第二章 まどろみの中で
目を覚ますと、ベッドの上で頬がたぷたぷと躍っていた。ウォーターベッドというやつだ。
「んぅ……」
眠い目をこすりながら体を起こすと、胸元から薄い布がはらりと剥がれ落ちた。
徐々に覚醒を試みていた脳みそが、一気にフル回転で動き始めた。
「ぅわ!」
夢姫は慌てて布を引っ張り上げた。ごわごわした感触ですぐにわかった。これは安いバスタオルだ。つまり、おじさんと入ったホテルに戻ってきたのだ。
素早く周囲を伺ったが、幸いなことに、部屋には夢姫以外誰もいなかった。
「っふ~……ん?」
戻ってきた?どこから……?
夢姫は混乱していた。まるで、夢でも見ていた気分だった。たしか、砂浜で誰かと遊んで、石焼き芋を食べて、家から飛び出してパラシュートが滝で……おかしい。どれだけ脳みそを掘り返しても、断片的にしか思い出せない。
それよりも、大事なことがあったような気がしてならなかった。
何かを忘れて――
「あぁぁーーーっっっ!」
夢姫はベッドを殴りつけて立ち上がった。
「おじさぁん!」
「うぉっとぁい!」
廊下に飛び出すと、驚いたおじさんが足を滑らせ、頭から壁に激突した。隣の部屋から男女の悲鳴が上がった。
悪いなどと思うものか。女を置き去りにして先に帰る男に人権はない。
夢姫は、足早に立ち去ろうとするおじさんを猛追した。
「待って!待ってよおじさん!さっきはなんで!」
「あいにくお前の相手をしてるヒマがない!おっそうだ、いぃ~ことを教えてやろう。恋愛とギャンブル、投資に共通するものは何か?そう!肝心なのは引き際だ!」
「知らんし!ちょっと待ってって!さっき、なんであたしの家に――」
「お前の家?あぁそうかい、心配するな二度と行かん!だからついてくんな!」
おじさんはエレベーターの前を素通りした。廊下の端に光っている、非常口の誘導灯を目指しているに違いない。
バスタオルがはだけてうまく走れない夢姫は、徐々におじさんから引き離されていった。
望むところだ、それならばむしろ、この状況を利用するまでだ。
夢姫は唇の先をストローのよう尖らせ、ホテルの酸っぱい空気をくちいっぱい吸いに込んだ。
「いやあぁぁぁぁ!ちかあぁぁぁぁあん!」
「ちょっと待てぇ!聞き捨てならんな小娘ぇええ!」
おじさんは竜巻のように回転して帰ってきた。
ところ変わってラブホテル。
先ほどと違い、壁紙やベッドがピンク色の――
「えっ、なんでまたラブホなの。おじさんってやっぱりそっちなの?」
「違うわ!たっかいホテルをとるほど金がないんだおじさんは!あと、おじさんじゃないから!」
ウォーターベッドが荒波のようにうねり、夢姫はボールのようにバウンドした。おじさんが叩いたせいだ。
「そのわりには、いい時計してるじゃん」
夢姫はおじさんの左腕を突っついた。モッズコートの袖口からチラリと見えたのだ。
メタルバンドの時計で、文字盤が長方形だった。
おじさんは左袖をまくると、うっとりとした表情で時計を見つめた。
「おっ!お目が高いな。これは何を隠そう、おじさんの師匠から受け継いだ由緒正しき時計だ。絶対にやらん」
「別に要らんし。男物じゃんそれ」
「あぁん?だからやらねえって……つーか、お前こそ、またバスタオルかよ」
おじさんがまた子ども扱いしたので、夢姫はカチンときた。両手を振り上げ、クジャクのように体を大きく広げてみせた。
「濡れてるからぁ!ふーく!」
「うっせー!ここに来るまでに一回服着て?ここにきたらまた服脱いで?おまけにガッツリ二回目もシャワー浴びやがって!オレが何時間待ったと思ってるんですかぁ!」
「そんな何時間もかかってまーせーん!これっぽっちも待てんとか、おじさん、女の子にモテんじゃろっ」
図星だったのか、おじさんは悔しそうに唸ってそれっきりだった。
夢姫は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ね、おじさん」
リモコンを弄びながら、夢姫は出し抜けに言った。
「テレビを消しなさい。なに」
「そろそろ教えてよ、さっきの、なんなん」
夢姫の質問に、おじさんの答えは顎髭をボリボリかくことだった。あと、リモコンをひったくられた。
髭の隙間からフケが落ちて来やしないか、夢姫はハラハラしながら見つめていた。
手袋を編めるほどの熟考の末、おじさんはふむ、と吐息を漏らした。
髭の中で唇がサーベルのようにひん曲がったのを、夢姫は見た。
「見た方が早い」
予感がした。
やっぱりだ。
バスタオルではなく、制服姿に戻っていた。そして、ウォーターベッドではなく、本物の水の上に横たわっていた。
髪も服もまた水浸しになったが、夢姫はちっとも気にならなかった。
満点の星が輝いていたから。
とっぷりとくれた夜の闇に、宝石のように綺麗な光がちりばめられているのだ。一つ一つ違う色で輝いて、星座など一つも知らない夢姫を、壮大な宇宙のショーのど真ん中に連れ込んだ。
あの星々は、なぜあんなに綺麗なのだろうか。
人に見せるためではないはずなのに。
人が生まれるはるか前に、彼らは誕生しているのに。
なのに、なぜ。
やめて欲しい。
あなたたちを見ていると自分が惨めになる。
惨めになるのに――。
