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最終章 おきて

 龍の雄たけびが通ったところから、闇がはじけ、焼き切れ、ちりぢりになって雲散霧消した。

 黒い灰がぱらぱらと舞ったかと思うと、すぐに真っ白な雪となって吹雪き始めた。

 現れたのは、焼き芋屋の通る吹雪の道だ。

 夢姫はかぎ爪のついた手で握りしめられた。

 文句を言う暇もなく、龍は飛び立った。

〔いしや~――〕

 焼き芋屋には目もくれず、夢姫を連れてはるか上空へと飛ぶ。

 上へ行けば行くほど、猛吹雪になっている。灰色の雲が渦巻き、猛烈な風と氷のつぶてが全身を襲う。夢姫には、一寸先さえ見えない。

「コカァアアアアアアア!デュアッ!」

 龍が火の玉を吐くと、空にヒビが入った。

 夢姫は目をしばたかせた。

 テレビのディスプレイがそうなったように、ヒビが入ったところだけ、雲や吹雪が途切れていた。割れ目からは、水に浮かんだ油のような、虹色の何かがしみだしていた。

 龍はそのままヒビに突撃した。




 突入した先は、大量の空き缶と弁当殻で埋め尽くされた空間だった。

 滝つぼの中に落ちてくる水のように、次々と新しいゴミが降ってくる。

 ガラガラ、バンバン、龍の体に当たってやかましい音を鳴らす。

 龍は短く叫ぶと、空き缶と弁当殻を蹴散らして上昇した。

 ゴミの山を通って出てきたのは、201号室の台所だった。龍は天井に頭をぶつけ、床に落ちた。

「うっ……うわっ!なんだ!?」

 首のないカラスと、包丁を持った光が、龍の出現に恐れおののき、尻もちをつくのが見えた。

「ひぃっ……」

 首無しカラスを見たとたん、夢姫の体は恐怖で氷漬けになり、動かなくなってしまった。

「グアァァァァァァァァ!」

 龍が怒り狂って咆哮した。そう思った直後、その頭が縦に真っ二つに割れて、割れた両方が、犬のようにぶるぶると激しく頭を振り始めた。

 割れたはずの頭は、二つともぐにゃりと歪み、頭を振り終わるころには、元の龍に瓜二つの形になっていた。

 二つの頭はまた真っ二つに割れ、その先でも割れ、数を八つに増やした。

 夢姫を掴んでいたかぎ爪は縮んでいなくなり、代わりに、しなやかで長い首が、夢姫の腰にぐるぐると巻き付いた。

「「「「「「「「シュギアアアアアアア!」」」」」」」」

 ヤマタノオロチがそこにいた。

 夢姫を守るように八つの頭全部が吠えた。

 ひえぇ、と叫び、ベタベタと逃げ回る光をよそに、それぞれの首が、台所に、冷蔵庫に、床に、壁に、天井にかぶりついた。

 ヤマタノオロチはバリバリとアパートを引きちぎり、かみ砕いた。床や壁の向こうから柱が現れれば、柱をへし折る徹底ぶりだった。

 夢姫を閉じ込めていたあの忌まわしい部屋に至るまで、粉々に破壊した。

 201号室の外側には、隣の部屋や上階が無く、代わりに、おにぎりや総菜パンの並ぶ陳列棚、防犯カメラの設置された天井が現れた。

 辺りの空間がすっかりコンビニになると、ヤマタノオロチは、その八つある尾っぽで光を跳ね飛ばした。光は自動ドアを突き破って星空の仲間入りをした。

「うぅぅぅ…………ゥゥゥウウウウウウ!」

 ヤマタノオロチは八つの(こうべ)を垂れ、具合が悪そうに唸り始めた。

 夢姫が心配になって背に手を当てると、車のフロントガラスにひびが入った時のように、背中に、ピシリと亀裂が入った。

 背中側から皮膚がずる向けになり、内部から、筋骨隆々とした緑色の腕が十数本、いや、何十本も現れた。その内の一本が、驚く夢姫をむんずと掴み、そのままにょきにょきと伸びていった。

