第三章 夢から覚めて
「いやさて、しかし」
蒸気したほっぺたを冷ますため、ドリンクバーまで周回し、オレンジジュースを持って帰ってきた夢姫が見たのは、思い出したように真面目を装うおじさんだった。
考え込むパグのように見えて、吹き出しそうになった。
「どこまでまで話したっけなぁ、乱入されたから覚えてねーや」
「もうろくするには早いよ、神野」
須磨のババアがやや辛らつに突っ込むのが、この二人の当たり前なのだと、夢姫も段々理解してきた。
「ねえ、なんでおじさんも、須磨さんも、夢の中にはいるん?」
ストローを使って、ハチドリのようにオレンジを吸い取ってから、夢姫は何の気なしに聞いた。
「だってさ、このジュースだって、こんなにおいしいのに、お腹は膨れんのじゃ……おじさん?」
おじさんは突然、頬杖をついて顔を隠し、明後日の方向に鼻歌を届け始めた。その割に、右膝が激しい貧乏ゆすりを始めていた。速報値で震度五弱だ。
「さあて、なんでだろうね。神野、寝入者だよ」
須磨のババアは他人事のように答え、落ち着いて自分の爪を磨き始めた。
「まっ!夢にはいるやつは色んな目的を持ってる!須磨大先生もそうだし、お前が見たカラス頭の小僧だって」
「え!見えとったん!?」
夢姫はコップを机に叩きつけた。あんなにビビったのに、気付かないふりをするとはやはり外道め。心臓の鼓動に要したエネルギーを返して欲しい。
「当たり前だろ、うぬぼれんな?」
「で、結局、なんで夢にはいるん?」
話を戻すと途端に、おじさんはまた頬杖をついて、鼻歌と人工地震を始めた。
「おじさん?」
「例えば須磨大先生は――」
「神野?」
会話のキャッチボールのはずが、ノールックパスの様相を呈してきた。須磨のババアは釘を刺すようにおじさんを睨んだ。
「夢の調律が仕事だ」
おじさんは須磨のババアを親指でさして、夢姫の方向へ回れ右した。
夢姫は聞きなれない言葉に首を傾げた。
「チョウリツ?」
「夢を直すってことだ。夢には時々、ヒビが入ったり割れたりする。夢ってのは心の投影でもあるから、そのままにしとくと持ち主によくない影響が出るってわけだ」
「ふうん……あっ!じゃあ、おじさんがさっきあたしの夢にはいったのも、チョウリツするため?だっておかしかったもん。頭のないカラスとか、でっかい巨人が襲ってきたりとか!」
「イグザクトリィ!」
おじさんは歯磨き粉の宣伝も真っ青の笑顔で答えた。
夢姫は英語も勉強していなかったから、本当の意味でおじさんの言ったことを理解したわけではなかった。だが、語感からなんとなく〝正解!〟とか、〝それな〟に近いものだと解釈した。
「神野?」
須磨のババアが何か言いたそうにしていたが、夢姫はあまり気にしていなかった。
嬉しさと安堵感が糖蜜のように心に絡みついて、一人でだらしなく笑っていた。
「そっか……おじさんて、いい人だったんだね」
チョロすぎるぞお前、おい、夢姫。いいか、普段ひどいことをされている被害者が、時たまの優しさに惚れなおす。DVでよく見られる心理状態だ。騙されるな。
「まぁ、私は止めやしないがね、来たよ」
須磨のババアが何かの到来を告げた。
「見つけたぞぉ!神野ぉぉぉ!」
どこかで聞いたことのある怒号だった。
夢姫がレストランの入り口に視線を走らせた瞬間、入り口ドアが枠ごと吹っ飛んだ。
周りにいた異形の人々が巻き込まれ、悲鳴も残さず将棋倒しになった。ドアはそのまま店内で暴れまわり、食べ物や食器の残骸がそこら中に散乱した。
「あっ!あいつ!」
忘れもしない、入り口に仁王立ちしているあいつは、天空に浮かぶ島々の上で、おじさんにドロップキックをかました阿呆だ。
短いスポーツ刈りで、髭は剃り残しなく、眉毛はカミソリ型、身に着けている紺のスーツはきっちりとアイロンがけされていて、革靴は磨きたてのピカピカ、何から何まで、おじさんと真逆の、清潔感溢れる若者だ。おじさんが唯一勝っているのは、その無駄に高い身長くらいだろう。はたから見れば、おじさんが悪者で若者が正義の味方なのは言うまでもない。