体を起こすと、自分が果ての無い湖の上にいることがわかった。水と自分以外、生物も無生物も存在せず、360度水平線を見渡すことができた。
水位が数センチしかない。手でたたくと、波紋の下にお盆のように固い感触がある。
ありえない。
こんな場所が地球上に存在するわけがない。
夢姫は手についた水滴を見つめて思った。
「その通り、ここは現実じゃない」
三日月に腰掛けたおじさんが、その三日月ごと降りてきた。ワイヤーで吊っているかのように、すーっと降りてきた。
おじさんは目の前にあった赤い星を指先でつまむと、たいして見もせず、鼻くそみたいにはじき飛ばした。
「さっきお前の家に行った時もそう――ここは、夢の世界だ」
ばっちり目配せを決めると、おじさんは三日月から飛び降りた。
湖は盆のように薄いのに、着地で響くは水の音だけだった。
おじさんの傷だらけの革靴も、くたびれたスーツにも、水滴一つ付かなかった。
「ついてこい」
おじさんはバリバリにかっこつけてモッズコートを翻した。
コートは右ひじに引っかかり、裾がおじさんの顔に直撃した。
人でごった返す繁華街。そこにかかっているアーケードの、骨組みの上をおじさんは歩いた。
夢姫はおじさんの数歩後を、なんとかついて行った。ツルツルの鉄骨は、立っているだけでも至難の業だった。
「夢の中では、現実世界の決まりが一切通用しない。物理法則も、時間の流れも違う」
自分の説明を証明するかのように、おじさんは腰を折り、アーケードのアクリルを指先で二回、つついた。
アクリルは、おじさんの指が当たったところを起点に砕け散り、大小様々な破片となって宙に浮いた。
おじさんはくるくる回転している破片に飛び乗り、指先だけでちょいちょいっ、と手招きした。
夢姫は疑心暗鬼に足を延ばしてみた。
破片は当初、夢姫の重みで若干沈んだが、ある程度のところで強く反発した。
おじさんはそうだろう、と言いたげに頷いた。
破片の隙間から視線を落とすと、赤いぼんぼりが連なり、中華料理の店ばかりが軒を連ねているのが見えた。
豚が丸ごと一頭横たえられていたり、ニワトリが何羽も吊るされたりしている中を、たくさんの人が行き交っていた。三メートルを超える巨人、手が六本も八本もある人、鳥のようにクチバシがついた人……大きさも形も様々だ。肌がさかむけていたり、目が片方溶け落ちたりしている人もいて、夢姫は少し顔を背けた。
「あの人たちも、うちらと同じなの?」
「いや――」と、おじさん。
「夢に入り込めるのは一握りの人間だ。絶対音感とか、映像記憶とかと同じ、生まれつき。オレの親父は違ったな……」
「ふうん」
「寝入者以外の生物は、夢の主の記憶や願望、妄想の投影だ……あれはたぶん、残骸だな」
「……残骸?」
おじさんは肩をすくめるだけで、それ以上詳しく説明してくれなかった。
「夢とは本来、不安定で不確実なものだ。見ている本人の意思とは……関係のない方向に突き進んでいく」
次におじさんがやってきたのは夜の工場だった。
夢姫は今、工場の外側に作られた、終わりの見えない階段を延々と上っている。
「経験がないか?どんなに怖い夢でも、死ぬほど恐ろしい夢でも、お前は逃げられないし、反撃もできない。ひやひやしながら朝を迎え、気が付いた時には布団の上でびっしょり汗をかいている……」
夢姫は、こちらを振り向いたおじさんに激しく頷いた。
「本来、人間はただの傍観者だ。神の気まぐれで与えられたこの脳みその、壮大な地ならしのな。舵の壊れたヘリコプターに乗っているのと同じ、ただただ、どうしようもなく観続けるしかない」
階段の一番高いところまでやってくると、おじさんは鉄柵に寄り掛かった。
その隣で夢姫は、工場一円を見渡した。
色褪せた五円玉みたいな色をした極太のパイプが、下手クソなあやとりのように絡み合った巨大工場だ。何を作っているのか見当もつかないが、工場は地平線の向こう側まで続いていた。
あるパイプは先端から真っ白な煙を吐き出し、またあるパイプは火を噴き出していた。入り組んだ鉄骨の隙間では、赤や青の光が瞬いていた。
「でも、今は違う。おじさんもあたしも、行きたいとこに歩いて行けてる」
「その通り。夢に入ることができる人間は、夢そのものに干渉することができる」
「干渉?」
「夢で起きる事象を改変することはできない。それは、夢の持ち主だけの特権だ。だが、夢で起きる脅威から逃れ、対処することができる。重力を無視して歩き、何時間も潜水することが可能になる。スーパーヒーローのような力持ちにもなれるし、空を飛ぶことだって」
そう言うと、おじさんは巨躯をかがめ、夢姫の右手を取った。
えっ気持ち悪い。夢姫の脳裏を嫌悪の感情が横切った時には、すでに音速を超えていた。
ほっぺたが空気をはらんで暴れまわり、唇がブルドッグのようにぶりぶり震えた。
あっという間に、二人は雲を突き抜けて、工場の遥か上空へ舞い上がった。
「えっ!ええぇぇぇぇえぇ!」
工場の吐き出す煙が、遠くかすんでしまうほどの高度にいた。
凍てつく夜風が、夢姫のまつげを砂糖菓子のように凍らせた。
「えっ!うそっ!マジで!ホント!」
夢姫はおじさんの右手に巻き付いて、両足を機関車のようにかき回した。どれだけ足掻いても、足裏は文字通り空を切った。
