第十章 師を超えて
神野右蛻は公園のベンチに一人座り、空を見上げていた。
正確に言えば、見上げていたのは傍に立っている大きな建物の、八階の小窓だ。
もっと正確に言えば、その建物というのは大きな大学病院であり、神野がいるのは公園ではなく、病院の外周にある緑地帯だ。
ベンチが等間隔に並んでいて、神野以外には、リハビリでよたよたと歩く老人とか、それを介護する看護師とか、あと、大学なのでやかましい学生風情がいる。
「ふうん、おっきな病院じゃね」
懐かしい声と匂いに、神野は自虐的な笑みを浮かべた。
ベンチの背もたれに全体重を預け、何も入っていないコートをパタパタと振った。
「お前のせいでオレはからっきしダメになった。どうしてくれる」
「残念じゃねぇ、娘に会えんのは」
声は神野のすぐ隣から聞こえた。
そういえば、隣にもう一つ、ベンチがあった気がする。
「喧嘩売ってんのか」
神野は隣のベンチを睨みつけた。
「違う。髭よ、剃らんと」
そこにいた夢姫は、とびきり可愛かった。
氷のように透き通った色の爪で、自分の顎先をカリカリとかいていた。
爪だけではない。チークで頬を染めて、ラメの入ったルージュで唇をぷっくりと膨らませて、エメラルドグリーンの瞳をパチパチとしばたかせるたびに、淡いアイシャドウを瞬かせて。最後に見た時はプリンのようになっていた頭を、綺麗な金髪に戻して。
そして――ミント色のカーディガンを、どこかに置きざりにしていた。
「……あぁ?天邪鬼かよ、お前は」
夢姫は、半袖のブラウスから、一度も、いや、一度だけしか見たことのない二の腕を惜しげもなく見せびらかしていた。チェックのスカートからチラチラとのぞく太ももにも、タイツが巻き付いていない。
まるで生娘のように純真たる見た目になった夢姫に、軽く目まいがした。
神野は伸び放題になっていた顎髭をジョリジョリと撫ぜた。
平静を保つためには、自分のどこかを撫でつけるほかなかった。
「寒くないの?」
「隠せばええんじゃって、気付いたんよ。でもめんどいけえ、二度とせんわ」
夢姫は頬を大福のように膨らませ、二の腕や太ももをつまんだ。
ぼろを出してくれて助かった。
よかった。これならまだモテない。
神野は落ち着きを取り戻し、このうっとおしい見舞い客を追い払おうと考えた。
丁重に、できるだけ、ことを荒立てずに。
「はあ、今ならまだ怒らないでやる。オレのシマを荒らすな」
「あー、そのことなんじゃけど」
夢姫は、わざとやっているのか、ドラ息子のように下品にふんぞり返った。
ぺったんこな胸元に手を差し込むと、何かを掴み、外に引っ張り出した。
それは当初、よくあるネックレスのように見えた。
しかし、ブラウスの隙間からその全容が見えた時、神野は息を飲んだ。
ネックレスの先端に、神野が今まで見たことのない、大人の拳ほどはあろうかという、大粒のダイヤがついていたのだ。
「泥夢さんの時代はぁ……もう、終わったと思うんよね」
唐突に繰り出された侮辱の言葉と、唐突に取り出された巨大宝石に、神野の全身が硬直した。
ザワ……と、胸の奥で木がしなった。
神野右蛻という男が十数年、手塩にかけて育てあげた、自尊心と言う名の巨木が。
「……あ?」
こめかみに自然とシワが刻まれ、目の奥がカッと熱くなった。視覚を伝える神経が、導火線のように燃えていき、脳みそを沸騰させた。
周囲の音が何一つ聞こえなかった。
鼓膜が焼き切れたに違いないと、神野は思った。
「ジェネレーションギャップってやつよ」
それなのに、夢姫の声はものすごい透明度で頭に突き刺さってきた。
夢姫の声だけが、周囲の世界とは全く異質の、未知の周波数で飛んでくるのだ。
神野の胸奥深いところに突き刺さって、ぐつぐつと煮えたぎっているマグマを、かき混ぜてさらに湧き立てるのだ。
おかげで神野は、ヘラヘラと笑っているその口元を殴りつけてやりたいという衝動と、激しく戦う羽目になった。
「世代交代だお前が言いたいのは。黙ってろ、バカがバレるぞ」
「あぁ、可哀そうなのは泥夢さんよ。そのバカに負けるんじゃけん」
夢姫はブランコから飛び降りるように、びょこんとベンチから立ち上がり、お尻をパッパと払った。彼女の首元で、ダイヤがブランコのように揺れていた。
神野は、根が張っていた尻をべきっ!と引きはがし、もうすぐで飛んでいってしまいそうになるほど勢いよく立ち上がった。
挑発だとわかっていても、無視できないだけの歴史が神野にはあった。
