第八章 泥夢になって
その日を境に、奇怪なニュースが紙面をにぎわした。昼のワイドショーも、夜の情報番組も、同じ内容をこぞって取り上げた。
神野右蛻を逃がしたせいだ。
追い詰められたことを根に持っているのか、やつは警醒偸への当てつけだと言わんばかりに、盗みの限りを尽くした。
俺はその全てを忸怩たる思いで見ていた。聞いていた。
何もできない歯がゆさと、自分の無力さに身を焼かれそうになりながら。
〔また集団記憶喪失です。県は本日、廿日市市を中心として、新たに二十四人の――〕
〔脳神経外科、精神科、どの医療機関でも原因を特定できず……〕
〔同様の症状を訴える人はこの三カ月で五百人を超えており――〕
〔県医師会は、少しでも異変を感じた場合は迷わず付近の医療機関を受診するよう呼びかけています〕
〔――の年齢や性別を統計的に見てみたんですが、これといって偏りがないんですね――〕
〔新たな公害ではないかとか、そう言った観点も含めて原因の究明を――〕
〔この度起きている集団記憶喪失につきまして、まず、罹患された方にお見舞いを申し上げます。しかし、健康被害という確証はどの医療機関でも示されておらず、政府としては――〕
被害者の数は加速度的に増え、次第に、街を歩いているだけで被害を耳にするようになった。
「ねーねー、この前行ったお店、あれ、なんだっけ、パンケーキの」
「えっ?なに……?パンケーキ……?なんのこと?」
「えぇ?9月に……みーたんと行ったじゃん」
「なー、今年も別府行こうよー、去年よかったじゃん」
「はぁ!?別府?別府なんて行っとらんじゃん」
「いやいや、二人で行ったろ?露天風呂付きでよかったって、お前も言っとったじゃん」
「なんなん……あんたまさか、浮気しとるんじゃないでしょうね!?」
「約束したじゃんか!附属受かったら、スマホ買ってくれるって!」
「なにを言うるん!そんな約束、しとらんじゃろ――」
ネット上には、根も葉もない噂が蔓延した。
〔ここまで来たら神の仕業だろ〕
〔天罰じゃ〕
〔北朝鮮がミサイル開発止めて生物兵器作ったらしい〕
〔ちょっと何言ってるかわからない〕
〔6Gのせいだな〕
〔コロナ終わったのに、今度は日本から奇病か〕
〔原爆の影響とか騒ぎ出すやついるんだろうな〕
〔黒い雨訴訟復活!〕
〔いくらなんでも年経ち過ぎてて草〕
中には、吐き気を催すほど趣味の悪いものもあった。
自分の言葉で罪なき人間を殺していると、自覚せねばこの国は終わりだ。
「忙しいところすまない」
俺は広島城の天守閣に登った。天守閣の屋根の上にだ。
そこにはカラスマスクの夢追人がいた。カエル色のコートをびっちりと着て、六法のように分厚い本を持って、空に浮かぶ月を見上げていた。
その日は綺麗な満月だった。
ちょうど、中秋の名月だったかもしれない。
ホットケーキにように大きく見えて、とろけたバターのように真っ黄色だった。
「時計を直してほしい」
俺はスーツのポケットから黒焦げになったGMTマスターを取り出し、冠瓦の上でしゃがみこんだ。夢追人は子供のように背が低いからだ。
夢追人は左腕で本を抱きかかえると、反対の手でGMTマスターを受け取った。
「龍に焼かれてね」
俺は自虐めいた笑みを浮かべた。
夢追人は白手袋をした手の上で何度も腕時計をひっくり返し、しげしげと眺めていた。
「もう一つ、教えて欲しい」
俺は土踏まずでバランスを取りながら立ち上がった。しゃがみ続けるのは腰にくる。
「神野右蛻の弟子について知りたい」
神野の名前を出した途端、夢追人は損傷調査の手を止めた。
彼にとっても、神野は稀代の大泥夢だ。数世紀後まで語る価値があるというもの。
「半年前から行動をともにしている、日本人の少女だ。髪を金色に染めて……左耳に銀色のピアスをしている。神野はユメヒメと呼んでいたが、そんな名前は戸籍上存在しなかった。あだ名か、偽名か……」
俺はそこで言葉を切った。
夢追人が笑っていた。
カタカタと、仮面を震わせて。
ジリリリリリリリ!
