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第五章 過去へ還って

 俺は午前の調べを打ち切り、生活安全課に戻った。

 ちょうど昼休み中ということもあり、課内は静まり返っていた。

 みな、連日残業続きのため、昼食を取ったあとは机に突っ伏し、死んだように眠るのだ。明かりも全て落とされている。

 俺は薄暗い戸棚をあさり、洗い物かごの中に残っていた自分のタンブラアを取り出すと、課員で金を出し合って契約しているコーヒーメーカーに差し込んだ。

 昼寝をしている連中におかまいなく、ボタンを押した。キュルキュル、ガリガリという音がコーヒー豆と静寂を砕いた。もう少しすれば、ポンプがガーガー唸り始め、水を吸い上げ、電気で温められた熱々のコーヒーとして出てくるだろう。

 警醒偸(けいさつ)は警察とは違う。

 夢の中で行われる犯罪を取り締まるための専門の組織だ。夢の中に入れる者が極めて少ないことと、それに伴い、夢にまつわる犯罪の認知度が著しく低いことから、全国警察に専門の捜査員はおらず、警察庁直下の組織として存在している。それも極秘に。

 遺憾の意を示すかのようにもぞもぞと動き始めた課員たちも、俺のことを、いわゆる〝競争に敗れたキャリア組〟だとしか思っていない。本庁からやってきて、我が物顔で広島県警に居座る無能だと。

 俺はタンブラアから立ち上る湯気を、付属の蓋で遮った。机ひしめく課内を横切り、窓際にポツンと置かれた自分の席まで戻った。

 文字通りの窓際族のおかげで、俺は外の景色をながめながらコーヒーに舌鼓を打つことができた。

 今日の空は雲一つない快晴。調べ室でケタケタ笑っていたあいつを思い出して腹が立つ。

 何も知らないくせに、すべてを知った気になりやがって。

 俺は憤然としながらタンブラアを傾けた。




 忘れもしない。

 世界が壊れたあの日。

 毒々しい色に染まった空の向こうから、エノラ・ゲイの大群がやってきて、どす黒い輪っかを幾重にも重ねながらまき散らしたあの日。

 輪の下にあった建物は格子状に引き裂かれ、山は一つ残らず噴火した。その辺の山が全部だ。

 川から巻きあがった水がマグマとまじりあい、氷と炎の竜巻になって街中を破壊した。

 俺はちょうど、モノレールの駅へと続く陸橋の上にいた。そこに輪っかが落ちてきて、巻き込まれた。

 気付いた時には、両腕がちぎれ、俺が立っていたところを含めて、陸橋の西側半分が崩壊を始めていた。

 右腕は一足早く落ちていった。腕時計をした左腕だけが、破壊を免れた部分に運よく転がっていた。

 このまま下の道路へ落ちても、死んで目覚めることはできない。高さが足りない。

 俺は速断し、落ちて行く破片から飛び上がった。なんとか、陸橋の無事な方へ上半身をひっかけることに成功した。

「うぅ!うううう!」

 両肩からシャワーのように血が噴き出した。腹の下で血だまりを作って、そのまま足を伝って、下の道路に落ちて行った。

 俺は芋虫のように体をうねらせ、なんとか下半身を陸橋の上に持ち上げた。

「あらま」

 そんな俺を、幼稚園のお遊戯会でも見るかのように笑う男がいた。

 忘れもしない。

 つるりと髭を掃除した顔で、シワ一つないシャツを着て、ネクタイは新品、革靴は磨き立てのピカピカだった。綺麗なエメラルドグリーンのコートが、崩壊していく世界の中でステンドグラスのように際立っていた。

 俺は両腕が無い状態でもがき続けた。立ち上がろうにも、つく手がないのだ。

 男は、そんな俺を見てますます笑みを深めた。しゃがみこむと、旧友にするように俺の無い肩を叩いた。

「おっほほ、頑張るなぁおい、頑張るなぁ」

 俺は俺の全部を否定された気持ちになった。

 地獄のような訓練を受けて、厳しい競争を勝ち抜いて、俺は警醒偸(けいさつ)になった。それなのにこの男は、エノラ・ゲイの落とした輪っかの中を何食わぬ顔で散歩し、五体満足のままへらへらと笑っているのだ。

 自慢することも、ひけらかすこともせず、ただ、ありきたりな日常の一部だとでも言わんばかりに振舞い、俺のことは世間知らずの赤ん坊だと、よく頑張ったと、ねぎらいの言葉をかけて笑うのだ。