「てんめえ……久しぶりに顔みせたと思ったらケンカ売ってんのか!いくらお前が天才でも勝てねえぞ!」
神野は左手で自分の右手首を掴み、獲物に飛びかかる直前のトラのように前かがみになった。
それを見て、夢姫はにぃ、と笑った。
欲しくてほしくて何度も駄々をこねたおもちゃを、念願かなって手に入れた時の子供のように。
それが何に対しての満足だったのか、その時の神野にわかっていれば。
いや、それは責任のなすりつけか。
俺の後悔は、反省すらしない他の大人たちとは違うという、言い訳から生まれたまがい物だ。
夢姫が知ったらば、歯が全部折れるまで殴られるだろう。
「だぁい丈夫、あたしは夢の申し子じゃけん!言い訳してえーよっ!」
朗らかに言い放つと、夢姫は小さくジャンプし、まるで親友とハイタッチでもするかのように、地面に右手を叩きつけた。
その瞬間、地面が消え去った。
「ぅおっ……!」
神野は、突然現れた真っ暗な穴に、病院や草木、ベンチと一緒に落ちて行った。
リハビリの老人や看護師、大学生もみな落ちてきたが、彼らは、一人残らず異形の人々に変貌した。
「くそっ……!」
神野は上を見上げた。
真っ黒な穴の向こうに、真っ青な空だけが、ぽつんと点のように残されていた。
両手両足を振り回して、重力的に正しい方向へと体勢を整えた。
夢姫が、何もない空間に腰掛けるような体勢のまま、同じ速度で落下していた。
「うちが泥夢さんから盗めたら、うちの勝ち!泥夢さんがうちから盗めたら、泥夢さんの勝ちよ!」
投げキッスをとウインクを同時に飛ばしてきたので、舌打ちではじき返した。
「笑っていられるのも今のうちだ!」
眼下に、無数の赤い光が見えてきた。
ぼんぼりの灯りだ。平衡な二本の線となって、果てしなく伸びている。少々ぼやけているのは、アーケードのアクリルに遮られているせいだ。
神野は右手に意識を集中させた。
血管を伝って体中から、神野だけに操れる光が集まった。
指先をかぎ爪のように尖らせ、空中で体を捻った。
神野にしてみれば、朝飯前の芸当だ。
右手をアーケードの天井に叩きつけ、アクリルを一つ残らず叩き割った。
あまりの威力に、アーケードのど真ん中に着地した時、右手が地面に突き刺さった。アーケードは異形の人々でごった返していたが、神野の着地の衝撃で、周囲の店もろとも放射状に吹き飛んだ。
「すでに夢の中たぁ、ほめてやる!しかも、オレの夢とはな!」
見上げると、アクリルの雨あられと共に、夢姫が満面の笑みで落下を続けていた。
神野が右手を引き抜いている間に、夢姫は虚空に腰掛けるのを辞め、両手を背中の後ろで組み、左足を右足に巻き付けた。つま先をピンと伸ばした状態で、最高速度で地面に向かって落ちて行った。
地面に激突する直前、夢姫の体が不自然に静止した。まるで、密閉された筒を進む鉄球が、電磁石の蓋に反発した時のようだった。
彼女の体積に押しだされた空気が、突風となって神野を襲った。
神野は右手で風をいなし、神野以外のその場にいた異形の人々が、将棋倒しのように倒れ伏した。
「褒めとれるのも、今のうちよ!」
夢姫は嬉しそうに頬を弾ませると、見えない何かを抱きしめるように両手を広げた。
神野は身構えた。
「いひっ!」
夢姫の右手と左手が、目に見えないほどの速さで動いた。パァン!と拍手の音が聞こえた直後、神野の左右に建っていたビルが、地盤や支柱を無視して、直立したまま真横に滑ってきた。ビルはアーケードの骨組みと屋根をへし折って、押しつぶして、最先端のリニアモーターカーのようなスピードで神野を襲った。
鉄筋とコンクリートの塊に左右から挟まれ、神野は、小骨の一本に至るまで粉々に叩き潰された。
夢追人曰く、果てが見えないほど長いアーケードがこの時、神野と夢姫がいたところだけぷつんと途切れていたそうだ。
まるで、宇宙ステーションでも墜落したみたいに。
煙を上げる大きなクレーターを残して。
「ほんじゃあね!」
ビルとアーケードと屋台の瓦礫に手を振って、夢姫ははつらつと言い放った。ほんの少しだけ膝を曲げると、片足で十メートルも飛び上がった。背中向きに倒れ、スケールのデカすぎるバク転で、異形の人ゴミの向こうへ逃げていった。
夢姫の姿が見えなくなる前に、神野は手を打った。
骨をつなぎなおし、漆喰のように肉を塗りたくり、障子のように皮を張って、今一度この世に顕現した。
