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第十一章 眠りについて

「――――――――はっ!」

 神野は目を覚ました。

 なんだか、壮大な冒険映画の主人公になった夢を見ていた気分だ。

 乾いた空気の中、カラスが鳴いていた。ここは大学病院の緑地帯にしつらえてあるベンチだ。いつの間にか寝落ちしていたらしく、空が茜色に変わっている。

 病院の八階、開いた窓から、風になびくカーテンが見える。

 膝の上がずっしりと重たい。鉄の塊でも置いてあるかのようだ。神野は視線を落とした。

 そこには大粒のダイヤがあった。大人の拳よりもまだ大きい、特大サイズのダイヤだ。

 夕日を反射して、赤く光っていた。

 戦利品を見たとたん、神野は夢の内容などどうでもよくなってしまった。

 ダイヤにかぶりついて、クリスマスに欲しかったゲーム機をもらった子供の様に、胴上げして喜んだ。

「やったぞ……やった!やったあぁあぁぁあぁ!」




 神野は病室の戸を思いっきり引いた。

 ものすごい音がして、幸和子(さわこ)と天音が振り向いた。

 クリーム色のカーテンと、真っ白な床が五月蠅い六人部屋だ。二人は一番窓際のベッドにいた。

 跳ね返ってきた引き戸を肩で弾き飛ばして、神野は中に入った。

「ちょっと、あなた……」

 ベッドの横の丸椅子に座っていた幸和子が立ち上がった。長い栗色の髪が人魚の尾びれのように優雅についてきた。狐のようにきつい目つきだが、笑う時は柔らかい曲線を描くことを神野は知っている。三十を超えて、その美しさはさらに磨きがかかっていると思う。だが、幸和子は、神野のことが細胞の一つに至るまで気に入らないのだ。これはそういう顔だ。

 神野は幸和子に遮られ、天音の元へ近づけなかった。

 天音は、それはもう可愛いかわいい我が娘だ。幸和子から受け継いだ栗毛をショートカットにしていて、大きなお目めをぱっちりと開いて、リクライニングさせた電動ベッドに身を預け、歯抜けの口をぽかんと口を開けていた。

 なんということだ、この子は口の開き方まで天才的だ。一番可愛い角度を知っているんだ。神野は天音の頭を無茶苦茶に撫でてやりたかった。

「お願いあたな、帰って」

 幸和子は強情だ。ささやくように言ったものの、神野の胸を押す両手には確かな力がこもっていた。

「違う、聞いてくれ、さわ――」

「今日は調子がいいの、こんなところで怒鳴りあいなんかしたくないの」

「オレの話を聞けばいい、お前が言い返すから怒鳴るんだろうが」

 幸和子は鼻で笑った。

「よくそんなことが言えるわね、問題を起こすのはいつもあなたじゃない」

 神野は頭に来て、幸和子の頭のてっぺんに怒鳴りつけた。

「あぁ!?オレがいつ問題を起こした」

「今だってそうじゃない!裁判所から接近禁止命令が出てるんじゃないの!?どうしていつもあなた――」

「パパ……?」

 静かな怒鳴りあいの合間に差し込まれた、すずめのさえずりのような声に、神野も幸和子も口をつぐんだ。

 天音が、ベッドから身を乗り出してこちらを見ていた。

 幸和子がしかめっ面をしながら引き下がったので、神野は天音に駆け寄って、地面に膝をついた。

「天音――」

「ちゃんと手は――」

「洗ってきたわ!」

 幸和子は口うるさい。天音の手を握っただけで、雑菌の大王扱いだ。

「パパ!」

 天音は大はしゃぎだ。神野の手を握ってキャッキャッと笑い始めた。

「どしたん?おしごと、いそがしいのおわったん?」

「お~……仕事ね……」

 神野は幸和子の方に振り返った。

 幸和子は狐のような目で睨みつけてきた。

「終わったおわった!だからぁ……天音に会いに来たぞ」

「そうなん?えっへへ!うへへ!」

 神野は天音の腕を撫でて、なでて、たくさんなでて、その小さな手を、自分の頬に当てた。

「きゃあ!パパ、おひげ!うひひ!」

 そうやって笑う天音の周りには、たくさんの機械があった。緑の光が細かく何かの数値を表示し、パイプがマングローブの林のように垂れ下がり、ベッドを取り囲むように配置されていた。