「ヤダヤダ!おろして!おろしてねえ!ほんと!もう悪いことしないから!」
夢姫は、両足の隙間から見える工場の灯りに恐怖した。女の子なのに、いや、女とか男とか関係なく色々漏れ出してしまいそうだ。
「なんだぁ、高いところは苦手か?自分の罪を見つめなおすなんて、おじさん感心だぁ。でもそんなに怖がることはない。お前もそのうちできるようになるんだぞ、ほら」
おじさんは人でなしにも、夢姫の手を振り払った。夢姫の体から、血の気と揚力がすっと失われた。
「ひぃ――き―――――っ!」
脇の下がひゅんとした。胃が喉の奥まですっ飛んで来て、舌の付け根にぶつかった。
夢姫は無我夢中でおじさんの右足に食らいつき、蜜を求めるカブトムシのように張り付いた。
おじさんはあっはっは、と笑っていた。
いつか殺してやる。夢姫は心臓に刻んだ。
「気を付けなければならないのは、他人の夢で動き回るには、ある程度の訓練が必要だということ、夢の持ち主のとの距離が遠ければ遠いほど、影響力が小さくなることだ」
「知らんし!死ぬ!死ぬって!マジ!」
夢姫はおじさんの話をちっとも聞いていなかった。
もはや感触を忘れてしまった大地からぞんぞん立ち上ってくる死の恐怖に、耐えきれなかったのだ。
「いいや死なない。たとえここから落ちて、脳みそをぶちまけても。オレに腹掻っ捌かれて内蔵ぶちまけても。お前は死なない」
おじさんはひどく冷静だった。
本当にひどかった。夢姫は総理大臣になったら、血なまぐさい話をするときは鼻くそをほじってはいけませんという法律を作ることに決めた。
「いい加減なこと言うなや!死ぬ!絶対死ぬ!」
「いーや死なないね。絶対に死なない。夢の中でどれだけ重傷を負おうが、それは夢の中の話だ。現実世界の体にはなんの影響もない」
「バカじゃないん!?おじさん、バカじゃないん!?こんな高いとこから落ちたら!トニー・スタークでも死ぬけん!嫌だぁ!人殺し!悪代官!犯罪者ぁぁぁ…………あ……?」
夢姫はそこで押し黙った。
腐った卵のように真っ黄色で、バレーボールほど巨大な目玉が二つ、夜空で光っていた。
刃物で切られたような細長い瞳孔で、こちらを見ていた。
さっきまでガタガタに壊れかけていた涙と鼻水の元栓が、漏水工事を受けたかのように一気に引き絞られた。
それ以上音を出したら、命乞いをする間もなく食われるのだと、本能で悟った。
「あーあぁ、おっきな声出すから」
だから言ったのに、と言いたげな口調でおじさんは言った。
いや、うち聞いてないからね。なんも、ホンマあいつ。と、夢姫はここに書けないほど口汚く罵った。
途方もなく遠い地表から、鎌首もたげて現れたのは大蛇だ。
大蛇とはいえ、夢姫の、あるいは一般人の知るそれとは明らかに違う点が一つ、あった。
山を越えるほど巨大だったのだ。
「あぁ……はっ……あっ……」
夢姫は、自分でべとべとにしたおじさんのズボンに頬ずりした。
バジリスクだ。叶愛ちゃん家で、叶愛ちゃんのお兄ちゃんが見ていたハリー・ポッターと秘密の部屋に出てきた蛇の王だ。いや、アズカバンの囚人だったかもしれない。そんなことはどうでもいい。どっちでもいい。重要なのは、この蛇がバジリスクより何倍も大きいということだ。
鱗の一枚いちまいが夢姫の手より大きく、口の切れ込みを見るに、夢姫はおろか、おじさんまで一呑みにされそうだ。目を見ても石にならなかったのは嬉しいポイントだ。好き。だから食べないで。夢姫は心の中で蛇に話しかけた。
蛇は唇の間から舌をチロチロと、いや、この大きさだともはやぶりん!ぶりん!と筋肉を揺らしながら伸ばしてきた。
二股に割れた舌先が、両目に突き刺さりそうな位置で漂った。今にも頭を食いちぎられそうで、夢姫はふん、ふん、と泣きながら笑った。
「工場のパイプに住んでるんだ。上空に届くまで成長したとは……知らなかったなぁ」
ペットのハムスターを紹介するのと同じトーンで、おじさんはバジリスクを指さした。
正気の沙汰じゃないと、夢姫は思った。
「もちろんおじさんは、この蛇を倒すこともできる」
「んへぇっ!?あっ……あぅあう……あぁ……」
喉の奥がねじ切れてしまいそうな恐怖の中、夢姫は必死に声を絞り出そうとした。
おじさんの膝上までよじ登って、助けてくれと懇願した。
「ん~?何?聞こえないなぁ」
おじさんは夢姫が思っていたより何倍も外道だった。
仏のような笑みを浮かべ、耳元に手を当てて聞いてくれた。
「たっ――たす――」
シュウウゥゥゥゥゥ!と、信号待ちのトラックを十台かき集めたような音を立て、ヘビが唸った。
せっかく振り絞った夢姫の勇気が、台風に見舞われたタンポポのように根元からへし折れた。
「そうじゃないでしょう?お嬢ちゃん」
おじさんは頼まれてもいないのに、仏の笑みを継続していた。
「人のことバカって言っておいて、まず言うことがあるでしょーう?」
幼稚園児に対するしつけと同じ話し方だった。
だが、腹を立てるより前に、夢姫にはなすべきことがあった。
弓を引き絞るように大蛇が、首をぐぐぐっと後ろに引いたのだ。なんのためにそうしているのか、考えなくてもわかった。
嫌だ、怖い、食べられたくない!死にたくない!
