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第四章 教えを乞うて

「ったり前だろ、線路の中に立ててる時点で気付け」

 おじさんは、フォークの先に刺したプチトマトで夢姫を指した。

 夢姫は手元のオムライスをぐちゃぐちゃに混ぜて反抗の意を示した。デミグラスソースが飛び散りそうだったので、ミント色のカーディガンを体に巻き付けるようにして避けた。

「このように、自らが夢の中にいるということに気付けない現象を、(げん)現実化(げんじつか)と言いまぁす。略してぇ、幻実化(げんじつか)!」

 おじさんはプチトマトを食いちぎると、指示棒でホワイトボードを叩く塾講師のように、背面のすりガラスをフォークで叩いた。これは、ファミリーレストランの座席と座席を仕切るためのガラス板だ。目立つから、頼むからやめて欲しい。

「発見したのは、テセウス・ヴィン・ゼドラー。十九世紀フランスの心理学者だ」

「よぅわからん」

「聞きなさい。最後まで」

 おじさんは前かがみになると、サラダからまたプチトマトを生贄に選んだ。

寝入(しんにゅう)された側(・・・・)が何も気づかないのは、この幻実化(げんじつか)のせいともいわれている」

 夢姫はオムライスをかき混ぜるのに飽き、隣のステーキに手を付けた。安っぽい肉のせいで、中々ナイフが進まない。ちなみに、ステーキの隣にはコーンたっぷりのピザもある。

「対してオレたち……」

 おじさんは夢姫の前に広げられている皿を見て、一瞬固まった。

「何個頼んだの?」

「みっふ」

 夢姫は、噛み切れない安肉を奥歯の間に詰め込んだ。

「なんでみっふ?」

「時短よ、一回で三食たべれば、今日は食べんでええ」

「ああそうかそんなわけないでしょう、食い意地はってんな」

 おじさんが納得いかないようなので、夢姫は親指で隣のボックス席を指した。

「バルト、まだ食べるの!?」

「ふぁい、すいふぁせんおひょうふぁま」

 そこには、天井に届くほど大量のステーキを食している男がいた。執事服のような恰好で、目覚ましいほどきちんと身だしなみを整えていた。顔を見る限り外国人のようだ。ソースをべっちゃりと頬につけているが、中々のイケメンだ。