 千手観音のような腕の付け根には、これまたがっしりとした肩が、首筋が、背骨が現れ、ヤマタノオロチの中で、人型の何かが立ち上がろうとしているのが見えた。

 夢姫を掴んでいる腕がミシミシと音をたて、肥大化し始めた。よく見ると、腕だけでなく全身が膨張していた。熱風を送り込まれた気球のように、巨大化しながら立ち上がっていく。

 背骨がコンビニの天井に当たり、ビスケットを砕くように外側にはじき出した。

 落ちてくる鉄筋やコンクリの破片から、たくさんの手が守ってくれた。

 夢姫は巨大な肩に乗せられた。急いで、大木のようにそびえたつ首筋に駆け寄った。

 広島で一番高いビルより、なお高いだろう。

 百の手を持つ巨人、ヘカトンケイルだ。

「ヴぉおおおおぉおおお!」

 現れた太陽に向かって、いや、その向こう側にある何かに向かって巨人は吠えた。

 そして、いつの間にか足下に広がっていた校舎に向かって、百の手を一斉に叩きつけた。

 真っ白な壁の一部が飛び上がってきたことで、夢姫は、それが自分の通っていた、通い損ねた学校であることを知った。

「うヴぁああ!うヴああああ!」

 ヘカトンケイルは破壊の限りを尽くした。

 校舎の隣にある体育館をくしゃくしゃに丸め、建物のないグランドは、ハチの巣のように穴だらけになるまで殴り続けた。

 百の拳が、一つ残らず傷つき、血を流しても、巨人は手を止めなかった。

「ヴぅああああああああああおおおぉぉぉぉん!」

 最後に校長先生の車を投げ飛ばすと、ヘカントケイルは突然遠吠えを始めた。

 穴の開いた風船のように体がしぼみ始め、夢姫は振り落とされないように首筋にしがみついた。

 車ほどの大きになると、ヘカトンケイルは直立姿勢から体を傾け、前腕を地に着いて走り出した。

 夢姫がしがみついている首筋には、柔らかな白銀の毛がびっしりと生えた。全身が同じ毛で覆われていた。前足と後足には鋭い爪がついていて、お尻の付け根からは尻尾が生えていた。

 龍にも似た細長い頭には、三角の耳がついていて、空気の抵抗を減らすためか、ぴったりと寝かせてあった。

 風より速く走るのは、神をも殺す狼、フェンリルだ。

 太田川の河川敷を駆け抜けると、フェンリルの後を追うように、川に水柱があがる。並木や雑草が根こそぎ抜ける。そのどれもが速すぎて、夢姫の目では追いきれない。




 フェンリルは本当に速かった。海が、太陽をきらりと反射したかに見えた瞬間、大量の泥をぶちまけながら止まった。

「グルルルルルルルル……ヴァウウゥゥゥゥゥ……」

 フェンリルは激しく息をしながら、その合間あいまに、今にも誰かをかみ殺しそうな剣幕で唸っていた。

 潮の匂いだ。

 ふかふかの暖かい背の上で、夢姫は体をもたげた。

 そこは大きな干潟の、隅っこの方だった。隅っこで、自分を見つめる人がいた。

 女の人だった。

 自分と瓜二つの、歳をとった自分がそうなるであろう顔をしていた。

 年がいもなく真っ白なワンピースを着ていた。それも、あなた通り魔にでも逢ったんですか、と突っ込みたくなるくらい、ザックリと胸元が空いたやつを。

 帽子をかぶっていたが、これも真っ白だった。オーケストラで使うシンバルみたいにでかいやつだった。

 女の人は、夢姫と、夢姫が乗っているフェンリルを見て、ガタガタと震えていた。

「グワゥ!」

 フェンリルが神速で飛びつき、その大あごで女の人に噛みついた。

「きっ……きゃあぁぁぁぁぁ!」

 女の人は、爪で金属をひっかいたような甲高い悲鳴をあげた。

 フェンリルが、女の人を口に咥えたまま、首をちぎれんばかりに振り始めたのだ。女の人の頭を、干潟の泥にこすりつけ、こすりつけ、鼻が削れて縮むのではないかと心配になるほどこすりつけた。