巨人の子供が作った小石の山のように積み重なっているビルの残骸を、右手の一振り、たったそれだけで紙細工のように軽々と飛ばした。
バク転中の夢姫が、嬉しそうに目を輝かせていた。
「逃がすか!」
神野は素早く右手を動かし、銀色のロープを形作った。
銀のロープは、神野が掴むとすぐさま麻の色に変わった。
カウボーイというより、ダーツの投擲の要領でロープを投げた。
ロープの先端は、矢のように真っ直ぐ飛んでいき、夢姫の足首に自動で巻き付いた。
「え!?ぅあっ!」
間髪入れずにロープを引くと、綱引きの相手が急に現れたような衝撃が生まれ、神野は確信をもって引き続けた。
人ごみの向こうから、異形の人々がバタバタと倒れ始めた。全員、足元をすくわれ、ひっくり返っていた。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃ!タンマ!タンマぁ!パンツ!パンツ見えるって!」
異形の人々の足下から現れたのは、涙目になってスカートを押さえつける夢姫だ。神野のロープに足を引っ張られ、ケツで地面を削りながらやってくる。
「はっはぁ!いいだろう!そのままお尻ぺんぺんしてやるわ小娘ぇ!」
神野は嬉々として叫び、ボーリングのピンのように異形の人々の蹴散らしながら、渾身の力でロープを引き続けた。
「うぅ……!この変態!」
夢姫は黙ってやられるような女ではなかった。
そりゃそうだ。なにせ神の右手を持つ男が鍛えたのだから。
左手はしっかりとスカートを押さえたまま、しかし、右手で銀色のナイフを作り出し、素晴らしい腹筋で上半身を振り上げ、足首のロープを叩き切った。
「どわっ!」
ロープにかかっていた重力が突然こと切れ、神野は勢い余って後ろ向きに倒れた。
地面を転がった後、顔を上げた神野が見たのは、オーケストラの指揮者のように両手動かす夢姫だった。
空中に走る銀色の線は、巨大な重火器を模っていた。
「おっ前……」
夢姫が完成させたのは、自分の体とほとんど同じ長さのバズーカ砲だ。声の届く距離だというのに、砲身の横に、狙いをつけるスコープまでついていた。殺意が高い。
「ふふーん!」
「周りのこととか、考えろよなぁ!」
現実世界では絶対に持てないはずの重量物を、夢姫は紙粘土で作ったハリボテのように軽々と振り回した。スコープ越しに狙いを定め、微塵のためらいもなく引き金を引いた。
音速で突っ込んでくる砲弾など、いくら夢の中でも視認することはできない。人間の神経回路の限界がそこにはあるからだ。
だが、自分の頭で処理できる速度ならいくらでも対処できる。
そして、その処理能力にこそ神野右蛻の真骨頂がある。
まず、体温を一気に上げた。体の奥で大量の石炭を焚くイメージだ。そうして出来上がった熱を全て、右手に集結させた。
「ふん!」
真っ赤に腫れあがった灼熱の右手を、神野は前に突き出した。
周囲の温度が一気に数百度跳ね上がり、砲弾の中の火薬を無理やり発火させた。
周囲一帯を焦土と化す爆発が起き、屋台は炎に包まれ、足元のレンガが円形に蒸発した。異形の人々はパーティの銀テープのように吹き飛んでいった。
「やりぃ!」
空気の炎上音の向こうから、勝ち誇る夢姫の声が聞こえた。
まだ甘い。神野は、発生した爆炎と衝撃波を、空いていた左手ですべて自分の右後方へそらしている。さすがに顔を火傷しそうになり、目を細めたものの、ダメージはゼロだ。そのまま自分を中心に風を巻き起こし、綿あめのように爆炎を全部絡め取った。
「やっば……」
夢姫がバズーカ砲をその場に取り落とし、回れ右をしたのが見えた。遠くの屋台の上に飛び乗って、屋根の上を脱兎のごとく駆けだした。やりたいだけやって、逃げようという算段なのだ。
神野は巻き取った炎を全て右手に封じ込めた。そして、全力ダッシュする夢姫の背中に向かって、一気に噴射した。
「ぅわ!ぎゃっ!」
夢姫は屋台の上から飛び出し、空中へ飛び出した。
夢姫を捉え損ねた火炎放射が、屋台を三件消し炭にし、アーケードの柱を焼き切った。
「うおああああああ!」
神野は左手で右腕を掴み、手の先からほとばしるエネルギーと格闘しながら、炎の向きを変えた。
「ぅええええええぎゃあぁ!っとぉ!」
腹立たしい娘だ!神野は心底頭に来た。
巨大な鞭のようにしなる火炎放射が、空中の夢姫を地面にたたきつけんとしたその瞬間、クソ生意気な小娘は、わざわざやられるような素振りを見せた後、背中から真っ白な翼を生やし、たった一度の羽ばたきでその場で一回転してみせたのだ。