夢姫はもう必死だった。シューッと唸るたびにめくれ上がる唇も、その隙間から見える、サーベルのような牙も、生ごみの中に首を突っ込んだように臭い息も、全部が全部、骨の髄まで震えるほど恐ろしかった。
大蛇と競うようにして、夢姫は口を開いた。
「ごっ――」
「んん~?」
鱗まみれの新幹線が、最高速度で突っ込んできたとしたら。
きっと、彼女と同じ情景を見ることができただろう。
「ごめんなすぁっ――!」
夢姫が覚えているのは、先頭車両がばっくりと二つに裂けるさまと、巨大テントのような内あごだけだ。
「ひへぁぁぁぁあああああ!」
絶叫は逆再生しながら、肺の空気は吐き出しながら、夢姫は覚醒した。
ここのベッドは安いスプリング式だったから、上半身だけがおきあがりこぼしのように激しく起き上がった。
「はあーっ!はぁーあぁぁ~あうぅぅ~!」
ベッドに何度も尻を打ち付け、両手で体中をかきむしった。
バスタオルが背中の方からはらはら落ちて行ったが、生きてるだけで丸儲けだった。
足がある、お腹がある、胸も、肩も、腕もある。指先で顔をさわれる。髪も引っこ抜ける。ピンクの壁紙が愛おしくて死にそう。今なら世界平和がなんで大切なのか原稿用紙四枚書ける。
「あぁ!ああぁ!あぁぁ~ぁぁぁぁ、ぁあ~!」
おじさんは夢姫の隣で、目をつむってじっくり頷いていた。途中でふと目を開き、顔をしかめ、バスタオルの端をそっとつまんで引っ張り上げた。
「ひぃっ!」
おじさんの手を振り払おうとしたら、バスタオルは既にミント色のカーディガンに変わっていた。
「あぁっ……あぁ……あああ~……うっ!」
夢姫はまた両肩をさすった。
お尻の下が、ベッドではなく豪華客船の舳先になっていた。
海面は十数メートルも下にあるのに、飛沫がローファーのつま先に当たった。夢姫はひっと叫んで、手すりに背中をこすり当てた。
ここは深夜の大海原だ。
星々がまた、求められていないのに美しく瞬き、三日月が静かに笑っている。
ボォ~という汽笛の音と、どこからか飛来したカモメの鳴き声のあと、おじさんがやってきた。
手すりに寄り掛かって、舳先にいる夢姫に向かって、上から語り掛けてきた。おじさんは背が高いので、頭のてっぺんに声が落ちてきたように感じた。
「いいか?よく聞きなさい」
「ひっく」
しゃっくりだから、この時のは。マジで。と、夢姫。
「バカと言った方が、バカなんだからな?」
振り返ると、おじさんがバカ丸出しの顔をしていた。両津勘吉でももうちょっとましな顔をすると夢姫は思った。
残念ながらこの時はしゃっくりが止まらず、猛烈に頷くことしかできなかったそうだ。
「よし、よろしい。じゃあ聞くぞ。ゆとり用夢の解説、懇切丁寧無料お試し版を聞くか?それとも、手取り足取り教えられたいか?」
「たはっ…………とりでいい……ゆとりでいぃぃ!」
この時はしゃっくり止まってたから、と夢姫は殊更に強調した。それと、ゆとりはうちらより一回り上の世代だとも。
おじさんは合点承知とばかりに舌を鳴らし、大きな手をこちらに伸ばしてきた。
おけまるももう古代語だから。
夢姫はそう思いながら、おじさんの手をとった。
デッキに上がってみると、ここが本当に見事な客船なのだと思い知った。
夢姫の学校にあるのより大きなプールや、わざわざ犬畜生のために設えられたドッグラン、見上げれば自宅の数倍の高さの展望台があり、どこもかしこも人であふれ、無駄に光っている。
誰しもがドレスやタキシードで着飾っているのがわかって、夢姫はおじさんの背中に隠れるようにして歩いた。
前髪を撫でつけ、スカートの裾を何度もなんども伸ばした。
たとえ彼らが、首無しや片足の夢の住人に過ぎないとしても。
「……どしたぁ」
「なんでもない」
おじさんが歩きづらそうにしていたので、夢姫はぶっきらぼうに頭突きした。
「いでっ!」
おじさんはしばらく腰のあたりをさすっていた。
夢姫が何も言わずにうつむいていると、やがて、諦めたように肩をすくめ、船内へと続く階段を下りていった。
下に行くにつれて、内装がどんどん陳腐に、疎かになっていった。
重厚な木製だった踏板が網目の金属製に、指紋一つ付いていない金色の手すりが、黒いプラスチック製に。行きかう人々は、異形さこそ変わらねど、服装がみすぼらしいものに置き換わっていった。
ところどころ厚く塗り過ぎている白壁の廊下を突き当たりまで歩き、ようやくおじさんは止まった。
「ほら、ここなら落ち着くだろ」
「はぁわああぁ~」
夢姫は宝箱を開けた冒険者のごとく両手を彷徨わせていた。
彼女は今、壁際のソファに腰かけ、おじさんとともに小さなテーブルを囲んでいる。
さて、視線の先にあるのは真っ白な皿に乗ったマグロ、タイ、エビ、ハマチの握り寿司、その隣に山盛りのポテトフライと茹でたウインナー、鶏のから揚げ、余ったスペースにミニハンバーグと揚げギョーザ。安心しろ夢姫、お子様などと罵りはしない。ほとんどの人間は子供のころそういったものに憧れるし、たいていの人間は大人になっても憧れたままだ。強いていうならカレーが足りん。
