第七章 真実を知って
おじさんがどうやって守ってくれたのか、夢姫にはわからなかった。
気を失う直前、おじさんが、おじさんの右手が、ミサイルの爆炎を全て吸い込んで、光を放って、雨雲と若造と潜水艦と、全部が吹きとんで……そこから先を、夢姫は憶えていない。
「ぅうっ……うおえぇぇ!」
夢姫は肺の中に入っていた海水をもどした。
硬い床板だ。
体育館だ。
びしょびしょになり、あちこちに水たまりができているが、ここは元いた体育館だ。ノアの大洪水に等しかった海が、ようやくひいたのだ。濁流に押し流されたバスケットゴールが、ステージ脇の壁に引っかかっている。黒い砲台やひしゃげた手すりはなくなっていた。どこかに流れていったのだろう。
夢姫は四つん這いのまま、しばらくげえげえ水を吐き続けた。
おじさんはすぐそばにいた。
体育館の真ん中で、大の字になって倒れていた。
壊れた天井から太陽の光が降り注いで、おじさんを照らしていた。
全身から、腐ったトマトジュースのようなものが流れ続けていた。
這うようにして近づき、おじさんの上半身に乗り上げた。
水を含んだミント色のカーディガンに、重ねて血が染みこみ、クリスマスのような配色になった。
左胸に耳を押し当てて、同時に、おじさんの顔を下から見上げた。
死人のように蒼白な顔だったが、命の鼓動はまだ続いていた。
あいつらは、殺さずに動きを止めるという目的を果たしたのだ。
視線を感じて、夢姫は振り返った。
そこには、焼けただれた姿のままの若造がいた。
どろどろの瞳の奥には、喜びも、安堵もない。あれは、おじさんが再び動き出しやしないか、油断なく見ている目だ。
底なしに甦るゾンビを相手取ったとしても、ここまで用心深くはならないだろう。
やがて、正面玄関から、喪服を着た男たちが次々と入ってきた。夢姫を取り囲むように、ぐるりと円陣を作った。
喪服たちは、今寝入してきたかのようにぴかぴかの一張羅に戻っていた。
「くっ……!」
夢姫は最後に残っていた水をぴゅう、と吐き出し、床に手を突いた。
幻実化は解けている。水と血を吸ったカーディガンは重たくない。重たいと感じるのは、体中に――夢の中で言うならば、精神に――大きなダメージを負っているせいだ。
歯車の嚙み合わせが悪くなったロボットのように、膝がガタガタになっている。腕が鉛のように重たい。それでも、自分に鞭打って立ち上がった。
「う……うぅぅ……ううぅぅぅぅ!あぁ!はあ……はあ……」
夢姫は右手を可能な限り素早く動かし、銀色のナイフを作り出した。
喪服たちの輪にどよめきが走った。
「理解しているな」
おぞましいものでも見たかのように、若造が顔をしかめた。
「夢の中で人を殺しても、現実の人間が死なないことを。武器の作り方も知っている。実行できる。弟子の育成一つ取ってこれだ。あらためて思い知る。神野右蛻、その男の、底知れぬ力を」
夢姫は手の中で何度もナイフを握りなおした。
「どけ」
若造は有無を言わせぬ口調で言った。
「夢は目覚めると消える。犯罪の証跡を後からたどることはできない。現実世界に出れば、それが夢の中から持ってきた物かどうか、誰にもわからなくなる。泥夢を検挙するには、盗んだ瞬間、現行犯を捕まえるしかないんだそこをどけ!」
「いやじゃ」
夢姫は歯を食いしばり、番犬のように唸った。
ここで引き下がれば、夢姫は全てを失うことになるからだ。
「わからんな。たしかに、夢の中で命を落とせば、それは目覚めに繋がる。タイムロス無しで夢から脱出するには、それが一番確実な方法だ。だが、死ぬことに伴う痛みや苦しみは、現実世界と同様に人を襲う」
若造は、輪を描いている喪服たちを見た。
おじさんに焼かれ、海に沈んだはずの彼らを。
「神野はお前を殺したくなかった。傷つけることすら恐れた。そのせいで、結果的にお前を苦しめている。無様にあがいて……いったい、何の意味がある?」
ぽつんと呟かれた若造の言葉に、夢姫は首を振った。
音もなく、しかし、力強く。
「お前にはわからんじゃろ……!ホントに苦しいっていうのが……どういうことなんか……!」
思い出すだけで身がすくむ。
家に帰ることを、夢姫は一番恐れる。
下唇が暴れ出し、横隔膜がわなわなと震える。
深呼吸がなければ、夢姫は立っていることさえできなくなる。
暗い記憶の、ずっしりとした重たさが、夢姫の頭の中に、消えない呪いとして残っている。
おじさんは違う。
「おじさんは、一度だってうちを苦しめたことは無い。そりゃあ、教え方はメチャクチャよ。逃げ出したくなるくらいスパルタよ……。でも……何があっても、おじさんはうちを叩いたりせん」