しかしなぜか、夢姫は若者のことが一ミリも好きになれなかった。やはり、ドロップキックの印象が強すぎたのと、あと、日本人にしては眼が青すぎるし、鼻が高いのも気に入らないらしい。どうでもいいがお前、それは偏見だぞ。
「んよっ!」
各国の馳走が紙吹雪のように吹き荒れる中、ドロップキックの若者から殺意にも似た視線を浴びせられる中、おじさんは前の会社の後輩に挨拶するように、入り口に向かって手を上げた。
「笑っていられるのも今のうちだ!」
青い若造は礼儀を知らないのか、おじさんの挨拶に舌打ちを返した。豪雪地帯を進む除雪列車のように、異形の人々を蹴散らしながら走り出した。
「ちょっ……どっ……どうするん?」
夢姫は大慌てだ。若造はものすごい馬力で店内を突き進んでいた。あと五秒もかからずに、夢姫たちのところにたどりつくだろう。
「よし、それでは、ここから夢の真骨頂を見せてやろう」
満を持しておじさんが立ち上がった。だらしのない赤ネクタイを締め上げ、コートの襟をなおした。
須磨のババアは椅子に座ったまま、優雅に足を組みなおしていた。
「確保おぉぉぉ!」
若造が飛んだ。頭から突っ込んできた。
夢姫の頭上を飛び越え、おじさんに一直線に組み付いた――かに、思われた。
「夢操――」
おじさんの指パッチンが合図だった。
世界の創生、その瞬間の。
おじさんと夢姫、須磨のババアを中心に、レストランが加速した。周囲の景色が、加速度的に速度を上げていき、夢姫たちから遠いところにあるものほど、異次元の速さで見えなくなっていった。
「おああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!」
青い若造は、おじさんに向かって飛び上がった体制のまま、周りの空間ごと遥か時空の彼方へ消えていった。
「いだっ!」
座っていたソファもすっ飛んでいって、夢姫はお尻から落ちた。何に落ちたのかはよくわからなかった。固い感触こそあったが、夢姫の周囲はすでに、光の帯に埋め尽くされていた。
透明に見えるほど透き通った白、バターのような黄色、古い蛍光灯のような橙、時々、ソーダアイスのような水色、そういった光の線が絶え間なく注がれて、夢姫たちを避けるようにしてどこかへ流れていく。
粒子加速器というものを夢姫が知っていたならば、きっと、その内部を通っている光はこんな景色を見ていると思うのだろう。
しかし、夢姫は、須磨のババアが何もない空間に優雅に座り続けていることに腹を立てるので忙しかった。そんなやり方、うち知らんし。
光の帯がやってくる方向を見ていると、ペン先でつついたような黒い点が一つ、現れた。
それはほくろ大の大きさ、お盆くらいの大きさ、トラックのタイヤくらいの大きさと、徐々に周囲を侵食し始めた。夢姫はそれが、光たちのしっぽが近づいている証拠なのだと気付いた。
最後の大加速を見せた光の帯が、本来ありえない、温かみのある風で夢姫の短い髪を揺らした。
光たちが通り過ぎた後に残ったのは、真っ黒な闇だった。
空気も、音も、時間の流れすら止まってしまった。
なぜ直立できているのかわからない。
どこからも光が当たらないせいで、影ができない。自分がいる空間の立体感がつかめない。どこが床で、どこが壁で、天井なのか。その境目はどこだ。そして、光がないはずなのに、おじさんと須磨のババアがくっきりと浮かんで見える。
おじさんは苔色のコートのポケットに手を突っ込み、何かを待っている。
須磨のババアは相も変わらず虚空に腰かけ、何かを待っている。
左耳に何か引っかかるものを感じて、夢姫は振り返った。
とっさに銀色のピアスを指先でつまんだが、違和感の正体は、望んでもいないおしゃれのせいではなかった。
汽笛だ。
かすかにだが聞こえた。
船の出すそれとはまた違う、甲高くて細長い音だ。
プゥオ、プゥオ、ポォオ~、ひょろ長い音がした後、今度はシュッポ、シュッポ、絶え間のない蒸気の音が聞こえてきた。音はどんどん間隔を速め、どんどん近づいてきた。最後は地鳴りにも似たドッドッドッドッという音になり、夢姫のあばら骨を直接震わした。
機関車だ。それも、大蛇より長い客車を引いた。