「んまっ!うまっ……!ほんとにうまい……!」
夢姫は醬油もケチャップも死ぬほどつけて食った。油のしみ過ぎたピザを両手に抱えきれないほど持ってきて、左右かわりばんこにかぶりついた。制服のブラウスがべとべとに汚れていった。
ここがいくら中流層向けのバイキングレストランで、夢姫たち以外には異形の人々しか客がいないとしても、なお目に余る行儀の良さだった。
「あのなぁ」
ポテト山脈の向こうからおじさんのため息が降りてきた。おじさんは華奢な椅子に尻を半分だけ乗せて座っていた。
「夢の中でどんだけ食っても、腹は膨れねえぞ」
「ふぐっ!?なっ、なんどぅえ――うほっ!ぶぼっ!」
口いっぱいに詰め込んだ寿司がつっかえ、夢姫は酢飯をまき散らした。米粒の一つが気管への侵入を試みて、肺が逆襲の大砲を撃ったのだ。咄嗟に左手で唇の先をきゅっと絞り、右手で胸骨を割るほど叩いた。
「あぁあぁ、ほら、これを飲みなさい」
おじさんはあきれ顔でテーブル上のピッチャーを取り、空のコップになみなみと注いだ。
夢姫はこぼれるのもお構いなしにコップを傾け、顔面いっぱいに冷水を浴びた。
「ぷっはあああー!死ぬがど思っだ!」
「いや、だから死なんて。あと口を拭きなさい」
おじさんはピッチャーの横にあったナプキンを二枚も三枚も引っ張り出した。
あれこあれ指図するおじさんに文句を言いたい夢姫であったが、ナプキンを口に突っ込まれ、否応なしに黙るしかなかった。
「こっぴどく振られた恋人と、夢の中で再開したことはないか?以前と変わらない、あま~いひと時を過ごして、爪の先までみっ…ちり幸福に満たされたことが」
おじさんは、すぐそばを通った少年のお盆からフォークを取り上げ、乾藁を突き刺す農場のオヤジのように、夢姫の皿に残っていたポテトを回収し始めた。
夢姫はおしゃぶりを嫌がる赤ん坊のように、ナプキンを吐き出した。
「何が言いたいん」
「夢の中でどんなに幸せでも、目が覚めれば一人。目の前にあるのは恋人の笑顔じゃなく、味気のない天井。胸に空いた穴は開きっぱなし。痛む心はそのまま。いいか、夢の中の出来事は、お前の頭の中だけで起きたことだ。現実世界のお前に一切影響を及ぼさない」
おじさんはペリカンのように大口を開けると、フォークごとポテトを丸のみにした。噛んでいる素振りも見せていたが、夢姫は露骨に嫌そうな顔をした。
「おじさんの例えわからんのよね、うち彼氏いたことないし」
「あぁそう?まぁーいい、だがこれだけは憶えておけ」
おじさんは突然、内緒話をするには神妙すぎる面持ちで、夢姫の方にぐっと顔を近づけてきた。
長靴で蒸れた親指のような匂いが付いてきて、夢姫はもうすぐで鼻をつまむところだった。
そうしなかったのは、おじさんが、さも意味ありげな仕草で右手を天高く掲げたからだ。
「夢の中で死ぬことがあるとすれば、それはたった一つ」
そして、おじさんが虚空を掴んだ時、
レストランの全てが止まった。
話し声や食器の当たる音が、掃除機で吸い込まれたように消え失せ、入り口を開けようとする子供や、トングでフレンチトーストを掴んだままの人はもちろん、ドリンクバーから注がれている途中のコーラも、耐熱ガラスの向こう側でチャーハンをいじめあげている炎までピタリと止まった。
今、髪の毛一本でも動かせば、見えない殺し屋に狙撃されて即死する。そう思うほど重たい静寂が、夢媛の喉をきつくきつく縛り付けた。
背中がじっとりと汗ばみ、顎先を垂れるしずくに、頼むから落ちませんようにと祈った。
「これは夢に入る者が肝に銘じておかなければならない。決して破ってはならない〝掟〟だ」
おじさんの言葉が、深海のサメのように静かに、素早く、容赦なく襲い掛かって来た。
夢姫は音もなく空気を飲み込み、肺を震わせた。
「お、掟……?」
「夢の持ち主が目覚めるまで、夢の中にいてはならない」
おじさんは死刑を宣告する陪審員のように、死神のように、きっぱりと言い切った。
初めて見せた真剣な眼差しが、それが真実であると夢姫に知らしめた。
「自分が存在している夢がなくなってしまうと、夢に投影させた精神も一緒になくなってしまう」
「それって……どうなるん?」
夢姫は舌を絡ませながら聞いた。
心臓が早鐘をうっていた。
勝利目前と信じていた戦争の、敗戦を知らせる放送を聞いている気分だった。
何の前触れもなく、おじさんがピッチャーに右手を当てた。
ボン!と破裂音がして、ピッチャーが爆発した。
中の冷水が四方八方に飛び散り、夢姫はイルカショーの最前列にいた時よりびしょびしょになった。
ピッチャーの破片にも襲われると思い、夢姫は両腕で顔を覆った。
ところが、肌を裂き肉貫く激痛は、待てど暮らせど来なかった。