 それらがいったい何の機能を司っているのか、神野は知らない。

 だが、一つだけわかる。

 天音(この子)は、この機械が無いと生きられない。この機械があっても生きられない。神野と同じ年になるまでは。

「なぁ、天音…………外に出たいか?」

「……あなた!」

 幸和子が間髪入れずに叫んだ。

 神野は天音の方をじっと見て、幸和子には目もくれなかった。

 天音は目をぱちくりとさせて、零れ落ちそうな瞳で、神野をじっと見ていた。

「おそと……でれるん?」

「あぁ……!」

「あなた!」

 幸和子に手首を掴まれ、神野は天音から引きはがされた。引きはがされてやったのだ。あのまま天音の手をとっていたら、無理やり引っ張られて痛いだろうから。

「無責任なこと言わないで!今だって、本当に調子がいい時にちょっと出るのがやっとなのに!変に希望を持たせないで!これで何回目――」

「希望じゃない」

 神野は幸和子の言葉を遮った。

 苔色のコートの内ポケットから、分厚い茶封筒を取り出した。そしてそれを、幸和子の

手に押し付けた。

「夢でもない。オレが持ってきたのは現実だ」

 幸和子は手を震えさせながら、封筒の口を開いた。

 中身を覗きこんだ時、あっと息を飲んだ。

「こっ……これ……」

 泣き崩れる幸和子を放っておいて、神野は今一度天音の隣にしゃがみこんだ。

 天音の手は、小さいとは言っても、いつの間にか神野の半分くらいにまで成長した。

 その過程を神野は見ることができなかった。この先をいつまで見られるのか、毎日不安だった。

 でも、もう終わりだ。

「天音……手術したら外に出られる……覚えてるか?」

 天音はこくんと頷いた。

 背中に、幸和子のすすり泣きがしとしとと降る雨のようにしみこんできた。

 神野はつられて鼻をすすった。

「うん。でも、おかねがかかるからできんって、ママが」

「もう大丈夫だ!パパが……たっ……くさん!お金持ってきたから!天音ぇ……手術、できるんだぞ!」

 神野は声を詰まらせながら笑った。

 天音のおでこに自分の額を当てて、小さな大福のような頬を両手で包んで、もみくちゃにした。

 天音はくすぐったそうに身をよじって、しかし、大きな瞳を、砂金きらめく川床のようにキラキラと光らせた。

「じゃあ、天音、パパといっしょにはしったりできる?」

「あぁ!できるさ!」

 神野は天音から離れて、今にも我が子を抱きしめんと両手を広げた。

「走るだけじゃない!野球だって、サッカーだって!天音のやりたいこと、なんだってできるんだぞ!」

「ほんとぉ!?」

「本当だ!」

「やったぁ!」

 もう何も怖がらなくていい。