炎を反射して、胸元のダイヤがギラリと光る。
おかげで火炎放射は空を切り、周囲の屋台に陳列されていた豚やら鳥やらを、食べごろになるまで焼いて終わった。香ばしい香りばかりが立ち上り、神野の苛立ちと合わさって、アーケードをもくもくと煙だらけにした。
「っつあぁ~?生物の模倣か?」
「泥夢さんが見せてくれたんじゃんか!」
夢姫は両手を猫のように丸め、がおぉーんと吠えると、神野に尻を向けて飛び去って行った。
あの天使の羽は、異常な推進力を持っているようだ。ほとんど羽ばたいていない癖に、往年の旅客機、コンコルド並みの速度で飛んでいく。
「ちっ!余計なことばっかり覚えやがって!」
神野は体を縮め、コートの中に全身をすっぽりと収めた。
鼻から出すのは火の粉、口から出すのは地を震わすほどの唸り、コートは深緑色の翼に変わり、手足の爪がナイフのように鋭くなった。
「ぐぉおおおおおお!」
神野は龍へ変貌した。
飛び上がると、アーケードの骨組みに翼が引っかかった。
強靭な筋肉で、骨組みを弾き飛ばした。
骨組みは、近くのビルに突き刺さった。
真っ黒だった空は、いつの間にか星のまたたく夜空へと変わっていた。
龍は、一度の羽ばたきでバス四台分の距離を進んだ。斜め上で、滑空するムササビのように飛ぶ夢姫に、あっという間に追いついた。
「でゅるぁああああ!」
龍は大玉のスイカほどある火の玉を吐き出した。神野によると、それはたんを吐き出すのと同じ要領だそうだ。
火の玉はエースストライカーの弾丸シュートのように飛んでいき、夜空を煌々と照らした。
「うわっ!」
火の玉の接近に気が付いた夢姫は、素早く羽を傾け、高度を上げた。自分の鼻先をかすめて行った火の玉を見上げ、そして、スカート越しにこちらを見下ろした。
「ちょっとぉ!危ないじゃろ!?」
「うぎゅうぅぅぅああ!」
神野は容赦なく火の玉を吐き続けた。
マーライオンと同じ勢いでたんを吐き続けているのかと思うと、俺は吐き気がするのだが、狙われている夢姫にそんなことを考える暇はなかっただろう。火の玉はクラスター爆弾ほどの圧倒的物量で、夜空を埋め尽くしつつあったのだから。
「ひぃ!」「うひゃぁ!」「あひゃぁ!」
次々と飛んでくる火の玉を、夢姫はすんでのところでかわし続けた。地面に激突することを免れようとしている鳥のように翼を動かし、壊れた操り人形のように手足を動かし、時に宙返りを、時に急降下を、急上昇、きりもみ回転まで駆使して、サーカスなら花形間違いなしの動きを繰り返した。
夢姫が火の玉にてこずっているのを見て、龍は羽ばたきを加速させた。火の玉を四つ連続で放ち、対処する暇を与えず、一気に距離を詰めた。かぎ爪が届く距離まで近づくと、大きな尾を振り上げ、夢姫の背中を思いっきり叩いた。
「ぎゃあっ!」
枕がはじけた時のように、白い羽が辺りに舞った。
夢姫はでたらめな方向へ回転しながら、真っ逆さまに落ちていった。
龍はその場で二度、三度羽ばたき、小さくなっていく夢姫を見つめた。
背骨を砕いた感触があった。
あれではもう、再起不能だろう。
せめて、地面に墜ちて粉々になる前に回収してやろうと、龍は翼を折り畳み、降下を始めた。
夢姫はくの字に折れ曲がった状態で、両手と両足を海流に揺れるイソギンチャクのようにぷらぷらさせていた。あと数刻もすれば、地面に激突するであろう高度まで落ちていた。
龍は夢姫と同じ高度まで降下すると、翼を広げ、速度を合わせた。
かぎ爪のついた手を伸ばし、その小さな体を、優しく握りしめるつもりだった。
「いっひ!」
全くこの娘は、何度大人を騙せば気が済むのか。
夢姫はカッ、と目を見開くと、待ってましたと言わんばかりに笑った。
完全に油断していた龍は、かぎ爪のついた手を伸ばしたまま、動くことができなかった。
夢姫は人差し指と中指をこすり合わせ、パチンと音を立てた。するとどうだ、夜空に突如、小麦粉の袋を潰したような爆発が起きた。龍の頭の上で、尾っぽの先で、翼の向こうで、五十も百も起きた。真っ白な粉塵に囲まれ、視界を奪われた。
それらは龍を攻撃するためのものではなかった。
龍は驚愕した。
白い粉が風で吹き飛んだ時、そこにいたのは夢姫だった。
あっちにも、こっちにも、すぐそこにも!爆発の起きたところ全部に、可愛いかわいい夢姫が、得意げに腕を組んで笑っているのだ!