おでこに小さな丸灯りをつけ、漆黒の宇宙を照らす唯一の光となってやってきた。線路も、なんなら道どころか地面すらないところを、滑るようにやってきた。
「おじさんさぁ」
近づいてくる機関車をうっとりと眺め、おじさんは言った。
「メーテルが好きだったんだ」
「えっ、誰」
いきなり初恋の話をされてもわからない。というか、おっさんのふわふわした話を聞きたい女子中学生はこの世に存在しない。お金をくれるなら別だが。
「巨乳の女の子」
「きらい」
条件反射的に夢姫は返した。
ゴミを見るような目でおじさんを見た。
「んっはっはっ、まぁそう言うな。本番はここからだ」
おじさんはくすぐったそうに笑っていた。
ドMかな、夢姫は思った。
機関車は、近くで見ると優雅さとは程遠い走り方をしていた。心配になるくらい大量の煙を吐き続けるし、ピストン運動で前後に動く鋼鉄の棒が、動きたくないぐうたら車輪と戦争を繰り広げ、無理やりぶん回していたのだ。
黒くてごつい車体が須磨のババアとの間に侵入し、そこからは誰も乗っていない客車が視界を遮った。客車は茶色に塗られた木製で、いくつも並んだ四角い窓の中に、ランタンの灯りが光っていた。
見た目からは想像できないほどあっさりとした時間で、機関車は通り過ぎた。瞬き二回分だ。
再び訪れたのは静寂、現れたのは須磨のババアだ。
片目だけを開いて、紅茶片手にクッキーをついばむようなゆったりとした首の回し方で、機関車の走り去っていった方を見ていた。
つられて同じ方を見ると、そこに客車の尻はなく、代わりに、闇に浮かぶ一粒のしずくがあった。
闇の世界に重力が生まれ、しずくは落ちた。
しずくの落ちたところから波紋が広がり、幾重にも重なって大きなさざ波となった。
波の通過した後には星々が瞬きはじめ、その中心に、小さな若葉が芽吹いた。
若葉の上から柔らかな陽光がさし、乾いた雨が降った。
若葉はぐんぐん成長し、周りの空間を――
「神野おおぉぉぉぉ!」
ノアの大洪水をモーセが奇跡で叩き割ったくらいの無神経さだった。血沸き肉躍るスペクタクルを返せ。
やってきたのはもちろん、青い若造だ。爽やかな顔を梅干しのようにシワだらけにして、大粒の汗を光らせ、何もない虚空を超高速平泳ぎで帰ってきた。
だが、なにがどうした、若造は夢姫たちとあと数メートルという位置につけているのに、前進するスピードが亀より遅い。タールの海を必死こいて進んでいるような、スケートリンクを普通の靴で走っているような、手足の動きに成果が伴っていない。あれでは、こちらにたどりつくのが明後日になってしまう。
「頑張るなぁ、トダケン」
おじさんはため息と半笑いをプレゼントしていた。
若造はムキになって、手足をしゃかりきに回し始めた。その姿はまさに鬼神。カッターシャツの襟が汗でにじむほどだ。
しかし結果が伴わない。前進スピードが秒速二ミリメートル増えただけだ。夢姫の位置からだと、その場で手足をかき回しているようにしか見えない。
「今、だぁいじなことを教えてる。もうちょっと泳いでろ」
おじさんは右手の人差し指と中指を立てると、手首でおじぎした。
「うああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!」
見えない力によって、若造は今来た道をパチンコ玉のように跳ね返っていった。あまりに速すぎて、一瞬、顔が平行四辺形につぶれたように見えた。
「……ねぇ、あいつなんなん?」
星になった若造に、夢姫は素朴な疑問を抱いた。
「おじさんのおっかけ」
おじさんはまともに取り合う気がないようだった。
掌を成長途中の若葉に向け、世界の創生を再開した。
若葉は周りの空間を巻き込んで成長した。
真っ黒な闇が、ねじれる絨毯のように歪み、小さな点にしか見えなかった星々が、養分のように若葉の根に吸い取られていった。
太陽が昇り、燦々と光を注ぎ、若葉は青草に、青草は若木に、若木は見上げるような大樹になった。足元からは脈々と小川が流れだし、やがて大河となり、数多くの支流を持つに至った。