 薬と検査と我慢の日々にさよならできる。

 お友達と遊ぶのは、アニメや絵本の中の話じゃないんだ。

 世界はこんなに広くて、明るくて、暖かいんだ。

 そんな、なんでもない話を神野は、一晩中聞かせてやった。



「天音はねぇ、バトミントンしてみたい!」

「そうか!よし……!ラケット買ってくるぞ……!」

 窓の開かれた病室から、楽しそうに語り合う親子の声が聞こえる。

 あそこは八階だろうに、やけに大きい声だ。それだけ嬉しいのだろう。

 緑地帯のベンチに背を預け、夢姫は透き通るような青空を見つめていた。

「さむ……」

 空気が冷たい。だから、声がよく通るのだ。鼻水が止まらないのだ。

 いつものカーディガンを羽織って、タイツを履いてきて、正解だった。




 須磨は夢の中で茶を嗜んでいた。

 桃色とも紫色ともつかない不思議な色の湖の上に、ぽつんと建てられた東屋の中で。

 相手は光り輝く人影だ。輪郭から内部に至るまで、光の粒子でできている。須磨からは、人を模したガラス細工の中で、白熱電球が光っているように見える。

 彼には左腕が無かったから、いつも須磨が淹れてやっていた。茶といっても、いわゆる日本のお抹茶ではなく、中国茶だ。大きな茶碗に抹茶を立てて飲むのではなく、小さな茶杯で味や香りを楽しむのだ。より正式な場では、間香杯(かんこうはい)と呼ばれる香りを楽しむ茶器を用いることもある。

 須磨は茶壷にお湯を入れ、すぐに捨てると、二杯目を淹れた。今度は捨てずに蓋をして、茶壷の上から熱湯をかけた。

 お湯を使い切った須磨は、茶器を卓上に戻し、椅子に深く座りなおした。ここから少し、蒸らす必要があるのだ。

 左腕のない彼が、何かを言いたそうに身をよじった。光る右手で、須磨の背中の方を指さした。

「あぁ」

 須磨は眉を吊り上げると、義務的に小さく頷いた。

「感心しないねぇ、勝手に人の夢に入るのは」

 ギクリ、という音がこちらまで聞こえてきた。というより、動揺しすぎて自分の足を自分で蹴ったのではないか、そんな気がする。

 須磨は茶壷を手に取り、茶海(ちゃかい)という、ミルクポットに似た形の茶器に茶を移した。

「ごっ……ごめんなさい」

 寝入者(しんにゅうしゃ)はしゃがれた声で謝った。

 須磨は別に、この寝入者(しんにゅうしゃ)を咎めるつもりはなかった。それ以上の追及はせず、ゆったりと、茶釜から茶海に持ち替え、茶杯に注いでいった。

「私に何の用だい?」

 茶を注ぎ終えた須磨は、茶杯の一つを、光っている彼の前に置いた。もう一つは自分用だ。茶杯を顔の近くまで持って行き、色と香りを楽しんだ。光る彼も、右手で茶杯を取り、顔のあたりでくゆらせていた。

