第六章 仕事をてごうして
「あっつ……あっ!つうぅぅぅ!もう九月じゃろ?はぁ」
歩行者信号の切り替わりを待つ夢姫は、ミント色のカーディガンを羽のように広げ、自分の背中をバッサバッサ扇いだ。
腕まくりをすればいいと俺は思うのだが、それじゃカーディガン着んでいいじゃん、と否定された。
着なければいいと返せば、可愛くないじゃん、と言われた。どうしろと言うんだ。
夢姫は灼熱の太陽に向かって顔を上げ、くんくんと鼻の穴を開いた。
対岸まで渡り、十五歩歩いたところにあるカラオケ店に入った。
自動ドアをくぐったとたん、白くまアイスを食べた時の百倍涼しくなった。全身の汗をまき散らしながら伸びをした。
「いらっしゃいま……」
「先に入ってるんでー」
店員ににこやかに告げると、店の奥にあるエレベーターまでずかずかと進んだ。
チン――、いやに古い音だ。夢姫はエレベーターを降りて、三階に充満する匂いを嗅いだ。すんすん、と鼻息が続いた後、むふふんと勝ち誇った笑みがこぼれた。
5が半分かけた502号室の前で、夢姫は止まった。
こっそり扉を開けると、薄暗い部屋の中で、おじさんがガアガア言いながら寝ていた。
明かりと言えば、広告動画を垂れながすモニターと、蛍光塗料がぼぅっと光る壁だけだ。
夢姫は抜き足差し足で中に入り、重たい学生カバンを、音が出ぬようそぉっと机に下ろした。
おじさんはいつも通り、〝起こすな!〟と書かれた紙を背中に張り付けていた。
机に突っ伏すその頬に、モニターの明かりがチカチカと反射していた。
夢姫はふと思った。
夢に入っている人は、どれくらいの衝撃で目を覚ますのだろうか。
別に、あのきちゃない髭をねぇ、こっそり抜いてろうとか、違うから。と否定はしていた。
「おじさ~ん……」
まずは小さな声で、おじさんの耳をこそばした。
「ゔゔん!おっ、じさぁ~ん。可愛い女の子が、おじさんに会いに来とるよぉ~」
もう少しボリュームを上げてみた。どちらの場合も、おじさんは身じろぎ一つしなかった。
そんな必要はないのに、夢姫は入り口をチラリと見た。ガラスの向こうに無人の廊下しか見えないことを確認すると、爪の伸びた指先で、おじさんの頬毛を一つつまみ、引っこ抜いた。
「ぶるふぁっはん!」
おじさんの頬が、髭を追いかけてたなびいた。
まき散らされた唾から逃げるように、夢姫は机の下に隠れた。
しばらくニヤニヤしながら頭を抱えていたが、おじさんはどうやら目覚めなかった。机の上から、再びいびきが聞こえてきた。
夢姫は一人でウッシッシと笑うと、意気揚々と次のイタズラ目指して立ち上がった。
そして、顔面蒼白のおじさんと鉢合わせになった。
いつの間にか目覚めて、夢姫を待ち構えていたのだ。
もうすぐで頭と頭がぶつかるところだった。おまけに、驚きすぎて唾が飛び出し、前歯で跳ね返って気管に入った。
「ぅわっ……!ぶほっ!ごほっ!えほっえほっ……!うぇぇ……ビックリするじゃんか、もぉ……」
夢姫は被害者面して咳きこんだ。
「夢姫」
そのせいで、おじさんが夜明け前の海のように静かに喋ったのを、聞き逃していた。
「夢姫」
おじさんはもう一度口を開いた。
夢姫は、今度は聞こえないふりをした。
「起きとるなら言ってよね、うちも、心の準備がある――」
「夢姫!」
大砲のような怒号で、夢姫は口をつぐんだ。
おじさんは髭を全部逆立てて、どろどろの瞳の奥で、静かに炎を燃やしていた。一目見て、冗談ではなく本気で怒っているのだとわかった。
「このバカ!寝てる最中に起こすやつがあるか!」
軽い冗談のつもりだった夢姫は、もう本当に驚いてしまって、しどろもどろしながら言い訳した。
「そ、そんなに怒らんでもええじゃんか、ちょっと仕事の邪魔したくらい――」
「仕事なんかどうでもいい!オレの夢に誰か入ってたらどうするんだ!お前が人殺しになるんだぞ!」
カラオケの防音設備がふっとんだ。
そう思えるほどの剣幕で、おじさんは吠えた。
心臓を握りつぶされたような気がして、夢姫は自分の体を抱きしめた。
殴られたわけでもないのに、頭が痺れた。喉が閉じて舌が張り付いた。膝から力が抜けて、机に手をつかなければ立っていられなくなった。本当に、取って食われるかと思った。
夢姫が震えているのを見て、おじさんはもう大きな声を出さなかった。
自分で背中の張り紙を引きはがし、机の上にべしゃっと投げつけた。
「夢姫、掟の話は覚えてるか」
夢姫は小さくうなずいた。
「……夢の持ち主が目覚める前に、夢から出ろって……」
「オレの師匠は……掟を破って死んだ」
おじさんは左腕につけた腕時計を、名残惜しそうに撫でた。
「どうしようもなかった。そうするしか、他に選択肢はなかった……須磨のババアは今でも言う。師匠は、神崎は、今も夢を見続けている。それで本望だろうっ、て」
夢姫は、おじさんの腕時計をじっと見た。細長い文字盤に、カラフルな数字が描かれた腕時計を。秒針が、一秒ごとに時を刻む腕時計を。
「オレはそうは思わない」
おじさんはメキメキと、腕時計が泣き叫ぶくらい強く握りしめた。
「目の前で見た者には、永遠に後悔が残る。人の命は軽くない。お前に、そんな後悔をさせたくない」
おじさんは、もう少しで泣き出してしまうのではないかと思うほど、憂いに満ちた表情をしていた。
自分が何をしでかしたのか、事の重大さが痛いほど身に染みた。
