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第十三章 神の右手で

 その時のことはよく覚えている。

 昼休みだった。課員のほとんどが昼食をとりに出ていて、俺を含めて四、五人が残っているのみだった。

 静かにコーヒーでも飲もうかと思っていた矢先、生活安全課の扉が蹴破られ、課内は騒然となった。

 へし折れたドアノブと共に現れたのは、くたびれたスーツにモッズコートを羽織った男だった。革靴もひしゃげていて、髭も剃っていない。暗がりで見たらば、ホームレスかと思うほどみすぼらしい。

 しかし男は、首からネックレスをかけていた。先端に綺麗なガラス玉のついたネックレスだった。金色の線が十字に交差して、その内側に宇宙を詰め込んだような。

「なんですか」

「ちょっと待て」

 若い生活安全課員が二人、男を制するために近づいて行った。

 しかし男は、大きく揺れるサンドバッグのように二人を跳ね飛ばし、窓際の俺のところまでずかずかと入ってきた。

「ユメヒメはどこにいる」

「は?誰が――」

「ユメヒメだ!金髪の!ちっこい女の子がいただろう!」

 ざらざらの声で男は怒鳴った。

 俺は胸ぐらを掴まれ、背中を窓に押し付けられた。肩甲骨のところで窓ガラスにヒビが入った。それくらい強い剣幕だった。

〝ユメヒメ〟という単語には聞き覚えがあった。男が誰を探しているのか、大体のけんとうがすぐについた。

 しかし、それ以前に、俺は初対面の男から暴行を受けて平常心を保っていられるほど人間ができていない。

「まず貴様が誰だ!俺は刑事だが、誇りをもって仕事をしてきた!見ず知らずの男に怒鳴られ、胸ぐらを掴まれる覚えはない!」

 俺は男の両腕を掴み、外側に捻った。ねじ切ってやるつもりで力を込めた。すると、男の右手が、左手が、思っていた百倍は簡単に外れた。

 いや、男は自分から手を放したのだ。

 不慮の事故でタイムスリップした主人公が、年老いた親友と再会した時のように、困惑と悲しみの入り混じった表情で俺を見ていた。

「トダケン……」

「は?」

 俺は不快感をあらわにした。

 親し気にあだ名で呼ばれたからではない。

 男が、悔しそうに唇をゆがませたからだ。首を傾げ、自らの額に手を当てると、今にも泣き出しそうな顔で、ゴシゴシとこすり出したからだ。

「いったい何――」

――なんだ。という俺の言葉は、明後日の方向に飛んでいった。

 左頬に激痛が走ったと、そう思った直後だった。

 俺は窓ガラスに今一度突っ込み、既に入っていたヒビをさらに大きくした。

「貴っ……さま……!何のまねだ!」

「やかましいぃいぁ!」

 男は歯をむき出しにして唸りながら、左手で俺の襟を掴み、引っ張り上げた。そして、間髪入れずに二発目のげんこつをぶち込んできた。

「ぶあぁっ!」

 防ぐ余裕も、かわす暇もなかった。俺はそのまま生活安全課の床に激突し、二重の痛みに悶えた。

「おい!待てぇ!」

「離れぇ!」

 若い課員が駆け寄ってきて、左右から男にかぶりついた。

 男は怒れる肩で二人を振り回し、獲物を見つけた龍のように低い声で唸った。

「おら、もう一回立てオレは須磨のババアほどうまくない!」

 俺は鼻血をぼたぼたと垂らした。

 頬を殴られた痛みよりも、床に打ち付けた痛みよりも、もっと激しい痛みに襲われていた。

 ずるずると、窓の桟にすがって立ち上がった。

「なんだ……これは……神野っ――?」

 毒々しい色に染まった空が、エノラ・ゲイの大群が、幾重にも重なったどす黒い輪っかが、ナイフを投げてよこす神野右蛻の顔が!頭の中でねずみ花火のように爆発した。

「そうだオレだ。まだ足りないか?夢姫はどこだ!」

 神野は二人の生活安全課員に肩を抑えられてなお、リングの中のボクサーのように、体を前後にゆすっていた。

 俺は次々と炸裂する神野の記憶に目まいした。常人には見えない光から逃れようと、手をかざしたり額を抑えたりした。

「あいつは――あいつには、(こう)()(しっ)(こう)(ぼう)(がい)で逮捕状が出ている」

出ている(・・・・)……?」

 神野は、俺の言葉を熱でうなされたように繰り返した。

「なんで執行してないのに、夢に入ってないんだ……?」

「この二週間、あのでっちは行方知れずだ……親からも行方不明届けが出ている!」

 ひっくり返り続ける砂時計のような視界の中、俺はなんとか自分の机にたどり着き、机の上にあった書類を引き抜いた。突きつけてやった。当惑している神野右蛻に、事実を認めさせるためだった。