「いぃ~っひっひっ!」
声を上げたのは一人だけだった。
だが、数が多すぎる。百人を超える夢姫に囲まれ、どれが声の主かてんで見当がつかない。
龍はその場でろくろのように回転し、本物を見つけようとした。
どれを見ても夢姫だ。精巧なろう人形や、最新のCGでも追いつけない再現度だ。服についた傷や、首からかけたダイヤまで、そっくりそのままつくられている。まったくもって見分けがつかない。
夢姫たちは、揃って全員、右手を横に突き出した。
手の平に割いた玉ねぎのような銀色の線が渦巻き、龍が龍になる前に取り出した、ロープのような形に変わっていった。
恐るべしだ新田夢姫。
たった一人で、これだけの規模の幻術を、神野右蛻にさえ見破れぬ精度で実行してみせるとは。
「お、と、な、げ、な、い、よ!泥夢っ!さん!」
夢姫たちはロープを完成させると、次々と龍めがけて投げつけた。
龍の誤算は、ロープがただの幻ではなかったということだ。
声の出所からして、本体にのみ、意志と実体が宿っていると思い込んでいたのだ。
しかし、夢姫たちが放ったロープは、龍の腕に、足に、翼の付け根に、間違いなく巻き付いた。
小人に捕らえられたガリバーのように、龍は全身をロープでがんじがらめにされた。
「ぐうぅぅ……」
長く伸びた口もロープでぐるぐる巻きにされ、炎を吐き出すことができない。
最終手段だ。仕方ない。
神野右蛻の得意とするところは、お察しの通り幻獣の模倣だ。
夢姫に見せた龍、ヒッポカンポスをはじめとして、グリフォンやフェンリル、果てはヤマタノオロチにまでなれるそうだ。
ここで見せたのはその中でも最も有名で、かつ、最も強きもの。そして――
最も、美しい生き物だとされている。
龍の全身が炎に包まれ、ロープが炎上した。
夢姫たちは焼き切れたロープを引っ張り、唖然としていた。
龍の背中に生えていた翼がしぼみ、代わりに、両腕が翼に変わった。
長かった口がより長く、そして細くなり、鋼鉄より硬い素材に置き換わっていった。
両足は細く絞られてゆき、翠の鱗がはげ落ち、代わりに、火にくべた石炭のように真っ赤な鱗が現れた。
全身を覆う炎は消えず、絶えず夜空を焦がし続ける。
炎の下には燃えるような赤い羽根がびっしりと生え、それ自体が、炎の化身であることを強烈に主張している。
不死鳥だ。
「ピジョォォォォォオオ!」
不死鳥は甲高く鬨の声を上げると、全身の炎を二倍に膨張させた。
それは闇夜にこつ然と現れた巨大な火球となり、太陽と見紛うほどの熱量で空を焦がした。
夢姫たちは両腕で顔を覆い、爆風に飛ばされまいと、空中で足を踏ん張っていた。
「ヒョオォォォオ!」
不死鳥はクジャクのように長い尾羽をふるい、空中で身を翻した。
向かって右側の夢姫たちに向かって、炎の塊となって突き進み、体当たりをかました。
そこにいた二十数人は全て分身だった。翼の炎に触れた瞬間、空中に溶けていくアイスのように消えた。
残りの夢姫たちが一斉に動いた。
降りかかる火の粉をぱっぱと払い、その手に銃を、ナイフを、スターウォーズでしか見たことのないようなレーザーガンを持った。
夢姫たちは手に持った武器を一斉に放った。両手で手投げ斧を次々に放ってくる個体や、あろうことか、首のダイヤを引きちぎって投げる個体もいた。
散弾銃の弾丸が不死鳥の羽に無数の穴を空け、アイスピックが目玉に突き立った。血の代わりに、全身から炎を吹き出した。
しかし、不死鳥の羽ばたきは微塵も揺るがなかった。
穴の開いた翼には新たな羽が生え、目玉は瞬きのうちに再生した。吹き出た炎が不死鳥を洗い、たった今この世に生まれたばかりかと勘違いするほど、美しい姿によみがえらせたのだ。
これには、さすがの夢姫も驚きを隠せなかった。
「いぃっ!?えっぐっ!」
不死鳥はギラリと目を光らせた。
分身達の一番隅っこで、一人だけひょっとこのように顔を捻っているやつがいる。
見つけた。本体だ。