 ただ、ナイフはもはや飾り。男は肉を切らず、ひたすら掃除機のように吸い込んでいる。フードファイターにしてもレベルが高すぎる。

「ちょ、ちょっとバルトぉ……」

 ピサの斜塔のように傾いたステーキ皿を、とんでもない美人が懸命に支えていた。胸がスイカのようにデカかったから、夢姫的にこの女は敵だ。

「YouTuberかなんかだろ、参考にするやつを間違えてる」

 おじさんは特大の咳払いをした。フォークの先端についていたプチトマトを夢姫のピザの上に落とし、逆にピザを一ピースかっさらっていった。

「あと、野菜も食べなさい」

 夢姫は獲物を横取りされた鷹のように鋭い目でおじさんを睨みつけた。

「いいか、オレたち寝入者(しんにゅうしゃ)は、これから自分が入る先が夢なのだと、強く認識しておく必要がある。もし幻実化(げんじつか)に飲まれちまうと……」

 はい、夢姫君、と手を向けられ、夢姫は固まった。

 隠すつもりはないが、夢姫は勉強が苦手だ。学校に行くこと自体稀だし、行ったとしても授業中は叶愛(のあ)ちゃんたちと購買の前で遊んでいる。

 おじさんはピザをくるくるっと丸め、一飲みにして待っていた。

 夢姫はナイフとフォークでチャンバラを繰り広げ、何かそれっぽい答えが出てくるまで時間稼ぎした。

「夢に入ったことを……うー……忘れる?」

「イグザクトリィ!」

 よかった、なんか知らんけど当たった。

 夢姫はほっと胸をなでおろし、おじさんが置いて行ったプチトマトをナイフで弾き飛ばした。プチトマトはそのまま、おじさんのサラダにホールインワンした。

「現実世界にいると思いこんじまったら、もうそこでおしまいだ。夢の持ち主が目覚めたのにも気づかず、そのまま死に至る」

 おじさんはさらりと恐ろしいことを口にしながら、無実のトマトを口にした。

 真っ赤な汁が唇から飛び出して、あれはあれで中々グロいと夢姫は思った。

「じゃあ、どうしたらいいん?」

「そりゃあ一つだ、夢姫」




「うぎゃあああああ!人殺しいいいいい!」

 夢姫は電車に引きずられていた。

 正確に言えば、電車の連結部と腰とをロープで繋がれ、線路の上を無理やり走らされているのだ。幼稚園児の機関車ごっこを、実機でやる阿呆がどこにいる。

「あんだけ食ったんだ。動かねえとやせねえぞ」

 おじさんは連結部のドア枠に体を預け、小指を耳に突っ込み、優雅にほじくっている。

 本来、列車の最後尾には運転席と同じ型の車両があるはずだが、ここは夢の中。夢姫の特訓のため、おじさんは最後尾の車両をとっぱらい、川の中に投げ捨て、むき出しになった連結部に、絶対にほどけないよう、念入りにロープを結び付けてくれたのだ。

 ありがたくて涙が出そうだ。

「もうっ!十分っ!瘦せとるううぅうぅうぅう!」

 電車の速度は車より速い。車と違って交差点がないから、減速と加速を繰り返す必要がないのだ。

 おかげで、喋ろうものなら口が張り裂けんばかりに膨らみ、金髪は怒りに目覚めた戦士のように逆立つ。カラコンを入れた瞳は秒で干ばつに見舞われる。

 足がもげてしまわないのが唯一の救いだ。とはいえ、電車のスピードには追いつけず、夢姫はバラストと呼ばれる砂利の山をお腹で削っている。

〔お金を払ったのは誰でしょーか?〕

 おじさんは電池式の拡声器でクイズを出してくれる。引きずられ続ける夢姫が退屈しないよう、色々考えてくれているのだろう。余計なお世話だ。

「ほりゃ!あだじっ!痛でっ!……おじさんのチョウリツ!手伝うんじゃしいぃいぃいぃいぃ!」

 夢姫は線路の枕木に何度も頭をぶつけた。不思議なことに血は一滴も出ず、歯もかけない。ミント色のカーディガンも、スカート下に履いているタイツも、すり切れたり破けたりしない。

〔まーだなーにも手伝ってもらってませーん!夢を見てるんですかー?夢姫ちゃんはー〕

「うきいぃ!教えっ!ごふっ!方が!悪いん……うげっ!」

〔はい、二駅追加ぁー〕

「おぉぉ、鬼いいぃぃぃぃ!」

〔聞こえませーん。走りなさーい!〕

 広島駅から天神川に行く時の切り替えはマジでヤバい。はよ直した方がええよ、あれは。

 夢姫の言葉には、妙に鬼気迫るものがあった。




 結局、昭和のスポ根アニメも回れ右して逃げ出す超過酷な特訓は、山陽本線と呉線の分かれ道である、海田市駅まで続いた。

「はぁっ……はぁっ……はああぁぁぁぁ……っはっ!」

 夢姫は線路上に這いつくばり、虹色の汁を垂れ流しにしていた。線路の間に生えた雑草が、前髪の先をくすぐっていた。

 じゃりじゃりという足音が近づいてきて、ひしゃげた革靴が視界の端に入った。

「夢の中では、現実世界ではできないことができる。逆に、それをすることで、今自分がいる場所が夢の中なのだと認識することができるわけだ。さて」

 おじさんはその場でしゃがみこみ、自分の膝で頬杖をついた。

「追いつけなかったのは、なんでだと思う?」

 夢姫は呼吸を求める肺と戦いながら、おじさんを見上げ、恨み節をはいた。

「とっ……届かん……!足も……呼吸も……電車に追いつけるわけないんじゃ……!」

 駅のホームの真下、薄暗い待避所がオアシスのように輝いて見えた。

 今すぐ腰に巻き付いた紐を断ち切って、あの中に転がり込みたかった。

「まーそうだな、もう一回やってみっか」

 死ね。

 夢姫はもうすぐでその一言を解き放ってしまうところだった。

 運がいいことに、飲み込んだ唾が気管に入って、ちょうどむせた(・・・)