異常を知らせる鐘の音が、静寂を打ち破った。
発信源は広島の街の中心部、天を貫くようにそびえ立っている大きなビルだ。周囲のビルと比べても、頭一つ抜けてでかい。
ここはカフェやイベントスタジオを備えている一方、広島で一番大きな銀行の本社ビルにもなっていた。
つまり、誰かが侵入したのだ。
非情ベルに呼応するように、あちこちでサイレンの音が立ち上った。
深夜の広島を、赤い光が煌々と照らした。
街中にそびえる、ひときわ綺麗で大きなビルの元へ、パトカーが次々と集まってきた。
「中央2現着!」
「警棒だしとけ!」
パトカーから出てきた警官が、待ち受けていたガードマンと合流し、無人のビルへ入っていく。
警官が右往左往している様を、はるか上空から眺めている者がいた。
大きな十字路交差点を挟んで、銀行とちょうど対角線上に、これまた大きなビルが建っていて、その屋上にそいつはいた。
双眼鏡を目に当て、みっともなく慌てる警官を見て、ほくそ笑んでいた。
俺は警官隊の先頭に立ち、小型の懐中電灯で足元を照らしながら、ビルの階段を一歩一歩、慎重に進んで行った。
ビルの中は真っ暗だ。
当然だろう、従業員は全員家で寝ている。今は、ビルが契約している警備業者の持つマスターキーで入っているに過ぎない。
残念ながら俺には守秘義務というものがあり、金庫が何階のどこにあるのか、ここに詳しく書き記すことはできない。それでも、犯人を逮捕すべく、ビルの敷地をまたいでからわずか五分後には、現場にたどり着いた。
「……ちっ」
俺は悪態をつき、近くにあった椅子を蹴り倒した。
金庫室に繋がる扉は開いていた。
開きっぱなしだ。中の金庫も、全部。
犯人の姿はおろか、そこにいた痕跡すら何一つ残っていなかった。
懐中電灯でどれだけ照らしても、鋼鉄が反射するのは光と俺たちのアホ面だけだ。
「ちくしょおぉぉぉ!」
俺は懐中電灯を床に叩きつけ、破壊した。
泥棒は双眼鏡を下ろし、両手で挟み込むように叩いた。
風船が割れる時と同じ音で、双眼鏡は消え去った。
「いひひっ!」
愉快でたまらなかった。
今この街で、自分より高い位置にいるのは大きな三日月と、雲と、たまに横切る航空機だけだ。
愚民どもは下界で右へ左への大騒ぎ。
みんなみんな、味わえばいい。
奪われる苦しみを。
身を焼かれる思いを。
「いひひっ!いひひひひっ!」
お月様に振り返って、新田夢姫はまた笑った。
「メインの黒毛和牛、フィレ肉のステーキになります」
タキシードに身を包んだ店員が深々と頭を下げ、厳かに退いて行った。
夢姫はもったいぶって頷き、ナイフとフォークをとった。
皿の上に転がっているのは、じつに小さな肉だった。夢姫の拳ほどの大きさしかなく、周囲に芋やら玉ねぎやらチンゲン菜やらを配置して、めいっぱい豪華に見せている。薄い醤油のようなソースが小川のようにちょろちょろと流れて行って、皿の縁に跳ね返されていた。
コホン、と咳ばらいをして、肉にフォークをつき立てた。
もはやナイフの存在など忘れ去り、そのまま大口を開けて肉にかぶりついた。
「んん……んふー」
ブチンッ!と下品な音を立て、物足りない肉塊を犬歯で引きちぎった。
しかし、値段相応に高級な肉だ。もっしゃもっしゃ言わせながら噛んでいたファミレスのステーキとは大違い。噛む暇もなくするりと溶けて行った。口の中に充満した旨みに、脳みそが五秒ほど痺れた。
口から垂れたソースが雨だれのように膝小僧を討ち始めてようやく、夢姫は我に返った。
テーブルの上からナプキンを取り、黒いレザーパンツに包まれた膝をキュッキュッと拭った。
夢姫はいつもの制服姿をやめていた。
黒いTシャツの上に黒いレザージャケットを羽織り、履いているのは黒いレザーパンツ。ベルト留めのブーツまで真っ黒だ。夢の中だもの、オシャレだって自由自在だ。この格好はいたく気に入っていて、もう二週間は同じ組み合わせにしている。
最初こそ、普段着ることのできないホットパンツや、袖なしキャミソールなんかを試してみたが、夢の中とはいえやっぱり落ち着かなかった。