おじさんが張り紙をしている時は、何があっても起こしてはいけないのだと、心の底から思い知った。
「ご、ごめんなさい……」
こんなに申し訳ない気持ちになるのは生まれて初めてだった。
夢姫はいつだって自分勝手に生きてきたが、それは、周りにいる人間がみんな自分勝手だったからだ。
人を想って怒る人がいるということを、彼女は今の今まで知らなかった。
「わかればいい。言い過ぎた」
おじさんはぶっきらぼうに言うと、モニターの横に置いてある、マイクやタブレットのところまで歩いて行った。
夢姫はへなへなと、倒れこむようにソファに座り、うつむいた。
おじさんの顔を見ていられなくて、胸の前で両手の人差し指を突っつき合わせた。
「トイレに行ってくる。なんか頼んどけ」
夢姫は突然、頭をぽんぽんと撫でられた。
顔を上げると、机の上に、〝フードメニュー〟とラベルの張られたタブレットが置いてあった。
扉の方を見ると、ちょうど、おじさんの背中が廊下に消えていくところだった。
おじさんの手が大きくて。
お持ち帰りしたたい焼きみたいにあったかくて。
名残惜しくて。
きっと、さっきおじさんが腕時計を撫でていた時も、こんな気分なんだろうと、自分にそう言い聞かせて。
夢姫は、プリンのようになった自分の金髪を、ずっと、ずっと、撫で続けた。
「調律の仕事だ」
高くてマズいカルボナーラを頬張りながら、おじさんが言った。
白いチーズが髭にこびりついているのが、薄暗い中でもよく見えた。
「誰行くん?」
夢姫はフライドポテトを四、五本鷲掴みにして、自分の口に放り込んだ。
飲み込むと同時に、もう片方の手で握っていたピザをなだれ込ませた。
「向かいのビルに住んでる苦学生だ。四階、401号室」
「クガクセイ?かわった名前じゃね」
自分のことを棚に上げながら、夢姫ははぐはぐとピザを咀嚼した。
「あーほ、苦しむ学生とかいて苦学生だ。苦しむは書けるよな?お金のない大学生とか、そういうのを苦学生って言うんだよ」
「あー!そっちね!そっち!」
最初から知っていた雰囲気を出すため、夢姫は名探偵のようにおじさんの顔を指で指した。
おじさんには華麗にスルーされた。
「夢は学校だ。お姫様に邪魔されるまで見てた」
カルボナーラを食べ終えたおじさんは、皿の縁でフォークを三回、鳴らした。
「……やめてや、今日はそういうの。ふざけれんじゃん。ホンマに悪かったと思っとるのに」
夢姫はとたんにあばらの内側がむずがゆくなって、頬がカイロのように火照った。
なるべくおじさんの視線から逃れたくて、顔を隠すように、左手で銀色のピアスを何度もはじいた。
「なんだ素直だな、気持ちわりい」
「んべっ!」
夢姫は元気よくあっかんべをした。
「体育館が怪しい」
「部活かね」
「さあな、入るぞ」
おじさんはナプキンでさっと口を拭くと、カルボナーラの皿を机の角まで追いやった。
さっきひっぺがしてくしゃくしゃになった〝起こすな!〟を拾い上げ、自分の背中にべん!と叩きつけた。
夢姫は優勝した力士のようにフライドポテトの大皿を抱え、大急ぎで残り全部を口の中に投入した。
おじさんが机に突っ伏してから、遅れること十二秒。
夢姫は右手と左手で作った枕に飛び込んだ。
夢へのアプローチは人それぞれ違う。
ゆるやかに眠りにつく者もいれば、落ちるように寝てしまう者もいる。俺のように、眠るまでにひどく時間がかかるやつは大変だ。目的地を見失わないまま、暗闇の中でもがき続けなければならない。
その点、夢姫は、神野や須磨の言う通り天才だ。
目をつぶってから、無意識下に潜るまで僅か二秒。
鼻が利くおかげで、迷うことなく神野の後を追っていけるというのだ。
この時も、カラオケボックスの壁をすり抜け、ダクトや非常階段のひしめくビルの裏へ出た。
そのまま、羽もプロペラもないドローンになって、意識だけが飛んでいく。
おじさんがすでに通った道筋が、色のついた煙となって漂っている。夢姫には見える。夢姫にだけ見える。
道行く人たちは、煙も、夢姫の姿も見えていない。
夏は暑いねとか、あそこのジェラート食べよとか、誰でもする会話で満足している。
こんなに面白いことがあるのに、なんてもったいないのだと夢姫はいつも思う。
勝ち誇っていられる。
煙の道は、ジェットコースターのような軌道を描いて、道路を挟んで反対側のビルに続いている。一見すると、廃墟のように見える、四階建てのビルだ。こげ茶色のレンガブロックの外壁がところどころ欠け落ち、中のコンクリがむき出しになっている。窓はくすみ、カーテンのかかっていない部屋も多い。
夢姫は飢えた野獣ばりの勢いで突き進む。空を滑る。
息を飲むような急降下の後、四階の角の部屋に、仮面ライダーの必殺技のような体勢で突っ込んでいく。
窓ガラスをすり抜けて、部屋の中に侵入する。
ボロボロのベッドと、ゴミが散乱した床、参考書が山のように積みあがった小さな机、その中にほとんど埋まるようにして、クガクセイが寝ている。夢姫やおじさんと同じように、机に突っ伏して寝ている。勉強中に力尽きたのか、右手にペンを、左手にうちわを握っている。それはいいとして、タンクトップとトランクスという下着姿はいただけない。おじさんと同じように髭を伸ばしっぱなしの横顔もいただけない。清潔感はモテの第一歩だというのに、どうしてそこをおろそかにするのか、夢姫は理解できない。
勉強ができるのがそんなに偉いのか。
身だしなみもできないのに?
