうかべた。
「王太子殿下の振る舞いに勇気を得たと云っても差し支えはないでしょうね。でなくば、このような場で高貴なかたへ求婚する勇気は出なかったでしょう。殿下の勇気ある行動に敬意を表明します。わたしに勇気を与え、オリエンス嬢との仲をとりもってくれたのですから」
チェスナットが「勇気」と云う度に、王太子の顔色が悪くなっていった。ヴェンセドルさまは目をぎゅっと細くして、それから目をはなさない。
「ああ……臣下は主君のありようを手本とするもの。成程、君は臣下に慕われているらしい」
王太子はぶるぶると震え、もはや言葉もない。ボードン嬢がその腕をとり、誰へともなく頭を下げた。もごもごと云う。「どうぞ、ご勘弁を……」
「君達は臣下の不始末をどうするつもりだろうか」
「殿下!」
あたふたとやってきたのは、マーシュヴァリの国王だ。王太子によく似た顔に、恐怖を貼り付けている。本好きの皇帝の弟が留学してくるだけでも充分頭痛の種だろうに、臣下がその婚約者を奪いとったのだ。帝国との関係にひびをいれかねない。
ヴェンセドルさまは実に居丈高にいいはなった。
「マーシュヴァリ国王、君の侯爵がわたしの婚約者を奪った。なにか申し開きは?」
「すっ、スピナー卿、なんてことを!」
「彼を責めるのは筋違いではないか。彼は王太子のやりようをまねたのだ。相応でない婚約を解消するという方法を」
国王の口があんぐり開いた。国王は、王太子とウィンターの婚約解消を認めたのだ。その際、ウィンターにはじをかかせたことを詫びもしなかったし、ウィンターの家に謝罪することも、慰謝料を払うこともなかった。ウィンターの名誉をずたずたにしておいて。
ヴェンセドルさまの見せている怒りはほんものだ。
「君はわたしに詫びる意思があるだろうか……?」
国王が口をぱくぱくさせる。ヴェンセドルさまは頷いた。「勿論、あるだろうな。では、君の臣下をひとりもらおう。ウィンター・リッチを」
バルコニーで、ウィンターはむくれ、ミルクたっぷりのお茶をすすっている。隣にはヴェンセドルさまが座って、彼女の手と云い肩と云い、撫でさすっていた。ウィンターはパン生地のようにふくれあがっている。
「仲間外れ。ひどい」
「仕方ないだろう。君はああいうことをきらう。違う? ウィンター。君に反対されると思ったんだよ」
チェスナットは笑い含みに云い、ストレートティを飲み干した。「おかわりを」
「かしこまりました、卿」
にこにこ顔のわたくしの侍女が、マグへお茶を注ぐ。ウィンターはヴェンセドルさまを見ていたけれど、ぷいと顔を背けた。
「ヴェンをきらいになりそう」
「ええ? そんなことを云わないでくれよ、ウィンター」
「そうですよ、ウィンター。ヴェンセドルさまは、あなたと婚約するのを、誰にも邪魔されたくなかったの。ああすれば、誰からも異議はないわ。それに、あなたにはじをかかせたひと達に、ご自分の行動を顧みる時間を与えたのよ」
ウィンターはお行儀悪く、両肘をテーブルへつく。「頼んでないもん。別に、はじでもないし。おうたいしのことは好きでもないし、キモチワルかったから丁度よかったんだもん。チェスナットやヴェンがみんなにきらわれるようなことしなくてよかったよ」
「あなたは温厚ね」
わたくしは呆れてそう云った。彼女は随分、心がひろい。「余計なことするひまがあったら釣りに行く……」
「まあ」
「ウィンター、俺と婚約するのはいやかい?」
「……それはいいよ」
ウィンターはにこっとして、ヴェンセドルさまの鼻をつついた。「ヴェンはお魚に似てて可愛いから、好き」
すでに、わたくしとヴェンセドルさまの婚約は、解消してあった。内々にだ。皇帝陛下に報せ、ゆるしは得ている。ヴェンセドルさまがウィンターと婚約することも、陛下は認めてくださった。ヴェンセドルさまがウィンターのことを、折に触れ、お兄さまである陛下へお手紙で報せていたからだ。
わたくしとヴェンセドルさまの婚約は、まったくもって便宜的、政治的なものだった。そこには愛情は介在しない。いや、友人に対するような愛情ならたしかにあったけれど、それだけだ。わたしとヴェンセドルさまには、恋愛感情はなかった。
そして、ヴェンセドルさまの前にウィンターがあらわれた。子どものように野山を走りまわり、ダンスに興じ、釣りを楽しむ彼女を、ヴェンセドルさまは愛し、わたくしはそれに気付いていた。そして、悔しいとも思わなかった。ウィンターは愛さずには居られないひとだから。
どうにか、ヴェンセドルさまがウィンターと婚約できないかと、わたくしは以前から考えていた。だが、ウィンターは王太子の婚約者だった。幾ら皇帝の弟といえ、従属国の王太子の相手を奪うなど、そんな文明的でない行動はできない。
それを、王太子自らが潰してくれたのだ。
「まるくおさまりましたね?」
「ええ……」
ウィンターは皇帝の弟の妻になる。もはや、誰も、彼女が釣りをすることや、ダンスに興じていること、粗野な侍女をつれていること、髪を結わずつぶれた帽子を頭にのせていることを咎めない。皇帝の弟に文句を云うのと同じだからだ。先程、帝国の都のすぐ近くにも川があると聴いて、ウィンターは嬉しそうにしていた。
わたくしとチェスナットはバルコニーに残り、ヴェンセドルさまとウィンターは庭へ降りていった。わたくし達の居る場所から、ふたりが星明かりを浴びてダンスをしているのが見える。ウィンターは随分元気だ。はねとび、くるくるとまわっている。
「いいのですか、僕で」
「え?」
ふたりから目を逸らし、チェスナットを見た。彼は戸惑いがちに微笑んでいる。「あなたは僕と結婚することになってしまいましたよ」
「そのようですね」
わたくしは苦笑いする。
「今度の舞踏会で婚約を破棄されなければいいのですけれど」
「まさか。……あなたがいやなら、なしにできますが?」
「それこそ、まさか、です。いやなものですか。破棄なんて、絶対にやめてください」
頭を振るわたくしに、彼は頷く。
「勿論、あなたにはじをかかせるつもりはありません。ですが、納得しているのかどうか」
「納得? わたくしは自らの意思で、あなたの求婚を受け容れたのですよ。たといそれがかりそめのものであっても、わたくしはこの婚約にしがみついて、はなれません。絶対に」
「しかし、それは、あなたのウィンターとの友情ゆえに……」
わたくしは微笑んで彼を見詰めている。彼の表情には多分に、困惑が含まれていた。徐々に、別の感情もまざっていく。喜んでいるように見えたのは、わたくしの目の迷いだろうか。
彼は数回、しばたたき、ぎこちなく云った。
「もしかしたら、あなたは友情から、わたしの話をのんだのではない?」
「チェスナット・ウォーターホイール、あなたはとても賢いのに、どうしてわたくしの気持ちには気付かないのですか」
「それは」チェスナットは大きく息を吐くと、ははっと笑った。「あなたに対しても云えることだ。ウィンターをだしにして、あなたに求婚した意気地なしの僕でも、ゆるしてもらえますか? 僕はあなたの夫に相応しいだろうか」
それは、わたくしが求めていて、けれど聴けないと思っていた言葉だった。わたくしは彼の手をとって、わたくしはあなたがいいのです、と云った。