「当り前だ!ようやく貴様を追い詰めたんだ!こんな!ところで!諦められるか!」

 俺は俺の中に誕生した怒り全てを大義名分に乗せて吐き出した。

 樹木や家屋を全部巻き込んで進む土石流のように、男に浴びせた。

 忘れもしない。

 この時俺は、警醒偸(けいさつ)としての責務も、人としての尊厳も全てかなぐり捨てていた。

 ドロドロに渦巻いた嫉妬心と、爆発的に燃え盛る怒りで、頭が沸騰しそうになっていた。

「あぁ、そうなの?大変だなぁ……あほら、腕が落ちてるぞ」

 男は俺の怒りにてんで無頓着だった。むしろ、俺の反応を楽しんでさえいた。

 足下に落ちていた俺の左腕を拾いあげると、俺の口に突っ込んだ。

 俺は自分の拳で猿ぐつわをかまされ、何も喋ることができなくなった。

 自分の口から自分の左腕が生えている状況に、はらわたが煮えくり返るほどの劣等感を覚えた。

 ピッ……ピッ……俺の左腕に巻き付いていた、青い腕時計が。

 今は俺の目と鼻の先にある腕時計が。

 鈍い感覚で警告を発し始めた。

「おぉ、鳴り始めたぞ。どうするんだ?」

「あがにふるあぁ!」

「えぇ?なに!?はっはっ……」

 男は膝を叩いて喜んだ。

 直後、自らの腕時計も鳴り始め、一目文字盤を見た。

 ピピピピピ!

 やつの時計も、俺の時計も、その瞬間が近付いた爆弾のように早鐘を打っていた。

「ふっ!ふっ……!」

 俺は床でもがいた。目の前にいる泥夢(どろぼう)を諦めて、今度は自分の身を守ることに必死にならなければならないのだ。惨めだ屈辱だ。

 大きな血の道を描きながら、半壊したところから下へ落ちようと、どうにか方向だけでも変えようともがき続けた。

 その間にも、時計の警告音はどんどん早くなった。

 焦った俺の体には、余計な力ばかりが入った。落ち着いていればもっと効率よく動けただろうに、このころの俺には、冷静に考える頭まで足りなかった。

「はっはっ、仕方ないなぁ……一つ貸しだぞ?坊や」

 男が言うには、それは救いだと。

 俺に言わせれば、半人前の烙印だ。

 忘れもしない。

 見上げると、男がマジシャンのように空中で手をこねくり回していて。

 男の手が通り過ぎた後には、銀色の線が走って。

 それが、ナイフを模って。本物のナイフになって――




 頭にナイフが突き刺さった痛みで、俺は声にならない悲鳴をあげた。

 あたりを見回すと、破壊された陸橋も街もそこにはなく、窓の外に広がる空は毒の色をしていない。机の上にはタンブラアがあり、蓋の端っこ、飲み口から頼りない湯気が立ち上っている。

 いつの間にか、周りでいびきを立てる課員とともに、よだれを垂らしながらうたたねしていたらしい。

 忘れるものか。

 俺はほとんど冷めてしまったコーヒーを飲み干し、万年筆を握りしめて席を立った。




 狭い調べ室で待っていると、犬澄がすごすごとやってきた。手錠をはめられ、腰縄の先を女性警官に握られ、なんとも惨めな姿だ。二足歩行する犬の散歩を見ている気分だ。

「あっ、トダケンじゃん、久しぶり!」

 犬澄は記憶を消して喜んだ。お前、人見知りなのか、俺以外の警官に猫かぶってるのか、どっちだ。

「一時間前に会った」

「あれ、そうかいねぇ」

 手錠の跡が残っていないか気になったのだろうか、犬澄は手首を何度も磨いた。

 腰縄を椅子に括りつけながら、女性警官が心底あきれかえったため息をついた。

「弁当ショボすぎるって、警察ケチすぎじゃろ」

 女性警官がいなくなったあと、犬澄は先生にチクる学級委員長のように声を潜めて言った。

「決まってるんだよ金額が。増やしたきゃ政治家にでもなれ」

「ふうん、でもうち、総理大臣になったら、『真面目な話をする時は~鼻くそをほじっていはいけません』(ざい)を作らんといけんけえ」

 真剣な面持ちでつぶやく犬澄を見て、俺は殴りつけたい衝動と戦う羽目になった。

「……肩こりは治ったのか」

 調書の頭を書きながら、俺は聞いた。

「あ、それセクハラよ?」

 書くのはやめだ。俺は舌打ちし、万年筆を投げだした。

「都合のいい時だけ女を出すやつが一番嫌いだ。鬼ごっこのバリアーみたいに出すな」

「そんな怒らんでもええじゃん。うちとトダケンの仲じゃろ?」

 犬澄はぽっ、と頬を赤らめた。すごい技術だ。

「お前と親密になった覚えはない」

「あん、そりゃ知っとるよ、トダケンはおじさんのおっかけじゃもんね」

「違う」

 俺はこの際、はっきりと否定することにした。

 犬澄の中にある勘違いを、徹底的に正してやる必要がある。

 俺は身を乗り出し、調書をしわくちゃにしながら肘をついた。

「あいつは俺に、絶対に許せないことをした。それだけだ」

 犬澄は首を傾げて固まった。

 俺の視線にひるむことなく、瞬きもせず、緑色の瞳で、恋人と見つめあうかのようにじっとしていた。

「わかるよ――」

 犬澄は静かに言った。

「うちとトダケンの仲じゃもん」

 怒っているのか、笑っているのか、判別しづらい表情で、吐息交じりに言った。

「おじさんってねぇ……時々、ホンマに許せん事するよね」

 俺は万年筆を拾い上げ、調書の続きに取り掛かった。

「ぉ前と一緒にするな」

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