そんなものに囚われるなんて、可哀そう。
夢姫はそう思って、クガクセイの頭めがけて飛び込んだ。
みーん、みんみんみんみいぃぃーん……みぃー――
「あっっっつっっっ!」
黙っていれば永遠に鳴き続けるアブラゼミに、その大合唱にのっかってギラギラ照り付ける太陽に、夢姫は苦情を申し立てた。
おじさんの言った通り、中は学校だった。それも真夏の。
夢姫たちがいるのはグランドのど真ん中だ。サッカーゴールが遠い。
体育祭のクラス対抗リレーで使うであろうトラックが、地面にロープを打ち付けて縁取りされている。その向こうには、やけにピカピカの、四階建ての校舎が四棟も並んでいる。巨人がドミノ倒しを試みたかのように大きく、そしてぴっちりと等間隔で並んでいる。校舎群の左側には巨大戦艦のような二階建ての体育館が鎮座し、右側には、メーングランドとは別に、野球部用のグランドが整備されている。
これだけ大規模な学校なら、氷河期の人気者マンモスであることに間違いないのだが、寂しいことに、敷地内は無人の砂漠よろしく静まりかえっていた。
「なんで夢の中まで暑くするん。意味わからんのじゃけどマジで」
「知るか、夏になんか思い入れがあるんだろ。ほら、教えた通りやれ」
おじさんが取り合ってくれなかったので、夢姫は不機嫌になった。仏頂面のまま、自分の頭のてっぺんをぺたん、と叩いてから、右手の人差し指を立て、目をつぶった。すぅ、深呼吸して、ハリーやハーマイオニーのようにくねくねと手を動かした。
人差し指が通った後には、銀色の線が描かれていって、それは柄のついた手鏡の形をとった。夢姫が目を開くころには、空中に、花柄の手鏡が出来上がっていた。
夢姫は得意げに手鏡をひったくると、自分の頭を確認した。プリンのようだった髪が、毛根まで綺麗な金髪に戻っている。どうやって自分の毛根を見たのかは知らん、俺は言われた通り記述しただけだ。
彼女はなにも、お色直しをしたかったわけではない。現実にはありえない行動をとることで、幻実化を解いたのだ。手鏡をぐるぐる振り回し、空気にかき混ぜて溶かしたころには、全身の汗が引き、暑さはひと夏昔の思い出になっていた。
ここ最近では一番うまくできたのではないかと、夢姫はうぬぼれた。褒めてもらおうとおじさんの方を見たが、残念、おじさんはさっさと歩き出していた。
「ほらぁー、置いてくぞぉー」
おじさんが目指しているのは体育館だ。なんとなく怪しいそうだ。何故そう思うのか尋ねても、毎回、『なんとなくだよ、なんとなく』としか返ってこない。
とりあえず行ってみよう。が、おじさんの常套句だ。
「だいたい、体育館って言っても、何をとったらええかわからんじゃん。目星はついとるん」
「全然?」
おじさんは嬉しそうに笑った。
実際、この〝なんとなく〟は本当になんとなくであり、ニアミスや完全に外れることも(稀にだが)ある。夢姫はもう慣れた。おじさん曰く、きちんと寝入先の夢の持ち主のことを調べていけば、ある程度絞れるらしいのだが。
「おじさんてさぁ、いっつも下調べが足りんよね」
体育館の側面にある引き戸に手をかけた。扉が重たく、片手では開かなかった。
両手で引き戸の取っ手を持ち、全体重をかけ、じわじわと開いて行った。
おじさんも片手を添えて、助太刀してくれた。
「助けを必要としている人は多い。ある程度狙いは絞るが、全部は無理だ」
絶対ウソだ。めんどいだけだ。夢姫は確信している。
扉を開くと、見事な体育館が姿を現した。
つやっつやの板が敷き詰められたバスケットコートがなんと四面、奥には一段高いステージ。バスケットゴールの後ろには、珍しいことに観客席が設けられており、椅子が階段状に三列並んでいる。夢姫の学校には、キャットウォークという通路があるだけなのに。
観客席の後ろはほとんどが窓になっていて、太陽の光をたくさんとりこんでいた。室内であるはずの体育館に、屋外と変わらない明るさを提供してくれている。
そのおかげで、一瞬で全てを理解した。
体育館の床一面に、おびただしい数のバスケットボールが転がっている。
「バスケじゃね」
「バスケだな」
夢姫とおじさんはほとんど同時につぶやいた。
バスケットボールは、スイカ畑かよ!と突っ込みたくなるくらい大量に転がっていた。夢姫はパンプスのまま体育館に上がり、ステージから数えて二つ目のコートに侵入した。ボールを一つ拾い上げ、手の平で表面のつぶつぶ感を楽しんだ。
夢の持ち主はあきらかにバスケに対して何らかのトラウマを抱えている。割れたやつとか、色の違うやつとか、何か特徴のあるものがあれば、きっとそれが真打だ。夢姫はバスケットボール畑に目を走らせ、それを探した。
すぐ近くで、おじさんがしゃがみこんでいた。
その手には、今まさに夢姫が探していた、割れたボールがつままれていた。
「ちぇ、またおじさんか」
夢姫は足下に転がっていたボールを蹴っ飛ばした。
いつもそうだ。
おじさんは、チョウリツの仕事に関しては夢姫の二十年先を行く。当たり前のようにやる。今だって、穴が開いてペラペラになったボールを、全くの無表情で見つめて……いない。
どうも様子が変だ。
おじさんはペラペラのボールつまみあげたまま、小首をかしげていた。
