第十二章 思い起こして
そこは病院の診察室だった。
レントゲン写真を挟む光の壁や、医者がカルテを入力する大画面のパソコンなんかがある。
神野右蛻は元妻の幸和子と共に、丸椅子に腰掛け、主治医の水島先生の話に耳を傾けていた。
水島先生は小柄な男性医師で、禿げあがった頭と、牛乳瓶の蓋のような分厚い眼鏡が特徴的だった。心臓病を専門としつつも、世界的な権威には劣ると自ら認めている。実直な人だと、神野は思っている。
「ドナーが見つかりました」
水島先生は単刀直入に言った。
神野と幸和子はそろって深いため息をついた。
知らず知らずのうちに、互いに手を握りあっていた。
二週間前までいがみ合っていたのが嘘のように、二人で微笑み合った。
水島先生はパソコンの画面を指し示し、説明した。
「交通事故で意識の戻らなくなった十歳の男の子です。脳死判定が出て……ご両親がせめて、誰かの一部になって生きていて欲しいと。向こうの患者は動かせませんから――」
「こっちが、アメリカに」
神野は待ちきれなくなって口を挟んだ。
水島先生は気分を害した様子もなく、小刻みに二度頷いた。
「天音ちゃんの容態は最近安定していますが、それでも、長いフライトには慎重に慎重を重ねなければなりません。専用の飛行機を手配して、医療スタッフを同乗させる必要があります。他にも、事前にご説明した費用がかかります。一度こちらの書類に目を通して、金額に問題が無ければサインを――」
神野は水島先生の手から書類をひったくると、一文字も読まずにサインした。
「ほんとお!?天音、ひこおきのれるん?」
ベッドの上で天音は飛び跳ねた。ショートカットの栗毛がぽんぽん弾んだ。
「そぉだぁ~!飛行機でぴゅうぅんと行って、向こうのお医者さんに、心臓治してもらえるんだぞ!」
神野は可愛いかわいい我が娘の頭を鷲掴みにして、くしゃくしゃになるまで撫でまわした。
天音はきゃあきゃあ言って喜んだ。小さな手で、神野の手をぎゅっと掴んで、頬ずりした。それが愛おしくてたまらなくて、神野は天音の餅のような頬をぷにぷにと揉んだ。
幸和子は、神野が天音に触れてもちっとも怒らず、後ろの方で黙って見ていた。小言の一つも言わなかった。
「ねぇパパ、あたらしいおいしゃさん、アメリカじんかな」
神野の手の中で、天音はころりと首を傾げた。
神野は腕を組んで、おしり探偵のように口元を手で押さえた。
「そうだな……アメリカ人かもしれないな」
「天音ね!天音ね!えいご、ちょっとならしゃべれるよ!」
「おぉ~?そうなのか?パパに聞かせて~」
「はろぉ~、はろぉ~」
天音は顔の下で小さく手を広げ、花が咲くように歌った。
「おっほぉ~!ハロおー?天音ぇ!」
なんてこったこの子は天才だ。まだ小学校に行ってもいないのに、英語を喋ることができるのだ。
神野は文字通り娘にメロメロになって、WBC決勝でイチローがタイムリーを打った時の百倍は大きなガッツポーズを見せた。
「ねぇ、あなた」
背中からそっと声をかけられ、神野は振り向いた。
幸和子が、意味深な目配せと共に、音もなく手招きしていた。
半ば押し出されるような恰好で廊下に出た。
幸和子が遠慮がちにうつむきながら、後ろ手で病室の扉をそっと閉じていた。
神野は手持ち無沙汰になって、苔むしたコートのポケットに手を突っ込み、廊下を行き来する看護師や見舞客を目で追っていた。
幸和子は長い栗毛を緩やかに右肩にかけていた。その髪を何度もなんども撫でつけるものだから、神野のところまで、アデランスか何かの匂いがすん、と漂ってきた。
「本当にありがとう」
「はあー……はっ?」
第一声が罵倒でなかったことに、神野の脳みそは激しく混乱した。
聞き間違いかとも思ったが、幸和子を見ると、潤んだ瞳でこちらをおずおずと盗み見ていた。
神野はとたんに気まずくなって、自分の足下に視線を落とした。
「あぁ別に……ちょっとデカい稼ぎがあっただけの……あった……」
神野はひしゃげた革靴を見つめたまま、固まった。
「稼ぎ……?」
チラつく。
金髪の女の子だ。
チラつく。
顔が見えない。しかし、自分を呼んでいる。
存在しないはずの記憶に襲われ、神野はポケットの底を引っ掴んだまま固まった。
わからない。誰だかわからない。
だが女の子は苦しんでいる。暗闇の中をのたうち回って、助けを求めている。