思い出すだけで涙が出る。
おじさんに会いに行くことを、夢姫は一番焦がれる。
下唇が暴れ出し、横隔膜がわなわなと震える。
深呼吸がなければ、夢姫は立っていることさえできなくなる。
優しい匂いと、暖かい記憶が、夢姫の頭の中に、決して消えることのない希望として残っている。
「なんか一つでも、どんな小さいことでも、うちが新しいことできるようになったら、すぐに褒めてくれるんじゃ、こんなに嬉しいことあるか!……あるか…………!ぁああるもんかあ‼」
夢姫はナイフを振りかざし、若造めがけて走り出した。
おじさんがくれたのは、このナイフではない。
夢に入る能力でもない。
そんなちっぽけなものではない。
人が、人間らしく生きていくための、かけがえのない力。
夢姫がまた太陽の下で笑うことができた力。
どんな研究者でも、天才科学者でも生み出すことのできない無限のエネルギーを、おじさんはくれたのだ。
「ちっ!」
若造が毒づき、手錠を投げ捨てた。
そして、目にも止まらぬスピードで動いた。
夢姫は、相手が本物のケイサツ官だということを思い知った。
こちらが切りかかる前に胸元に踏み込まれ、みぞおちに一発、さらにナイフを持った右手をはじかれた。
そのまま右手をねじり上げられ、手首をおかしな方向に決められた。
関節が悲鳴を上げ、ナイフを取り落とした。それでもなお腕に激痛が走り、痛みから逃れようと体が勝手に回った。
夢姫は何がどうなっているのかわからなかった。
若造の顔が逆さまに見えて、半壊した体育館の天井と空が見えて、そのまま、床に激突した。
彼女は知らなかったのだ。柔道には、小手返しをはじめとした、人体の構造を利用した投げ技がいくつもあるということを。
ケイサツが、逮捕術の一環としてそれらの技を取り入れていることを。
「ぐっ!うぅぅ……うああああああ!」
若造から逃れようと激しく暴れたが、右肩から手首まで、一本の棒のように固められてしまった。
無理やり動かそうとすれば、肩がミシミシと音を立て、焼けるように熱くなる。このまま動かし続ければ、外側にはじけ飛んでしまうのではないかと思えるほどに痛い。
「わからんな。お前の何が、そこまでして神野をかばわせる?」
後頭部に、苛立ちと諦めの混じったため息がかかる。
なぜ、そんな声でそんなことが言える。
なぜ、おじさんを見下すことができる。
夢姫には理解できない。
怒りさえ湧く。
お前たち大人が見逃した世界で、どれだけの犠牲を払ってきたと思っている。
まだ奪うのか!
八つ裂きにしても!まだ釣りがくるというのに!
「うぅぅ……!離せ!離せええぇぇええぇ!」
暴れれば暴れるほど、若造の締め付けはきつくなった。
最後には夢姫にのしかかってきて、膝で背中の中心を圧迫された。顔が横を向いたまま、夢姫は床に張りつけにされた。抵抗する隙が無い。呼吸するだけで精いっぱいだ。
「今だ!確保しろ!」
夢姫が完全に動けなくなったことを確認し、若造は指示を飛ばした。
喪服たちの円陣の中から、五、六人が飛び出した。
バタバタとおじさんのもとに駆け寄り、手を、足を、頭を、腰を、それぞれが抱えた。
抵抗できないおじさんを、手際よく持ち上げた。
「やめろ……!」
だらん、と垂れ下がったおじさんの体を目の当たりにした瞬間、目の奥で何かがはじけた。
自分の体が、自分ではない別の誰かに突き動かされている感じがした。
閉じていた喉がこじ開けられ、潰れていた肺に空気が流し込まれた。
それは、お腹の底から、骨を砕くようにして昇り、皮膚を引き裂くようにして飛び出した。
「やめえぇぇぇぁぁあああ!」
その時起きたことを、俺は今でも夢に見る。
全世界の公安機関が総力を挙げても捕まえられなかった神野右蛻が、彼女を天才だと評する唯一無二の理由がそれだ。
それだったのだ。
まず、俺が掴んでいた彼女の右手が歪んだ。
見間違いかと疑った。
あるいは疲れ目かと。
しかし、目を凝らすと、彼女の手だけでなく、体育館の床板までぐにゃぐにゃになっていた。俺の視界全てが波打っていたのだ。
人形のように小さな彼女の指先から、目に見えぬエネルギー波がほとばしり、俺はうちわで扇がれたアリのように吹っ飛んだ。
体育館の中心から入り口の扉に激突するまで、五十メートルは飛んだだろう。
エネルギー波は、彼女を中心に同心円状に広がっていった。まるで爆風のようだった。