 背中から控えめな足音が近づいてきて、須磨の背中をなぞるように右手側に現れた。

 夢姫だった。

 須磨は茶杯をそっと置いた。

 夢姫はバツが悪そうに唇を舐めていた。右手に何かを握っていて、その手を遠慮がちにさまよわせていた。

「どうしたんだい、神野になにかされたのかい」

「んーん、泥夢(どろぼう)さんには勝ったよ」

 夢姫はしゃがれた声で首を振るだけだった。

 右手をそろり、そろりと卓の上に伸ばし、持っていた物を置いた。まるで、大事な皿を割ってしまった子供のように怯えていた。

 小さな手が退散した後、卓の上には、宇宙を詰め込んだようなガラス玉が残されていた。

「なんだい、こりゃあ」

 須磨はガラス玉をつまみあげ、白く濁った瞳の前に近づけた。金の十字細工が施されたガラス玉は、たいそう美しい代物だった。本物の宇宙のように、中身が渦巻いているのだ。

「それだけはどうしても売れんで……」

「買い手がつかなかったのかい?」

「うん……まぁ……そんな感じ……」

 夢姫は大粒のあめ玉でもなめているかのようにもごもごと言った。

「須磨さんが持っとってくれたら、助かるんじゃけど」

「別に構やしないが――」

 ガラス玉から目をそらした時、夢姫はもう、こらえきれなくなっていた。

 須磨は奥歯をぐっと噛みこんで、目じりにたくさんのシワを刻んだ。ガラス玉を指先でつまんだまま、夢姫の小さな肩に手を伸ばし、何も言わずに抱きしめた。

 光る彼も立ち上がり、そっと、少女の背を撫でていた。

 一本しか残っていない右手で。




 俺は古びたチャイムを事務的に押した。

 一度押して疑問に思ったが、二度目で確信した。このチャイムは壊れている。

 仕方がないので扉を直接叩いた。古い、木製の扉は、コンコンというより、ガンガンと鳴った。あと、蝶番がミシミシと悲鳴を上げていた。

「新田さん……新田さん!警醒偸(けいさつ)です!」

 ケイサツ、という響きに反応があった。

 扉の奥で、床板を這うような音が聞こえたのだ。

 俺は一歩下がって、向こうが出てくるのを待った。

 上の方の蝶番がいよいよ外れそうになりながら、扉が半分だけ開かれた。その陰からギラリと光る眼が覗いていることに、俺は気付いた。

 落ちくぼんだ瞳だ。頬もガリガリに痩せこけて、髭も伸び放題になっている。かつての栄光から落ちぶれた男が、そこにはいた。

「けいさつ?俺はなんもしとらんで」

 男は錆びたノコギリのようにギザギザの声で挨拶(・・)した。

 俺は返事をするのも面倒になって、ため息をついた。

 何故、悪いことをしたやつは揃いもそろってこの挨拶(・・)をするのだろうか。

 警察の知らないどこかで犯罪者はつながっているのではないかと疑ってしまうほどに、この言葉は常とう文句になっている。

「光さんですね」

「あぁ、じゃけえ、俺はなんもしとらんって!」

 夢姫の義理の父親は、扉をひっつかむとモグラのように顔を差し出し、目をひん剥いて声を張り上げた。

 どこまでも自分のことしか考えていない男よ。そんなことをしなくても、目の前にいるのだから聞こえている。

 俺は光を一瞥し、カバンから書類を取り出した。

「あなたではありません。娘さんのことで話があります」




 太田川の河川敷で体育座りして、ぼうっと川の流れを見つめている少女がいた。

 夢姫だ。

 ぐうぅ、と、真っ昼間から腹が抗議の声を上げていた。

 夢姫は膝の間から自分の腹を睨みつけた。

「はぁ……」

 手持ちの金は全部スッてしまった。たぶんもう、二日は何も食べていない。

 お腹が空いて本当に辛いのは、自分のちっぽけさがひしひしと身に染みることだ。

 幸い、広島市内は滅多なことが無い限り雪が降らないが、それでも、制服姿にカーディガンだけでは震えが止まらない。

 気に入らないことこの上ないが、ダボダボのブレザーを押し入れから引っ張り出すしかないかもしれない。

「お腹すいたな……」

 夢姫は頑張って立ち上がり、流川の方へ頭を向けた。

 品定めの時間だ。

 覚悟を決めてからは早かった。



 警察署の生活安全課で、二人の刑事がなにやらこそこそしていた。

どうやら、俺が机の上に出していた書類を見つけたらしい。

「にった……何て読むんすかね、こいつ」

 ばっちいものでも触るように書類をつまみあげ、若い巡査がつぶやいた。

 上席の警部補が煙たそうに答えた。

「最近流行ってるよなぁ、わけわかんねえ名前つけるの。これで愛情って言うんだから笑えるよ」

 そこには、俺がまとめた、新田夢姫の写真や戸籍謄本、被害者から集めた被害届が束ねられている。名前がわかれば簡単なもので、彼女が、補導の常習犯であることもわかった。同じ生安課員がよく知っていた。

「犬や猫を飼うのと同じ感覚ですよ。命を授かるって覚悟がない」

 若い巡査は書類の束を手に取ると、茶化すように笑って、警部補に渡した。

「そりゃそうだ、覚悟がないのにぽんぽんつくっちまうから、理想と違って大慌て。あげくのはてに殴って蹴って首絞める。それしか知らねえからさ、愛情(・・)を。まぁ、この場合……」