水辺には新たな緑が生い茂った。背の低い草木が猛々しい勢いで広がり、気付けば、夢姫は大草原の真っただ中にいた。
小川で魚が跳ね、草木の間をトカゲが這いずり回り、そのトカゲを、巨大な竜が一飲みにした。咆哮する竜の頭を追って見上げれば、青々とした空がそこにはあり、真っ白な鳥が、世界の誕生を祝って歌っていた。
今でも脳裏に焼き付いとるよ。
おっ……きな木の下にねぇ、この世の全部を詰め込んだ世界ができたんよ。
夢姫はそう言うと、まるで今そこで見てきたかのように、なまめかしいため息をついた。
早回しで繰り広げられる地球の歴史。無から生まれた命の神秘。それが何億年も続いた奇跡。
全てが鮮烈な記憶となって爪痕を残し、夢姫の脳裏にこびりついている。
みんなそうだ、夢に魅せられたものは。
「なにこれ……」
巨大な一本の木の下に広がる世界に、ローファーの下にある草地の柔らかさに、夢姫は身震いした。
「さっきお前が作ったパラシュートは、その一旦にすぎない。これが本物の夢操だ」
毛むくじゃらのゾウ、牙の長すぎるトラ、夢姫にも見覚えのある生き物が生まれ始めた世界を背に、おじさんは解説した。
「ここまでできるのは世界中探しても神野くらいだよ。夢そのものを改編するのは本当に難しい。やりすぎると、持ち主の精神を歪めちまうからねぇ」
須磨のババアは庭木ほどの背の低い木に腰かけ、おじさんの妙技に舌鼓を打っていた。
「だからあの人、おじさんのことおっかけてるんだ……!」
夢姫は妙に合点がいった。
「そうかも」
おじさんは自慢するわけでもなく肩をすくめた。
世界創生は最後の大詰めに入った。
太陽が傾き始め、空が茜色に染まった。草原のいたるところでもこもこと土が盛り上がり、人型の生き物が動き始めた。彼らは手に松明を持ち、マンモスなどの大型動物を襲い始めた。
生き物が倒れた後には骨でできた塚が立ち、その塚を覆うように、石造りのピラミッドが建造された。時を同じくして太陽が沈み、世界はとっぷりと闇にくれた。人々はピラミッドの周りに集まり、星々に祈りをささげた。すると、太陽の変わりに月が昇り、薄い灯りで世界を照らし始めた。
月光を受けたピラミッドに幾何学の模様が浮かび、そこを境目にいくつものパーツに分かれ、飛び散った。中から現れたのはエッフェル塔だ。ねじ巻き式に回転しながら、天高くそびえ立った。地面から次々にビルが生え始め、エッフェル塔の周りを埋め尽くした。
いつしか、ビルの窓から漏れ出る光が、空を横切る飛行機の光が、昼のように夜を照らした。ビルの合間からはサーチライトのような光も飛び出して、世界の発展を盛大に祝った。国家予算全てを宝石につぎ込んでも再現できないであろう、美しさときらびやかさだ。
ビル群が互いに組変わりながら、左右に分かれた。現れたのはロケットの発射場だ。えんぴつ型のロケットが打ちあがり、人類はついに大樹を超えた。ロケットは月に突き刺さり、降りてきた人々が、地上に向かって手を振った。
「すごいと思わないか」
百万ドルの夜景にも負けない絶景を前に、おじさんは言った。
「平らな水盆の上に、一滴の滴が落ちる。それは大きな島となり、土でできた人形が動き出す。彼らは文明を築き上げ、神と対話する」
夢姫はおじさんを見た。
おじさんは右手を狐のようにして、月にたどりついた人々にコンコン、と挨拶していた。
「夢を見ている間――人は神になるんだ」
おじさんはいたずら小僧のように無邪気に笑った。
右手の狐を逃がすと、そのまま、手の平をまっすぐこちらに伸ばした。
「夢を見ている間だけ、ね」
もっとこの瞬間が続けばいいのに。
そんなことを思う日が来るなんて、人生わからないものだ。
目が覚めたとき、夢姫は言いようのない喪失感に襲われた。
胸に穴が開いたような、心の底から信頼していた友人を失ったような、絶望にも似た感覚に。
その身一つで飛べない世界が、こんなにもつまらないか。大蛇のいない世界が、こんなにも色褪せて見えるか。機関車が空駆けない世界が、こんなにも味気ないか。
重たい頭を持ち上げると、バスタオルが肩の上で滑った。
眠い目でタオルの端を追い、事務的に拾い上げた。