「だっ!たすっ……助けて!助けてぷりんちゃん!」

 泥の中で、女の人はみっともなく叫んだ。幼子のようにびーびー泣きながら、手足をばたつかせて、自分の存在をこれでもかと主張していた。真っ白だったワンピースは、茶色と黒の泥でべたべたになっていた。

「ぷりんちゃあぁぁん!」

「やめて!」

 夢姫はフェンリルの首をぎゅう、と抱きしめた。

 言葉が届いたのか、フェンリルは女の人を天高く振り上げたところで、ピタリと止まった。

「もういいの……ありがとう、泥夢(どろぼう)さん」

 夢姫は、自分の手より大きいフェンリルの耳を、感謝とねぎらいの気持ちを込めてガリガリとかいた。

「ァウ……」

 フェンリルは大人しく大あごを開け放った。

 べしゃっ、と鈍い音がして、女の人が泥に半分埋まった。

 哀れなあの人が、泥の中でもがいているのを、夢姫は遠い国の出来事のように見つめた。

 ピッ…………フェンリルの左前脚から、電子音のようなものが聞こえた気がした。

 フェンリルが海の方へ身を翻したため、それ以上その音は聞こえなくなった。

「ヴァウワウ!」

 フェンリルは嬉しそうに鳴きながら、泥の中を、海へ向かって猛然と駆け出した。

「……バイバイ」

 夢姫は母親に最後の別れを告げた。

 あの人は、泥のパックで真っ黒になった顔で、ぱちぱちと目をしばたかせていた。

 フェンリルは海へ向かって大跳躍し、水駆ける馬、ヒッポカンポスへと姿を変えた。

「ブルヒヒィィィィィイン!」

 夢姫は長い首に腕を回し、絶対に離れないよう抱きしめた。

 ヒッポカンポスは海の中へ飛び込んだ。

 海流が、まるで生き物のようにうねり、右に左に夢姫たちを揺さぶる。

 (げん)実化(じつか)は解けている。呼吸は問題ない。何度ヒッポカンポスから引きはがされそうになろうとも、その度に、奥歯を食いしばってヒレのたてがみにしがみつく。

 ヒッポカンポスは世界一の潜水艦でも追いつけない速度で、海の一番深いところへ、ぐんぐん潜っていく。

 視界が深い青へ、紺色へ、そして、夢姫が眠っていた闇のように黒くなる。

 水圧が強くなり、潜る速度が段々と遅くなる。

 地球に捉えられた月のように、見えない糸で引かれているように。

 おまけに、ヒッポカンポスの鼻っ面を砕くように、海流が流れを変えた。

 ヒッポカンポスがゼエゼエと息を切らし始め、スロー再生でも見ているかのように、尾びれを振る速度が遅くなる。押し戻される。

 夢姫は振り返る。

 深海よりさらに黒い闇が、海を汚す石油のように、どろどろと近付いてくる。ヒッポカンポスを叩きつけている海流を、無限の重力で渦のように巻きとっている。

 ヒッポカンポスはぐん、と闇に引かれ、その、人魚のような尾びれの先が、ちりちりと闇に飲まれ始める。

 闇がぐねぐねと形を変え、無数の手となって夢姫の肩にかかる。

 夢姫はヒッポカンポスの首を抱きしめ、叫ぶ。

泥夢(どろぼう)さぁん!」

 このまま、肩を引かれて連れ戻されるのではないかという強迫観念に駆られる。もう二度と、目覚めることのない世界に閉じ込められるのだと。

 しかし、ヒッポカンポスは心配するなと言う。馬面を滅茶苦茶に振り回すと、水かきのついた前足と尾びれを奮い立たし、まとわりついていた闇を蹴散らした。荒れ地を進むブルドーザーのように、無理やり突き進んでいく。