 警部補は書類をめくり、夢姫の家族構成が記されたページを開いた。

「覚悟以前の問題だがなぁ」

 そこに記されていた母親の年齢は、まだ三十にも満たないものだった。




 バスタオルに身を包み、夢姫はドライヤーで髪を乾かしていた。

 需要と供給のバランスが生み出した巨大鏡を持つ洗面所で。

 熱風で金髪を浮かすと、左耳につけたシルバーのピアスがキラリと光った。大きめの、リング型のピアスだ。

 ドライヤーの電源を切って、洗面所の棚に戻した。

 マントの裏から鳩を取り出すマジシャンのように、折り込んでいたバスタオルを思いっきり広げた。

 大きな鏡のおかげで、全身を隅々まで見渡すことができた。

 人一倍小さい胸の横に、腕の付け根に、太ももに……夢姫の体にはたくさんの痣が残っている。手首には小さな根性焼きの痕がフジツボのように寄り集まっているし、内またを開けば、もっとおぞましいものが待ち構えている。


『誰の金じゃぁ思うとるんじゃ!あぁ!?おらぁ!』

『痛い!いだいぃぃ!やめて、やめてぇぇぇ!』


 いつだって思い浮かぶ。

 銀色のピアスが呪いの楔となって、夢姫に思い出させる。その度に鳥肌が立つ。

 体中についた痕を、何度もなんども指先でなぞった。消えないことはあきらめた。なんてことはない。誰も気にしてなんかいないのだから。

 もうドキドキしない。不安にも、泣いてしまいそうにもならない。ここからは仕事だ。

「おじさん、あと一枚くれたら、もっとええことしたげる」

 ベッドの上で、顔も名前も知らないおじさんに抱かれながら、夢姫は甘い言葉でささやく。

「もっといいこと~?なんなん、それ」

 おじさんはげひゃげひゃと意地汚い声で笑う。

「えぇ~?わかっとるくせにぃ~」

 夢姫はおじさんと一緒になって笑いながら、脂ぎった豚のような腕に抱かれて眠る。




 外に出ると、落し蓋をされたなべ底のように真っ暗になっていた。

 日が沈むのが早くなったのが遠因だが、もう一つ、みぞれ交じりの雨がそこに拍車をかけている。

 交差点にある大型ビジョンが、これから明日の朝まで、雨が降り続けると言っている。

 夢姫は雨粒の向こう側にその光を見ながら、誰にも気付かれずに横断歩道を渡り切る。

 大丈夫。これだけ暗いんじゃもん。

 あたしは小さいし。

 誰一人声をかけてこない大人たちの代わりに、夢姫は言い訳をしてやる。




 アパートに戻ると、扉が傾いていた。

 上の方の蝶番が根元から外れているのだ。

 どうせあいつが癇癪でも起こしたのだろう。ここはついに、家と呼べる形すら保てなくなってしまった。

 夢姫はドアノブに手をかけ、そして、顔をしかめた。

 突然、自分の知らない世界に放り込まれたような、強い違和感があった。

 全身にピリピリと電気が走り、産毛から髪の毛まで、体中の毛が逆立った。

 受けたことのない就職面接の会場に入るように、呼吸の仕方にまで気をつけて扉を開けると、真っ暗な部屋が目に飛び込んできた。

 それだけならいつもと同じだがしかし、夢姫の喉の奥からひとりでに、飼い主を求めて鳴く犬のようにか細い音が上ってきた。

 異様な雰囲気だった。

 なんと重たい空気だ。扉を開けるまで気付かなかった。

 人の怒りが出汁のようにしみだして、じっくり煮込んだ煮物のように、アパート中の空気を濁らせていた。

 まばたきさえ許されないという強迫観念に、夢姫は襲われた。

 大地を砕くような音を立てて、アパートの真裏に雷が落ちた。

 唯一ある小窓から、何万台ものストロボを一斉にたいたような光が注がれた。

 窓ガラスがはじけるほどの光で、部屋が包まれた。


 目をらんらんと光らせた養父(ちちおや)が立っていた。


「あっ――」

 背筋が凍った。

 夢姫は尻尾を切るトカゲのように、学生カバンをその場に捨て、身を翻した。一秒でも早くこの場から逃げ出さないと、もはや自分は、生きて明日を迎えられない気がした。