安いスプリング式のベッドが、寂しい音で軋んだ。
夢姫はほつれた糸のようにか細いため息をついた。
ベッドの脇にあった袖机に、誰かがいた。
おじさんだ。苔色のコートは間違いない。おじさんだ。どこからか椅子を持ってきて、袖机にうつぶせになって、ガァガァ言いながら寝ている。
夢姫は体の前だけをバスタオルで隠しながら、寝ているおじさんに手を伸ばした。
「そうやって、無垢な少女を犯罪の道に引きこむのはやめろ!」
ようやく追いついた俺は、神野の作り出した世界に溺れながら叫んだ。
この大ウソつきは、対象者以外には底なし沼になるように世界を作りやがったのだ。おかげで俺は、ビル群の中心でアスファルトに両足を絡め取られている。今も絶賛、ずぶずぶと埋まっている最中だ。
「違うな、オレじゃない。夢が彼女にそうさせるんだ」
神野は数百メートルはあるビルの屋上から、俺を見降ろしていた。
現実世界なら決して交わることのない視線と音声を、俺たちは夢を改変することでやり取りしている。
俺は、無責任に落とされた言葉を渾身の怒りで撃ち返した。
「はっ!さすがは、責任逃れは犯罪者の十八番だな!」
夢姫はおじさんの背中に触れた。
くしゃ、と乾いた音がした。
おじさんの背中に、一枚の張り紙がしてあった。
その辺に転がっているような広告の裏に、極太のマッキーで殴り書きがしてあるのだ。両肩のところで、セロテープで無造作に貼ってある。
夢姫は張り紙を引きはがし、手に取ってまじまじと見た。
起 こ す な !
きったない字だった。たった四文字なのに、どうしてここまでとめ、はねをおろそかにできるのだろう。そしてなぜ、口やかましいおじさんの声が聞こえてくるのだろう。
その言葉に、夢姫はなぜか見入ってしまった。
マッキーの線を指でなぞり、呟くわけでもなく、唇を動かした。
神野は目を細め、東の空に顔を向けた。
ビルの屋上にいるやつには見えているのだ。太陽が、再び昇ったのが。
「ならお前、あの子になんて言う。未来は明るいですよ、希望もありますよ、格差はそのうち、なくなりますよ?……ふざけるな。このハリボテのような国で、どうやって夢を見る?」
ビルの屋上にいるやつには見えているのだ。おこぼれをすする寄生虫たちが、上辺だけで取り繕ってきた発展と栄光が。
あぁ、白状しよう。この時の俺にはわからなかった。
どれだけ立派にラッピングしても、中身がボロボロのプレゼントでは子供が泣いてしまうということを。
「彼女は夢の魅力を知った」
俺の左腕の腕時計が、スヌーズ二回目の目覚まし時計のように激しく鳴り始めた。
「もう普通ではいられない」
神野右蛻はビルの屋上から飛んだ。
「ふあぁぁぁぁ!よく寝た!」
おじさんが急に伸びをしたので、夢姫は驚いて後ろ向きにこけた。安物とは言え、ベッドがあって命拾いした。
おじさんは大きく伸びをしながら振り向いた。
「よぉーおぉぉ、お待たせ」
夢姫はバスタオルを胸元まで引き上げ、声にならない悲鳴を上げた。
「あぁっ……えっ……?」
「んー……?あぁ、仕事中に起こされるの、嫌だろ。いっつも貼るんだよ」
おじさんは夢姫の手に握られた〝起きるな!〟を指さし、眠そうに言った。
「あぅ、そろそろ服、乾いたかな」
「えっ……いやぁ……」
夢姫は部屋の隅にかけてある制服に視線を走らせた。
コート用のハンガーからでろん、と垂れているカーディガンは、まだミント色ではなく、濃いライムのようになったままだ。
「あーあー、違う、こっちじゃなくて、あっちのね」
おじさんは、お見舞いに遠慮するおばあさんのように、左手をしなしなと振った。
その手首に巻き付いている腕時計が、ピッ、ピッ、と、やけにのろいテンポで鳴り始めた。
おじさんは文字盤をじっくり見つめ、ほくそ笑んだ。
「おっ、いーじゃん。ナイスタイミング。さすがだな」
「なっ……なにが――」
ドタドタ、バキ、ドカン。引っ越し業者がタンスを落とした時と同じ音がして、夢姫の小腸の入り口がきゅっ、となった。
「くそぅ!そっちか!」
一体全体、何事だ!?トイレの中から、あの、青い若造の苛立ちが反響して聞こえてくる!
