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第一章 雨のあとで

子どもたちのことで、何かを直してやろうとする時にはいつでも、それはむしろ我々のほうで改めるべきことではないかと、まず注意深く考えてみるべきである。

カール・グスタフ・ユング







 私は雨の匂いが好き。

 空気が湿って、温度が下がって、鼻の奥にじわりとにじんで。

 やる気がなくなるような、でも、落ち着くような、そんな匂いが好き。




 そういえば、雨の音も好き。

 小雨の時のパラパラという音も、土砂降りの時のザアザアという音も。

 雨粒がベランダに跳ねっ返る音も、跳ねっ返った雨粒が、ガラス窓に当たる音も。

 決まったリズムも旋律もない音が、しとしと積もって、心の中のさざ波を沈めてくれるから。




 …………ゴメンうそ、ホンマゴメン。

 私が雨、好きなのはねぇ……。

 あの人を思い出すから。

 あの人に、初めて出会ったあの日のことを。

「――で?それも嘘なのか?」

 俺はつまらん独白に嫌気がさし、万年筆の先端で二号用紙を引き裂いた。

 二枚目の二号用紙に長い一本の線がさし、漏れ出したインクが束になった三枚目以降に染みた。

「んなわけないっしょ」

 犬澄(いぬすみ)矢那目(やなめ)はペロリと舌を出し、この世の全てをバカにして笑った。







泥夢(どろぼう)の掟







 流川――中国地方最大の繫華街であり、色と欲と酒の街。

 一区画ごとにしつらえてある案内所、ビルの横に張り出し、我先にと自己主張するネオンの看板、それらの中に、ひっそりと隠れるようにたたずんでいる格式高い割烹……日々の業務と必要のないご機嫌取りに疲れた社会人たちが、喉を潤し、腹を満たし、性と苛立ちをはきだすため、光にいざなわれる蛾やバッタの如くそれらに吸い込まれていく。

 艶やかな女性が出勤のために歩き出し、派手な男たちが客を引くために路上に溢れかえれば、唯一ある公園には酔いつぶれた飲んだくれとホームレスが寝そべり、その横では至極どうでもいい理由で見栄を張る男どもの、子供じみた決闘が始まる。

 というのは全て、概ね夕方六時から翌朝四時までの話だ。ひとたび太陽が登れば、よどんだ空気は浄化され、アルコールの水たまりは干上がり、社会人たちは会社(いえ)に帰って行く。嬌声や怒号は鳴りを潜め、光は落ち、街全体が、水を打ったように静まりかえる。

 ところが、その日は真っ昼間から鍋の底をひっくり返したようなどんちゃん騒ぎになった。

 白黒(パンダ)に覆面、白バイ、カブに自転車まで総動員して、広島県中の警察官(おまわり)がやってきた。

 けたたましいサイレンを鳴らして、格子状に組まれた道路に入り込み、普段ならタクシーに客待ち駐車をするなと言うくせに、今度は自分たちが、大蛇のような路上駐車の大行列を作り上げた。

 大空からヘリがその大きな影を落とし、大通りに面した交差点は一つ残らず封鎖された。

アリの子一匹入れぬ包囲網だ。

「くそっ!なんだってこんな時間(とき)に!」

 非番の巡査、木下は悪態をつきながらキザシの運転席にドアを叩きつけた。

 昨晩見つけた盗難自転車を、ようやく持ち主に返したばかりだったのに。

「中央署建て替えんけえよ。造りが古いけえね」

 木下の上司、柴咲警部補がタバコをくゆらせながらゆったり降りた。後部座席のドアにもたれかかると、携帯灰皿を探してポケットをまさぐりはじめた。

「班長、先行きますよ」

「んん~」

 助手席から飛び降りた巡査部長に、柴咲警部補はあいまいな頷きで答えた。

「キノ!ついてこい!」

「あっ……えっ、あっ、はい!」

 木下は柴咲警部補の方を二度見してから走り出した。

 目の前の雑居ビルに入った巡査部長は、もうエレベーターのボタンを押していた。

「いい加減にして欲しいよなぁ」

「えっ」

「いや、柴咲のおっさんじゃなくて」

 巡査部長は手の甲で鼻の先をかいていた。

「五十過ぎたらみんなああなる(・・・・)。公務員はクビにならんけえ」

「はあ……」

 木下はどぎまぎしながら返事をした。ビルの入り口に掲げられた、アタック25のようにカラフルな看板に視線を奪われていた。




「本庁からの出向じゃろ?ほら、あの、戸田とかいうひょろがり」

「……はい。警務課長がなんか、もう十年くらい居座ってるって」

 エレベーターは息がつまるほど狭苦しかった。四人も入ればぎゅうぎゅう詰めだ。きっと巡査部長は、そのことに嫌気がさしてため息をついたのだ。

「あいつ、ほとんど署におらんか、おってもなんもせずに寝とるらしい。それも一日中」

「それがこれ(・・)ですか、ヤバいっすね」

「おーヤベエよ」

 何か大事な部品を削ってしまったのでは、と不安になってしまうくらい大きな金属音を立て、エレベーターが止まった。そして、あくびが出るくらい遅い速度で扉が開いて行った。