 おじさんは顎髭をジョリジョリ撫ぜ、元気ですかー!の人のように顎を突っ張った。

「んーまっ、ヒントをやろう。おじさんが好きな映画、マトリックスで、モーフィアスが言ってたことだ」

「一つもわからん」

 ジェネレーションギャップは即一刀両断するのが夢姫の信条だった。年寄りの話は長い。早めに切らなければ身が持たない。

 ただし、この時は違った。

 おじさんがネクタイをきゅっと引き絞ったからだ。

 もっと絞めてやりたいとも思ったが、ネクタイは真面目モードの合図なのだ。この瞬間、夢姫はおじさんの言葉を一言一句漏らすまいと決めた。自分の汗が地に落ちるまで、数百秒かかるほど集中した。


「それは本物の息か?」


 たった一言、それだけだった。

 しかし、それは半年以上探していた最後の一ピースのように、すんなりと夢姫の頭にはまった。

 夢姫は右手を持ち上げ、手首まで垂れている汗の粒を見つめた。

 ミント色のカーディガンは、可哀そうになるくらいぐっしょり濡れていた。

 そうだ。

 夢の中くらい、脱いでもいいのなら。

 夢の中では、いつまでも着ていていいのだ。


「あの電車に追いつければ、夢姫、お前は本当の意味で違う世界に行ける」

 そう言われたけん、ムカついたんよね、うち。とは夢姫。

 だから言い返したとも。

「いや、いい。追いつくなんてせん。抜いちゃる」


 おじさんはいつも、確信をくれない。

 夢姫がこれまでの人生で培ってきた上目遣いや、意味深いみしんな目配せを使っても、全然下心を見せない。

 いつも、サーベルのように口をひん曲げ、満足そうに頷くだけだ。

 プァアアアアアン!

 警笛が鳴る。

 夢姫は足元のバラストを踏みしめる。

 線路は長く、ながく、その果てが見えないほど長く続いている。

 ガタンゴトン、という音は次第に早く、大きくなってくる。

 深呼吸をする。これまでの人生で、一度だってまともにやったことのない準備体操を。

 当然だとも。

 夢姫はこれから、世界に向かって足を踏み出すのだから。

 右足のローファーで、思いっきり枕木を蹴って跳んだ。

 反対のローファーでバラストを蹴散らし、さらに加速した。

 軽い。

 体が鳥のように。

 速い。

 足が風のように。

 ゴーッという音が、後ろ髪をチリチリと焦がしているのはわかっている。

 振り向けば、鋼鉄の塊が自分を潰さんと迫っていのがわかる。

 それでも、負ける気がしない。

 今なら、叶愛(のあ)ちゃんのお兄ちゃんが持ってる原チャリにだって勝てる!

「うふふ……あはははは!」

 夢姫は笑った。

 空の青さを知った赤ん坊のように。

 生きることの喜びを知った子犬のように。


「イィィィィヤッホオォォォォォォ!」


 金髪碧眼の少女は、右手を突き上げ、電車を置き去りにして走っていった。

 まるで、線路を駈けるハリネズミのようだ。

 神野右蛻はトラメガを運転席に置いた。

 もう、彼女を遮るものは何もない。




 こうして、夢姫の〝助手〟が始まった。

 毎朝せんべい布団で目を覚まし、急いで頭にブラシを入れる。金髪の根元に現れた黒ずみが、日に日に勢力を拡大していく。まるで、カラメルの比率を間違えたプリンのように見える。

 ブラウスに袖を通し、チェックのスカートをはく。ミント色のカーディガンに念入りにファブをふりかけ、羽織る。重たい学生カバンを肩にかけ、冷蔵庫や台所には目もくれず、親が起きるよりも早く家を出る。

 アパートの外階段はついに板が一枚抜けてしまった。

 二度と修復されることのない隙間をちょん、と飛び越え、夢姫は走って敷地を抜ける。




 夢姫はいつも、一時間以上かかる道のりを平気な顔して歩いて、十時半までにはおじさんをみつけた。彼女は鼻が利くのだ(・・・・・・)

 おじさんは大抵、どこかのネカフェかカラオケボックスにいて、〝起こすな!〟の張り紙を背中に張って寝ている。

 一度だけ、どうしても見つけられない日があり、後で居場所を問うたら、個室ビデオ店に入っていたと打ち明けられた。あくる日、夢姫はおじさんのほっぺたが餅のように膨れるまで叩いた。