排水溝にでも引っかかったのだろうか。いや、夢姫はもう目覚めているのに、どうやってホテルの、それもトイレの中に侵入してきたのだこいつは?
次から次へと訪れる意味不明に、夢姫の脳はパンク寸前だ。
おじさんの話も、腕時計から突然鳴り出すアラームも、若造の三度目の突入も、夢姫に理解可能な範囲を数十光年超えている。
「ヒントをやろう」
おじさんは手短に言った。
その左腕で鳴るアラーム音が、徐々にスピードを上げ始めた。
「ここのベッド……スプリングだったかぁ?」
ピッピッピッピッ、とリズムよく、おじさんはベッドを叩いた。
汚い音で弾むスプリングに、夢姫は突然、強烈な違和感を抱いた。怪盗キッドが予告状無しで現れたような異常事態だ。頭の中に、自分ではない誰かが居座っているような、振っても叩いても消えないもやが広がる。
「なにくそ!神野ぉぉぉぉ!」
若造がトイレのドアをぶち破ったが、おじさんは見向きもしなかった。夢姫が考え込んでいるのを見て、満足したように笑った。
「その通り」
ピピピピピピピピピ!と、アラームが尋常ならない速度でビートを奏でていた。
若造がまた跳んで、頭からおじさんに突っ込んで行った。
「えっ――ちょっ待っ――」
「逃がさあぁぁん!」
せめて答え合わせだけでもしたかった。
それなのに、
「オレの匂いを追え。近いうちにまた会える」
おじさんは不敵に笑って、若造の腕の中で消えた。
夢姫は再び目覚めた。
今度はいたく自然な目覚めだった。
ひんやりとした冷たさと、奇妙な浮遊感の上にいた。間違いなくウォーターベッドの副産物だった。
左手が何かを持っている。
他人事のように感じつつも、その感触に注目した。
起 こ す な !
張り紙だ、おじさんの!
慌てて起き上がり、周囲を見渡した。
枕元にある巨大な鏡に、既視感を覚えずにはいられなかった。
おじさんの姿はどこにもなかった。
「うぅっ……!」
夢姫は右手でパッと口元を覆った。
最後、小さなブラックホールに吸い込まれるみたいに消えていったおじさんの姿が、何度もなんども、頭の中で再生された。
どこから夢だった!?どこまでが!?
わからない。なにが本当で、なにが幻影なのかもわからない。
夢姫は手で口元を押さえ続けた。
夢の世界で吸い込んだ空気を、一ミリも逃したくなくて。
ウォーターベッドの上で一人。
ずっと、ずっと、そうしていた。
カナカナカナカナ……雨のやんだ空に、ヒグラシの鳴き声が吸い込まれていく。
夢姫はギシギシと板をきしませながら、朽ちた階段を登る。
点滅を繰り返す明かりの下に、はげかけのペンキで〝201〟と書かれた扉がある。
棺桶に入るのと同じ気持ちで、ドアノブを握った。
中はほとんど真っ暗だった。唯一の光は、突き当りの小窓から顔を覗かせている三日月だけだ。
とは言え、勝手知ったる我が家だ。つまづきなどしない。手狭な玄関を不法に占拠する靴やサンダルを蹴飛ばし、自分のローファーのスペースを確保した。夢姫自身も乱暴に脱ぎ散らかし、板間に上がった。
ひどい家だ。ベニヤ板の台所は、収納の扉がボロボロで、蝶番のネジが外れているものもある。流し台にはカップ麺やコンビニ弁当の殻が山積みになって、ひどい腐臭がする。
脇においてある冷蔵庫を夢姫は開いた。黄色く変色した冷蔵庫だ。中にはチーズが一欠片と、アルコール度数の高いチューハイが三本、あとはしおしおになった草がすみっこの方に転がっているだけだ。夢姫はケッ、とつばを飛ばして冷蔵庫を見捨てた。