 ピッ……ピッ……再び、どこかで聞いたことのある電子音がした。

「バルル、バルル!」

 ヒッポカンポスが嬉しそうにいななき、その音がかき消される。

 潜る速度がまた、速くなる。

 急流を昇る鮭のように、ヒッポカンポスは飛び跳ねる。もう、闇も追いつけない。

 ついにたどり着いた海の底に、大きなおおきな丸い穴が開いている。

 なぜか、海水は、穴の中へ流れ込むことなく、むしろ穴を避けて渦巻いている。

 穴の向こうには、明るい青空と綿菓子のような雲が見える。

 漆黒の宇宙に浮かぶ地球のように、真っ暗な深海の中で、その丸穴だけが希望の在処(ありか)のように輝いて見える。

 ヒッポカンポスが加速する。

 どんどん速くなるスピードに、圧力を増す海水に、夢姫は目をつぶって耐える。ヒッポカンポスの首を、彼の息が詰まるほど強く抱きしめる。

 泥夢(どろぼう)さんと一緒なら大丈夫。

 自分にそう言い聞かせて。

「ブルァァアア!ブルヒィィィン!」

 最後の力を振り絞って、ヒッポカンポスは穴の中へ飛び込んだ。




 ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…心地の良いリズムで、電子音が繰り返されている。

 大量の水で鼓膜を塞がれていた、あの嫌な感覚がない。

 むしろ、気持ちのいい風が吹いている。

 濡れた服と体を、あっという間に乾かしてしまうくらいの風が、絶え間なく吹いている。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……電子音がどんどん速くなる。