 おじさんを見つけた夢姫は、そのまま、おじさんの横に腰かける。

 学生カバンを机の上に叩きつけ、それを枕にして突っ伏して寝る。

 そのままおじさんの匂いをたどれば、おじさんが寝入(しんにゅう)している夢に入り込める。

 ほとんどの場合、おじさんは〝仕事中〟だ。

 巨大クジラの腹の中や、瓶詰の中に造られた海賊船の上、はたまた極寒の地に建てられた要塞……それらの、一番奥深いところに潜っている。

「いいか、オレたちが狙うのは心に傷を持った人間だ」

 小屋ほど大きい巨大金庫の前にひざまずき、車のハンドルほど大きいダイヤルを回しながら、おじさんは言う。

「誰にも言いたくない秘密、思い出したくない記憶、そういうものほど、夢の奥のそのまた奥、一番深ぁいところで、厳重にしまい込んである」

 次の日は森の中でからくり箱とにらめっこだ。複雑な切り込みが入った木々が、互いに入り組み、がっちりと蓋を閉ざしている。おじさんと夢姫は、切株の上に乗ったからくりを見つめ、揃って首を傾ける。二人とも、頭脳系は少々不得手だ。

「それ、持ち出したらどうなるん?」

 舟のいかり(・・・)をチェーンソーでぶった切ろうとするおじさんに、夢姫は聞いてみる。

「あぁ!?なんてぇ!?」

 牛乳瓶の底のように分厚いサングラスを外し、おじさんが吠える。

 ギャリギャリうるさいのと、火花が噴水のように噴き出しているせいで、夢姫の声が届かなかったのだ。

「それ!取ったら!どーなるん!?」

 夢姫は両手で口と鼻を覆い、大声で叫んだ。

「あぁー!?なんてぇー!?」




 デパートの一階というものは、なぜ化粧品売り場が占拠しているのだろう。夢姫はいつも不思議に思う。

 色とりどりのルージュが宝石のようにショーケースを席巻し、今にも舞い上がりそうになる香りが充満し、指をくわえざるを得ない。乙女には少々刺激が強すぎるのだ。

「お前まだ中学生だろぅ……」

 ラメの入ったキラキラのルージュに見とれていたら、おじさんがボソッと背中に息を吹きかけてきた。夢姫は怒って髪を逆立てた。

「ぬぁっ!子ども扱いした!おじさんが!子ども扱いした!」

「今日はデザートにバニラアイス!」

「え!?マジ!?」

「子供じゃねえか」

「ぬぁあっ!?」

 おじさんはケタケタ笑いながら、上りのエスカレーターに足をかけた。




「夢の中の物を現実世界に持ち出すと、元の持ち主からは、それに関する記憶が消える」

 おじさんは古めかしいライターを握りしめ、何度もカチカチ言わせた。

 一仕事終えた後は必ずファミレスかフードコートだ。夢姫はいつも通り、胃の容量がすりきりいっぱいになるまで食べている。

 テーブルの上にはひび割れた双眼鏡、つるの歪んだ眼鏡、穴だらけの扇子、折れた鍵などが累々と積み重なっている。さながら、骨董品のフリーマーケット状態だ。

「ゴミばっか」

 夢姫はデザートのバニラアイスを二口でたいらげ、思ったことをそのまま口にした。

 つつしみと建前を覚えた方がいい。忠告はしたぞ、夢姫。

「まー、持ち主にとってよくない思い出だからな。綺麗な形をしてるものは少ない」

「それ、どうするん?」

「彼らにとっては、もう必要のないものだ」

「うちらにとってもね」

 おじさんはコラッ、と言って人差し指を尖らせた。

「丁重に処分する。良かれ、悪かれ、人の想いのこもった物だ」

「ご注文のプリンアラモードです」

 女子大生のアルバイトだろうか、若い感じの店員がさくらんぼとクリームで着飾ったプリンを持ってやってきた。

 おじさんはしばらく、プリンの描く奇跡をロボットのように自動追尾していた。

 夢姫は一つも悪びれずにプリンに手を付けた。

「相変わらず遠慮がないな、お前は」

「だって、ちゃんと手伝っとるし」

「見てるだけでしょうが、ほぼ」

 おじさんは呆れたように肩をすくめ、骨董品の山のてっぺんにライターをそっと置いた。

 夢姫はクリームで真っ白にした唇を舐めながら、おじさんをじっと見つめた。

 相変わらず髭を剃らないおじさん。