 だが神野は、書類を見たとたん、だるまのように真っ赤になった。

「行方不明届……?まともに飯も食わせない親が!?」

「は?何を言っている、貴様――」

「お前こそ何を言ってやがる!あいつがいつも、腹減って目ぇ回しながら歩いてるの、見てなかったのか!」

「……は?」

 俺は何が起きたのかまたわからなくなった。

 神野が怒り出した理由も、その原因も、恥ずかしいことに全く心当たりがなかった。

 犯罪者は他人に迷惑をかける。それも平気で。あたりまえのように。

 理由など千差万別十人十色、いちいち気にしていたらキリがないし、俺たちが救うべきはそもそも罪なき被害者だ。

 神野がどんな不幸にあった?新田夢姫はなぜ泥夢(どろぼう)になった?そんなことは知らない。知る必要もない。世の中にはただ、いい奴と悪い奴がいて、やつらは後者だ。自分は前者だ。前者が前者たるゆえに、俺はやつらを捕まえる。法の裁きを受けさせる。

 それこそが正義。

 それだけが正義。

 そう信じていたのに。

 神野右蛻は、まるで神の啓示を受けた予言者のようだった。

 公権力に平然と歯向かい、お前たちは違うのだと、間違っているのだと言って暴れまわった。

 目に見えぬ力がやつを動かしていた。自分の体に巻き付いている生安課員を引きずって、今再び俺の胸ぐらをつかんだ。

 これが愛なのか?

 こんなことが?

「クソポリが!じゃけえお前らは嫌いじゃ!数字を上げる前に!見にゃあいけんところが山ほどあるじゃろうが!」

 俺の顔に存分に唾を浴びせた後、神野は、自分自身の言葉にハッとした。

 望まぬ真実に気付いた名探偵のように、顔をこわばらせていた。

 恐怖に落ちくぼんだ目が、一気に二十年も年老いたような印象を与えていた。

「――家は」

 その一言は、海の向こうからやってくる波しぶきのようにゆっくりと紡がれた。

 俺ではなく、自分自身に問うていたのではないかと、今になって思う。

「夢姫の家は!隅から隅まで探したんか!」

 神野はもう、俺の返事を待たなかった。

 左肩の生安課員を無理やり引きはがすと、体を回転させ、遠心力で右肩のもう一人を投げ飛ばした。

 動揺して動けないでいた他の課員が、神野の意図に気付いて一斉に飛びかかった。

 神野は自らに向かって伸ばされる手や腕をかいくぐり、自分が蹴破ったドアめがけて猛然と走り出した。

「だから何を言っている!その親が!行方不明届けを出してきたんだ待て神野!まだお前には聞きたいことがある!止まれ!神野おぉぉ!」

 俺はなぜか、神野を追いかけられなかった。

 やつが課員たちの手をすり抜けて、扉から出ていくところを、映画のワンシーンくらい他人事に見ていた。

 いや、違う。

 それは言い訳だ。また。

 本当は薄々感付いていたのだ。

 俺に神野を止める資格はない。




 神野はおんぼろアパートのドアを殴った。

 チャイムが壊れているのは二秒前に知った。だから殴っている。

「おい!夢姫!夢姫!」

 近所の人が、蝶番の壊れたドアを直しにきた大工かと勘違いするくらい殴り続けた。

「夢姫!夢姫ぇ!」

 ズレた蝶番が、ほとんど元の鞘に収まりかけた時、ドアの向こうでかすかに声が聞こえた。

 神野ははげかけのペンキで書かれた〝201〟に耳を押し当てた。

「あん!やだぁ、光さぁん……んふ……」

「おぉぉぉぉ……いいぞぉ、遥香ぁ……?遥香?」

「んん~、光さん……」

 聞こえてきたのは、雑草の中に生えた野いちごのような甘い嬌声だ。神野は唖然として扉から耳をはがした。右手がひとりでに扉をかきむしり、表面のペンキを削り取った。

 真っ昼間から何をしてやがる。

「実の!娘が!いなくなってんだろうが!ふざけるなドアを開けろお!」

 神野は怒り狂ってドアを殴りまくった。穴を空けてでも中に入ってやろうと思った。

「夢姫!夢姫!」

 神野の剣幕に降参したのか、ギチリ、と鍵の開く音がした。

 神野は右手を振り上げたまま、一歩後ろに下がった。

 固唾を飲んで見守っていると、201号室の扉がゆっくりと開かれた。

 現れた人物に神野はまた唖然とした。

「もぉ~、なぁにぃ?」

 ドアノブを握っていたのは若い、半裸の女だった。しかし夢姫ではない。大きなバスタオルを体に巻き付け、右腕一本で、こぼれ落ちそうなほどでかい胸を必死に押さえている。

 髪は長いブロンドだが、くっきりとした目鼻立ちに夢姫の面影があった。正確に言えば、夢姫の顔にこの女の面影がある、だ。太陽を初めて見た地底人のように、陽の光に目をしばたかせている。

 間違いない、夢姫の母親だ。

 神野はそう確信し、女に向かって問うた。

「夢姫は、夢姫はどこにいる!」

「ゆめ、ひめ……?あーぁぁぁ、ぷりんちゃんのこと?」

 女は自分の頬をぺたぺたと叩き、合点がいったとばかりに笑みを浮かべた。

「ぷりん――?」

「ぷりんちゃんなら、風邪が長引いて寝てるよぉ。あたしにうつったら、お仕事いけなくなっちゃうから、光さんが看病してくれてるんだよ。やさしーでしょぉ~」

 神野は血の気が引いた。

 女が本気でそう思っているのがわかったから、ではない(・・・・)

 もちろんこの女はクソだ。

 この言いぶり、どうせ娘の姿を直接確認することなく、相手の言うことをホイホイ信じているに決まっている。その上、聞いてもいない恋人の自慢をベラベラと話す。ろくなものではない。

 それはそうとして、警察には行方不明届が出ている。それなのになぜこの女は、夢姫が家にいると思い込まされている?

