第九章 覚悟を決めて
「おや時間だ。あんたの知り合いが来るよ」
須磨のババアに言われるまで、夢姫は気付かなかった。
たしかに、索敵は今後の課題だと思い知った。
警醒偸だ。夢姫に接近を察知されぬよう、サイレンを鳴らさずにやってきたのだ。
だが、体育館で覚醒したあの日以降、夢姫の感覚は日に日に研ぎ澄まされている。
この感じはいつもの若造だ。
どうせまた、かっちりしたスーツ姿で、青い瞳をらんらんと光らせているに違いない。
「ねえ須磨さん」
「ん、なんだい」
夢姫は最後に、須磨にある願いごとをしたという。
詳細を尋ねたが、夢姫は、これだけは頑として話そうとしなかった。
俺は人っ子一人いない夜道を、街灯や信号機がダブって見えるほどかっとばし、泥夢の元へ急いだ。
広島城の堀の周りには、歩道に沿うように街路樹が植えられており、車からは一目見て様子がわからない。タイヤのゴムを溶かしながら急停車し、覆面から飛び降りた。
薄々嫌な予感はしていたが、歩道の手すりを飛び越えたころには確信に変わっていた。
広島城の堀へ突入すると、予想通り、そこには亀裂の入った広島城を眺める須磨律子しか残っていなかった。
背中に巻き付けたヴェールをそよ風にはためかせながら、須磨は優雅に堀の縁に腰掛けていた。
カワウソの毛皮ように滑らかなチャイナドレスが、三日月の下で淡い銀色に光っていた。
夢姫は夜道をすたすたと歩いて帰った。
自分以外には電球の切れかけた街灯しかない、暗い道を。
おんぼろアパートの階段はついに歯抜けになった。残された板も、夢姫程度の体重で悲鳴を上げるようになった。わかりやすく言うと、ミシミシ、ではなく、メリメリッ、に変わった。
早く直して欲しいと、最近の悩みの種になっていた。
そうでないと、起こしてしまうのではないかと不安になるからだ。
だが、夢姫はもう恐れなかった。
「遅かったじゃないか」
俺の気配を感じ取ったような素振りで、わざとらしく須磨は挨拶した。
神野を捕まえるため、俺はいつでも全力だった。
この時も、眉毛の先に汗の粒をためるほど走りまわり、現実世界では出せない速度で車を操り、ここまでやってきたのだ。
その結果がこれだと?
呼んでもいない調律師が一人。だいたい、俺は須磨律子という女だってそこまで信用しちゃいない。
東洋最後の調律師ともてはやされているが、こいつは神野とも、その先代の神崎とも親交が深かった。
得体の知れないババアだ俺に言わせれば。
「……神野右蛻はどこにいる」
俺は須磨の背中を睨みつけた。
「神野ぉ?」
須磨は顔だけで振り向くと、小ばかにしたように笑った。
頭に乗せた帽子と同じように口をひん曲げるものだから、俺はすぐさま頭に来た。
「調律の依頼はしていないはずだ。あなたも不法寝入に」
「どうせあんたらが依頼してくる。先に来てやったんだ、礼の一つでも言ったらどうだい」
「ならばなぜ、神野右蛻を見逃した」
俺は苛立ちを隠さずにぶつけた。
須磨律子は腰をねじり、俺の方をまじまじと見た。
紫の瞳が、俺の体にまとわりつく汗を一粒一粒全て数えるかのように、じっとりとそそがれた。
まるで神の審判を受けているような錯覚に陥った。自分が死ぬほどちっぽけな存在になったような気がして、怖くなって右足を一歩引いた。
「あえて言うなら、それは私の仕事じゃあ、ない」
須磨の言葉は真をついていた。
「自分の未熟さを人のせいにするのはやめな。みっともないよ、戸田の息子」
足りないのは実力だけではなかった。俺は認めざるを得なかった。
須磨は膝に手をついて立ち上がると、長い袖を夜風に舞わせながら、チャイナドレスについた泥をはたいて落とした。
「付け加えて言うなら、神野じゃないよ」
「なっ――」
それだけ言い残すと、須磨はその場で回転し始めた。
回転と言っても、フィギュアスケートの選手のように回るのではない。
へそのあたりを中心として、頭が右に倒れ、つま先が左に持ち上がり、回転した。
回転のスピードはぐんぐん上がり、須磨の体がS字に歪み始めた。
バン!と大きな音がしたので見上げてみれば、広島城の天守閣に、夢追人がいるではないか。
夢追人はちょうど、六法のように分厚い本を閉じたところだった。イライラしているのか、羽ペンの先で、カラスマスクのくちばしをガリガリと削っていた。
「まっ……待て!」
須磨の方は、栓を抜かれた湯船のように、背後の空間に吸い込まれていった。やはり、へそが中心だった。
「ジンノとは、いったい誰のことだ!?」
俺は慌てて手を伸ばしたが、須磨はしゅぽんと、ボジョレー・ヌーヴォー解禁に匹敵する清々しい音で、きれいさっぱりこの世界から消えてなくなった。
「もたもたするからさ」
須磨律子の残した言葉が、神の啓示のように俺の夢に響き渡った。
201号室の鍵は開いていた。
いつだってそうだ。
夢姫は事もなげにドアノブを捻り、ずかずかと室内に足を踏み入れた。
中は真っ暗で、夢姫の後ろから星の光が差し込む以外、何の灯りもなかった。
夢姫は全ての靴を蹴散らして、重たい学生カバンを台所の床に放り投げた。床板にヒビが入ったが、お構いなしに、むしろ踏み抜く勢いであがった。