神野を連行中だった警醒偸官五名が飛ばされ、周囲で待機していた陸上自衛隊の特夢部隊員も頭部にラリアットをくらったようにその場に倒れた。体育館の窓ガラスが窓枠ごとはじけ飛び、観客席はぺしゃんこにつぶれ、壁も、天井も、粉々に砕け散った。
神野右蛻だけが、空中に浮いたまま、何にも縛られることなく漂っていた。
「はあ……はあ……うぅっ……!」
夢姫は両手で耳の上の髪の毛を鷲掴みにした。
一週間分の夢を一晩で見たような、強烈なイメージが流れ込んできた。脳がはちきれそうだ。
「はあっ……はあっ……」
何が起きたのか、誰がこれをやったのか、一秒前には何もわからなかったのに、今では夢のすべてがわかる。頭の先からつま先まで、世界の真実が染み渡っている。
自分の中に潜んでいた化け物が目を覚ました。
おじさんが元の位置に戻っている。相変わらずピクリとも動かないが、顔色はよくなり、傷口が一つ残らず塞がっている。
若造と喪服たちが、夢姫から遠いところで倒れている。
体育館は爆撃を受けた廃屋のようになっていた。わずかな柱とひび割れた床を残すにとどまっており、もはや屋外にいるのと何ら変わらない。隣の校舎も被害を受けていて、粉砂糖をまぶされたドーナツのように、表面がガラス片と木材で覆われている。
全部、自分がやったことだ。
「はあ……んぐっ……おじさん!」
夢姫は立ち上がった。
すぐに、刃物が突き刺さったような頭痛に襲われ、よろめいた。
大きすぎる力に、自分の精神力がついていけていないのだ。
ふらふらしながらおじさんの元へたどり着き、倒れこむようにすがりついた。
「おじさん……おじさん、逃げよぅ!」
おじさんの体を激しく揺さぶって、夢姫は訴えかけた。
おじさんは目を覚ましてくれなかった。
そうこうしている間に、喪服たちがもぞもぞと動き出した。
きっと、後ろの方で、若造も息を吹き返しているに違いない。
「おじさん!おじさん!起きてよぉ!」
「まさか……パンドラの箱を二つも見つけてしまうとは」
若造の声が背中に響いた。
振り向くと、若造が後頭部をさすりながら、上半身を起こす所だった。
「しかも、強力なのはお前の方か。頼むから、その力を世のために使ってくれよ」
夢姫は膝小僧で回転し、おじさんの体をめいっぱい背中に隠した。
若造は呻いて、地面に落ちていた手錠を拾うと、よろよろと立ち上がった。
「やめておけ、俺たちは何度死んでも眠りなおす。この夢の持ち主は、あと二時間は目覚めない。現実時間でだ」
若造はびっこを引きながらやってきて、腕時計をとんとん、と叩いた。ひび割れた文字盤の中で、歪んだ秒針が異常な速さで回っていた。
夢姫はバネ仕掛けのおもちゃのように首を小さく、速く振った。
若造はがっくりと肩を落とし、肺の容量の二倍は空気を吐き出した。
夢姫は後ろ手に、苔色のコートの袖を握りしめた。
おじさんの温もりだけが、今の夢姫を支えていた。
「その男は嘘をついている」
「でも……」
「人の夢から記憶を盗む」
「それでも……!」
「結婚して子供もいる!大の大人がだぞ!」
夢姫は目の前が真っ白になった。
その言葉が頭に浸透するまで、人類の歴史ほど長い時間がかかった。
嘘か、真か、その時の夢姫には、可能性を考えることさえできなかった。
「…………へぇ?」
自分の口から上ずった笑い声が出たのを、夢姫は、遠い記憶を覗くように見ていた。
張り詰めた緊張の糸がぷつん、と切れてしまった。
両足からすぅ、と力が抜けて、へなへなとその場に座り込んで、呆然としていた。
「神野右蛻、〝神の右手を持つ男〟と言われた、今世紀の最大の大泥夢だ。十年前、一人の女性と結婚し、それ以来、夢の世界から忽然と姿を消していた」
若造の表情が、聞き分けのない子供に手を焼く大人から、憐れみを抱く神父のように変わった。
「こいつが記憶の一部を盗んだことで、精神が壊れ、廃人になった者もいる」
毒色の空を、エノラ・ゲイの世界を夢姫は知らない。
それでも、若造の言葉が何を意味するのか、今の夢姫には手に取るようにわかる。
「公安当局も、十年間血眼になって探し続けた」
若造が一歩、また一歩と近付いてくる。
喪服たちが立ち上がり、陣形を作りなおしている。
夢姫はここではないどこかを凝視したまま、微動だにしない。できない。
「半年前だ。西日本を中心に、警醒偸でも捉えられない規模の泥棒被害が発生した。何の前触れもなく、だ。俺は震えた。神野右蛻が再び動き出したに違いないと確信した」
若造は夢姫の目の前で止まった。
手錠を握る手にぐっと力を込めていた。
「そして、その確信は合っていた」
怨念ともとれるほど、力強く。拳を震わして。