 決まっている。もう一人が嘘をついている。

 神野は血の気が引いた。


 警察にも、母親にも、確認されると困ることがあるとしたら?


「お前、それでも母親か!」

 神野は怒り狂った獅子のように吠えると、女の肩を掴み、激しく揺さぶった。

「きゃあ!」

「アサガオ日記じゃないんだぞ!水だけやって育つたぁ、本気で思ってんのか!」

 女のバスタオルが剥がれ落ちた気がするが、神野はそんなものには目もくれなかった。女の腕を、外廊下に向かって引っこ抜き、入れ替わるように201号室の中に入った。

「見せろ!」

 玄関にひしめいていた靴を蹴散らし、土足のまま上がると、汚いキッチンが目に飛び込んできた。流しに大量のカップラーメンの容器が積み重なっており、足元には弁当殻と、缶チューハイの空き缶が敷き詰められている。つんとすっぱい匂いが鼻腔に刺さり、神野は顔をしかめた。

「おい、なんだおっさん、勝手に――」

 キッチンの隣にある部屋から、素っ裸の男がのそのそと這い出てきた。

 顔を見たくもなかった。一瞬だけ、ホストの看板広告に出てきそうな男前が視界をよぎったが、神野は微塵の躊躇もなく男の鼻っ柱を殴りつけた。

「黙れ!夢姫を見せろ!夢姫!夢姫ぇ!」

 男は何かをわめきながら、空き缶と弁当殻の絨毯でのたうち回っていた。神野はそれを踏みつけにして、男が出てきた部屋に首を突っ込んだ。

 部屋は六畳一間で、小さなちゃぶ台と、茶色く変色した布団が一枚敷いてあるだけだった。奥の方に時代遅れの箱型テレビが見えたが、何も映っていなかった。ちゃぶ台の上にある灰皿には凝り過ぎた生け花のように煙草の吸殻が突き刺さっており、今もぷすぷすと煙を上げている。

「はあ……違う!」

 神野は六畳間の襖を思いっきり叩きつけて閉めた。そして、隣にあったもう一枚の襖を引いた。   

「夢ひ――」


 いた。


 ゴミだらけの部屋の奥に、隅っこの方に落ちていた。

 薄い、ぼろぼろの毛布だった。

 それだけが、少しだけ、顕微鏡で見ないとわからないくらい少しだけ、上下に動いていた。

「……………………夢姫?」

 怖かった。

 あの毛布をはぎ取るのが。

 その姿を見ることが。

 自分が犯したとんでもない過ちの、その事実を目の当たりにすることになるのだと、そう思ったから。

 しかし、ゴミの山をかき分け、毛布のもとまでたどり着いた時、神野は自分の後悔も、夢姫の親たちへの怒りも、一切合切がどうでもよくなった。

 ただただ嗚咽した。声にならぬ嗚咽を。

「あぁぁあ!あぁ!!あぁあぁ……!」

 毛布にくるまれていたのは、裸のまま横たわる夢姫だった。

 胎児のように手足を丸め、小さかった体をさらに小さくして。骨と皮だけの、ミイラみたいに細くなって。固く閉じたまぶたが、怒ると大福のように膨らんでいた頬が、シワだらけになっていた。

「ああぁ……!夢姫……!あぁ夢姫……!」

 肩や腕は完全に露出しており、ひどい暴行の跡痕があった。どす黒いあざや、紫の斑点がびっしりと入っており、首筋には、タバコを押し付けられた痕が水風船のように膨らんでいた。