そして、バスケットボール畑ではなく、体育館内部をくまなく、それも、体育倉庫やステージ、観客席に繋がる扉など、いかにもな場所に次々と注意を向けた。
険しい顔をしたまま立ち上がり、ペラペラのボールを丸め、苔色コートのポケットに押し込んだ。
なにしとんじゃろ、と思いながら、夢姫は持っていたバスケットボールを床に叩きつけた。ダムダムと二度バウンドさせ、もう一度手に抱えた。
ほら、何も問題ない。ただのバスケットボールだ。何の変哲も面白味もない、ただのバスケットボール――
――では、なかった。
夢姫は両手の中でバスケットボールのふりをしている何かを凝視した。
なんじゃ、これ……。
色も形も、バウンドさせた感じも全部バスケットボールなのに、持っているだけで、時限爆弾を抱えているような不安に襲われる。
どうして気付かなかったのだろう。
体育館に転がっている無数のバスケットボール全てから、同じように殺気を感じる。まるで、人の意志が宿っているかのような殺気が。
「おじさぁん!」
夢姫が叫んだとたん、おじさんの顔がきゅっとこわばった。
「夢姫!」
予感がした。強烈な勘だ。
「それを離――!」
両手の中で、バスケットボールが爆発した。
ものすごい音と閃光が放たれ、夢姫は後ろ向きに吹っ飛んだ。
後頭部が床に叩きつけられる直前、おじさんの大きな右手に、夢姫は救われた。
夢姫が持っていたバスケットボールに続け抜かせとばかりに、体育館中のバスケットボールが爆発を始めた。
「ゆ―姫!だい――か!夢――!」
爆発音がおじさんの声をかき消した。
だが、おじさんの表情を見れば、どれほどの惨事が起きたのかわかる。
夢姫はおじさんに抱かれたまま、放心状態でその顔を見上げていた。
いけない。
「夢姫!」
ここにいてはいけない!
バスケットボールの爆発は、人を破壊するためのものではなかった。
夢姫の両手にも、腹にも、胸にも顔にも髪にさえも、一つの傷もついていない。
殺してはいけないのだ。
殺してしまうと、目覚めてしまうから――
プシュウゥゥゥ!と空気の抜ける音がした。そこら中でした。
爆発したバスケットボールから、その全てから、真っ白な煙が噴出していた。
煙はあっという間に体育館に充満し、夢姫の視界を、目の前のおじさんが見えなくなるくらいに覆い隠した。
見えない世界の中で、おじさんにぎゅっと抱き寄せられるのだけを感じていた。
霧が晴れていく。
夢姫はおじさんの肩に手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。
体育館の中が様変わりしている。
四面あるバスケットコートを外側から囲むように、スーツ姿の男たちがびっちりと立っている。二階の観客席にも、同じくスーツの男たちが、四方から夢姫たちを見下ろすように並んでいる。
総勢百名はくだらないか、彼らのスーツは全て、喪服のように真っ黒で、シワ一つなくて、ネクタイも黒で統一されている。不気味なほど整ったその隊列に、一言も言葉を漏らさぬ静けさに、夢姫は冷や汗をかいた。
隣で、おじさんが不敵に笑った。
「おいおい葬式かよ」
冗談までこぼしていた。
夢姫は気が気ではなかった。
この人たちは、夢の住人ではない。
寝入者だ。
「葬式だ。貴様の悪行のな」
ステージから声がした。
広い体育館に、すりきれた声が反響した。
そいつはたった一人、ステージの上に立っていた。
紺色のスーツパンツで、アイロンがかかったカッターを袖まくりしていて、頭は短いスポーツ刈りで、眼が少し青かった。ただしこの時は、髭が少々伸びていて、カミソリのような眉毛も、あまりきれいに整えられていなかった。清潔感をかなぐり捨て、ややすれた印象を受けた。
だからと言って見間違えるはずもない。夢姫が初めて夢に入ったあの日、おじさんにドロップキックをかました若造だ。
「お前!おじさんのおっかけじゃろ!?」
「おっかけじゃない。警醒偸だ」
若造は斜めに構え、気だるそうに左手を持ち上げた。
ジャラリと音がして、ギラリと光が反射した。音の正体は鈍い色をした手錠で、光の正体は腕時計だった。
赤く縁取られた半円と青く縁取られた半円が組み合わさった文字盤の中で、秒針が異常な速さで回転していた。
「警察!?なんで警察が出てくるんじゃ!おじさんは、チョウリツの仕事しとるだけなのに!」
「お前が神野に何を吹き込まれたのか知らないが、調律師とは須磨律子のような人物を指す言葉だ。我々の正式な依頼を受けて動く」
「なっ……!そんなわけない!悪夢を取り除いて、おじさんは――」
「いい夢だろうが、悪夢だろうが、夢はその持ち主だけのものだ。勝手に持ち出せば、たちまち歪みが生じ、ほころびができる。ほころびをそのままにしておけば、取り返しのつかない大崩壊が起き、精神の破壊を招く。それを修復するのが調律師だ。神野右蛻ではない」
若造は夢姫の言葉をちっとも聞かず、言いたいことをベラベラまくし立てた。
しかしなぜか、真に迫る感じだ。
青い若造の青い眼は、嘘をついている人間のものではないのだた。
おじさんが、どろどろの瞳の奥で時おり見せる、ネクタイを引き絞った時に見せる、真剣な眼差し。あの光と同じだ。