「平尾も李国林も刑務所だろ、一般人からしたら一緒なんじゃろうが、ありゃ法務省の管轄じゃ。警察じゃなかった(・・・・)。死ぬ気でやるぞ。お前も刑事入りたいなら、眠たくても頑張れ」

「はい!うす!」

 巡査部長は難しい顔をして、難しいことをむにゃむにゃ言っていた。非番のぼうっとした脳みそでは全てを片付けきれず、木下は若手の特権、元気のよさでごまかした。

 エレベーターを降りると、そこは窮屈なエントランスだった。四方の壁がこちらに迫ってきていると錯覚するほど狭く、また、窓がないため、墨汁の中に浸っているように真っ暗だった。非常口のマークだけが、チカチカと不気味に光っていた。

「な……なんでここなんすか……」

 誰かに聞かれているわけでもないのに、木下は自然と小声になった。あえて言うなら、出そうな雰囲気だったのだ。

「バカ野郎お前そんな……勘に決まってんだろ!勘だよ勘!」

 巡査部長がイライラしているのが、声だけでもなんとなくわかった。

 木下はすんません、と小声で呟き、スマホのライトをつけた。周囲を照らしてみると、表面の剥げた木の扉が二つ見えた。非常口マークの下にも扉があったが、こちらは錆びだらけの金属製だった。

「よし、俺がこっち行くわ、お前奥な」

「はい!」

 命ぜられるまま歩いて行き、奥の方の木の扉に正対した。筆記体の英語で何かが書いてあった。読めはしなかったが、女性を侍らせて酒を飲むところなのだと直感した。

「あっ、えっとー」

 いざ扉を前にすると、木下は、自分がこれから何をすればよいのか、てんで理解していないことに気が付いた。

「あの、俺どうすれば……」

「あぁ?扉の叩き方も知らねえのか?チャイムが無い時は叩くんだよ!こう!」

 巡査部長は当然のように怒鳴ると、ものすごい剣幕で木製の扉を殴り始めた。最初はダムダムいっていたが、それが途中からミシミシに変わっていった。

「でも、昼は閉まってるんじゃ……」

「準備かなんかで人がいるかもしれねえだろ!叩いてから言え!」

 だいたい、せっかちなのが警察官の性だと言われている。その中でも刑事は特に気が短い。予想はしていたが、改めて巡査部長の怒号を耳にすると尻の穴がきゅぅっと縮まった。

 木下は半べそをかきながら目の前の扉を叩いた。もちろん、力強くではなく、卵の殻を割るより数段優しく、丁寧に。

「あ、あのぉー」

 呼びかけてみたが、扉は無言だった。

「すみませーん……」

 何度か扉を叩き、呼びかけるを繰り返した。

 やはり扉は無言で、堂々とした佇まいから頑として動かなかった。

「うぅーん……」

 ダメもとで真鍮製のドアノブに手をかけてみた。ひんやりとしたレバー式のそれは、手の重みに素直に反応した。何にも遮られることなく傾いたのだ。木下は思わず助けを求めて巡査部長を見た。

 巡査部長はこっちを見て、ドアノブを見て、もう一度こっちを見た。しめしめと言いたげに口角を上げると、顎をくいっ、くいっ、と上げた。

 巡査部長の口が行け、行け、という形を作っているのがわかって、木下は色々諦めた。ドアノブを握りしめ、音をたてないよう、ゆっくりとひねった。

 空いた方の手を扉にあて、国宝を運ぶときと同じ繊細さで押した。古い蝶番のキリキリという音に神経をすり減らしながら、なんとか人一人が通れるだけの隙間を確保し、軟体動物のように体をくねらせて侵入した。