 髪を洗っているのかも怪しいおじさん。

 ネクタイのバリエーションが三種類か四種類しかなくて、そのどれもが、乾燥わかめみたいにしなびているおじさん。

 さすがに暑いのか、夏に入ってからは苔色のコートを着てこなくなったおじさん。

 そろそろ、カッターシャツにアイロンかけた方がいいよ、おじさん。

「…………なに」

「別に」

 おじさんがうっとおしそうに目を細めるので、夢姫はカラメルをかきこんでやりすごした。

 おじさんの薬指には指輪が無い。

 そりゃ当然だろう、こんな身なりじゃ、まともな女は寄ってこない。

 同じクラスのゆう君が同じような格好をしていたら、たぶん、夢姫だってときめかなかった。

「おじさんてさ、怒らんよね、あたしがメチャクチャご飯食べても」

 夢姫は藪から棒に切り出した。

「は?」

「あたしが学校サボっとるのもわかっとるくせに。なんでなん」

「そりゃあお前……家計は火の車だっああん?」

 おじさんは尻ポケットから財布を引っこ抜き――これまたしわくちゃの革財布だ――熱々のごはんにのりたまをかけるかの如くシャカシャカ振った。

 夢姫がゴミを見るような目をしていたら、おじさんはしずしずと財布をしまった。

「おじさん、ロリコンなんだ」

「ホンマにキモい」

 夢姫は吐き捨てるように言った。

「そういうことはね、冗談でも言ったらいけんのよ」

「はい。すいませんでした」

 おじさんは深く反省していた。ソファの上で正座して二度と言いませんと約束した。

「まー、なんだ」

 まー、はおじさんの口癖だ。

 ネクタイと同じ、いや、ネクタイより少し程度が低いが、真面目な話をする時の枕詞だ。だから夢姫は黙って聞いていた。

「オレが行けって言ったって、お前行かねえだろ」

 夢姫は五円玉一枚分頷いた。

「てことは、なんか知らんが、行けない理由か、行きたくない理由があるんだろ?オレがそんなこと聞いてどうする?お前はそんなところに行ってどうする?どっちも時間の無駄だ。そりゃ、学校が楽しいってやつもいるけどな。けど反対に、そういうのが嫌いなやつだっている。勉強ができないとか、足が遅いとか、そんなくだらないことでいじめられて……泣いてまで行く必要があるのか……?」

 おじさんは、最後は、一人でつぶやくように言った。

 夢姫はなんだか落ち着かなくなって、膝の間に両手を差し込み、タイツのシャラシャラとした感触で手を洗った。

「学校に行ってもらえるものなんて、内申点と、大人の顔色を伺うスキルと、かけがえのない青春の思い出くらいだ。だがぁ?青春の答えなんて、誰も持ってない。自信もってやりたいことをやれ。断言するが、今の夢姫ほど青春楽しんでる中学生は……アメリカとかにしかいない」

「はっ?」

 夢姫は鋭く反応した。

 今、話の硬度が、二段も三段もまとめて落ちた。

 おじさんはソファに体を預け、真面目な顔してフードコートの天井を見上げていた。

「中国にもいるかもしれん。デカい国になったよなぁ、あそこは」

 本気だこの人。この人本気だ。

 夢姫は戦慄した。

 本気で、ゴキブリホイホイの原理ほど価値のない教訓を、告白シーンに臨むイケメン俳優のノリでたれた。

「いやっ……ふふっ……あははっ!」

 夢姫は我慢できずに吹き出した。両脇をくすぐられた時のように、身をよじって笑った。

 周りの客や料理を運ぶ店員から、迷惑そうな視線を一手に集めてしまったが、それでもかまわず笑い続けた。

「なんなんそれ!ふつー、世界中探してもおらん!とか、そんな感じで言うとこじゃないん!」

「バーカ、辛気臭いこと言うやつに、なんでオレが真面目に答えてやんなきゃいけねえんだよ」

 おじさんは汚い舌であっかんべーをして、中指を立てたことがばれないように右手を高速で左右に揺らした。

「笑え、夢姫、笑え。たいがいのことは、笑ってりゃなんとかなる。おじさんもつらいことはいっぱいあったが、その度に死ぬほど笑って、乗り越えてきた。笑ってもどうしようもない時は……最終手段、アルコールだ」