夢姫は二の句が出なかった。若造の言葉を理解したくない脳みそと、若造の言葉を早く伝達したい両耳が、頭の中で激しい闘いを繰り広げていた。
「大阪の二島に四十万のおっさん……ありゃぁ、陸自の特夢部隊か!よくもまぁ、集めたもんだ」
おじさんは、自分を取り囲んでいる喪服たちを次々に指さした。
なぜ、そんなに平然としていられるのか、夢姫にはわからなかった。
「それだけ、貴様をあげることに上はやっきになっているということだ。俺もなりふりかまっていられない」
「この夢も罠か」
「睡眠導入剤を散布した」
「なるほど、自力で寝覚めるのは不可能か」
おじさんは自分の体をしげしげと眺めた。
若造や喪服たちの間に、研ぎ澄まされた刃のように鋭い緊張が走った。おじさんは腕を上げたり膝を曲げたりしただけなのに、まるで武器でも取り出したかのような扱いだった。
その隙に、おじさんが小さなちいさな声で言った。自分だけに聞かせたかったのだと、夢姫は気付いた。
「下調べが甘い……悪いな夢姫、お前の言う通りだ」
おじさんの大きな手が、頭の上に乗せられた。
わしわし撫でられるのだと思っていたら、違った。
震えていた。あのおじさんが。
「大人の汚さを覚えやがって~、トダケン~」
おじさんの指にぎゅぅ、と力が入り、夢姫は頭を鷲掴みにされた。
痛いのとはまた違う感情で、夢姫は息苦しくなった。
若造はおじさんの誘いに乗らなかった。わずかに眉をひそめはしたが、腕時計から顔を上げ、口角を一瞬、跳ね上げただけで終えた。
「違う、現実を見るようになっただけだ、貴様のように、夢だけでなく」
「バあぁカ野郎、泥夢が夢を見なくなったら終しめえよ」
謎の江戸っ子口調の後、逃げろ、夢姫、という声が、何光年も先でこだました気がした。
「第一防御壁!作動!」
若造の言葉が炸裂した。
体育館に緊張が走り、喪服たちが一斉に動いた。
おじさんの手が乱暴に振り落とされ、夢姫は頭からつんのめった。
「わぷ!」
つんと汗の匂うおじさんの太ももに顔をうずめてしまい、夢姫は最初の十数秒を真っ暗闇で過ごした。
次に顔を上げた時、頭上には、無数の網が広がっていた。
漁師なんかが使うような巨大な網が、何十何百と折り重なって、おじさんと夢姫の上に降って来るのだ。
おじさんが悪魔のように笑った。口が耳まで裂けていた。それがおじさんの本当の顔なのではないかと思うほど、いきいきとした狂喜に満ち溢れていた。
おじさんが右手を振り回すと、鞭を持っているかのように大きく振り回すと、塵旋風が巻き起こった。ものすごいエネルギーだ。風の中心にいる夢姫でさえ、おじさんの足にしがみついていなければ、立っていることさえできない。
おじさんの巻き起こした風は、網を吹き飛ばすなどという生やさしいことはしなかった。鋭い風切り音で、スパスパと網を切り刻んでしまった。
ボトン、ボトトンと、太い綱が体育館の床に落ちた。
「第二防御壁、作動!」
ステージの上で若造が叫んだ。
喪服の集団がまたそれに従った。
手に持っていた綱の切れ端をかなぐり捨て――さっきの網は、あいつらが投げたのだ――一階にいる者は自分の足下に、二階にいる者は観客席の手すりに手をかざした。
ミシミシという音が一瞬で最高潮に達し、床板が、手すりがめくりあがった。
喪服たちの足下から床板が撒きあがり、向かってくる。根元からちぎれた手すりが、特攻を仕掛ける飛行機のように飛んでくる。
おじさんはコートを翻し、夢姫に覆いかぶさった。その直後、ゴォン!とお寺の鐘のような音が鳴り、おじさんがうめいた。
コートと腕の隙間から外を見ると、手すりが、朝顔の蔓のようにおじさんに巻き付いていた。さらにその上から、おびただしい数の床板が幾重にも張り付いていた。
「急げ!畳みかけろ!」
床板の向こうから、くぐもった若造の声が聞こえる。
ぐるるるるる……おじさんが、苦しそうに呻いている。
腕が、足が、徐々に太くなり、スーツパンツやコートが、パチパチと悲鳴を上げ始める。指先が、爪がありえない速度で伸び始め、ナイフのように鋭くなる。
「お、おじさん!」
見上げると、そこにおじさんの顔はなかった。
鼻と口が大きく突き出し、唇からは巨大な牙が覗いていた。
両目はピンポン玉のように大きく、黄色く、瞳孔がトカゲのように切れ長だった。
髪の毛にも見える黒い体毛が、頭のてっぺんから、首の後ろにかけて長く伸びている。伸びる余地があるということは、首もそれ相応に長い。
苔色のコートはどうなった!?あぁ、ダメだ。ビロビロに引き裂かれている。おじさんの足下までだらしなく垂れ下がって、薄い膜を張っている。表面には、キラキラ光る鱗のようなものが見える。
違う。あれは翼だ。
龍だ。
「グォオオオォォアアアァァァァァァ!」
翠の龍が咆哮し、翼を雄々しく振り上げた。
鋼鉄の手すりと木製の床板が紙細工のように弾け飛び、衝撃波をおまけにつけて喪服たちを襲った。
喪服たちは、かわした奴が半分、破壊して免れた奴がそのまたさらに半分。対処しきれなかった四分の一が、瓦礫の下に埋もれた。
龍の太い腕が伸びてきて、夢姫は胴をむんずと掴まれた。そこで気付いた。いつの間にか、指の一本に至るまで、おじさんの全身が、翠の鱗に覆われている!