夢姫も気付かれたことに気付いた。分身たちを置いてけぼりにして、一人だけ不死鳥と反対方向に走り出した。夢の世界では神々とされるほどの二人だ。もはや空中を駆けていることなど歯牙にもかけない。
残された分身たち、ざっと見て六、七十体は、主をかばうように、不死鳥に向かって突撃してきた。
「キュオォォォォ!」
不死鳥はくちばしから火柱を放った。
夢姫の分身を全て成仏する幽霊のように空に溶かし、自身はミサイルのように加速した。
「くっ……!」
夢姫は素晴らしく早かったが、不死鳥はたった一度の羽ばたきでその二倍の距離を飛んだ。夢姫の前に回り込むと、その鼻っ柱をへし折るように、畳二枚よりなお大きい翼で思いっきり叩いた。
夢姫は炎に包まれ、文字通り隕石のように落ちて行った。
眼下に広がっていたのは工場だ。下手クソなあやとりのように絡み合った極太のパイプや、終わりの見えない外階段が、地平線の向こうまで続いている巨大工場だ。夢姫はパイプの隙間に造られた足場の一つに、銅鑼を砕いたような音を立てて墜落した。
神野は人間の姿に戻り、満月を背にコートをなびかせながら舞い降りた。
パイプの隙間にある足場に、音もなく着地した。
鉄板で作られた足場は異次元の頑丈さを見せていた。夢姫という巨大な質量が、自由落下の速度を超えて激突したにも関わらず、傷一つ付かなかった。
当の夢姫は、足場の一番奥で、パイプに背を預けてへたり込んでいた。神野が戻ってきたことに気付き、薄っすらと目を開いた。
闇の中から、煙が噴き出すような音が近づいてきた。
巨大な蛇、バジリスクだ。
二股に割れた舌を出したりしまったりしながら、パイプの端から顔を覗かせていた。夢姫の方に、じりじりと近づいて行った。
初めて夢に連れ込んだあの日、夢姫はバジリスクを見てほとんど漏らしかかっていた。
泣きながら自分の足に巻き付いて、助けてくれと懇願したのを、神野は昨日のことのように憶えている。
夢姫はまだ虚ろな目で、バジリスクを一目見た。
顔の大きさが自分の身長と同じくらいある、巨大な蛇を認めても、もう驚きも泣きもしなかった。
バジリスクが鎌首をもたげ、巨大な影が自分の顔に落ちた時、夢姫がそっと右手を上げた。
巨大な顎が、まるで車のボンネットのように開かれた。
夢姫は全てを受け入れるような表情でそれを見ていた。
蛇の王は、あっという間もなく食らいついた。
無数のサーベルのような牙が、夢姫の体を穴だらけにするはずだった。
神野にはわかっていた。
恐ろしく優しい力の入れ方と、一級の芸術作品のように繊細な技術だった。
バジリスクの頭がひとりでに崩れ、無数の青々とした草葉に変わった。夢姫が、風に舞う葉の中から無傷で現れた。
首より後ろの胴体は、くるくるとらせん状に回り、巨大な新体操のリボンに変わった。そのままくるくる回りながら、パイプの中に落ちて行った。
「見事だ」
一部始終を見た後、神野はそっと夢姫に近づいた。
彼なりの最大の賛辞だった。
夢姫はぐったりとパイプに背を預けたまま、戦利品の草を握りしめていた。
神野は腰を屈め、彼女が首にかけている、ダイヤのネックレスに手をかけた。
熟練のリンゴ農家のように、ぶちっと、ダイヤだけを切り離した。
自身の拳にすら収まらない戦利品を、夢姫に見えるよう、月明かりの下で掲げた。
「だがオレには勝てない。積み上げてきた物が違う」
「ふっ…………」
夢姫は思い出したように笑うと、両手で草を弄び、飽きたらその辺に転がした。
「なんで男って、強いか弱いかでしか自分を語れんのんかね」
こちらを見上げる夢姫の顔は、奇妙な達成感に支配されていた。
わけがわからなくて、神野は顔をしかめた。
「強かったら喜ぶん?それって誰が?うちは……強さよりももっと、欲しいものがある……」
つぶやくようにそう言うと、夢姫は神野から顔を背け、遠く空を見た。
神野もつられて振り返った。