「神野右蛻を引き渡せ。これ以上抵抗すれば、公夢執行妨害になる。これだけの人数が現認すれば、客観証拠になり得る。通常逮捕もありえるぞ」
若造の脅し文句を、夢姫は英語のリスニング教材くらい適当に聞いていた。
他のこと一切合切がどうでもよくなる瀬戸際にいた。
自分の人生の無意味さをこんなところで噛み締める羽目になるとは、露ほどにも思っていなかったから。
見捨てられたと思っていた神に、二度も失望することになるなんて、愉快でしようがなかったから。
「ははっ……ふふっ……」
お腹の底にひっかかっていた栓が、今度こそ確実に、キュボン、と抜けた。
「ふふふ……へへっ……ひひひひひ……うひひひひ……」
ほっぺたが、耳たぶにくっつくほど引きつった。
夢姫が狂ったように笑いだしたので、さすがの若造も困惑していた。
「……気持ちはわかる。人を騙して夢を盗む、それがその男の常とう手段だ」
もはや若造が何を言っても、夢姫には関係の無いことだ。
そうとも、これは夢姫とおじさんの、夢の姫と泥夢さんの問題だ。
「お前は被害者だ。さあ、神野をこちらに渡して――」
「うがぁ!」
夢姫は誰にも真似できない速度でナイフを作り出し、若造の手を切りつけた。
若造は素晴らしい反射神経で手を引っ込めたが、血しぶきがそれを追っていたのを、夢姫は見逃さなかった。
「くっ……このガキ……!」
若造は尻もちをついた。その顔は、怒りと衝撃でゆがんでいた。
手錠も取り落とし、もはや若造は、夢姫にとって脅威ではなくなった。
夢姫は獰猛なライオンのように牙をむき出しにし、若造を睨みつけた。とどめを刺してやるつもりだった。
しかし、円陣を組んでいた喪服たちが一斉に動き出した。
若造を救い、夢姫を捕らえるために決まっている。
夢姫にはもう、人智を超えた力を出すほどの体力は残されていない。数十人の精鋭に襲われたら、ひとたまりもないだろう。
取りうる選択肢は限られていた。
微塵も躊躇せずに実行した。
「――待て!」
俺は、血のしたたる右手を周回遅れで上げた。それしかできなかった。
あいつはとびきり速く動いた。
両手でナイフを握りしめ、逆手に構えると、身を翻し、迷うことなく一直線に振り下ろした。
警醒偸官と特夢部隊員、計十余名の手をかいくぐって。
新田夢姫は神野右蛻を殺害した。
この物語では初めて、神野右蛻の視点で語ることとなる。
それは、この時点から、神野の運命が大きく傾き、夢追人の記録に値するものへと変わっていったからだ。
夢追人にはつてもある。
たいしたことじゃないさ。
神野は跳ね起きた。
夢の中でそれを迎えるのは、実に十一年ぶりのことだった。
膝裏をひっかけ、硬いソファに背中から倒れこんだ。後頭部はさらに硬い壁にぶつけた。目の中で星が舞った。
「っは……」
自分が死んだということが、しばらく信じられなかった。
己の力に自惚れたことは一度として無く、しかし、夢に生きる者として最も多くの知見を有し、それを実現するだけの類稀なる技術を持ち合わせていると自負していた。それを得るために、地獄の日々を送ってきたのも確かだ。
そのオレが、命を落とした。
自分家の庭より勝手知ったる、夢の中で。
〔それで、白崎さん、今回の〝マシーン〟にこめた想いと言うのを、ぜひ教えていただきたいのですが〕
〔えっとー、私、まだ、テクノポップ?的なのを歌ったことがなくてぇ――〕
カラオケボックスのモニターがチカチカうるさい。
CMやカラオケの新機能紹介が垂れ流しになっているからだ。
モニターには夢姫と同じくらいの年の子が映っていた。おさげと白いワンピース、そして、歌うように話すのが特徴的だった。興味はないが、可愛い子だった。
神野はニヤリと笑った。
笑いかけたのはモニターの女の子ではなく、同じカラオケボックスにいる女の子だ。
夢の中で神野を殺した張本人だ。
今は、出口を封鎖するかのように、カラオケボックスの扉の前でうつむきがちに突っ立っている。
この娘子は不良成分がふんだんに盛られている。色の抜けかかった金髪、左耳に銀色のピアス、グリーンのカラコンに夏でもやめないカーディガン&タイツ。目が暑くなるからやめろと言っても、頑としてやめない。強情なやつだ。
だが、可愛さだけならモニターの女の子にも決して負けない。あとはもう少し、生活態度と口がよくなれば、クラスで一番モテる女の子になるだろう。右腕をかけてもいい。
「よくも殺したな……?」
夢姫はピクリとも反応しなかった。
そもそも、さっきから何も喋らない。
扉の前に立っているせいで、廊下の光が逆光になり、表情が読み取れない。