「でも……あなたは一人で使わなかった。あの子のところに持ってきてくれた……」
幸和子の声で神野は我に返った。ポケットに突っ込んでいた手を引っこ抜き、肩をすくめた。
「あっ……あー、そりゃそうだ。天音はオレの子だ」
「私たちの」
「あっ、あぁ、そうだ、そうだな。オレたちの子だ……。世界一……かわいい」
神野は何十年ぶりのウインクを幸和子に飛ばした。片方のまぶただけを動かすという動作に顔面の筋肉が慣れていなかったため、前歯がむき出しになった。
幸和子はぎこちない笑顔でウインクを受け止め、沈黙を誤魔化すように一度、二度、白い歯を見せた。
神野はほっと胸をなでおろし、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
彼女の狐のようにきつい目つきが、笑う時は柔らかい曲線を描くことを神野は知っていた。
しかし、ここまで破壊力があった覚えはない。
少し浮かんできた頬骨や、本数の多くなった目じりのシワ、それらをもってしても打ち消せない彼女の美しさに、年甲斐もなく胸がときめいてしまった。
「ねえあなた」
幸和子は上唇をなめ、栗色の髪を振り回した。
「考えたんだけど……もし、あなたさえよければ……」
「オレ……?」
神野は恐るおそる右手で自分を指さした。
幸和子は笑顔のまま、無言で何度も頷き、手を伸ばした。
神野は、自分の右手が、幸和子の優しさと暖かさに包まれるのを感じた。
「あの子の手術が終わったら、また三人で暮らさない?」
その言葉が、どれほど神野の救いになったことか。
申し訳ないが、犯罪に手を染めたことのない俺にはわからない。
しかし、六年前、泥夢の罪で有罪が確定して以来、誰からも人らしい扱いを受けなかった神野にとって、愛する娘と、そして愛していた妻と再び家族になれる日がこようとは、まさに青天の霹靂だった。
そうとも、脳裏にチラつく金髪の少女の影を振り払ったからと言って、責めることなどできない。
「あっ……あは……あはは……」
神野は乾いた笑いを漏らした。
「あっはっはっはっはっ……はは……」
実感がわかなかった。今自分のいるところが夢じゃないのか、幻実化にかかってやしないか、何度も何度も確かめた。右手を幸和子に握られていたから、不慣れな左手で何度もナイフや縄を描こうとした。
幸和子が自分のことを、心配そうに見つめていた。
だが、ナイフも縄も作り出せなかった。銀色の線すら出てこなかった。
どれだけ念じても龍になれないし、空を飛べもしない。自分は神ではない。
神野は自分の左手の先を見つめ、そこに病室の扉があることに気付いた。あの向こうに天音がいる。目の前には幸和子がいる。
つまりこれは、現実の話なのだ。
「そりゃ――そりゃお前――最高だ」
言葉と、ついでに呼吸まで詰まらせながら、神野は絞り出すように言った。
幸和子は神野の答えをじっくりと味わうかのように長く沈黙し、後に頷いた。
「最高?」
「あぁ……あぁ!最高だ……!最高……!」
「最高……」
「最高!……ははっ!」
神野はようやく心の底から笑い、幸和子の手を強く握りしめた。
幸和子も強くつよく握り返してくれた。
娘の手術代は手に入った。
妻とは和解した。
神野右蛻はようやく、その役目を終えたのだ。
須磨は神野の夢に入り込んだ。
それはもう優雅なものだった。羽化したチョウを、その羽を、一分のズレもなくたたみなおし、一瞬の痛みも感じさせずにサナギの中へ戻すほどの神業だ。直接見たわけではないが、夢追人があそこまで絶賛するのも珍しい。今世紀では五本の指に入ること請け合いだ。
もっともこれは、神野自身が夢を開放していたから、というのもある。
神崎の代からそうしている。
普段は敵同士の泥夢と調律師だが、彼らには彼らの仁と義がある。
夢の世界では互いに絶滅危惧種と言われるほど減ってしまった彼らだからこそ、人生の門出や祝い事にはこうして集まって、憎まれ口を叩くのだ。祝福の言葉でないのは、敵同士だからだ。
須磨は大学病院の敷地内にある緑地帯へやって来ると、チャイナドレスの長い袖をばさんとはためかせ、ベンチの一つに腰掛けた。
ちなみに、緑地帯にはもう一つ、須磨が座ったやつの右隣にベンチがあったが、須磨はそちらには見向きもしなかった。
「湿気た面してんじゃねえか」