 神野はすぐに自分のコートを脱ぎ、夢姫の体をくるんだ。それ以上誰にも見られないように。せめて彼女が、これ以上傷つかないように。

 夢姫の髪を撫でると、ひどく優しく撫でると、くすんだ金髪がバラバラと束になって崩れ落ちた。

 露わになった左耳に、いつものピアスが無かった。

 耳たぶが真っ二つに裂けていた。

 真っ黒なかさぶたを残して。

「あーっはっ……!あっ……!」

 神野はおんおん泣きながら夢姫を抱き寄せた。

 彼女の体は、氷のように冷たかった。


 何泣いとるん、泥夢(どろぼう)さん。


 いつもなら、そう言って笑っただろう。ダサいわぁ、と。

 だが、夢姫は目を覚まさなかった。

 コテン、と頭が転がり、神野の胸にかかっていたガラス玉とぶつかった。それでも彼女は眠り続けた。

 神野は夢姫の顔を何度も撫でた。肩をさすって、少しでも暖かくなるようにと祈った。

「こんなに軽くなるまで……!うっ、ゔぅ……!」

 涙が止まらない。

 夢姫の体が、天音のそれよりも軽いのだ。

 まるで、綿菓子を詰めた袋のように。

「おいおっざん……!ぞいづをばなぜ……!」

 キッチンの方から、ギザギザの声が聞こえた。

 ガラガラと、大量の空き缶を引き連れて、男が襖に手をかけていた。

 もう片方の手で鼻を押さえたまま、じゃぶじゃぶ言っていた。

「ぞいづをづれでいぐなだ……ごろずぞ……!」

「やってみいや……オレがお前をぶち殺しちゃるぁああああ!」

 怒りに我を忘れたのは生まれて初めてのことだった。

 裁判に敗れ、天音をこの手から奪われた時でも、ここまで怒り狂うことはなかった。

 気付いた時、神野は、男に馬乗りになって、あらん限りの力で殴り続けていた。

 泣きながら、叫びながら、すでに粉砕していた鼻をさらに細かく粉き、頬の骨を、その内側の歯を、一本でも多くへし折るために。

「やめて!やめてぇぇ!光さん!いやぁ!光さん!」

 男の顔がいよいよ原型をとどめなくなってきた時、半裸の女が止めに入った。

 女ともみくちゃになった時、首から掛けていたガラス玉がキラリと光った。それで我に返った。

 自分の娘より男を心配するその姿に、神野はもう、心底どうでもよくなってしまった。

 こんな大きな子供に構っていられない。

「光さぁん……光さぁん……」

 201号室からはずっと、女がひんひん泣く声が聞こえていた。

 その声を振り払うように、二度と聞かせないように、夢姫を抱きかかえ、神野右蛻は走った。

「すぐ医者に診せてやるからな!」




 自動ドアが開くまで待つのが惜しい。神野は体を斜めにして、夢姫の頭が当たらないよう、手で押さえながら、半開きのドアをくぐった。

「はあ……はあ……頼む!」

 大学病院の、大きな待合室に入ったとたん、神野は叫んだ。

「頼む!急患だ!診てくれ!」

 吹き抜けになっている待合室に、神野の声が高くこだました。

 待合室にいた人が一人残らず振り向き、受付にいた職員が一斉に駆け寄ってきた。

「どうされました?」

 そう言って神野の胸元を覗き込んだ職員が、大変!と小声で叫んだ。

「誰か!救急連絡して!」

「なにがあったんですか?」

 矢継ぎ早に声を上げる病院職員に目が回った。

 とにかく早く夢姫を診て欲しい、そればかりを思う神野は動転して、うまく答えられない。

「先生!」

 職員たちの頭の向こうに、待合室を横切る水島先生の姿があった。

「先生ぇ!」

 神野は夢姫を抱えなおし、職員を跳ね飛ばして進んだ。

 水島先生は当初、きょとんと首をかしげていたが、神野が近づくと、牛乳瓶のような眼鏡の奥で、眼鏡と同じくらい目をまん丸にした。

「神野さん!どうしたんですか、この子は――」

「先生、急患なんだ、頼む、診てくれ!」

「救急には連絡とったの?」

 先生は神野を追いかけてきた職員に素早く聞いた。

 職員はたぶん、頷いていた。

 神野にそれを確認している余裕はない。切羽詰まって、先生の話を聞かずにまくしたてた。

「頼む先生!死んじまう!もう……たぶん……一週間以上何もっ……食べてない!オレが最後に見たのは二週間もあぁぁあ!息を……息をしてない!先生!先生頼む!夢姫を助けてくれ!」

「わかった、わかったから、神野さん、落ち着いて、まだ息はしてる。救急で――」

「先生お願いだ!何でもする!だから――」

「大丈夫!私も診る!ほら、私に貸して、ほら……」

 水島先生になだめられ、神野はようやく夢姫を手放した。毛布とコートで包んだまま、水島先生の腕に預けた。

「急げ!四万先生呼んで!」

「はい!」

 病院の奥へと走っていく水島先生と職員を、神野は放心状態で見つめていた。




 神野は待合室の一番後ろのソファで、うなだれたまま待った。

 空高く上がっていた太陽が徐々にその高度を下げ、自動ドアから茜色の光を覗かせるようになっても、待ち続けた。

 待合室にいた人が、一人、また一人と、要件を終えて帰っていく。

 あの男を殴った痕が、自分の手にこびりついているのを、神野はこの時になってようやく気が付いた。手の甲の皮、特に指の付け根あたりがずる向けになり、自分と、あいつの血が真っ黒になって固まっている。