そこにあるのはただの夜空だ。三日月と、瞬く星と、時おり横切るちぎった綿のような雲だけだ。
「だってうちらは……泥夢じゃんか」
その言葉を聞いた途端、時計の電池を入れたように、神野の中で何かが動き始めた。吐き気をもよおすほど気持ちの悪い何かが。
何かを見落としている?夢姫の目的はなんだ?今まで順調に、いや、順調すぎるくらい稼いできたはずなのに、なぜオレの夢なんかに?敗北し、全てを奪われる危険を冒してまで?そうかと思えば、逃亡と攻撃、攪乱の繰り返し――まるで、時間稼ぎのように――
――まさか。
「まさか!」
神野はダイヤを破壊せんばかりに握りしめた。
夢姫が、とびきり可愛い笑顔で息絶えていた。
違う!夢の中で死ねば、それは現実世界での目覚めだ!
最初から分身だったのか!
「夢姫ええぇええぇえぇぇえええ!!」
神野の叫びが、怒りが、世界をひっくり返した。
いつの間にか、足元は360度水平線が広がる無限の湖となり、神野は、盆のように薄い水面に向かって吠えていた。
ぐわんぐわんと、何度も天地が入れ替わるうち、水面の向こうに別の世界が見えてきた。
遠くの星だけが瞬く漆黒の闇を、何百という客車を引いた機関車が、汽笛を鳴らしながら走っている。神野が隠してきた深淵の世界がそこにはある。
神野は水面にダイブした。
神野は宇宙に飛び出した。
シュッポ、シュッポと走っていく機関車の背に、金髪の女の子が乗っている。
女の子は神野の登場に気付くと、こちらに振り返って、元気よく、ちぎれそうになるほど手を振った。振っていた。
機関車は宇宙の中心に近づいていった。
そこだけは、光で溢れかえっていた。
絶えず成長を続ける、城のように巨大な木と、木の枝の先端からしたたり落ちるしずくを享受して生きる土人形たちがいた。
女の子は走行中の機関車から、光の中に颯爽と飛び降りた。
メリメリと音を立てて未だ成長を続ける木のふもとに近づいた。
「待て!」
神野は必死で追いすがった。
ケンタウロスのようになり、ワイバーンのようになり、ペガサスのようになって、無我夢中で追いかけた。
しかし、宇宙の膨張スピードは光より速い。
神野は光のもとへたどり着けない。
夢姫は大きな木の根っこの上を歩いていた。
あまりに巨大だったから、根が地面をつきぬけてこんもりと盛り上がっていたのだ。
トトロが住んでいる木より、さらに何倍も大きいと思った。見上げても、途中で枝分かれしているところが太すぎて、その上が見えないのだ。
根っこのこぶに足を引っかけ、手をめいっぱい伸ばし、木の幹に触れた。
この木がとても暖かく、また、奥深くから心臓の鼓動のようなものが伝わってくるのがわかった。
「あ……あはは……」
夢姫はぎこちない笑みをこぼし、木の幹をさらさらと撫でた。
できることなら、永遠にここにいたい。
その思いが、こんこんとわき出る泉のように溢れ出てきて、泣いてしまいそうだった。
何度か瞬きして、上を見上げて、それから歩き出した。
木の幹をぐるりと右回りに。少し行くと、幹の表面に大きな亀裂が入っているのを見つけた。
この木自身が、成長スピードについていけなかったのだろうか、地面から、十メートルほどの高さまで縦に裂けている。
夢姫は鼻の穴を膨らませ、すんすんと匂いを嗅いだ。
この奥に、自分の求めているものがあると確信を得た。
波打っている根っこに気をつけながら、裂け目に手をかけた。
覗くと、その奥は真っ暗になっていた。
追手の様子を伺うために振り向くと、泥夢さんが、生い茂る木の枝葉の向こうにかすかに見えた。
なんだか必死だった。
翼が四枚も六枚も生えて、龍や鷲や獅子なんかの頭がいくつもついていて、夢姫が見たこともない生き物になって、猛烈な勢いで宇宙を突き進んでいた。
「……バレたか」
やっぱり泥夢さんには敵わないな、なんてことを考えながら、夢姫は裂け目の中に身を投じた。
外からのぞいた時は真っ暗だったのに、裂け目の中は真っ白な光の空間だった。