ひやひやするんよね、んもー、染みついとったけん、あの頃は。今もじゃけど。
夢姫曰く、逮捕されて一番つらかったのは、身体特徴を事細かに記録されたことだったらしい。
通常、警察では、逮捕した被疑者のホクロや傷痕、手術痕等のうち、主だったものを記録する。再犯時や、あってはならないが、逃走した時に、被疑者特定の手がかりとするためだ。指名手配犯のポスターにも活用されている。
夢姫は特に確認の時間が長く、女性警官の視線を感じるたび、酸のプールにぶちこまれたような苦痛をずっと感じていた。忘れて生きようと決めていた自分の過去を、いちいち、一つずつ、ほじくり返されている気になったからだ。
そんなわけで、当時の夢姫も、全身黒ずくめの格好に落ち着いた。
決して、泥夢さんの言っていたマトリックスという映画を一応、あれでも一応見ておこうと思って、結局それに影響を受けたわけではない。彼女の申し出があったため、ここは殊更に強調しておく。
ナプキンをはがすと、レザーパンツは綺麗な光沢を取り戻していた。そう、汚れに強いから選んだのだ。
夢姫は汚れたナプキンをテーブルの上に放り投げた。
なにからなにまで高級そうな店だ。気に入らない。ナプキンが横たわっているのは茶色い大理石のような天板で、塩やら胡椒やらが木製の丸い入れ物に入っている。使い方がよくわからないが、ただ振っただけでは何も出てこなかった。
そもそも、店員がタキシード姿というのがよくわからない。高い店はみなこうなのだろうか。茶色の床板にはホコリ一つ残っていないし、真っ白な柱の間には必ずステンドグラスのようなガラスが張りつけられている。今自分が座っている椅子も無駄に角ばっていて、正直おさまりが悪い。お前はチビだと、デザイナーに蔑まれている気分だ。
店の中を見渡せば見渡すほど、夢姫は仏頂面になっていった。
金持ちが、金持ちのために造った店など、たとえこれが夢でなくとも、ぶち壊してやりたいと思っているのに。
残った肉片をフォークで串刺しにし、最悪の気分で飲み込んだ。
「随分楽しんでるじゃないか」
突然後頭部に声をかけられ、夢姫はあやうくひっくり返るところだった。
上半身がほぼ水平になったところで、なんとか大理石の天板に手をつき、肩甲骨をほとんど砕きながら止まった。
「おや、まだ注意力が足りないねぇ。まぁ、神野も得意じゃなかったね、索敵は」
古びたバイオリンのように、頭蓋骨に直接響く声だった。
角笛型の帽子と、チャイナドレス、そして、げっぷが出るほど大きな胸に見覚えがあった。
「すっ――須磨さん……?いてて」
夢姫は痛んだ肩をさすりながら、声の主に向き直った。
背中側の座席に足を組んで座っていたのは、須磨のババアだった。
須磨に誘いだされ、夢姫は広島城のお堀にやってきた。
今は堀の縁に腰掛けて、波一つない水面に映る、大きな三日月を見つめている。
目線を上げれば、お月様は、コンクリで作られたお城の天守閣にひっかかっている。
須磨のババアは夢姫のすぐ右隣に腰掛けていた。
足が長いので、膝を折り曲げ、石垣の途中にブーツをひっかけるだけでさまになっていた。
夢姫にはできない芸当だ。どうやったら太ももとふくらはぎと石垣で三角形を作れるというのだ。
ムカついたので、両足の裏で石垣をめっためたに蹴ってやった。
「あんただろう?最近夢を荒らしてるのは」
いきなり確信を突かれ、夢姫はギクリとした。
背後から心臓を一突きにされた気分だ。脇の下に手を挟んで、動揺に震え出す横隔膜を押さえつけた。
「……しょっ、しょしょしょっ!しょーこなんてないじゃん!」
須磨のババアはしゃなりとヴェールをなびかせ、紫の爪で自分のくちびるをなぞった。
笑みをこらえているようにも見えた。
「あんたの夢、最近異形の人間が増えてないかい?神野の夢にいたような連中さ。腕が何本も生えてたり、目が無かったり、おおよそ人とは呼べない形をしたようなものまでいるね」