 とても洗う気になれなくて、神野は、自分の指を研ぐように撫で続けた。

 そのうち、待合室の奥の方から、二人の医師がやってきた。片方は水島先生だった。

「先生……」

 神野は立ち上がって二人の医師を出迎えた。

 水島先生が眼鏡をつまんで傾け、まず言った。

「極度の飢餓状態です。それに伴う合併症も複数起きている」

「とても危険な状態です。今ICUで、厳重なモニタリングの元、少しずつ栄養を与えています。ですが、今後どうなるか……」

 水島先生の隣にいた、若い男性医師が付け加えるように言った。

 心が和らぐどころか、余計に心配が募った。神野は右手で額を押さえ、じっと、自分の足下を見つめた。

「神野さん、失礼を承知でお聞きするのですが……」

 若い医師が、落ち着かない様子で視界に入ってきた。

 神野は顔を上げて、若い医師に向き直った。

 彼は、お得意様に〝これ以上値切れません〟と告白するセールスマンのように、両手をこすり合わせて、何度もなんども唇をなめていた。

「あの子はいったい誰です?いったいどこから――その――」

 若い医師の視線が、最後は自分の手に注がれたのを見て、神野は心底頭に来た。あきれ返ってソプラノの笑い声まで出た。

「はぁっ……オレじゃない……!あいつが死にかけてたところを!オレが助けたんだ!あいつの家に行ってみてみろ!あいつの父親が――」

「落ち着いて神野さん!落ち着いて!」

 神野が若い医師に掴みかかったところで、水島先生が割って入った。

 さすがの神野も、お世話になった先生を押しのけることはできなかった。

「大丈夫、それはわかってます。あの子の体についてる傷は、どれも時間が経ってる……あなたのは……」

 水島先生は神野の手をちらりと見て、ため息をついた。

 神野は二人の医師から目を背け、天を仰いだ。

 高いたかい待合室の天井をキャンバスにして、夢姫との思い出を描いた。

 一番最初に思い浮かんだのは、ホテルのベッドの上で、不平不満をぎゃあぎゃあ言っていたわがまま娘の顔だ。

「こんなことなら、最初会った時に、連れ出しとくんだった……」

 後悔は先に立たない。

 先人たちの言う通り、神野はここで途方に暮れている。

 あの子の笑顔をもう二度と見れなくなってしまったら、いったいどうすればいい?

 不安に駆られ、声にならない。

「神野さん、あの子の親は……」

 水島先生の言葉に、神野は首を振った。天井を見上げたまま、何も言わず。

「どうします」

「言うしかあるまい」

「しかし、親族でないなら――」

「なんだ」

 背中の後ろでごにょごにょ言う医師達に、神野は振り返った。

「何だって言うんだ」

 問い詰めるように言うと、若い医師は目をそらして黙りこくってしまった。

 水島先生は若い医師に目配せを送ると、小さく首を震わせた。

「落ち着いて聞いてください」

 水島先生は本当に申し訳なさそうな顔をして、両手を揉みしだいていた。

 神野は身構えた。

〝落ち着いて――〟と聞くのは、人生で二度目だった。

 一度目で神野は、愛娘の人生を失っていた。

 自然と呼吸が荒くなった。

 聞きたくないという思いと、聞かなければならないという使命感に、板挟みになった。

「虐待の影響か、飢餓状態が長引いたせいか、どちらが直接の原因かはまだわかりません。ただ……脳によくない状態が続いたのはたしかです」

「MRIでは、血栓が――」

 補足説明のつもりだったのだろう、若い医師がしゃしゃり出てきたのを、水島先生は厳しい目つきで黙らせた。

「それで……?」

 神野は声を震わせた。

「それで!?」

 誰もいなくなった待合室に、神野の問いかけがこだました。

 水島先生は顔を少し傾けて、眼鏡の隙間から、真剣な眼差しを見せた。

「意識が戻らない……。恐らく、ずっと……」

 その瞬間、神野は呼吸も、瞬きさえも忘れて立ち尽くした。

 自分の魂だけが、宇宙の彼方にすっ飛んでしまったかのように、指先一つ動かせなかった。

「ウソだろ……?」

 五百年ぶりに油をさされたロボットより遅く、小さく、神野は言った。

 水島先生は神妙な面持ちで、眼鏡の奥で目をつむった。

「神野さ――」

「ウソだ!!!」

 神野は叫んだ。

 必死に生きる者を踏みにじる、愚かな神に向かって叫んだ。

 ボロアパートで感じていたのとはまた違う怒りが、体の中で爆ぜた。燃え盛っていた。

 あいつが何をした。

 いつも給料の前借りみたいに食い漁って、毎日腹いっぱい食いたかったろうに。

 毎日同じ制服で、もっとオシャレだってしたかったろうに。

 オレみたいなおっさんとつるんで、恋人の一人や二人作って、好き放題遊びたかったろうに。

 それでも、せめて人並みに生きていこうと、もがいた結果与えられたのがこれか?

 こんな仕打ちをするのが神の仕事か?

 ふざけるな。あいつはまだ、この世に生まれてもいない。

 足に力が入らなかった。膝から床につんのめった。そのまま膝立ちで水島先生に近づき、しがみついた。先生の白衣の裾を、千切れるくらい引っ張った。

「なぁ頼むよ先生、治してやってくれ、あいつはなんにも悪くないんだ。オレのために、あんなことになって……頼む、手術でもなんでもいい、金ならある……!金ならあるんだ!」