台所左手には部屋が二つあるのだが、どちらもヤニの染みた茶色い襖で閉ざされている。一番奥には和式の便所と、小人用かと見紛うほど小さな風呂場がある。どちらもうんこや人の毛がびっちりこびりついていて、使うたびに吐き気がする。
「…………」
夢姫は玄関に近い方の襖を一瞥し、左耳のピアスをはじいた。そのまま、奥の方の襖に向かった。建付けの悪いそれを、ゴリゴリと力任せに開いた。
畳は、夢姫程度の体重で沈み込む代物だ。彼女は同学年の女子の中でも特別に軽いというのに、だ。家の中なのに、雲の上を歩いているような不安定さがある。
夢姫はサイズの合わないパンティやブラジャーをかわしながら、部屋の一番奥までたどりついた。そこには月明かりが落ちていて、しなびた、煎餅のように薄い布団が敷かれているのが見えた。その上だけが唯一、この家でゴミをかぶっていない。
この時がきた。
重たい学生カバンを下ろし、夢姫は肩をさすった。カバンの置かれたところから、布団に染みが広がっていった。
まだ少し湿っているカーディガンを脱ぎ、枕元に落ちていたハンガーにかけ、月明かりに掲げた。
転がっていたファブリーズを拾い上げ、カーディガンがまた濃い緑色になるまで、フレグランスの香りを浴びせまくった。
「ゆらり」
襖の向こうから、くぐもった声がした。
夢姫は聞こえなかったふりをして、ファブリーズのトリガーを引き続けた。
「夢姫!」
バァン!と大きな音がして、夢姫はファブリーズのトリガーを引き絞った。全身の筋肉が委縮し、セメントのように固まった。あと少しで悲鳴が飛び出すところだった。
襖の方だけは、絶対に見ないと決めていた。
「挨拶は」
その声を聴くと、いつも体が震えた。
しゃがれた、ギザギザの声だ。夢姫の背骨に食い込んで、切れ味の悪いノコギリのように、何度も何度も引かれるのだ。
激しくなった息遣いをひた隠し、もう一度やってきた悲鳴を飲み込み、鼻の穴を何倍にも大きくして酸素を確保した。
「ただいま」
ハンガーとファブリーズを持ち上げたまま、夢姫はお月様に言った。
「帰ってきたら挨拶をする約束じゃろ」
ギザギザの声がまたつき立てられ、夢姫は歯を食いしばった。
愛も、情もない。彼女が感じるのは恐怖だけだ。
「ごめんなさい」
ファブリーズを持つ右手が、じっとりと汗ばみ、ガタガタ震え始めた。どれだけ念じても、右手は言うことを聞かなかった。凍傷にでもなったかのように、感覚がないのだ。
ミシ、と畳が大きく沈み、丸太のように硬くて重たい腕が、右肩に乗せられた。
巨大な氷の杭でも打ち付けられたかのような、寒気と金縛りに夢姫は襲われた。
ギザギザの声の次は、ザラザラの手だ。色黒で、金髪女のタトゥーが掘ってあって、女の夢姫がどれだけ力を込めても跳ねのけられない、悪魔のような手だ。夢姫の右肩をしゃぶるように、指の腹で制服のブラウスを撫でている。
ハンガーを握る左手が勝手に跳ねて、カーディガンを取り落としてしまった。
夢姫は左手で何度もなんども虚空を掴んだ。
横隔膜が暴れ出し、呼吸がひどく不規則になった。異常な間隔で吸気と排気が入れ替わり、もはや自分が、どこに立っているのかさえ分からなくなるほど、視界が真っ暗になった。
「雨降っとったんじゃろ?ん?」
ブラウスの湿り気を十分に堪能したあと、ギザギザの声は言った。
「シャワー浴びてこい」
リー、リー、リー……スズムシが鳴いている。
近頃、大人たちは「秋がない」としきりに言う。
夢姫にはなんのことだかわからない。
どうだっていい。
秋があったら、何かいいことがあるのか?
異常気象?温暖化?