夢姫は、腕と腕の間から見た。鋭利な破片たちが、スローモーション映像のようにじわじわと飛散しているのを。
おじさんが右手をこねくり回すと、粉々になっていた破片が、地球に吸い寄せられる隕石のように集まっていった。破片たちは互いに飛び交い、無地のパズルを合わせるように、隙間なく合わさっていった。
しかし――一度失われた水が戻ってくることは二度となかった。
おじさんは完成したピッチャーを無造作に放り投げた。
中身の入っていないそれは、レストランの床で跳ねまわり、気の抜けた音を出した。
五人囃子が季節を間違え、無秩序に堤を打ち鳴らしたかのようだった。
「単純な話だ。時計の針が進むように、人と人が恋に落ちるように、ごくごく当たり前の」
隣の机の脚に当たり、ぽこんと寂しげに鳴いたピッチャーを見て、おじさんは言った。
「意志を持たぬ肉塊と化す。それが、掟を破った者を待ち受ける運命だ」
どんなに怖い怪談でも、子供が泣き叫ぶほどのホラー映画でも、夢姫は身震い一つしたことがなかった。
彼女には、もっと恐ろしいものの存在を知っているという自負があったし、それを裏付けるだけの経験もあった。
だから、人の話を聞くだけで絶句したのは、これが人生で初めての出来事だった。
夢姫はこみ上げてくるものを感じ、両手で口に蓋をした。
もしおじさんの話が本当なら、今まさにこの瞬間、豪華客船の夢の持ち主が目覚めた場合、夢姫は死んだも同然の状態になってしまう。
いつ割れるのかわからない薄氷の湖でスケートをしているようなものだ。
冷たい水の底に落ちるか、奈落の底に落ちるか、違いはそれだけだ。
「そっ――それって、どうやって知るん?いつ起きるかなんてっ――誰にもわからんじゃん!」
夢姫はおじさんのコートの襟を掴み、首がへし折れてもお構いなしの速度でゆすった。
入ってしまった以上、安全に抜け出す術を知らねばならない。人生の最後に見る光景が年も名前も知らないおじさんだなんてごめんだ。死んでもごめんだ。
バネ式のおもちゃのように首を揺らされても、おじさんはへっちゃら全開の表情で笑っていた。ほこりでも吹くかのようにふ、と唇を尖らせた。
おじさんの吐息は北風のように速くレストランを駆け巡った。空気が流れたところから生命が吹き込まれていき、熱せられたガラスが膨らむように、みるみる大きなうねりとなった。
鼓膜が耐えきれないほどの音が突然に襲い掛かってきて、夢姫は両手を縮こませた。
入り口を入ってきた子供はすってんころりとこけ、フレンチトーストは皿に、コーラはコップに収まり、炎はチャーハンの米粒をジュッと焼いた。
「この時計、おじさんの師匠から受け継いだと言ったろう?」
おじさんは左腕につけている腕時計を握った。細長い文字盤の時計だ。
刻まれている数字がアメリカのお菓子のようにカラフルで、細長い文字盤に押し付けられるようにひしゃげていたが、夢姫はそれよりも針の動きに目を細めた。
「なんなんそれ」
秒針が、通常の十倍の速度で回っていた。
どう見たって異常だ。壊れているにしても、そんなことは通常、起こりっこないはずだ。時計に詳しくない夢姫にだってわかる。
それなのに、おじさんは子供の書いた似顔絵を紹介するかのように誇らしげだった。
「これこそが答えだ。夢に入る人間はみんな持ってる。種類はまぁ、色々あるが、必ず時計の形をしてる」
夢姫は首の角度をほぼ直角まで傾けた。
意味が分からない。
おじさんが熱心に磨いている時計は、針のスピードさえ除けば至極まっとうな、言っちゃ悪いがただの時計だ。
なぜそれが夢からの脱出に繋がるのか、てんで見当もつかない。
「そんな説明でわかるものかい」
突然、天の上から女性の声が降ってきた。年代物のバイオリンを奏でたように、頭蓋骨に直接反響した。
夢姫がとっさに顔を上げると、おじさんがゾンビのように青ざめていて、おじさんの背後に、すらりと背の高い女が立っていた。
「どぅあぁぁっしょい!」
おじさんは尻から火を噴いて飛び上がった。
机の上に手をついて皿をなぎ倒したかと思うと、そのまま側転して、夢姫の隣にほとんど激突しながら着陸した。
夢姫は、おじさんの側だけお尻が十数センチ沈み込むのを感じた。
「お、おじさん……?」
「須磨のババアだ……!」
おじさんは渋柿をそのまま食らったような顔をしていた。風邪をひいたみたいに声がかすれていた。
「婆ぁ?」
古びたバイオリンが、再びボックス席の空気を震わせた。
「あっはん!ババア~」
おじさんはソファが泣き叫ぶほど背中をめりこませ、甲高い声で歌った。
よくわからないが、訳アリだろう。夢姫は、おじさんから女性の詳細を聞き出すのは諦めた。
女性の方に視線を戻してみると、チャイナドレスのような服に身を包んでいるのがわかった。カワウソの毛皮のように滑らかな銀の布地に、ブルーベリーソースのような薄い紫のラインが入っており、丈も袖も必要以上に長い。肩には半透明のヴェールを羽織っており、マントのようにも見える。机の隙間から覗くと、足元が厚底のチャイナブーツに包まれており、背の高さの要因はこれだとわかった。