 しかし、光が怒り狂った鬼のように突進してきて、夢姫はあっという間に肩を掴まれた。腕を掴まれた。悲鳴を上げるまもなく、201号室の中に引きずり込まれた。

「あぁっ……!」

 光に思いっきり投げ飛ばされ、夢姫は汚い台所に頭から突っ込んだ。

 角でお腹を強打して、呼吸が一瞬止まった。

「はぅっ……あっ……げほっ、げっ……ああああ!」

 光の黒い、固い手が、夢姫の頭に刺さった。

 根元から引きちぎられんばかりに髪を掴まれ、夢姫は、台所に体を預けたまま、首だけを天井に向けて捻じ曲げられた。

夢姫(ゆらり)……」

 ぶちぶちと髪が千切れる音と、ギザギザの声が交互に聞こえる。

「警察がうちにきた……」

「はっ、はっ……あうぅ……」

 頭が焼けるように痛い。夢姫は両手でこめかみのあたり抑えて、少しでも痛みが引くように願う。

「逮捕状を持って!」

「あああぁぁあーっ!うぅ……」

 何の前触れもなく脇腹を殴られ、夢姫は呻いた。

「前ったじゃろぁ……お前の罰金はぁ……誰の金で払っとんじゃぁ?あぁ!?」

 光は言葉の節々で夢姫の頭を揺らし、その度に百本も二百本も髪が抜けた。

「はっあっ、はっあっ……違う……万引きなんかしとらん……万引きなんか……ああっ!!」

 夢姫は引き倒され、左頬を思いっきり床板にぶつけた。

「ひーっ……かへっ……かはっあ……」

 奥歯が折れた。口の中が切れた。

 ねっとりと生暖かい液体が喉にまでこびりつき、夢姫は床の上でもがいた。

 玄関先に落ちていたカバンを、光があさっているのが見えた。

 夢姫が買った化粧品を外廊下にぶちまけて、一番奥に隠していた今日の稼ぎを手に持って帰ってきた。魂を削って、死に物狂いで稼いだ一万円だった。

「じゃあこの金はなんだ……?あぁ!?」

 一万円札を握りしめたままの右手で、夢姫は殴られた。

「あああぁぁあーっ!違う!自分で!ああっ!自分で稼いだんじゃ!自分でぇぇえええ!」

 言い訳する暇すら与えられない。

 両手で必死に顔を守ろうとした。

 腕の肉がそげるかと思うほど、光の暴力は激しかった。

 これ以上は腕が折れるという時、光が、ものすごい力で夢姫の腕を外側にねじった。

 無防備になった顔を何度も何度も殴られ、右目の奥から、鼻先から、鳴ってはいけない音がした。

 右目が破裂したかと思った。鼻が砕けたのかと思った。

 激痛に我を忘れ、血をまき散らしながら助けを求めて転げまわった。

「ああああああ!あっぁ!あっあ!あぁ!あぁ!えっひ!ひっ!ひっひ!ひっひ……!」

「ええかげんにせえよこのでっち!どこで盗んできたんな!」

「ぬすんでらい……ぬすんでらいよぉ……」

 左目から涙を、右目と鼻から血をしたたらせて夢姫は訴えた。

 光は納得しなかった。夢姫の左耳に手を伸ばし、銀色のピアスを恐ろしいほど強く握りしめた。

 左耳に全神経が集中した。

 屋根に落ちる雨粒の音を、全て数えられる。

 ハエの羽ばたきさえ聞こえる。

 これから起こることに恐怖し、夢姫の全身が、火にあぶられたビニール袋のように縮み上がった。

「言うても覚えんなら……仕方ないのぉ……?え?」

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、やめで……やめでぇぇぇ」

 夢姫は泣き叫んだ。懇願した。

 カマを持った死神が後ろから走ってきているような恐怖だ。全身が勝手に震え出して、自分で自分の制御ができない。

「じゃあ言えや!どこで盗んできたんな!」

「ちがっ……ちがっ……!ぬすんで――ぬすぅうう――!」


 光の手が、真下に引かれた。


 夢姫が最後に覚えているのは。


 神野の顔でも、須磨との思い出でもなかった。


 痛みだ。


 生きることの、もがくことの痛みを、それだけを感じて。


 彼女は眠りについた。

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