 必死の訴えを聞いて、水島先生は困り果てた様子だった。

 どこかに助けを求めて、あるいは、神野の追及から逃れるため、出口の方へ視線を走らせた。

 そこで何かを見つけたのか、目を大きく見開いた。

「神野さん……そのお金は……」

 水島先生はずっと同じ方向を見続けていた。

 神野がつられて頭を傾けると、そこには、車いすに座った天音と、それを介護する幸和子がいた。

 天音はぽかんと、天才的な角度で口を開き、幸和子は、あまりの衝撃だったのだろう、怒りとも悲しみともつかない、神野の知らない表情をしていた。

 泥夢(どろぼう)がバレた時ですら、こんなに後ろめたいことはなかった。

 今度天音の人生を壊したのは自分なのだという事実に、神野は打ちひしがれた。

 水島先生は神野の手を優しく握って、引きはがした。

「脳外科に話はします。しかし、保険証もなければ、保護者もいない……神野さん……」

 そう言い残し、水島先生は帰っていった。

 若い男性医師もついて行ったのだろう、二人分の足音が遠ざかっていくのを、神野は放心状態で聞いていた。

 長い沈黙が流れた。

 暗くなった待合室で、家族は、長いこと見つめあった。

 意を決して神野が立ち上がると、幸和子が強い拒絶反応を見せた。

「……やめて」

 天音に聞かせまいとしたのだろうか、小さく、それでいて力強い言葉だった。

 神野は一度立ち止まりかけたが、見えない結界を打ち破るように歩き続けた。

「幸和子」

「お願いやめて!」

 胸が張り裂けるような声で幸和子が叫び、神野はそれ以上進めなかった。

 天音の目の前で怒鳴り合いをしたくなかった。

 それは神野夫妻にとって六年間暗黙の了解であったにも関わらずしかし、今の幸和子にそれを気にする余裕はないだろう。求めることも、到底お門違いなことだ。

「どうして……!どうしてあなたはそうなの!?」

 幸和子は車いすから手を放し、零れ落ちる涙を必死に拭っていた。

 神野は胸の奥に強い痛みを感じながら、言葉を絞り出した。

「あの金はオレたちが使っていい金じゃなかったんだ……!」

「いいえ!あのお金は、この子を治すためのお金よ!あなたがそう言ったのよ!?」

「そうだ!天音を助けるために!あいつが……!命をかけてまで手に入れた金だ…………!」

 神野は申し訳なさに押しつぶされそうだった。

 夢姫をあんな目にあわせた自分。天音を、幸和子を裏切る自分。

 どちらも許せなくて、どちらかを選ぶことしかできない自分がもっと許せなくて。

 泣きそうになりながら、人の道から逸れた方へと歩み出した。

「頼むわかってくれ……なぁ幸和子……あいつはまだ中学生だ……人生の楽しさも、生きることの喜びも知らない……このまま見捨てられない!」

「知らないわよそんなこと!その子が中学生なら、天音はまだ小学生よ!?小学生になったばかりなのよ……!私が大事なのはこの子だけ!この子の命だけよ!……おっほ……おぉ……もうすぐで元気いっぱい走れるって……喜んでたのに……どうして……?どうしてよぉ……………!どうして……!」