どこから光が降り注いでいるのかもわからない。上を見ても下を見ても、眩しいくらいに真っ白だ。だから、どこに壁があるのかもわからない。なんなら、夢姫が入ってきた入り口まで、白い光に覆われてしまってもはやわからない。
真っ白な空間は、木の幹の大きさを無視して、永遠に広がっているように感じた。足を踏み出してみると、固い、大理石のような感触が返ってきた。
スキップ気味に少し行くと、空間の真ん中あたりに、三つの光の玉が浮いていた。
大きなおおきな、気球のような黄白色の玉が、王様のようにどっしりと中央にあり、かすかに回転している。
二つ目の玉は青白く、夢姫の顔ほどの大きさだった。黄白色の玉にそっと寄り添うように、言うなれば、まるで地球を見守るお月様のように、一定の速度で周囲を回転している。
三つ目が――これが一番小さかった。夢姫の手で掴めてしまいそうな緑色の玉だ。小さいが、活発に動いていて、軌道修正に失敗した人工衛星のように、黄色い大玉の周りをでたらめに走り回っている。
叶愛ちゃん家で見たハリー・ポッターと秘密の部屋で、ハリーがこんな小さな球を捕まえようと、箒でぴゅんぴゅん飛び回っていたのを思い出した。
「はは……」
やっぱり、直接目にするとくるものがあった。
夢姫は、愛想笑いにも満たない笑みをこぼすことで、なんとか我慢した。
でも、ここには三つあった。
そうだ。二つではなく、三つだ。
ここに置いてくれるのは、世界中でこの人だけだ。
「バカじゃねえ……泥夢さん……」
名残惜しいが時間だ。夢姫は右手をゆっくりと、本当にゆっくりと上げた。
めちゃくちゃな軌道と速度で回っていた緑の光は、磁石に吸い寄せられるクリップのように、すぉんと右手に収まった。
夢姫は力強く光を握りしめた。
緑の光が瞬き、切れかけの蛍光灯のように、点滅しながら少しずつ光度を落としていった。
夢姫の右手に残ったのは、宇宙を詰め込んだようなガラス玉だった。金でできた十字の線が表面に走っており、中には漆黒の液体と、キラキラと光るラメのようなものが無数に散りばめられていた。
ウォーッ!と叫んで、合体生物は最後の猛突進を見せた。
獅子の頭が火を噴き、鷲の頭は木の枝を食い散らかし、龍の頭は、木の幹にできた裂け目に顎を差し込み、バキバキと外に向かって引きはがした。見た目もそれぞれの役割も全部ごちゃ混ぜにしながら、鬱蒼と生い茂る枝葉に引っかかる八対の翼を全て根元からちぎり飛ばし、ぐちゃぐちゃになって根幹の世界へとなだれ込んだ。
真っ白な空間の中に、金髪の女の子がいた。
ごった煮のような着ぐるみを脱ぎ捨てて現れた神野を見て、女の子は肩をすくめて驚いた。両手で何かを大事そうに握りしめていた。
神野は真っ白な床をざざあ、と滑って、女の子の足下にたどり着いたところで止まった。
「わぉ、さすがじゃね」
女の子は破壊された空間を見て感嘆のため息を漏らした。
真っ白だった壁には、黒い稲妻のような裂け目が入っていた。
「はあ……んぐ……やめろ……やめろ!」
神野は息も絶え絶えに叫んだ。
ここまで死に物狂いで追いかけてきた。体中のエネルギーが、空っぽになるまで使い切ってたどりついた。さすがの神の右手も、寄る年波には勝てなかったのだ。
金髪の女の子はふるふると首を振った。
両手を花のようにひらいて、宇宙の入ったガラス玉をあらわにすると、それを右手の指先でつまむように持ち上げた。安心しろと市民に言い聞かせるスーパーヒーローのように胸を張った。
「大丈夫!これはもともと、うちのじゃけん!」
神野は最後の力を振り絞った。
カエルのように無様でもいい。
情けなくてもいい。
あれだけは、盗られてはならなかった。
神野右蛻を形作る、最も大切な記憶の一つ――
「返せぇぇ!それは!オレの――――――――」
神野の右手が、あと一歩で女の子に触れようかという時。
女の子は、悲しそうに笑った。
「ありがとう、泥夢さん」