「…………そう言われてみれば、なんか増えた気がする」
「それが証拠さ。根が善人なほど増えるよ」
「え、マジで!?」
「他人の夢を壊すことに、自分の深層心理が深い葛藤を持つと、それが精神の投影である夢に歪みとなって現れるのさ。私の夢にも一人、左腕のない若者がいるよ。今ではいい茶飲み仲間だがね」
須磨が冗談で言っているのか、本気で言っているのか、夢姫にはわからなかった。
ババアの横顔を、穴が開くほど見つめた。
頬のシワが、まるで計算してそこにひいてあるかのように美しかった。
「夢ってのはね、脳が一日の疲れを癒してる間に見るもんなのさ。他人の夢に入り込む時点で、泥夢だろうが調律師だろうが、当然、警醒偸だって、大なり小なり影響を及ぼす。他人にとって、私らみたいなのは異物だからね。異形の人間が全くいないのは……他人の夢に入ったことのない人間か、人を壊すことに何の躊躇いもないやつだけだよ」
「それなら、なんで須磨さんはチョウリツをやめんの?」
夢姫はなんとなく、頭の中に降って湧いた疑問をそのまま口にした。
須磨は少し驚いたようで、目じりのシワをつるつるになるまで伸ばして、紫の瞳を見開いた。
何か怒らせるようなことでも言ってしまったのかと、夢姫は不安になった。
「アッハッハッハ!」
心配は杞憂だったようだ。
須磨のババアはチャイナドレスの長い袖を一反木綿のように振り回し、自分の腹を叩いた。
心なしかバカにされている気がして、夢姫は石垣の上で抗議のあぐらをくんだ。お尻を支点にして、堀の縁で体を前後にゆすった。
「な……なんでそんなに笑う……」
「いやなに、すまないね。あんた、人のことを心配するような玉だったとはね。神野と似てるが、やはり女だね。察しがよくて頭もいい。気にしなくていいよ。別に、男どもに理不尽を押し付けられたわけじゃない。私は幸運だったからね、自分の仕事を、自分で選ぶことができたのさ」
須磨のババアはあえて話をはぐらかしたようだった。
まだお前には聞く資格がないのだと、遠回しに突きつけられた気分だった。
夢姫はやかんのように口を尖らせ、広島城の天守閣を見上げた。
しゃちほこの頭が変に盛り上がっていて、開いた口がふさがらなくなった。
「んあっ……?」
よく見ると、それは小さな人型をしていた。小学生くらいの背丈だ。
月明かりによく生えるカエル色のコートを羽織り、広辞苑より分厚い本に、羽ペンで何かを一心不乱に書き込んでいる。
ゾッとしたのは、カラスのようなマスクをつけていて、顔が見えないことだ。
「あの人、前もおった……」
夢姫が初めて夢に入ったあの日、豪華客船の灯りを止まり木にしていたやつだ。
まだ経験はなかったが、これがストーカーというやつだろうか。背中に座布団ほどでかいこんにゃくを押し当てられたように、気持ちの悪い冷たさを感じた。
「あぁ、夢追人か。私の寿命が近いからね、付け狙ってんのさ」
須磨のババアは何食わぬ顔で言った。
昨日の朝食はシャウエッセンと卵焼きでしたと言うくらい、事もなげに。
「えっ……?」
夢姫は須磨のババアの、主に胸を凝視した。
ババアと言うにはハリがありすぎると思っていたが、一体全体どういうことだろうか。
「おやあんた、私が見た目まんまの年だと思ってんのかい?こかぁ夢の中だよ?」
須磨のババアは長い袖で顔を一瞬、隠した。
緩やかに開かれるカーテンのように袖が退散していくと、ミイラのように干からびた肌が現れた。骸骨のように落ちくぼんだ目は白内障で真っ白になり、鼻が、骨の形がわかるまでしぼんでいた。
おせじにも綺麗とは言えないその姿に、夢姫は言葉を失った。
「あっ、あたし、てっきり……」
須磨のババアは干上がった顔の中で笑うと、もう一度袖で頬を拭い、妖艶な魔女の姿に戻った。
「ふっふっふっ、純粋ってのはいいものだね。夢追人はね、登記夢をつけるのが仕事なのさ」
「トウキボ?」
「夢の中で起きた事変の記録だよ。嘘か真か、かれこれ十世紀ものあいだ、一秒たりとも寝てないらしい」