「え!ぅわ!」
龍はウォーッ!と唸って、夢姫を伴って飛び上がった。
翼が上下するのに合わせて、夢姫の体もがくん、がくんと揺れた。
「くそっ、第三防御壁作動!」
ステージの方で、若造が三度目の号令をかけた。
観客席の座席がスライドし、下から大きな銃座がせりあがってきた。夢姫の身長より長い、真っ黒な砲身だった。
引き金を引く人間がいないのに、その銃口は、まっすぐ龍を追い続けている。同様の物が、あちこちで起動している。
ドーン!と大砲のような音を立てて、一番近くの銃座が火を噴いた。
龍がほぼ直角に向きを変え、夢姫は脳みそが右耳から飛び出しそうになった。
目の前をかすめるように、黒く、細長い何かが通り過ぎて行った。
その行方を目で追うと、巨大な槍が、体育館の壁に突き立っているのが見えた。
大砲のような音はあちこちで鳴り、龍は目まぐるしく方向を変え続けた。急上昇、急降下、きりもみ回転、宙返り……アクロバティックな飛行で無人の銃座を翻弄した。
相手も負けてはいない。何十という銃座が、いやらしいほどねちっこく龍を追い続け、途切れることなく槍を放ち続けた。
無数に放たれたうちの一本が、夢姫の顔めがけて飛んで来た。
「グルァアア!」
「あっ――!ダメぇ!」
龍の目がギラリと光った。
夢姫をかばうように、自らの長い首を伸ばして槍を受け止めた。
「ギョアァァァァァァァァ……!」
槍は龍の首をえぐった。血しぶきとともに、龍は苦悶の叫びをあげた。
全身の筋肉がぎゅっと収縮し、胸に抱かれていた夢姫は締め付けられて意識が飛びそうになった。
銃座は追い打ちをかけるように槍を放ってくる。
槍が、龍の肩に突き刺さり、足を切り裂き、翼に穴を空けた。
羽ばたく速度が目に見えて遅くなり、龍はゼエゼエと息切れし始めた。
「おじさん!おじさぁん!」
夢姫は龍の胸を叩いた。
龍の血がぼたぼたと床に落ちていった。ふらふらと危なげに飛び、今にも目を閉じてしまいそうだった。落ちそうになるたびに、龍は何度も何度も首を振り、大きな黄色い瞳をしばたかせた。
「ググググ……」
龍が苦しそうに唸り始めた。
どうにかして助けてやれないかと、夢姫は一番近くの肩の傷口に手を当てた。
「あっ!」
龍の肌は、お好み焼きの鉄板のように熱くなっていた。夢姫は手を離し、龍の顔を見上げた。
牙と牙の隙間から、小さな火の粉が舞っていた。
「コカァアアアアアア!」
甲高く鳴いた後、龍は細長い口をガパッと開いた。
眩い光を放って、灼熱の炎が噴射された。
顔が焼けるかと思って、夢姫は両腕で頭を抱えた。
観客席が火の海になり、銃座を支えていた支柱が、飴細工のようにひしゃげた。
龍は炎を噴き出し続け、若造のいるステージへと向けた。
「ぅおっ!」
若造の姿は、一瞬で炎の向こうに消えた。
「グルルァ!」
龍は再び吠えると、肩に刺さっていた槍をへし折り、翼をより一層強く動かした。夢姫は一気に、バスケットゴールと同じ高さまで浮いた。
風を捕まえて龍は、より速く、高く飛んだ。夢姫を抱えたまま、体育館の中を飛び回った。
喪服たちの頭上を通る度、龍は炎を噴きかけた。
「ぎゃああーっ!」
「うわあぁぁぁ!」
喪服たちは炎に焼かれ、そこら中で転げまわった。
二人ほど勘のいい奴がいて、上着の内ポケットからかぎ爪のついた縄を取り出し、カウボーイのようにヒュンヒュン回し始めた。
夢姫は急いで龍に伝えようとしたが、声にする前に喪服がふっとんだ。
龍が、喪服のそばを通り過ぎたわずか一瞬の間に、ヘビのように長い尻尾を叩きつけたのだ。
もう一人がかぎ爪をこちらに向かって投げつけてきたが、龍は空中で身をよじってかわした。
そのまま、天井に向かってぐんぐん加速していった。
「オロロロロロロロロ!」
一際大きく吠え、龍は天井に激突した。
周りの鉄骨や屋根の板材をもろとも吹き飛ばし、体育館の外に踊り出た。
振り返ると、屋根は半分、粉々になっていた。
龍は穴だらけになった翼を懸命に振る。その度に、血が点々と落ちて行く。