ただ、不機嫌だということは分かる。
女はいつもそうだ。
私が何で怒っているのか察してよ、と言わんばかりに、不機嫌なオーラを隠そうともしない。
神野はイライラして、大人げない開き直りをした。
「はいはい、おじさんは泥夢でした。今までお前に嘘をついてました。悪うござんした!これで満足か?」
夢姫はまたも無言を貫いた。
神野の苛立ちは頂点に達した。
「はあ、なんだよ!まだ何かあるのか?」
「ある」
今まで黙っていたのが嘘のように、夢姫は即答した。
彼女の声がいつになく真剣で、神野は少し面食らった。
「子供がおるって本当なん。なんで泥夢さん、指輪しとらんのん」
「お前それ、どこで――」
「答えて!」
夢姫は鋭く叫んだ。
握りしめた両手が、わなわなと震えていた。
出会って半年、聞き分けのよかったことなんて一度もありはしなかったが、こんなふうに叫んだのは初めてだ。
神野は夢姫の目から感情を読み取ろうとした。目は口程に物を言うからだ。
だが、うつむいている夢姫の視線は、前髪がかかっているせいでよくわからない。
一つだけ感じることがあるとすれば、スケートリンクの上で寝転がったみたいに背筋がうすら寒いということだ。
神野は降参した。
元来、女を怒らせたら男は勝てない。
そして、たちの悪いことに、なぜ怒っているのか、ほとんどの場合見当がつかない。
「美濃天音。オレの娘だ。今年で六つになる」
この時もそうだった。
神野はソファに深く腰掛け、空っぽになったグラスを手に取った。
ここに入っていたのは黒烏龍茶だ。今は氷が解けて、わずかに茶色っぽく見えるだけだ。神野の年になれば、脂質や糖質を常に気にしなければならないのだ。
「人生が変わる時があるとすれば、オレにとってはあの時がそうだ」
話すと口の中の水分が飛ぶ。
ぬるくて味のしない液体を飲み込んで、神野は深いふかい回顧に入った。
ちなみに、この時の記録は一部、神崎という男の項にも書かれている。
「オレは師匠を失って、自暴自棄になった時期があった。手当たり次第に盗みを繰り返してた。そりゃあもう、うっはうはだ。金、金、金、金の雨だ。いくら使っても無くならない。ちょぅっと減ったな、なぁ~んて思えば、その辺の裕福そうなガキの脳みそかっぽじって、高価なおもちゃでも盗ってくればいっちょ上がりだ。オレに盗めない物なんて無かったし?失敗したことだって一度も無かった」
当時の神野による被害者は、不確定ながらも数千人を数えると言われている。
なぜ不確定なのか。それは、記憶を盗むという性質上、被害に気付いていない者が多いからだ。
そもそもそんな記憶があったということ自体、忘れてしまうのだ。末期の認知症患者の症状にも似ているだろう。認知症と違うのは、記憶が、数年、数カ月と幅を持って消えるのではなく、ある特定の瞬間だけピンポイントで抜け落ちてしまうということだ。
どの被害者もだいたい、家族や友人からの指摘で記憶の喪失に気付く。
想像してみて欲しい。親しい間柄で共有していたはずの記憶、旅行や記念日、告白した日、プロポーズをされた日……そういったものが無くなってしまったら。自分の大切な人からなくなってしまったら。
やつがどれだけ罪深い男かわかるだろう。
「金があるところには人が集まる。オレの周りには常に人がいた。大勢いた。みんなあやかりたいのさ。金があればうまいもんが食える。高い車が買える。いい女も抱き放題だ」
神野の名前が浮上したのは、ひとえにこの金遣いの荒さが原因だった。
記憶の喪失を訴える人が増加した時期と地域、神野が夜の街で目撃されていた時期と地域、または高級車や貴金属を購入していた時期、これらは見事に一致していた。
行動確認のために何度も尾行を繰り返していたが、神野の周囲には確かに取り巻き連中がいた。三、四人の時もあれば、十人を超える集団の時もあった。男も女も入り混じって、朝まで乱痴気騒ぎを繰り返すような連中だ。まともな倫理観なんてありゃしない。自分さえよければいい人間の、特に汚いのをかき集めて、そのうわばみをとってきたよりなおひどかった。
「その中に、結婚相手もいた。美人だった。胸も大きかった。いい家柄の娘だったが、長女じゃなくて次女だった。家柄ってのは厄介だよな、結婚相手にもはくがついてないといけない。次女の場合は特に……何もかも姉に負け続けてきた次女は、特に」
その女性は我々もマークしていた。
神野に近づくカギになるのではないかと、当時は思っていたのだ。