 なんだか急かされている気がして、夢姫は目を覚ます。

 息を飲む。

 森が生い茂る秘境だ。空に浮かぶ大自然だ。

 数えきれないくらいの小さな島が、眼下の地上が視認できないほど高い空に浮かんでいる。

 島々は緑と動物の命に溢れていて、さらには、ごうごうとうねる水の流れが聞こえてきて、小島の端から滝のように流れ落ちている。

 滝の行方を目で追うと、別の小島に落ちていくか、あまりに高すぎて空中で蒸発しているかのどちらかだ。

 そして今、夢姫自身が、滝の水と同じように、島々の間を縫って落下を続けている。

 位置が変わらないのは太陽だけだ。いつまでも、いつまでも、暖かくて眩しい光で、夢姫を照らしている。

 この景色に見覚えがあった。

 泥夢(どろぼう)さんが初めて夢姫の中に入って来たあの日、夢姫が初めて見た、記憶以外の夢だ。

 本当の夢姫の心を映す、唯一にして絶対の世界だ。

 限りない開放感に、夢姫は涙する。

 自分は再び、この世に生まれることができたのだと確信する。

泥夢(どろぼう)さ……!」

 夢姫は嬉しくなって泥夢(どろぼう)さんの姿を探した。

 しかし、その姿を見つける前に、すっぱい匂いで視界が塞がれた。

「ふぐっ……!んむ!」

 赤茶色のネクタイが目に入って痛かった。

 心臓のバクバクという鼓動が、おでこに響いていた。

 ピッピッピッピッピッピッピッ……電子音が、ほとんど前の音に重なりながら耳元で鳴っていた。

 泥夢(どろぼう)さんが、何の許可も得ず、夢姫を抱きしめているのだ。それも滅茶苦茶な力で。

 痛いからやめてくれと、そう言うつもりだった。

 泥夢(どろぼう)さんの胸板に爪を立てて、ちょっとひっかいてやるつもりだった。

 でも、言えなかった。

 夢姫は泥夢(どろぼう)さんに爪を突き立てられなかった。

 泣いていた。泥夢(どろぼう)さんが。

 泣きながら笑っていた。

「ああっ……!ああぁ……!やった!やったぞ夢姫ぇ!」

泥夢(どろぼう)さん……!」

 やめて欲しい。

 痛い。小バカにしたかったのに。痛いよ泥夢(どろぼう)さん。離して。おじさんくさい――

「うわあああ!あああああああああ!」

 夢姫は泥夢(どろぼう)さんの胸に顔をうずめて泣いた。

 声の限り泣いた。

 命あることの、救ってくれたことの、喜びと感謝に打ち震えた。

 ピピピピピピピピピピピピピピ―――――――――――――

 二人の泥夢どろぼうは、ずっと、ずっと、抱き合ったまま泣き続けた。







「親も、教師も、警察さえも、見放した命がある」

 犬澄は組んでいた足を下ろし、前かがみになった。

 取調室の机に両肘をつくと、手の平で作った皿の上に顎を乗せ、上目遣いで俺を見た。

「あたしのことをホントに心配してくれたのは泥夢(どろぼう)さんだけ」

 俺は呆然としたまま、手を動かすことができない。

 犬澄に見つめられているとわかっていながら、視線を逸らすこともできない。

「夢にも思わんかった?トダケン、真面目じゃもんねぇ」

 犬澄は見透かしたように笑うと、頬杖をついて、窓の方へ視線を向けた。

 そこにはすりガラスがあるだけだ。

 だがたしかに、犬澄は何かを見ていた。

「夢に生きるうちらはさ、もう、何が現実で何が夢なんか、わからんくなってしまうよね」

 万年筆から染み出したインクが、タールの湖のように大きくなったころ、犬澄は頬杖をやめた。

「今の話……どっちじゃと思う?」

 犬澄(いぬすみ)矢那目(やなめ)はペロリと舌を出し、この世の全てをバカにして笑った。



「木下ぁ!」

 巡査部長の怒号に鼓膜を破られ、木下は目を覚ました。

 自分がなぜこんなところにいるのか、木下には一瞬わからなかった。

「え――」

 瞬きした瞬間、その意味が分かった。

「おい!」

 巡査部長が吠え、木下の後ろから、ミサイルのように飛び出した。

 木下もすぐに続いた。

 たしかに見えた。

 壁が迫ってきていると錯覚するほど窮屈なエントランスの先、筆記体の英語で店名が書かれた扉の前に、女が立っていた。

 茶色と金色が混じった、肩までかかる長髪で、暗闇のように真っ黒なレザージャケットを羽織り、同じ色のレザーパンツをはいていた。顔を見る前に背を向けられた。指の間をすり抜ける水のように、するりと走っていった。

「くそ待てやおりゃぁ!」

 女はエレベーターの反対側についていた扉に組み付き、ドアノブをがちゃがちゃと鳴らし始めた。

 鍵がかかっているのかと思い、木下は加速した。巡査部長も加速した。ところが、女はひどく落ち着いた様子で、右手にふっ、と息を吹きかけた。その手で鍵穴を優しく撫でると、なんと、扉がひとりでに開いた。

 わけのわからない事態に混乱しながら、木下は巡査部長に続いて扉の中に入った。そこは錆だらけの非常階段だった。

 ガンガンガン、とアンカーを打ち込むような音が反響した。まさかとは思ったが、音は上から聞こえた。

 巡査部長が手すりを引っ掴み、一段飛ばしで階段を上り始めた。

 木下も三秒遅れで続いた。

 四階分の階段を上りきると、あちこち塗装の禿げた、鉄製の扉が見えた。半開きで、外につながっているのか、隙間から太陽の光が差し込んでいた。

 巡査部長が肩から扉に突進し、古くて重たいそれを弾き飛ばした。



泥夢(どろぼう)さんの子供は生きとるよ」

 犬澄は嫌に落ち着いた口調で言う。

 彼女の胸に、金の十字線が入ったガラス玉があることに、オレは今さらになって気付く。

「でも、タイムリミットはどんどん近づいとる」



 その日、取調室からは、二つのものが無くなっていた。

 ジリリリリリリリリ!