夢姫が気に入らないのは胸だ。げっぷが出るほど大きく、チャイナドレスのせいで嫌というほどくっきり浮き出ている。これだけでもう、この女性をババア呼ばわりするに足りる理由を得た。
「珍しくお前が夢を開いていると思って来てみれば、なんだ、ついに弟子をとることにしたのかい」
須磨のババアは上品に微笑んだ。
いい年の取り方をしていると、夢姫は思った。頬がしぼんでいるせいで、少々鼻が大きく見えるが、シワの一つ一つが、彼女の美しさを損ねないよう絶妙なラインで引かれている。シルクのように艶々の黒髪は見事に束ねられ、角笛型のとんがり帽子に納められていて、東洋と魔女という、相反する雰囲気を彼女に与えていた。
「弟子じゃない、行きずりだ」
おじさんは口から屁を吐き出さんばかりにすねていた。
「だが素質がある」
須磨のババアが椅子を引き、夢姫のはす向かいに座った。ちらりと見えたのは、とんがりコーンのように長い爪だった。アメジストのように透明感のある色で塗られていた。
「いかにも」
気が変わったのか、おじさんは机の上に身を乗り出して答えた。
「滅多にない才能だ。自分で寝入に気づいた。しかも夢装まで!」
須磨のババアは宝石の真贋を見定めるような目でおじさんを、そして夢姫をみた。白内障が混じった黒い瞳は、淡い紫のようにも見え、彼女が過ごしてきた年月と、それによって練磨された聡明さを謙虚に主張していた。
夢姫にとって、頭蓋骨の内側を舐められるような感覚は生まれてはじめての経験だった。それほどまでに深いところまで探られた気がした。彼女は睨まれたら睨み返すというのを信条としていたが、この時ばかりはちょっぴり怖くなって視線をそらした。
「ふぅん、たしかに、兆候はあるね」
「だろ?」
「夢操は何を?」
「パラシュートだ。どでかいのをヴァンッ!っと。穴一つない、完璧な」
「初手で?神埼でもそこまでできなかったろうよ」
「師匠は大器晩成型だったからな……」
親と教師が、子供を置き去りにして進路相談に白熱するとこんな感じなのだろう。二人が激論を交わしているのを頭の片隅に感じながら、夢姫は行き場のなくなった好奇心をレストランの喧騒に向けた。
そして、一人で勝手に腰を抜かした。
「……ぃいっ!?」
壁から生えている照明の腕に、カラス頭の人間が腰かけていたのだ。
レストランの中をうごめく異形の人々より、なお得体の知れぬ不気味さがあった。
その生き物は夢姫より二回りは小さい背丈で、ヨーロッパの貴族が着るようなコートにシルクハットという出で立ちだった。厚手の生地は粋のいいカエル色で、ハゲかけの黄金でしつこいくらい装飾されていた。よくよく見てみると、特徴的な顔は、巨大な目とくちばしがついた真っ黒なマスクであり、顔全体を覆っているがゆえに、一目見て人間と確信できなかったのだ。
カラスマスクの小人は、右手に羽ペンを、左手に夢姫の大嫌いな百科事典よりさらに分厚い書物を携え、くちばしをかたかた震わせながら、しきりに何かを書き留めていた。
見えてはいけないものが見えてしまったと、寿命が縮む呪いにかかったと、夢姫は本気で思った。
「いい子じゃないか、なんて言うんだい?」
「おん?おぉ、そういえばまだ名前を聞いてなかったな……おい、お嬢ちゃん」
カラスマスクとの遭遇は人生で三本の指に入る衝撃で、夢姫はしばらく、自分が話しかけられているということにまったく気付かなかった。ちなみに、あとの二本は掟の話とバジリスクだ。
「お嬢ちゃん?」
「っは!はふ……!」
おじさんの顔が目の前ににゅっと差し込まれ、肺を直接握られたみたいに空気が逃げていった。夢姫は自分がレストランの中でおじさんとババアに囲まれていることを思い出した。
「どうした、変な夢でも見たか」
おじさんの顔越しに壁際を見たが、カラスマスクは忽然と姿を消していた。
夢姫はぶんぶん首を振って、机の上に残っていた氷水をがぶんと一口で呑んだ。落ち着いてみて初めて気付いたが、手に持っているコップと同じくらい、自分は汗びっしょりになっていた。
何も見なかったことにしようと、脳細胞が勝手に採決を取りはじめた。
「んーん、なんでもっ……な、なに!?」
おじさんは自分の背後をチラリと見て、首を傾げた。
「だから、お嬢ちゃんの名前だって」
「えぇ!?うぅぅ、うち!?」
「他に誰がいるんだよ」
「そそそ、そっちからまず名乗れや!」
冒頭のやり取りを見ての通り、夢姫は自分の名前について語りたがらない。この時も苦し紛れにキレた。怒りは人間の防御本能とも言われている。致し方ない。
「あぁ?なぁにをそんな、着替えを覗かれたみたいに……」
夢姫は大蛇の真似しておじさんを睨みつけた。