捜査員の中にも、彼女の美貌に見とれる者は大勢いた。長い茶髪にウェーブをかけて、大粒のダイヤのような瞳と、細い眉毛のコントラストが素晴らしくて、ルージュを塗った唇は、ベリーのムースをゼリーでコーティングしたように艶やかだった。
タイトなミニスカートに長いブーツをはいていたせいで、みんな太ももばかり見ていた。
神野もそのうちの一人だったのだろう。
「あいつは富と名声を欲していた。姉に見栄を張りたい、親を見返してやりたい。それだけの女だった。やさぐれて、三流大学でくすぶっていても、それは変わらなかった。オレの名声はあくまでも夢の世界にしか響いていない。富は十分にある。あいつは妥協し、オレ達は出会って数カ月で結婚した」
夢追人の記録は、ここで一旦途切れている。
そこから先、神野が夢に入らなくなったためだ。
「六年前だ」
神野は両手で目頭を押さえ、眉間にシワを寄せた。
思い浮かべたのだ。
あの時、病院の一角で、産毛の一本一本に至るまで、全身に幸せが満ちみちていた瞬間を。
「初めて天音を見た時……こんなに可愛い生き物が世の中にいるんだと……オレぁ初めて知った。目に入れても痛くないなんてよく言うが、ありゃ本当だ。オレは、天音が幸せになるためなら何だってできた」
天音の話になったとたん、夢姫の呼吸が喘息患者のように荒くなった。
また怒りのスイッチでも入ったのだろうと、神野は気にしなかった。話すように要求したのは夢姫だ。神野ではない。
「同時に、泥夢なんか続けてていいのかって、思うようになった。いくらオレでもいつかは年を取る。そうすれば衰える。今までみたいに稼げなくなる。それに、人に言えない金で飯食って、天音がどう思うのか……そんな親で、胸張って娘を育てられるのか……色んな事が頭をよぎった」
神野は両手を広げ、身の潔白を証明するかのようにひらひらと振った。
種も仕掛けもないと主張するマジシャンのように笑顔を作った。
「オレは泥夢稼業から足を洗った。きれいさっぱり!二度と他人の夢に入らず、まっとうに生きていくことを決意した」
夢姫は一ミリも笑わなかった。
神野は肩をすくめ、笑顔を引っ込めた。
「だが……人間、自分のやったことには必ずつけを払わなくちゃならない。逃げきれるなんて甘い幻想を抱いても、それは、向き合うことを先延ばしにしているにすぎない。貯金が底をつきて……オレの稼ぎがなくなったことを、あいつはすぐに感じ取った。女の勘ってやつらしい。めんどくせえ、新しい職を探す暇さえ与えてくれねえってんだ。それだけならまだ言い訳もできたが、タイミングが悪かった。トダケンはああ見えて優秀でね。オレの家まで事情聴取に来たよ」
神野は自虐的な笑みを浮かべた。
あの若い警醒偸官が来た時、一目見てエノラ・ゲイから救ってやった奴だとわかった。
恩を仇で返されたなどと、つまらないことは言わない。
むしろよく追いついたと、当時は思ったものだ。
「二日後、事情聴取から戻ったら、家はもぬけの殻だった」
夢姫が初めて、小さく反応した。
ねずみがしゃっくりしたような、ほんのわずかの動揺だった。
何か言いたいのかと勘ぐったが、残された思い出話はあとわずかだ。楽しい話ではない。神野は一息に話してしまうことにした。
「裁判までしたが、無職のオレに親権は与えられなかった。それどころか、警醒偸の世話になったせいで素行不良者とみなされ、相手の同意なしに面会ができなくなった。あいつがオレに求めるものはいつも一つ。養育費なんて言葉で誤魔化してやがるが、結局はコレだ。これこれ。これがなきゃ、娘に会う資格がないんだとよ」
神野は親指と人差し指で輪っかを作ると、下品にちゃらちゃらと振り回した。黄金色の輝きがなくとも、これが何を意味するのかわかるはずだ。
夢姫は、理解したのだろう、表情を陰らせた。
唇にうす紫色がさし、目つきが鋭くなった。
「じゃあなに?泥夢がバレて離婚されました。娘に会いたいけどお金がありません。お金を稼ぐために泥夢します……ってこと?」
「だったらなんだよ……!お前、今さら綺麗ごとで説教するつもりか?」
何か攻撃してくるに違いないと、長年の経験で神野はわかっていた。
だからすぐに反撃した。
うんざりしていた。須磨のババアもトダケンも、みんな同じことを言いやがる。
お前が悪い。報いを受けろ。罪を償え。
うるさい。そんなことは分かっている。
その辺のガキと一緒にされるのはまっぴらごめんだ。オレは大人だ。やるべきこと、なすべきことは分かっている。それを無視してでも娘に会いたい。全世界を敵に回してでも娘をこの手に抱きたい。この気持ちがわからないあいつらこそ間違っている!