「ダメじゃん!」

 おじさんが真面目腐った顔で適当なことを言うので、夢姫はまた笑い転げた。

「ひーっ!ひーっ!も―ダメ!マジウケる……!」

 ソファの上にうずくまって、座面をバンバン叩いて、ようやく笑いの波は水平線の向こうへ消えていった。

 夢姫は目じりに浮かんだ涙を拭いながら、上体を起こした。

「おじさんってさ、いー感じでいー加減よね。おじさんのそーゆーとこ、うち、好きよ」

 おじさんはふんっ、と鼻くそが飛び出しそうな勢いで鼻を鳴らした。

 得意げになるわけでもなく、謙遜するわけでもなく、ただ、いつものように満足そうな顔で頷いていた。

 夢姫はニマニマ笑みを浮かべながら、両手で頬杖をついた。おじさんの無精ひげが事細かに見えるくらい、じぃっと見つめた。

 するとたちまち、おじさんの眉間にシワが寄った。

 病院に行くとわかった柴犬のように、鼻先にもシワが入った。

 演技がかった表情を前にして、夢姫は笑いの第二波に身構えた。

「おおやめてくれ!オレには愛する妻と娘が!」

「じゃけえ、ええけん!そーゆーのは!」




「いやちょっと待て」

 どうしても気になることがあり、俺は待ったをかけた。

「へい?」

 犬澄はパイプ椅子の上であぐらを組み、おちょぼ口で返事した。

「いい話で流そうとするな。お前、どうやって神野を見つけた?ケータイなんて持ってなかったろ」

「あぁ、匂いをたどったんよ」

 犬澄は自分の鼻先を指で突っつき、けろりと答えた。

「匂い?匂いって、その」

 加齢臭か?と俺は声に出さずに言った。

「あっはっはっはっはっ!違う違う!んー、なんてゆうたらええんかねぇ、夢に入っとる人ってぇ、なぁんか甘い匂いがするんよ」

「初耳だ」

「みんなそう言うんよね、あたしはするけどなー、お祭りの時の、わたがしみたいな匂い。首の後ろ、この辺から出るんよ?」

 犬澄は左手を上げた。

 彼女の指先は、裂けた耳たぶを通り過ぎ、首の後ろまで伸びた。

 俺はおもわず、自分で自分の首筋に触れた。

「聞いたことが無い。また嘘をついてるんじゃないだろうな」

「信じられん?信頼と実績の矢那目印よ?」

 犬澄は長いまつ毛をパチパチと動かし、大きな緑色の瞳を瞬かせた。

 俺はどうにも納得がいかない。

「焼肉屋の前でも?わかるのか」

「んわかるよ」

「カレー屋の前でも?」

「んもちろんわかるよ」

 犬澄は目をつぶり、鼻っ面を上げて顔を左右に振った。

 同時に、これみよがしに胸を揺らしてくるのが、無性に腹立たしかった。

 こいつの中の俺は、この程度の色仕掛けで落ちるやつなのか。

 犬澄は、俺がくさや(・・・)を嗅いだ時と同じ表情をしていることに気付くと、汚いダウジングマシンの真似を辞めた。

「ふふっ……ホンマよ。なんかぁ……鼻の奥にねじ込まれる感じがするんよね。他の匂いが邪魔しとっても、無理やり通ってくる感じ」

 犬澄は人差し指で自分の鼻の付け根を抑え、ぐりぐりと捻った。

 俺が相変わらずくさやを嗅ぎ続けていると、諦めたように両手両足を投げだした。

「はあーっ、疲れた。胸が大きいと肩がこるんよね」

 また胸か。俺はため息だ。

「そういう話はいい。続けろ」

「えぇ~?ええじゃん、ちょっと休ませてや」

 犬澄は机をバンバン叩き、駄々をこね始めた。

 大人のすることじゃないぞと言いたいところだが、だいたい、犯罪者という連中は子供じみていることが多い。

 こいつらは、やっていいことと悪いことの区別がついているくせに、自分の快楽のためなら他人の一切合切をないがしろにできる。

 どうして考えない?

 自分の行動の裏で、涙を流す人間がいるということを。

 どの世界だって、境界線を越えることのできるやつほどイカレてやがる。頭のネジが二本も三本も抜けてしまっているに違いない。

 俺に言わせれば、神野右蛻も新田夢姫も、そのタイプだ。

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