夢姫はげぇっ、と言って夢追人を見た。
向こうもおそらく、こちらを見た。
確信が持てないのは、距離が遠いのと、カラスマスクのせいで表情が読み取れないせいだ。
夢追人はくちばしをカタカタと震わせると、猛烈なスピードで何かを書き始めた。
十世紀がどれほど長い年月なのか、教養のない夢姫にはわからなかったが、あいつがヤベーやつだというのは一撃で感じとった。
「時計を直せるのはもう彼らだけになってしまった。貴重な存在だよ。しゃべれないのがたまに傷だけどね」
「時計……?」
「神野が持ってるような時計さ。教わらなかったかい?」
須磨のババアはあきれ顔で自分の懐をまさぐり、大きな懐中時計を取り出した。
首から下げるための長い鎖、その一つ一つがまごうことなき黄金でできており、それを作る手間と労力を考えただけで身震いがする。時計本体は6Pチーズの箱と同じくらいの大きさで、これもにぶい黄金の輝きを放っていた。須磨のババアは鎖の先端をつまみ、振り子を持つようにして時計を見せびらかした。
「夢の終わりが近付くと、こいつは音を鳴らして警告する。夢の中で生きる私たちにとって、なくてはならない商売道具さ」
鎖の先端で、懐中時計はゆっくりと回っていた。月の光を反射するたび、黄金が真っ白に瞬いた。
文字盤を覆う蓋には、精巧な模様が掘られていた。夢姫にはその全てを見ることはできなかったが、洞窟のようなところにベッドをこしらえ、裸の男が寝ていた気がする。不思議とエッチな感じはしなかった。男は大量の花を抱いていたようにも見え、不気味なのに心惹かれた。
「きちんと動くのは残り少ない。おかげで、時計狩りなんてのも出てくる始末さ。それだけ高価でやりとりされるし、時計を目当てに殺しをする連中もいる」
「なんで?もっと作ればいいのに」
「最後の時計技師に言わせれば、これこそが夢をつまらなくしたらしい。私に言わせれば、女たちの怨念が詰まった遺物だが、さあて、どうかね」
神々の歴史を紡いだ、絵画のような時計の装飾を、夢姫はもっと見ていたかった。
しかし、須磨のババアは時計の向こうに何かを見て、一人笑った。鎖を巻き取って、後生大事に懐へとしまった。
「さて、あんたの話だ。いつまで泥夢続ける気だい?このままだと死人がでるよ」
「生きるためじゃもん。お金なかったら、食べていけんし」
夢姫は胡坐の上で頬杖をついた。
彼女は不良少女だ。言葉では大人に敵わないから、態度で反抗するのだ。
対して、須磨は人生経験の塊のような女だ。小娘に少々失礼な態度をとられたからといって、腹を立てたりはしない。優雅に足を組みなおし、胸を押しつぶしながら頬杖をつき、夢姫の視線と同じ高さにする余裕を見せた。
「そりゃ困ったね。あんた、親はいないのかい」
「おるよ、母親が。パパは四人目」
夢姫はくすぶったまま、右手の指を四本立てた。
須磨のババアが眉をひそめたので、すぐにひっこめた。
やっぱり普通じゃないんだという思いが、彼女の中で頑固なカビのようにこびりついている。
「今のパパは優しいんじゃ」
まともに話すには、夢姫の過去は悲しすぎた。
今にして思えば、須磨のババアだからこそ、話すことができたのだと思う。
「お金の稼ぎ方教えてくれたし、おしゃれでピアスもつけてくれた」
夢姫は左耳のピアスを指先ではじいた。
「万引きはいけんことなんじゃって……理解するまで叩き込んでくれたわ」
自分の頭をとんとん、と二回たたいた。
頭の上からスライムをかけたように、ぬるっとした感覚が降りてきた。
目に見えないぬるぬるが通り過ぎたところから、黒装束が消えてなくなり、代わりにミント色のカーディガンが、真っ白なブラウスが、ミルクティーとチョコレートを混ぜたようなチェックのスカートが現れた。
ただ、いつもと違うところが一つあった。
スカートの下に、タイツを履いていないのだ。
夢姫は両足をお堀の方へ投げ出し、須磨のババアによく見えるようにスカートをたくし上げた。
カーディガンの袖も肘までまくって、月明かりにさらした。