右のベンチから、ざらざらとした声が聞こえてきた。
須磨は神野の方を見ないようにした。しかし、足を組みなおした後、目じりに深いしわを刻んだ。
「あんたは絶好調、って顔だね」
神野は両手でサムズアップを作ってキザに笑ってみせた。須磨はよく堪えたと思う。さすがは大人の女性だ。俺なら後ろからゴルフクラブで殴り掛かる。
「因果なもんだね。あんたらが盗むのをやめたら、私の仕事もなくなる」
須磨はやはり、神野の方を見なかった。
神野は少々、不貞腐れてしまったのかもしれない。こちらの真似をして、そっぽを向いたようだ。人の動きを察知することに長けた須磨には、わずかな空気の振動、気温の変化から相手の動きがわかるのだ。
「オレはもう足を洗う」
「そうかい、寂しくなるね」
須磨は塩ラーメンくらいあっさりとした返事をした。
神野はおそらく、もう少し惜しまれながら引退するもんだと思っていはずだ。思い通りにはさせるまいと、須磨の最後の嫌がらせだ。
「私の仕事も、しばらくは増えないね」
まさか自分から愚痴のようなものをこぼれるとは、年は取りたくないものだ。須磨はかぶりを振った。
「何言ってるんだ、もう一人いるだろう」
神野がふふ、と笑っていた。
須磨も思い出した。柄にもなく笑みがこぼれた。実は須磨は、夢姫から預かったガラス玉をネックレスの先につけて、あの日からずっと身につけていたのだ。
年を取るといけない。子供に懐かれたなどと思いあがって、ついつい可愛がってしまう。昔なら絶対にこんなことはしなかっただろう。
胸の上に鎮座していたガラス玉を手の平で転がし、そして思わず、神野の方へ顔を向けてしまった。
「あんたの弟子かい?最近は鳴りを潜めてるようだが?」
懐かしい話に花を咲かせるつもりだった。
世間のことをちっとも知らないくせに、自分の持っている力の特別さを誰よりも理解して、わがままに、自分勝手に暴れまわって、それでいて、素直で優しくて可愛い金髪の女の子の話を。
しかし、神野は――――鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「……は?なに?弟子?」
笑えない冗談だと、須磨は当初そう思った。
だが神野は、その恐ろしいところは、冗談を言う時の目をしていなかったのだ。
「あんたもついにもうろくするようになったのか。これだから嫌だね、歳はとりたくない」
いつもの憎まれ口ではなかった。本気で言っていた。
須磨のババアがついにボケたと。
「あんたこそ何言ってるのさ」
「いや、いや!ババア、そっちがだ!オレに弟子はいない!」
ここにきて須磨は、いよいよ何かがおかしいと感付いた。
話の筋がズレているとか、そんな次元ではない。
須磨が頭の中に思い描いている誰かが、神野が知らないはずのない誰かが、今目の前にいる男の記憶から、全部すっきり綺麗さっぱり抜け落ちてしまっているのだ。
「最近この辺をにぎやかしてるやつがいるのは知ってる。まだ会ったことは無いが。なんだ、オレに似てるのか?手口が?見た目が?知ってるなら、冥土の土産に教えてくれよ」
須磨は自分の額をかいた。かきむしった。
なんという失態。
なんと愚かな。
自らを恥じた。後悔に押しつぶされそうだった。
あの子がなぜ泣いていたのか、なぜ自分は、あの時、叱りつけてでも聞き出しておかなかったのか。
「どんなやつかなぁ……男か、女か……トダケンが捕まえられねえってことは、相当なやり手なんだろうなぁ……一目お目に――」
神野は好奇心に胸躍らせていた。
まだ見ぬ手練れの登場に、夢の中へ未練すら感じているのだ。
見ればわかる。いい歳して目を輝かせ、頬を高揚させ、神崎が、自らの師が、まだ見たことのない技を披露した時のように、その構造を解明しようと、自分の見解を嬉々として話す時のように、相手の都合も心情も一切無視して喋り倒すアホ面を、いったい何度見てきたと思っている。
『ねえ須磨さん』
『ん、なんだい』
夢姫は最後に、須磨にある願いごとをした。
広島城のお堀で、警醒偸が来るまでのわずかな時間に。
『泥夢さんのこと、怒らんであげて』
夢姫は精いっぱい、いたずらを思いついた子供のような顔をしていた。
『あいつが私を怒らせるようなこと、したのかい?それともするのかい?』
この時の須磨には、夢姫がなぜ今にも壊れそうな表情をしているのか、はたまた何を言っているのか、ちっとも理解できなかったから。