「あぁっ――おじさん――」
夢姫は龍を抱きしめ、祈る。
二人は重力に抗い、空高く上っていく。
諦めるものか。
手の中からすり抜けるようにして逃げていく龍を、俺は睨みあげた。
炎の中で、すすの混じった煙に咳きこみながら。
「だっ……第四防御壁……作動おぉぉぉぉ!」
これは保険だ。
体育館に配備した人員、兵器が、すべて機能しなくなった時のために。
なぜならば。
これを作動させれば、誰もかれもを巻き込んで、収集がつかなくなるからだ。
カチリ、と乾いた音がした。
おもちゃの宝箱を開けた時のような、安い鍵の音に似ていた。
砂糖に吸い寄せられるアリのように、夢姫たちの頭上に、大量の雨雲が集結した。
バケツをひっくり返したように水をぶちまけた。
「なに……あれ……!」
夢姫は目を疑った。
ゲリラ豪雨のように振り出した雨にではない。
何度も目をこすり、まぶたをしばたかせた。
すでに龍は、体育館の二倍の高さまで高度を上げ、四階建ての校舎さえ見下ろす位置にいる。
それさえも超える、巨大な水の壁が押し寄せてくる。
津波は遠く町の外から、足元の家々を飲み込み、背の高い建物を折り、道路を走っていた車を、木枯らしに舞う落ち葉のように巻き込みやって来る。
龍は空中でぐるりと向きを変える。
しかし、東西南北三百六十度、どの方向からも津波がやってくる。
富士山のように高く、大きな波が、学校を中心として円形に集まってくる。雨雲すら飲んで突き進む。
現実世界ではありえない動きだ。異なる方向から波がぶつかり合えば、互いに打ち消しあい、もみくちゃになり、でたらめな方向に暴れ出すはずだ。ここが夢だからこそ、逃げ場のない、水の檻ができあがったのだ。
龍の顔に険しいシワが生まれた。
大粒の汗が、血と混じり、雨と混じり、体育館の方に落ちて行った。
「ウルルルル……ォォォオオオオ!」
龍は翼をちぎれんばかりに動かし始めた。
夢姫を握っている力が、万力のように強くなり、指の鱗がピシピシと音を立てた。
龍は昇る。必死に昇り続ける。雲を突き抜けてまだ昇る。さりとて、津波はどんどん迫ってくる。その頂を超えるはおろか、目視することすらできない。
やがて、塩味のする飛沫が龍の、夢姫の顔にかかり始める。翼の動きがさらに速くなる。
太陽の光が遮られ、視界のほとんどが水の壁で埋め尽くされる。
龍は、頭上にわずかに空いている丸い穴に向かって突き進む。
巨大な水の塊にできた、細糸のような空気の柱の中を、懸命に進む。
広大なキャンパスに、渦のような水模様が描かれていたとしたら。
きっと自分たちは、えんぴつの先で突いた点のように見えるだろう。
鋼鉄の板が降ってきたような衝撃だった。それも、前後左右全ての方向から。
耳介の奥の小さな骨に至るまで、全身が砕け散った気がした。
あれほど強く夢姫を握りしめていた龍の手が、いとも簡単に剥がれ落ち、夢姫は、ごうごうと渦巻く水流の中をぐちゃぐちゃに回転しながら落ちて行った。
ぐん、と右腕を引かれた。
何かに掴まれたというよりは、引っかかったような感じだ。
水の抵抗が突然強くなり、右肩が体からすっぽ抜けそうになった。
何かに、ものすごい力で引っ張られている。
水浸しになった鼓膜の向こうで、馬がいなないている。
自分の口から出ていく泡の粒が、新幹線の窓から見える街明かりのような速度で遠ざかっていく。
後頭部に、首がへし折れるほどの水圧がかかっている。
右手をぐりぐりと回してみた。引っかかっているのは手綱だ。
夢姫は右手でしっかりと綱を握り、体を進行方向に対して真っ直ぐに向けた。
左手をさまよわせると、大きく、たくましい筋肉の塊に触れた。
そのままその何かに手を這わせていくと、上の方に、大きな突起があることに気付いた。
複数のコリコリとした太い線と、その間に、ぬめぬめとした薄い膜が張ってある。
ヒレだ。
魚についているそれと同じだ。
だが、魚にしてはいやに大きい。
前方に目をやると、激しい水流の向こうで、二本の前足が水をかいている。
魚じゃない!