ゴミ溜めと化した台所と、カビかかった冷蔵庫をしり目に、一番奥の部屋に向かって歩いた。
バン!と音がして、襖が開かれた。
あと少しだったのに。
夢姫は歯ぎしりしながら立ち止まった。
「夢姫」
ギザギザの声だ。夢姫は粟立つ背中に鞭をうった。
毅然とした態度で前を向き、喉の奥から言葉を絞り出した。
「――ただいま」
「へぇ、震えなくなったじゃねえか」
ギザギザの声は突然距離を詰め、夢姫のまぶたに吐息がかかるところまで来た。
金髪女のタトゥーが掘ってある腕がこちらに伸ばされ、夢姫は、色黒の手で頬を撫でられた。
首筋からヘビが這い上って来るような気持ち悪さだ。夢姫は顔を背けた。
「おいなんだそりゃ、誰が育ててやったのか、わかってんのか?」
負けるもんか。
夢姫は歯を食いしばって父親を見た。
夢姫と同じように、金色に染めた髪を、四つも五つもピアスをつけた耳を、切れ長の目を、カサカサのくちびるの隙間から見える、すき焼きのたれにつけたような色の歯を、その全てを、焼き殺すつもりで睨みつけた。
光は、今の夢姫の父親は、かつて夜の街で生きていただけのことはある。悔しいが、その辺の男どもとは顔の造りが違う。タバコと酒におぼれた今でも、そこには過去の栄光が見え隠れしている。
だがその実、仮面の下には、女のことを喋るオナホとしか思っていないような、下衆でいじ汚い素顔がある。
夢姫は知っている。誰よりも。
「別に、本当の父親がどんなんか、知っとるだけ」
バン!と耳元で大きな音がした。
壁を叩かれたのだとわかった時、夢姫は安堵のあまり漏らしそうになった。
苦痛に心を引き裂かれた記憶が蘇り、全身をびっしょりと汗が覆った。
言葉にならない悲鳴が、逃げ道を探して体の中を駆けずりまわった。
光は夢姫の左耳に顔を近づけ、恐怖の匂いを味わうかのようにすん、と嗅いだ。
「ふぅん、まあいい。今日は許してやる。俺も言い過ぎた」
光に触れられている間、夢姫は凍り付いたように動けなくなる。
なぜそうなるのか、夢姫にもわからない。
わかっていたら、抵抗していただろうか?
でも、ダメなのだ。
脳みそさえマヒしてしまう、この悪夢の時間だけは。
夢姫は記憶も、人格も、感情さえもなくなってしまう。
「シャワー浴びてこい」
リー、リー、リー、スズムシが泣いている。
夢姫は裸でせんべい布団にくるまり、それを聞いている。
夜の大合唱はもうなくなった。スズムシたちは大分数を減らしたようだ。
大人たちが言うように、秋がなくなっているのかもしれない。季節は今から、冬に突入するだろう。
地球温暖化がなんなのか、結局、ひと夏の間では到底理解が及ばなかった。
まだ、学びの戸口にさえ夢姫は立っていないのだから。
それに、そんな暇はない。
そんな暇は。
窓から差し込んだ月明かりが、毛布の端を握りしめる夢姫の手を照らしていた。
もう、震えていなかった。
いつの日か、一人で雨宿りをしたショーウィンドウの前に、夢姫はいた。
昼間だからって関係ない。
どうせ大人は見て見ぬふりをする。
気兼ねすることなく、下着をつけたマネキンが並ぶ店に入った。
お目当ての、ピンク色でフリルのいっぱいついたやつに近づいた。
時間がある時はよくそれを見ていた。
レジに持って行くと、店員が露骨に嫌そうな顔をした。
夢姫は人差し指と中指で渋沢栄一をつまみあげ、したり顔でニヤついた。
お次は、ルージュの軍団に占領された百貨店の一階だ。
ラメが入ったピンク色の一品はもちろん、マスカラやアイシャドウまで、両手で抱えきれないほど買いあさった。
店員が心配するのをよそに、化粧品の山を抱きしめ、腕の隙間からボロボロこぼしながらトイレに向かった。
百貨店のトイレはお城のように綺麗だった。
大理石調の洗面台へ、夢姫は化粧品をぶちまけた。
右腕に引っかけていたビニール袋は足元へ落とし、左の脇に挟んでいた雑誌を乱暴に叩きつけた。
どれから手をつけようか悩んだが、とりあえず、ルージュの蓋をきゅぽっと引き抜き、底を回転させた。
ようこそ、大人の世界へ。
歓迎の言葉と共に頭を出したルージュを見つめ、あまりの興奮に身震いした。
ド派手な服で着飾ったトドのようなおばさんが個室から出てきて、ぎょっとして立ち止まった。
注意するわけでも、挨拶するわけでもなく、汚いものでも見るかのようにジロジロと観察を始めた。
鏡で全部見えとるんで、ババア。という言葉を夢姫は我慢してやった。舌打ちはした。
おばさんはぜい肉をぶるん!と震わせ、手を洗いもせずに逃げ出した。
雑魚め。夢姫は勝ち誇って笑った。
口紅など、つけたことが無かった。
チークなど、優先順位は一番下だった。
マニキュアを指ごとに違う色で塗れる日が来るなんて、女王様並みの贅沢だ。
広げた雑誌を見ながら、見よう見まねで彩った。
一度も色を吸ったことのない新品のキャンパスに、初めて絵の具を塗りたくる子供のように。
夢姫は夢中になって色を付けた。
「んふふん」
メロンやイチゴ、スイカにみかんがランダムに並んだ爪を見つめ、夢姫は心地の良い気持ちになった。
着飾らなくては。
だって夢姫の晴れ舞台だ。