知らん。マジどーでもいい。
「そんな暇ないって」
夢姫はせんべい布団の上で毛布にくるまっていた。
この部屋の窓にはカーテンもない。差し込む月明かりから逃れるように、夢姫は毛布の端をほっぺたまで引き寄せた。
襖の向こうから、玄関扉の開く音が聞こえた。
「たっだいまぁ~」
小学生くらいの女の子が歌っても、まだ大人びて聞こえるだろう。
わたあめのように甘ったるい声だ。ずっと聞いていたら胸やけしてしまう。
「おぉ、遥香」
隣の部屋で、ギザギザの声が返事した。壁が薄いため、夢姫は胃をキリキリさせながら聞いている。
「ぷりんちゃん、帰ってる?」
わたあめの声がふわふわとこちらに近づいてくる。きっと今頃、玄関の靴の海に、真っ赤なハイヒールが投げ込まれていることだろう。
「二時間くらい前に」
「ぷぅりんちゃぁん」
ゴリィッ、と襖が開かれ、わたあめの声が直に聞こえてきた。夢姫は反応しなかった。
そっと目を閉じて、毛布の中で早く朝が来ますようにと祈った。
「だから寝てるって」
「むぉ~、つまんない」
「寝る子は育つ、だろ。ありゃあ、いい女になるぞ」
「もーっ!なんでぷりんちゃん?あたしは?ねぇ、あたしはー?」
「わかってるって」
「んんー、んふ。今日はねぇ……はい!こぉんなに!」
「おーっ、やるじゃねえか」
「えへへ、でしょお?ねぇー、光ぅ、あたしのこと好き?好き?」
身の毛がよだつ。
わたあめのような声も、ギザギザの声も、夢姫は大っ嫌いだった。
どちらも、夢姫の踏み入られたくない部分に、ずかずかと土足で乗り込んでくるから。
生々しいやり取りを聞きたくなくて、夢姫は寝返りを打つふりして耳を塞いだ。
「んん~あぁ、シャワー浴びてこい」
「はあ、い」
ギザギザの声に促され、わたあめの声はその場で服を脱ぎ始めた。
ドレスが畳に落ちる時の、軽い振動が届いてくるからわかる。
「じゃあね、おやすみ、夢姫ちゃん」
襖を閉じ切る前、あの人はそう言った。
いつもそうだ。目をつむっていても思い浮かぶ。
けばけばしいメイクで、年齢を隠した顔で、子供みたいに笑って。
精神年齢だけなら、夢姫はとうにあの人を超えている。
こんなろくでもない人間がそうだなんて、死んでも認めたくないのに。
あの人はどう転んでも、自分の母親なのだ。
鋼鉄の塊が目の前を駆け、夢姫の前髪は裏返った。
つま先のすぐ先に、金属のレールが走っている。その上を、金属の車輪が転がっていくのだ。ジュラルミンケースのような車体が、夢姫の鼻先をかすめて飛んでいく。
ゴーッ!と風が通り過ぎ後には、上りのレールの傍らに立つ夢姫と、下りの傍らに立つおじさんだけが残された。
夢姫は遠ざかっていく電車を見つめた。
入道雲の向こうの方で、踏切のカンカンという音が鳴っていた。
「おー、遅かったな。夢姫」
「寝不足なだけ」
ざらざらの声に、束の間安堵感を覚えてしまった夢姫は、わざとぶっきらぼうに返した。
挨拶をないがしろにされたことに気付いたのか、おじさんは線路に敷き詰められた石を蹴り飛ばした。
「あー?お前よぉ、いっつも長袖タイツで暑くないのか?」
「女の子はおしゃれせんといけんのんよ、おじさんと一緒にせんでくれる?」
夢姫はミント色のカーディガンをひらひらさせて、タイツの表面を手でなぞり、強気に言った。
当然だ。よれよれのネクタイをだらしなく首から下げ、しなびたカッターシャツの袖をやたらめったらまくり、苔色のコートを無造作に肩にかけているおじさんに、着飾ることの意義と歴史がわかろうはずもない。あと、いい加減、三日に一度しか髭を剃らない習慣を正して欲しい。
「あぁー、夢姫ぇ……」
おじさんは、その顎髭をジョリジョリと撫ぜた。なぜか、大作映画のネタバレでもするかのように、それはそれは嬉しそうに笑っていた。
夢姫の敗因は一つ。
まだ、駆け出しだということだ。
「夢の中でくらい、脱いだっていいんだぜ?」
「えっえぇ!!??また夢えぇぇ???」