 泣き崩れる幸和子を、神野は慰めることができなかった。隣で支えることもできなかった。

 そんな資格はなかった。

 だが、自分がいなくなっても、天音にはまだ幸和子がいる。

 夢姫は違う。

 今、この世界で、夢姫のことを本当に知っているのは自分だけなのだ。

 だから、行かなくてはならない。

「ごめんな」

 神野は車いすの前で跪き、天音の手をとった。

 自分の半分ほどしかない小さな手を、優しくやさしく撫でた。

「パパ……たくさんお金集めたんだけど……お世話になった人が困ってて……その人のために使わなくちゃいけなくなっちまった」

 車いすの後ろから、母親のさめざめと泣く声が聞こえ、天音は一度振り返った。

 そして、天才的な口の開き方で、また神野の方をじっと見た。

 大きくてぱっちりとした目を、神野は今生の別れのように見つめ返した。

「なあ天音、嘘をつくパパは嫌いか?」

「…………うん」

 天音はくすぐったそうに手を払うと、自分の栗毛をちゃっ、ちゃ、とかいた。

 わかってはいたが、神野の気分は、胃の奥に石を詰め込まれたように沈んだ。

「でも」

 天音はぽつん、と本当に今思いついたかのように呟いた。

 何を言われるのだろうかと、神野は全神経を集中させて聞き入った。

 興味があっちこっちに行くのだろうか、天音は、両手をこねくり回していた。

 神野は辛抱強く待った。

 神野の視線に気づき、天音は両手遊びこそやめなかったものの、大きなお目をぱちくりとしばたかせ、神野の方を見た。

「たすけてもらったひとをみすてるパパは、もっとキライ」

 それが許しだったとは思わない。

 だって天音は、まだ六歳だ。

 今後一生、自分は親として認めてもらえないだろう。

 クズの烙印を押され、彼女が死ぬその時まで、シミついてとれない汚れのようにつきまとい、人生に暗い影を落とすだろう。

 だが、それでも。

 その一言で。

 神野の決意は揺るがないものとなった。

 神野は頷いた。

 何度も何度も頷いた。

 ごめんな、とも、ありがとう、とも答えなかった。




 桃色とも紫色ともつかない不思議な色の湖の上に、ぽつんと建てられた東屋がある。

 神野はそこに、音もなく忍び込んだ。

 東屋には先客がいた。

 須磨のババアと、腕が一本しかない光り輝く人影だ。

 須磨のババアはいつも通り、机の上に様々な茶器を並べ、しゅうしゅうと湧きたつ湯気の中に座っていた。

 光る彼は、それを黙って見ていた。

「あんた、よくも私の夢に入ってこられたね」

 神野が声をかける前に、須磨のババアが気付いた。

 茶器から茶器にお湯を移している最中だったのに、さすがババアだ。

「もしかして褒めてる?二十年ぶりだ」

 神野はおどけてみせた。須磨のババアはこっちを見ていなかったから、光る彼にダブルピースをしてみせた。

 須磨のババアは呆れたようにため息をつき、茶作りを続けた。

 神野は光る彼の方へさっさと歩みより、須磨のババアが彼の方へ茶を滑らせたとたん、それを横取りした。

 須磨のババアが実に不機嫌な顔で招き入れてくれたので、自分で銀色の椅子を作り出し、光る彼の隣に遠慮なく座った。

「神の右手も落ちたもんだよ」

「それでもいい。でもせめて、夢姫を助けたい。あんたなら知ってんだろあっつ!」

 茶は沸騰しているのかというくらい熱かった。神野は何度か舌先で茶を舐めてみたが、最終的にはあきらめて、光る彼に茶杯を押し付けた。

「……十年前、師匠は治した」

 知らないとは言わせない。

 須磨のババアもあそこにいた。

 あの、エノラ・ゲイが襲来した毒色の世界に。

「夢が精神の投影なら、夢の調律で、逆に精神を――」

「そんなに簡単なもんかい。よく考えな、永遠に夢を見続けてる人間の、終わりのない夢を治してお前、どうやってそれが目覚めに繋がるんだい。第一、私に依頼するだけの金を持ってるんだろうね」

 須磨のババアは羽の調子を確かめるタカのように、長い袖をバサンとはためかせ、茶杯を握った。茶の匂いを楽しみもせず、イライラしたように茶杯を傾けた。

 光る彼だけが、楽しそうに茶杯をくゆらせていた。

 文化人二人に囲まれた神野は、一人で考えを巡らせた。

「…………じゃああるんだな、そういうことだ。金があれば取り戻せる」

「いいや、金じゃ無理さ」

 須磨のババアはすぐさま否定した。

 茶杯を叩きつけるように置き、老齢なシワをじわっと深くした。

 亀が歩くくらいの速度で、一言ひとこと、噛みしめながら言った。

「植物状態になった人間は、夢が現実になる。自分の夢が世界になるんだ」

 今度は神野にもわかった。

 すぐさま行動に移すべく、銀色の椅子を横倒しにして立ち上がった。

「それだけわかりゃ十分だ。連れ出してくる」

 須磨のババアが、その見た目からは想像できない速度で立ち上がった。稲妻が走ったかと思うほど素早かった。

「バカを言うんじゃないよ!夢の中にいるあの子を起こした瞬間!あの子の夢はあの子の世界じゃなくなる!ただの夢に戻るんだ!お前、わからないわけじゃないだろう!」

 ババアは激高する母熊のように怒って、東屋の机を殴りつけた。

 茶杯が床に落ち、砕け散った。

 熱々の茶が四方八方に飛び散り、神野の安物の革靴が、イルカショーの最前列にいた時よりびしょびしょになった。

 足下に転がる陶器の破片をしばし見つめた後、神野はその場でうずくまった。両手の平と額を茶の海にこすりつけ、めり込ませ、ババアの靴底より深く頭を下げた。

「なんだい、そりゃあ」

 後頭部にババアの声が刺さる。

 神野は深くふかく目を閉じた。

 熱々の茶が、額を焦がすのを、黙って感じていた。

 頭を下げたまま、地面に向かって願った。

「頼む、夢姫を」

「はあ?」

 ババアの声が震えている。

 きっと怒っているのだ。

「オレはまだ、夢の神髄を何も教えてやれてない。いくらあいつが天才でも、何も知らなきゃ生きてけねえ」

「ふざけるんじゃないよ……!この私に、タダで小娘のお守りをしろって言うのかい!?バカも休み休み言いな!そんなことをして私になんのメリットがあるって言うんだい!?死ぬなら勝手に死にな!だが、それで私があんたの尻拭いをするのはお門違いさ!」

 須磨のババアはカンカンに怒っていた。

 神野は頭を上げた。

 額からしたたり落ちる茶の、その向こうに、バラバラになった茶杯の破片が見えた。

 神野は唇をサーベルのようにひん曲げ、破片に向かって右手を伸ばした。

 茶杯の破片は、ジェダイに引っ張られたライトセーバーのように震え出した。神野が右手をこねくり回すと、粉々になっていた破片が、地球に吸い寄せられる隕石のように集まっていった。破片たちは互いに飛び交い、無地のパズルを合わせるように、隙間なく合わさっていった。

 しかし――一度失われた茶が戻ってくることは二度となかった。

 神野は立ち上がると、完成した茶杯を須磨のババアに投げつけた。

「わかってるさ、ババア(・・・)



 