「まぁいい、オレは神野右蛻、神様の神に野原の野、右左の右に……蛻はちょっとムズいな」
おじさんは自分の顎髭をじょりじょり撫ぜてから、指をアコーディオンのように連ねて回した。すると、銀色の線が空中を駆けずり回り、メカニカルなペンの形をとった。みるみるうちにペンはシルバーに染まってゆき、後に質量を得ておじさんの手の平に着地した。
おじさんは自慢も解説もせず、当たり前のようにペンを握りしめ、そのまま机の上に直接漢字を書きこんだ。
「……こう書く」
「ふ、ふーん!」
夢姫がわざと興味なさそうにしたのは、名前に関する話題を避けたかったのと、教養不足で字を知らないということを、おじさんに悟られたくなかったからだ。
「いや、ふーんじゃなくて」
当然、おじさんはめざとく追及してくる。
付け焼刃の不機嫌で誤魔化しただけだ。不勉強な中学生に、酸いも甘いも噛みしめた大人を言い負かすほどの知識はない。夢姫は観念してため息をついた。
「うちは……新田……」
「え?なんて?」
「……からんのじゃもん」
自分でも情けなくなるくらい小さな声が出た。
夢姫は急須のように唇をすぼめて、膝の上で両手の人差し指をくるくる回した。
おじさんも、須磨のババアも、キリンのように首を伸ばして聞き入った。
沈黙は毒だ。夢姫は立ち上がり、机をベチィンと叩くと、一息に叫んだ。
「だーかーらー!わからんの!自分の名前が、なんて読むんか!」
おじさんと須磨のババアは、予想通りだ、豆鉄砲を食らったような顔をした。
「漢字は……『夢』に、お姫様の『姫』って書くんじゃ……でも、ジジ……父親も母親も違う呼び方じゃし……今さら先生にも聞けんし……」
「ふ~ん、『夢』に『姫』ねえ」
おじさんはニマニマと笑っていた。
「変わった組み合わせだな」
他人事だと思っているのか、須磨のババアも優雅に笑みを浮かべていた。
夢姫は毛穴と言う毛穴から火が噴き出したかと思った。急いでうつむき、突っ立ったままスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
いつも、自己紹介をするとき、消えてなくなりたくなるほど恥ずかしくなる。
自分の名前を自分で決められないようにした日本の歴代政治家を、片っ端からピコピコハンマーでぶん殴ってやりたい気持ちになる。
世の大人たちはどうして、親の与えたものが文句の一つもつけられないほど素晴らしいのだと信じて疑わないのだろう。
絶対に違う。絶対そんなわけない。
だって、自分はもう、十四年の人生の内、言語と羞恥を介するようになってからの十年もの永きに渡って、毎年のようにいっそ殺してくれと思っているのだから。
「いい~じゃないか、お嬢ちゃんにぴったりだ」
「えっ――」
夢姫は最初、聞き間違いかと思った。あるいは、冷やかしと。
でも違った。おじさんは豆電球を完成させたエジソンのように、己のひらめきに顔を輝かせていた。
「わからないってならオレが決めてやろう。そのまま『夢姫』だ。夢の申し子、夢姫、ぴったしだ」
「はっ……はぁ!?なにそれ、姫とか、わけわからんし」
ほっぺたが湯たんぽのように熱くなった。真顔で〝姫〟とか、恥ずかしすぎて死にそうだった。自分の名前を知られた時の百倍恥ずかしかった。夢姫は苦し紛れにキレた。これは照れ隠しというやつだ。
おじさんは五月蠅い蚊を追い払うように、夢姫の仮初めをしっしっ、と払った。
「いいか夢姫、親なんてな、自分を生んだだけのただの人だ。神様でも王様でもない。嫌なこと、間違ったことを言われたら聞かなくていいし、辛かったら逃げてもいいんだ。名前が気に入らないなら、自分で変えちまえばいい」
「お前もたまにはいいことを言うじゃないか。これであと十年はクズに逆戻りだね」
須磨のババアは、けなしているのか、褒めているのか、よくわからない感想を述べた。
「あー!はー!へー!須磨のおばさまはオレのことをよくご存じで!」
「調律してやろうか?あんたの夢、圧縮した生ゴミみたいに汚くなってるよ」
二人は決着のつかないお世辞と嫌みの応酬を始めた。
悪ガキみたいに舌をこねくり回すおじさんを、夢姫は夢見心地で見つめていた。
だいたい、いいこと言った風に聞こえる時、それは綺麗ごとだ。
おじさんの言ったこともそうだ。言われた瞬間に夢姫はそう思った。
んでもね、あたしあの時、救われたんよ。
夢姫は感慨深げに言った。そしてこう付け加えた。
ホントは嬉しかったし。そりゃ、あばらの内側、むずがゆくってさ、かきむしりたかったけど。
姫って呼ばれて、喜ばん女子おる?
「トダケン、タバコ」
ここまで話した駄賃を払えと言いたいのか、犬澄は机の上で手の平を広げた。
「吸えるかバカ野郎。警察署は何年も前から全面禁煙だ」
俺は万年筆で小さな手を払いのけた。
はぁ、ホンマ使えん。と、夢姫はわざと聞こえるように悪態をついた。
あばらの内側がまたかゆくなっただけだろう。彼女に喫煙歴はない。