「セクシーじゃろ?」
夢姫は笑ってみせたが、須磨のババアは静かに首を振った。
「どうしても我慢できんかったんよ。三日くらい、なぁんも食べれんで。コンビニでおにぎり二個盗って、夢中で逃げて……家に帰っても、見つかったらまたとられるけん……雨降っとる中、走りながら食べて……しょっぱかったわぁ…………」
惨めだった。
惨めでひもじかった。
お腹が空いて本当に辛いのは、自分のちっぽけさがひしひしと身に染みることだ。
みっともなくおにぎりにかぶりついて。
なんなら、プラスチックの包装まで食べる勢いで。
ほとんど噛みもせずに飲み込んで。
歩道を歩く人たちは、みな長靴をはいて、傘をさして足早に歩いていた。
夢姫には目もくれなかった。真っ昼間から学生が出歩いているというのに、大人たちは誰一人気付かなかった。
夢姫の前を通り過ぎる時だけ、みな、示し合わせたようにコートの襟を立て、視線を下げるのだ。
あたしが小さいから、誰も気付いてくれないんだ。
夢姫は絶望した。
このまま小さいままだったらどうしよう。
不安になった。
死ぬまで、あたしはひとりぼっちなのかな。
不安はいつしか、諦めに変わった。
「二週間くらいじゃった。警察がうちにきて、あたしは連れてかれて……三十万じゃった。罰金」
夢姫曰く、逮捕されて一番つらかったのは、身体特徴を事細かに記録されたことだったらしい。
ホクロや傷痕、手術痕等のうち、主だったものを記録されるからだ。
その中には当然、傷跡も含まれる。
「誰の金じゃぁ思うとるんじゃって」
そそくさとスカートとカーディガンを元に戻し、夢姫は膝を抱えた。
「稼いだ母親じゃろ」
波一つないお堀の、一番遠いところへ視線を走らせた。お堀の縁に生えている並木の向こう側が、ぼうっと怪しく光っていた。
その方向にはピンク色の街がある。
夢姫の母親も、現実世界のそこにいるだろう。
未来の自分の姿がそこに重なって、鼻がつまった。
「うちが春を売っとったのは」
夢姫はラッパのような音を立てて、鼻をすすった。
「捕まるのが相手だけじゃけん。うちは未成年じゃけえ……補導だけですむ。罰金が出んかったら、あとは病気さえ持って帰らんかったら、殴られんですむ」
商売を始めたころは記憶があいまいだ。
あまりの衝撃に、感情を制御するコンピューターが故障してしまったのだと思う。
悲しかったのか、苦しかったのか、自分でもわからない。
一つだけ確かなことは、自分の心が、ひび割れた花瓶のように傷ついていて、あと少しでバラバラに砕け散ってしまうということだ。
「でも疲れて……」
中に入っている花はほとんど枯れてしまった。残ったのはたった一輪。それも、花びらがほとんど落ちて、しおれている。
それだけは枯らすまいと、死なすまいと、もがいている。もがき続けている。
だから逃げた。
殴られることのない夢の世界へ。
男に媚びなくてすむ、夢の世界へ。
なんでも好きなものを食べられる、夢の世界へ。
「ええじゃん。夢の中から、ちょっと盗るくらい」
「ダメだね。そのへんの川原の石をとっても、誰も気にしない。でも、それが大粒のダイヤだったら……持ち主の人生が変わる」
須磨のババアは、怒りとも憐れみともつかない、微妙な表情をしていた。
あくまでも厳しかったのは――俺の推察だが――須磨の優しさだったのだろう。
「夢は精神の投影たからね。大事な思い出ほど、価値あるものに姿を変えるのさ。あんたがとってるのは、その人の人生さ。けっして許される行為じゃない」
「じゃあうちに……死ねって言うんか!!!」
夢姫の中で怒りが爆ぜ、体が跳ねた。そのまま怒りに任せて立ち上がり、須磨のババアの角笛帽子に唾をまき散らした。
世界を壊すほどの憤怒が、空気を破壊して進む衝撃波に変わった。
水面を割り、お堀を超えて広島城の外壁にひびを入れた。城は縦に真っ二つに割れ、片側が三十センチは沈んだ。
夢姫の力はこの時すでに、そのレベルまで強くなっていた。