世の道理を知らない小娘にも、そう言い返してやるつもりだった。
ところが、神野右蛻は、夢姫に向かってただの一言も罵声を浴びせることができなかった。
「うちを買おうとしたのも、うちの頭から記憶を盗むためなん……?」
モニターの広告にかき消されそうなほど小さな声で、夢姫が言った。
神野はもうすぐで唇が飛んでいってしまうかと思った。
用意していた言葉に対して、まったくそぐわない質問が飛んで来たから。
「は…………?そうだ」
混乱しながらも、神野は答えた。
夢姫はなぜか、悲鳴のような声を上げて息を飲み、告白前の女子みたいに、スカートの裾をぎゅぅ、と握った。
うつむきがちだった顔がさらに下を向いて、今にも首が折れてしまうんじゃないかというくらい、頭が垂れ下がった。
今さら何を気にしているのだ。
神野には理解できなかった。
オレは泥夢だと言った。お前に嘘をついていたと。
なぜそれを再確認する必要がある。
女はいつもそうだ。わけのわからないところに突っかかって、ぐるぐるぐるぐる話を戻す。とうの昔に終わったことを、昨日の晩飯くらい直近の話として持ち出す。キリがない。
神野の中で、イライラがどんどん募っていった。フラストレーションがたまり、雪のように積もり、貧乏ゆすりを引き金として雪崩のように決壊した。
「それ以外に何がある。オレは調律師じゃない。人助けをしてる物好きでもない。いいかお前、バットマンもアイアンマンも、金持ちの道楽だ。金のないやつらが他人のことなんか考えられるか?違うだろ、オレたちみたいなのは今日を生きるだけで精いっぱいだ。その上……自分の娘だぞ!自分の娘だ!どうして自分の娘に会うのに金が要る!?あれだ……あれだよお前……オレァあれだ……娘に会いてえんだ悪いか!え!?」
「悪いわアホおぉぉ!」
夢姫が感情を爆発させた。
グラスにひびが入り、パスタの空き皿に乗っていたフォークがひっくり返った。
天井が落ちてくるのではないかと思うほど、彼女の怒りはすさまじかった。実際、神野は机の下へ尻尾をまいて逃げ込んだ。
「なんで盗みなんかするんじゃ!そんなお金で、娘に会って!娘が喜ぶと思うとるんか!スパイダーマンとか、金のないヒーローもおるんじゃ!アホアホ!おじさんのアホ!死ね!」
「あぁ!?誰がそんな言葉づかいをぉ……」
神野はモグラたたきのモグラのように机の下から這い出した。
夢姫があまりにも好き放題言うので、体中の血が頭に上った。
拳を振り上げて、小娘の頬にぶちこんでやろうかとさえ思った。
しかし、神野右蛻は、全く予想だにしないものと対面することとなった。
泣いていた。夢姫が。
生まれて初めて、心がくじける音を聞いた。
偽りの碧玉からぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちていた。
「ゆ、夢姫……?」
夢姫はミント色のカーディガンを伸ばしに伸ばして、一生懸命になって涙をかき集めていた。
まるで、泣いていることがバレるのを恐れるように。
なぜ気付かなかったのだろう。
廊下の逆光のせいにして、女はこうだと決めつけて。
夢姫は最初から、今にも壊れそうな表情をしていたのに。
神野は拳を下ろし、ふらふらと夢姫に近寄った。
せめて、少しでもたくさんの涙を拾ってやろうと、夢姫の頬に手を伸ばした。
「触んな……触んな!」
夢姫から返ってきたのは、激しい拒絶の反応だった。
伸ばした手を払いのけられ、神野は何もできなくなった。
心臓に繋がる血管を釣り糸で縛られたみたいに、胸の奥が苦しくなった。
「夢姫、なんで――――」
「知らん!知いぃ!らあぁんん!!知らんもん!うち……!だって……本当に……!本当の……!」
夢姫はぼろぼろと涙をこぼし、喉を枯らして叫んだ。
言葉が出ない。
抱きしめてやることも、頭を撫でてやることもできない。
神野にはなかったのだ。
わんわん泣く女の子を慰めたことも。
自分の言動に、激しい嫌悪と後悔を抱いたことも。
「アホアホ!おじさ……ん泥夢さんのアホ!死ねぇぇぇぇ!」