彼女が何を意図しているのかも。
今ならわかる。
そうでなければ、
『んー……。あたしがこてんぱんにするけん、泥夢さん。泣きついてきたら気持ち悪いじゃろ?』
そうでなければ、あんなに寂しい顔で笑えるものか。
「このっ……!大馬鹿者!」
須磨律子は神野右蛻を張り倒した。
夢の中で強化された彼女の平手打ちは、神の右手と謳われた男を地にめり込ませるほどの威力を見せた。
神野は腫れ上がった頬を抑え、口から泥と雑草を吐き出した。
「がっ……!なにしやがらババア!」
「泣きついてきた方がまだマシだった!何をしてるんだいヘラヘラと馬鹿みたいに!神の右手を持つと言われたあんたが!世紀の大泥夢と言われたあんたが!盗まれてどうするのさ!」
須磨は夢の境界を突き破るほどの声で絶叫した。
許せなかった。
全てを手に入れることができる力を持った男が。驕り、油断し、あろうことか自分の弟子に出し抜かれて、そのことに気付きもせず、のうのうと生きていることが許せなかった。
怒りに声が震えたのは、枯れたと思っていた涙がこんこんと湧き出すのは、実に数十年ぶりのことだった。
「何を言ってやがる!いい加減にしろよババア!オレは弟子はとらねえ!師匠が死んだときにそう決めた!知らねえわけじゃあるめえ!」
神野が立ち上がり、胸ぐらに掴みかかってきた。
ネックレスの先についているガラス玉が、胸の上で苦しそうに跳ねた。
それを誰が持ってきたのか、その事実を知らない神野に須磨はまた激怒した。怒りに任せて神野の右手を振り払い、今度は須磨が、神野の胸ぐらを掴みあげた。
「知ってるから言ってるのさこの大馬鹿者!あんたは記憶を盗られてる!それも!一番盗られちゃいけない記憶だ!たとえ命を落としても!それだけは盗られちゃいけなかったんだ!」
「わけのわらんことをゴチャゴチャやかましい!オレぁ明日には娘とアメリカだ!邪魔するな!」
「いいやダメだ!このまま行かせるものか!私がお前を調律してやる!」
須磨は自分の頭蓋骨に紫の爪をつき刺した。
脳みそをかき回し、金髪の少女の記憶をかき集めた。豪華客船で、腹に入りもしない馳走をむさぼり食う愛らしい姿を、一端の泥夢になって、生意気な口を利く可愛い姿を、寂しさに怒り、愛に飢えて、城と堀をまとめて叩き割る可哀そうな姿を、それらを一つにまとめ、真っ白な光の塊にすると、頭の中から引き出した。そして、何も覚えていない愚かな男の頭に叩きつけた。
「ぐわあぁぁぁあああぁぁぁ!」
神野右蛻は自分の髪を引きちぎるほど引っつかみ、緑地帯の上を転げまわった。ベンチの足にぶつかって、三十センチも移動させた。
脳に直接ペンをつき立てられ、ぐちゃぐちゃに刻み込まれているような痛みだった。
真っ白な閃光が頭の中で何万と瞬き、その合間あいまに、金髪の女の子が現れては消え、現れては消えた。
「それは断片だ。私の中に残った、たった一握りの!」
気を失いそうな痛みの狭間を縫って、走馬燈が、夢姫の姿が、次々と頭の中を駆け巡った。
「思い出せこの愚か者!あの子はお前から!何を奪った!」
須磨の言葉が届いたところから、鼓膜が、三半規管が、神経を通って脳みそが、順々に縫合されていった。
猛烈な吐き気でよだれが止まらない。痛みの余韻で首の骨が軋む。流れ込んでくる他人の記憶に、全身が拒絶反応を起こしている。
神野はベンチの座面に這い上って、そこを支点として須磨のババアにすがりついた。
須磨は目に涙を浮かべてこちらを睨んでいた。
それは、大の大人が腰に巻き付いてきたことに怒っている目ではなかった。
責任を果たさぬ大人への、責任を忘れてしまった男への、憤怒の炎だ。
「あいつは……あいつぁ……」
「もう二週間も潜っていない」
「どうして――」
「わからないことを記憶のせいにするな神崎の弟子!盗られた貴様の落ち度だろうに!」
神野はカッと目を見開き、自分の頭の中を覗いた。すなわち、今いるこの夢の中を。
あの時、始まりの樹の下で。
一番大切にしていた記憶の保管庫で。
自分は何を追いかけていた?
須磨の首から下げられているネックレスを、その先端についているガラス玉を睨みつけた。
ガラス玉は、待ちわびた主に尻尾ふる犬のように震えた。
宇宙が詰め込まれたガラス玉を、神野は右手で握りしめた。