水の中に潜んでいた鯉たちが、バシャバシャと音を立てて逃げ惑った。
須磨のババアは静かに目を閉じて、夢姫の怒りに耐えていた。
心臓でも止まったかのように、苦しそうに息を止め、こめかみの血管を浮き上がらせていた。
「……そうは言わないよ。ただね、神野がそのへんの泥棒と同じだと思ってるなら、考えを改めろと言ってるのさ」
夢姫は納得がいかなった。お客が金を払わずにばっくれた時よりなお腹立たしかった。
すぐに喚き散らさなかったのは、須磨のババアが泥夢さんに言及したことで、少し気勢をそがれたからだ。
声の限りに叫び出したいのをグッとこらえ、しかし怒りは収まらず、夢姫は、須磨のババアに背を向け、お堀の縁を蹴るように二、三歩あるいた。
夢姫に踏まれたところだけ、お堀が靴の形に凹んだ。
こちらのイライラが跳ね上がるのに呼応して、広島城の天守閣にいる夢追人が活性化していた。
視界の隅っこの方で、カラスマスクのくちばしが激しく上下しているのがわかって、夢姫は一層苛立った。
「人はね、忘れることができる生き物なんだよ」
少し遠くなったババアの声が、古いバイオリンのように空気を震わせた。
「嫌なこと、苦しいことを忘れることで、今日も生きていける。でもね、それは思い出せないだけなんだよ。一度頭のなかに刻まれた記憶は、何があっても消えない。ふとした拍子に、記憶の表面に出てきてしまうことだってある」
「嫌味かよ」
夢姫はお堀に唾はいた。
「違う。ある男の人生さ」
須磨のババアは否定した。
「だから神野は、人の中にある、辛くて悲しい記憶を、そっと盗み出してるのさ。その人がもう二度と、悪夢にうなされてしまわないように。今日も明日も明後日も、ぐっすり眠ることができるように」
なぜか、須磨のババアの話は、真実のように思えた。
夢姫の頭の中に、押しても引いても取れない大きな引っかかりが生まれて、泥夢さんとの記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
「バカな男だよ。泥夢が人助けしてどうすんのんさ。欠けたティーカップに電気の入らないポット、プラモデルの空き箱にやぶれたマフラー……金にならないガラクタばっかり盗んで……」
お堀に写っている自分の顔が、何かに気付いて目を見開いた。
夢姫の脳裏には、ファミレスでの泥夢さんとのやりとりが鮮明に浮かんでいた。
ゴミばっかりと言ったら、怒られた。
ひどいウソだ。
本当に、ひどいウソだ。
「あんなんじゃ、いつまでたっても、娘を助けるなんて夢、かないやしない」
「えっ」
お堀に写っている自分の顔が、不意の告白に面食らった。
夢姫の脳裏には、カラオケでの泥夢さんとのやりとりが鮮明に浮かんでいた。
娘に会うために金が要ると、そう言っていたのに。
もっとひどいウソが隠れている気がして、夢姫は身構えた。
「なんだい、それも聞いてないのかい?」
須磨のババアは今度こそあきれかえっていた。
きっと、夢姫にではないだろう。俺は思う。
何も話さなかった泥夢に。
全部隠して。隠してかくして、自分が死ぬその時まで、隠しきれると思いあがっていた泥夢に。
須磨はあきれたのだ。
「神野の娘はね、重い心臓病なんだ。移植するしか助かる道はないと聞いてるよ。だが、手術をするにはこの国じゃダメだ。夢も希望もない、沈みかけのこの国じゃ。アメリカに行く必要がある。莫大な金がかかる。だから――」
須磨のババアはそこでいったん、言葉を切った。
たぶん、うちが震えとったけん。
夢姫はそう回顧した。
なぜ?
俺は問うた。
泥夢さんに嘘つかれて、腹立っとたけんね。
まるで照れ隠しのように笑みを浮かべる彼女の目は、一ミリも笑っていなかった。
本当か?夢姫、お前――
俺は喉まで登ってきたその言葉を、結局最後まで口にすることができなかった。
「――だからあいつは、あんたに言わなかったんだろう」
あまり弟子をなめるなよ。
俺には、須磨がそう言ったように聞こえた。
あの日、あの時、その場にはいなかったのに。