 警察署中に警報が鳴り響く。

 業務に従事していた全員が立ち上がる。あるいは飛び上がる。

 駐車場でパトカーを掃除していた署員まで気付いて、何事かと振り返る。

 刑事課や生安課のある方角からバタバタと慌ただしい音がして、最後に、俺のいる取調室の扉が蹴破られる。

「おい!」

 耳元で、大きな声で叫ばれる。

「おい戸田ぁ!」

 俺は椅子の背もたれに体を預けたまま、天井を見上げている。

 だってそうしなければ、零れ落ちてしまうから。

「マル被をどこにやったんな!戸田!戸田あぁ!」

 虚無という病に侵された俺は、何も答えられなかった。

 何もできなかった。

 そう、何も。



「大丈夫――あたし、あの日、生まれ変わったんよ」

 犬澄はエメラルドグリーンの瞳で俺を見る。

 自信たっぷりの笑顔で、その到来を告げる。

「世界一のどろぼうの、世界一の夢を受けてさ」

 その日、取調室からは二つのものが無くなった。



 開けた視界――そこは屋上だった。

「ぜっ……!はーっ!」

 木下は大きく息を吐いた。

 屋上には落ち葉やゴミ以外に、あとは真っ黒に錆びた手すりくらいしかなかった。

 女は、尻を震わせながら、手すりの方に向かって走っていた。

 巡査部長が脇の下に忍ばせていた拳銃を抜き出すのが見えた。

 木下も素早く取り出し、女の背中に銃口を向け、叫んだ。

「止まれーっ!止まらんと撃つぞおぉ!」

 女は手すりに足を駆けたところで立ち止まり、木下の方へ振り返った。

 妖艶な笑みで、木下を、巡査部長を色っぽく見つめた。


 次の瞬間、女は手すりを蹴って跳んだ。


「え……」

 木下は顎が外れるほど口を開け、上空を見上げた。

「ええええええええ!?」

 あまりの衝撃に、拳銃を取り落とした。

 女はそのまま、空中を走って(・・・)行った(・・・)

 赤と青、二色で縁取られた腕時計を手に握りしめ、走り続けた。

 足に翼でも生えているのか、軽やかな足取りで、雲と同じ高さまで走る。走る。まだ走る。

 木下の、いや、広島県中の警察官(おまわり)の手の届かないところへ逃げていく。




 雲間から現れた太陽を、新田夢姫は満面の笑みで迎える。

 彼女の右耳が、太陽光を反射してキラリと光る。

 そこには、黄金のイヤリングがある。







「――はぁっ……あぁ……」

 ポッ、ポッ、ポッ……さっきとは違う、もっと落ち着いた、低い電子音が鳴っている。

 自分の心音と同じ速度で鳴っているのではないかと、夢姫はぼんやり思う。

 見たことのない豪華な天井だ。そして、体験したことのない柔らかさだ。頭を包んでいる枕と、自分の体を受け止めているベッドと、掛布団のことだ。

 枕の他に、頭にはネット式の包帯が巻かれていた。

 髪の毛は?無くなってしまったのだろうか?

 上半身を起こし、鏡でもないかと手をさまよわせると、思いもよらぬものが目に入る。

 泥夢(どろぼう)さんだ。

 丸椅子に座って、夢姫の足下に、突っ伏して眠っている。

 夢姫は嬉しくて。

 再び目が覚めたことの何万倍も嬉しくて。

 泥夢さんの腕を握った。







 起 こ す な !







 泥夢(どろぼう)さんの背中には、殴り書きの張り紙がしてあった。

 そうだ。

 いつだってそうだ。

 泥夢(どろぼう)さんが仕事をしている時は、起こしてはいけないのだ。

 それが、泥夢(どろぼう)の掟だから――――――。




 夢姫は涙を流しながら、泥夢(どろぼう)さんの右手を握りしめた。




泥夢(どろぼう)さん…………………………!」

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