「ブルヒヒィィィィィイン!」
馬のいななきとともに、夢姫は海面へ躍り出た。
視覚と聴覚がいきなりクリアになり、どっと押し寄せる情報に脳が錯乱した。
「ひあああああ!ああ!」
肺が息を吹き返し、夢姫の体は熱と力を得た。
すぐにもう一度海面に叩きつけられ、今度は大量の水を飲んだ。
「ヒヒィィィン!」
馬とも魚ともつかぬ生き物は、今一度啼いた。
全身に容赦なく打ち付けてくる海の重たさに必死で抗い、夢姫は、生き物の上に這いあがった。
生き物は、バルル、バルル、と嬉しそうに鳴いた。
夢姫は生き物の背中にまたがり、その首筋を撫でた。
首はとても長く、その先には、馬の頭がついていた。
妙なのは、耳やたてがみの代わりにヒレがついていて、後ろを振り返ると、人魚のように魚の下半身がついていることだ。
その名はヒッポカンポス。ギリシャ神話で、海の神ポセイドンの戦車を引いたとされる幻獣だ。
ヒッポカンポスは天高くいななくと、嵐の海をぐんぐんと走り出した。
どんなに大きな波も、強靭な尾びれと、二本の前足で乗り越えていく。
津波は夢の全てを沈めてしまった。今や、太陽の光が届くすべての範囲が海だ。見渡す限りの大海原だ。水平線まで、何一つ遮るものが無い。
お願いおじさん、もう無理をしないで。
ヒッポカンポスは、龍が傷を負っていた場所と同じところに、大きな傷をこさえていた。
海に浸かっている部分からは、壊れた蛇口のように血が流れ続けていた。
夢姫はヒッポカンポスの首にもたれかかって、抱き着くように両腕を回した。
波を超えるたび、ヒッポカンポスは激しく上下に跳ねる。こうすれば、手綱を持つより安定するからだ。そう自分に言い聞かせて、じっと目を閉じた。
視界を遮断したことで、夢姫の耳が、普段より研ぎ澄まされた。
それは夢姫の意図したところではなかったが、そのおかげで、息をひそめて近付いてくる、卑怯者たちの存在に気が付いた。
甲高い電子音が聞こえたのだ。
それは、波が顔までかかった時にだけ聞こえた。
「はっ!」
次に聞こえたのは、スクリューが水を切り裂く音だ。ごぼごぼと、人が溺れる時と同じ音でこちらに近付いてくる。
「おじさん!待って!」
夢姫は反射的に手綱を引いた。
ヒッポカンポスは迷惑千万と言いたげにいななき、尾びれをめちゃくちゃに振り回して停まった。
その、馬面の鼻先をかすめるようにして飛び出してきた。
「ぅ――――」
夢姫の絶叫が、海を割る轟音にかき消された。
「――――――――ぁあああああーっ!」
三階建てのビルほど巨大な潜水艦が、水面下から斜めに打ち上がってきた。
暗い鋼鉄の腹を海面に叩きつけ、周囲の海水を根こそぎ押し出し、巨大な波に変えた。
ヒッポカンポスは前足をジタバタ動かしたが、最後は波に負けてひっくり返ってしまった。
夢姫はその背から投げ出され、死に物狂いで手綱に食らいついた。
水中で目を開けると、潜水艦が一隻だけではないのがわかった。
先ほど夢姫たちを轢きかけたやつの、半分くらいの大きさのやつが、十も二十も集まっていた。
どいつもこいつも、死の棺桶のように暗い色をしていた。
「……ぶはぁっ!」
再び水面に顔を出した時、すでに、夢姫に逃げ道は残されていなかった。
潜水艦たちは、水面から船体の上部三分の一を出し、入り組んだ円陣を作っていた。夢姫の位置からは真っ黒い輪に見える。オタマジャクシ一匹逃げる隙間が無い。
「バルルン!」
顔を出したヒッポカンポスが、鼻の中に入った水をそこらかしこにぶちまけていた。
夢姫は鼻水交じりの海水を浴びながら、綱引きのように手綱を手繰り寄せ、ヒッポカンポスの背に左腕を乗せた。
一番大きな潜水艦から、炭酸ジュースでも開封したような音が出た。
真っ黒な蓋が開き、中から、青い若造が顔を出した。
若造はカンカンとハシゴを上り、つるりとした潜水艦の上に躍り出た。全身に火傷を負っていた。カッターシャツはところどころ穴が開き、紺色のスーツパンツは熱で変色していた。
赤青二色の腕時計も、くすんだ色になってひび割れていた。
「ダメ……」
若造の顔を見た時、夢姫はもうダメだと思った。
ヒッポカンポスを引き寄せ、懇願した。
「お願いやめて!」
若造の瞳は青い光を失っていた。どろどろに暗い色をしていた。夢姫の願い全てを否定する色だった。腕時計に視線を落とし、何かを確認した。そして、
「撃て」
陪審員が振り下ろす木槌のように、血も涙もなく命令を下した。
若造の乗っている潜水艦が、金属音と水を切り裂く何かを放った。
そこから時計回りに、他の潜水艦が同様の何かを放った。
夢姫は音の出所を目で追った。
水面の下でいったい何が近付いてきているのか、想像したくなかった。
悲しいことに、夢姫には見なくてもわかる。
魚雷だ。
らせん状に近付いてくる。
くるくると回るたび、回転直径が狭まるたび、加速度的に速くなる。
もちろん、殺すためだ。
やつらはおじさんの弱点に気付いたのだ。
「やるなぁ、トダケン」
おじさんのざらざらした声が聞こえて、夢姫はバッと振り向いた。
そこにあったのはヒッポカンポスの馬面ではなく、おじさんの髭面だった。
いつもと同じだ。
サーベルのように口をひん曲げ、満足そうに、頷いていた。