 神野は最後に、眠っている夢姫の左耳を撫でた。

 無理やりピアスを外されたのだろう、かわいそうに、根元から裂けている耳たぶを。

 時が来た。

 夢姫を乗せたベッドが、冷たい床の上を滑るように転がっていく。

 彼女の顔色は幾分かよくなった。言うなればそう、死人みたいに青ざめていた状態から、ちょっと貧血気味です、と言い張れるくらいに。

 しかし、あの日からずっと、人工呼吸器をつながれたまま眠り続けている。

 続いて、青い服に身を包んだ医師たちが次々にやってくる。自動で開く左右のドアに、一人、また一人と消える。

 左右から扉が自動で締まり、赤いランプに灯がともる。



 病室に設けられた洗面所で、神野は電気シェーバーの箱を開けた。

 高い、個室の病室には、トイレ風呂が個別でつくらしい。三二年生きて初めて知った。

 髭剃りだってそうだ。高いやつは肌が荒れず、すべすべになるらしい。残念ながら、近くの電気屋で買ってきたこれは、五千いくらの安いやつだ。

 金だ金だと、いやな世の中だったほんと。

 神野は一人で毒づいた。

「ん?おん?」

 電源ボタンを上下に何度もスライドさせたが、起動しない。

 古いモデルの投げ売り品だ。どうせ、長い間店の倉庫で腐っていたものだろう。

 神野は箱の中から充電器を取り出し、洗面台についたコンセントにつなぐ。

 その状態で電源ボタンをカチリと言わせると、右手の中でシェーバーが暴れ出す。




 レンコンのように並べられていた電球が、一斉に光り輝く。

 手術台の上に寝かされている夢姫の顔を、真っ白になるまで照らしつける。

 ちりちりになっていた夢姫の金髪が、まるで雑草でも掃除するかのように、バリカンで根元から刈られていく。

「メス」

 ゴム手袋をした手に、消毒済みの銀色の刃が手渡される。

 あらわになった夢姫の頭皮に、そっと、差し込まれる。



 神野はしょぼくれたネクタイを緩めると、シャツのボタンを三つ外し、首元を涼しくした。

 洗面台の鏡をよく見ながら、シェーバーの刃を頬に当てた。チクチクと、一寸法師が針先で北斗百裂拳をしてきたような痛みが走った。

 いかんな、夢姫に言ったらそれは誰だと怒られるところだ。もちろん、一寸法師ではなくケンシロウの方だ。

「ったぁ~、もう……」

 まあいい、だって今日は、神野の晴れ舞台だ。

 次、顔を見られた時、怒られないように。

 ジョリジョリと音をたてながら、神野右蛻は髭を剃り続ける。

 結局、誰に対しても迷惑をかけ続けた人生だった。

 師匠、幸和子、天音、須磨のババア……ついでにトダケン。そして夢姫。

 自分勝手に生きてきた報いがこれだというなら、胸を張って受け入れてやろうではないか。

「ふぅっ……」

 大きな鏡に写った自分を見て、神野は一息ついた。

 まるで旬物のイチゴのように、まあまあな感じに頬がつるつるだ。

 仕方あるまい、幸和子と別居状態になってから、不真面目なクセがついてしまったのだ。ここまで綺麗にしただけで御の字というもの。



 手術室は緊張に包まれている。

 大きなおおきな、潜水艦の潜望鏡のような電子顕微鏡がやってきて、夢姫の頭の上でラピュタのように浮いている。

 医師は顕微鏡を覗き込みながら、数ミリ単位で指先を動かしている。

 隣に控えた看護師が、次に必要となる道具を先読みし、別の医師が心拍数などをモニタしている。

 大人たちの奮闘をよそに、夢姫は心地よさそうに眠っている。

 まるで、楽しい夢でも見ているかのように。




 神野は洗面台の縁にかけていたモッズコートを取り、肩にかけた。

 赤茶色のネクタイを絞り上げ、しわくちゃなりに形を整えた。

「よし、行くか」

 革靴のかかとを踏むのをやめ、胸を張って歩いた。

 病院の外に出ると、空が毒々しい色に染まっていた。

 濃い紫と薄い紫、白、黒の斑点でびっしりと埋め尽くされ、濃い灰色の入道雲が、太陽光を遮るように漂っていた。

 エノラ・ゲイの大群が、空からどす黒い輪っかを幾重にも重ねながらまき散らしていた。

 近くにあった建物が輪っかに巻き込まれ、格子状にバラバラになった。あれだけサイコロがあれば、死ぬまでチンチロができる。

 病院から見えていた小高い山が、突然噴火した。

 遠くの方では、川から水が巻きあがっていた。

 水とマグマはまじりあい、氷と炎の竜巻になった。

 これから、街中を破壊するのだろう。

 神野は右手を頭上にかざした。

 ちょうど、自分の所に輪っかが落ちてきたところだった。

 ちょちょいのちょいっ、とやると、右手が煌々と光だし、黒い輪っかをピタリと止めた。神野にとっては朝飯前の晩飯前だ。昼飯の前にしたっていい。鼻歌でも歌いながら、右手をさらに光らせ、輪っかを内側から蒸発させるだけだ。

 輪っかはジュッ、と言って黒いチリになり、焼けた新聞紙のようにあたりを舞った。

 カタカタと、神野の神業をほめたたえる拍手のような音が聞こえた。

 自分のファンでもいるのかと思って見渡すと、足元に、カラスマスクの夢追人(ゆめおいびと)がいた。

 貴族服の肩と、シルクハットのつばに、黒いチリがフケのように積もっていたが、それでも愉快な笑いが止まらないようだ。

 アコーディオンのように分厚い本を小脇に抱えて、神野を見上げていた。

「はっ、ありがとよ。おかげで自信が出た」

 神野は夢追人(ゆめおいびと)を指さして、キザな笑みを浮かべた。

 夢追人はパンをこねるようにどっさりと本を開き、万年筆の先端をカラスマスクのくちばしでなめた。

 悪くない。間違いなく、一章割かれる大タイトルだ。

「かっこよく書けよ?」

 世紀の大泥夢(おおどろぼう)に応えるように。

 夢追人(ゆめおいびと)はカタカタと笑った。

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