夢姫は学生カバンを持ち上げると、ハンマー投げのように振り回した。
「ごっ……ぶぅおおお!」
カバンは神野の腹部に直撃し、眠る前に食べたカルボナーラが、胡椒の一粒まで食道を駆け上った。目の前を星が舞うのは、早くも本日二度目だ。
あまりの激痛で視界が真っ暗になり、神野は腹を抱えてうずくまった。
「ぐはぁっ……ゆ、夢姫……」
懸命に手を伸ばしたが、そこにもう、夢姫の姿はなかった。
入り口のドアが、神野の視界を遮るように、ゆっくりと閉まっていった。
夢姫はカラオケ店から飛び出した。
これ以上涙を流したくなかった。だって、流す度に胸の奥がぎゅっと締め付けられたように苦しくなるから。
泣くのをこらえて、こらえてこらえて、頭の中に水がたまった。おでこが重たくて、前を向けなかった。
道行く人に時にぶつかり、時に蹴散らし、逆に跳ね飛ばされ、地面に投げ出され、手と膝を擦りむいて。夢姫は道路の真ん中で倒れたまま、動かなくなった。
いつしか、夜の匂いの濃いところへ迷い込んでいた。
夢姫がこの先、住み着くことになるような街へ。
ポツリ、ポツリと、夢姫のプリンのような頭に水滴が落ちた。
頼りない、小さな肩に落ちた。
チェックのスカートを濡らし、ビターチョコレートのような色に変えた。
破けてしまったタイツの下で、膝小僧が腫れ上がっている。痛い、という感情が、もっと大きな何かに追いやられ、潰され、心の隅で小さくなっている。
他人の怪我を介抱するのと同じ感覚で、夢姫は傷口を押さえた。
雨は次第に強くなり、土砂降りになった。傷口に雨が染みた。
お尻の周りに水たまりができたので、夢姫はいやいや立ち上がった。
流川のあちこちでネオンが瞬いて、ピンクの色で暗闇を照らし始めた。
顔立ちの整った女性が入っていった店に、仕事帰りのサラリーマンが吸い込まれるように入っていった。
夢姫は空を見上げた。
滝のような雨が顔を洗った。
今ならバレないや。
そう思って夢姫は泣いた。
道路の真ん中で、声を上げて泣いた。
豪雨がアスファルトに跳ねる音で、それがどれだけ痛々しかったか、悲痛だったか、誰にも聞こえなかった。
ただ、彼女はそこで一生分泣いた。
神を、運命を、世の中の大人全員を呪って泣いた。
どうしていつも、あたしはひとりぼっちなん?
答えてくれる人はいない。
慰めてくれる人も、癒してくれる人もいない。
内臓を雑巾絞りのようにねじられたようだった。
ぎりぎりと、じりじりと、痛みが、ずっと、ずっと、消えない。
彼女はもう、十年もの永きに渡って、それを、それだけを求めているのに。
誰もくれない。
手に入れる方法を教えてもくれない。
みんなが持っていて、夢姫には永遠に手に入らないもの。
喉から手が出るほど欲しくて。ただそれだけが欲しくて。胃が裏返るほど伸ばして、やっと手に入れたと思っていたのに。
掴んだものは偽物だった。
まがい物だった。
自分を壊す、破滅の毒でしかなかった。
「お嬢ちゃん、なにしてんの」
べとべとのフライドチキンみたいに脂ぎった声だった。
雨がやんだ。
夢姫は髪先からしずくを落とし、振り返った。
色とりどりの傘が闇の中に溶け込んでいく中、一本の傘が、夢姫の上にかけられていた。
彼女の言葉を借りて言うなら〝品定め〟だ。
傘の柄を握る手はぶよぶよで、人差し指の付け根にある大きなほくろから毛が伸びている。身長は夢姫よりちょっと大きいくらい、狸のようにポッコリ出た腹をベルトの上に乗せたデブ。高そうなスーツに、自信たっぷりの赤いネクタイ。革靴は雨粒をはじくくらいピカピカに磨かれている。
顔はどうだ。大きな鉤鼻に脂汗が浮かんでいて、髪がザビエルのように禿げあがっている。出目金のような目がキョロんで、夢姫の胸元に注がれている。
ラッキぃ、当たりじゃん。
夢姫は嬉し涙を流し、他人事のように笑った。
「ねぇ……、おじさん」
「んー?ふぅ、ふっ、どうしたの?」
おじさんは卑しい笑みを浮かべ、鼻を膨らませた。
夢姫は傘の柄に巻き付いている男の手を、いやらしい手つきで握った。
「あたしのこと、買わない?」