 扉を閉めたとたん、部屋に明かりが点った。ピンクの淡い光が、足下の絨毯や壁際のボトルを露にした。

「あら、おにーさん、いらっしゃぁい」

 ゾクゾクする猫なで声が背中を這って昇ってきた。

 全身の筋肉がコンクリート詰めにされたように硬直し、言うことを聞かなくなった。

 ふわりと甘い香水の匂いが漂ってきて、木下はそのまま匂いに抱きしめられた。

「なぁにぃ?お昼からお酒ぇ?まー、あたしはいいけど」

 腰の少し上のあたりに、極上の柔らかい感触が当たっている。全神経が集中してしまう。実家で飼っている猫ですら、こんなに柔らかく、暖かくはないだろう。

「あら、おにーさん……」

 右耳に吐息がかかり、思わず変な声が出かかった。木下は頭を振り回して耐えた。

「お疲れぇ?」

 その女は、木下の体に巻き付くようにして、しゃなりと現れた。

 女の右手が頬に添えられていることに、木下は後になって気付いた。

 ぼけっと、女の顔に見とれていたのだ。

 女は小さな丸顔で、ブラウンとゴールドの混じった髪を肩まで伸ばしていた。こちらをさも興味ありげな視線で見つめてくるのだが、ぱっちりとした二重まぶたをしばたたかせるたびに、淡いアイシャドウが視界の中で煌めいた。エメラルドの瞳とのコントラストが素晴らしく美しかった。おまけに、ラメの入ったルージュでぷっくりと彩られた唇は、今にも吸い付きたくなるような魅力を讃えていた。

「こっちでぇ――休も?」

 女が小首をかしげると、首元にネックレスがチカリと光った。金の鎖の先端に、宇宙を詰め込んだようなガラス玉がついていた。金でできた十字の線が表面に走っており、中には漆黒の液体と、キラキラと光るラメのようなものが無数に散りばめられていた。

 小さな宇宙に吸い寄せられるように、木下は首を縦に振った。

「は、はい……」




「どぅぞぉ」

 案内されたのはボックス席だった。

 安っぽい革張りのソファに腰掛けると、膝下の高さのテーブルと、頭がギリギリ出るくらいの仕切りがあった。

 仕切りの上に視線を出し、店内を見渡してみたが、自分と女以外は誰もいなかった。

「眠そうだねぇ」

 女がふふ、と笑ったので、木下は慌てて姿勢を正した。

 女はすぐ隣に座って、細長いグラスに、パチパチとはじける透明な液体を注いでいた。先に入っていた黄金色の液体と混じり、芳醇な香りが辺りに充満した。

「あぁ……はい……」

 マドラーを手に、二種の液体をかき混ぜる女を、木下は夢見心地で見つめていた。

 女は全身黒づくめの格好をしていた。黒いTシャツの上に黒いレザージャケットを羽織り、履いているのは黒いレザーパンツ。ベルト留めのブーツまで真っ黒だ。

 露出は少ないが、色気が半端ではなかった。

 マドラーを握る指先は氷のように透き通った色で塗られ、ネックレスは大きな胸の上で右に左に転がっている。レザーパンツはむっちりとした太ももでパンパンになっていて、動くたびに苦しそうに革が泣くのだ。木下は何度も生唾を飲み込んだ。

「はい、できたよぉ」

 女は細長いグラスをこちらに差し出した。腕が伸び切った時、ジャケットに隠れていた腕時計が顔を覗かせた。

 なぜだか、これだけはレザーで統一しなかったらしい。シルバーのメタルバンドで、細長い文字盤をしていた。中にはファンキーな色で大小12の数字が描かれており――不思議なことに、秒針が通常の三倍の速度で回転していた。

「どうしたの?」

「いや……なんか、時計、壊れてる……?」

 差し出されたグラスをつまんだまま、木下は女の腕時計を覗き込んだ。

「えっ?あん……もー」

 触れてはいけない部分(・・・・・・・・・・)に触れてしまったのだろうか、女はいやらしい声を上げ、モグラたたきのモグラのように腕をひっこめた。

一つ一つの仕草がいちいち可愛くて、木下は頭の奥でキャンプファイヤーが始まった気がした。

 零れ落ちそうなほど大きいエメラルドの瞳を、穴が開くまで見つめ続けた。

「イケない子だなぁ……」

 彼女は目をとろん、とさせて、こちらに身を乗り出した。

 吸い付きたくてしかたなかった唇が、どんどん近づいてきているようだった。

「そんなところに、気付くなんて」

 そこから先のことを、木下は憶えていない。




「そうやって、今まで何人騙くらかしてきた」

「やだなぁ、うちが人を騙したこと、あった?」

 犬澄は肩を左右に揺らしながら、にんまりと笑った。

「あったさ」

 俺はダメになった二号用紙を両手でぐしゃぐしゃに丸め、部屋の隅のゴミ箱に投げ入れた。

 ここは狭い取調室だ。四畳ほどの空間に、鉄格子のはめられたすりガラスの窓と、刑事課に繋がる扉が一枚ずつ、後は机と椅子が二つ、向き合うようにして並べられているだけだ。

 だから、どれだけいい加減に紙くずを投げたって、ゴミ箱を外せる距離じゃない。インクが染み切っていない六枚目まで、そうやって捨てた。

「今だってそうだ。偽名だろう?犬澄矢那目は」

「偽名じゃないし。前の名前はもう捨てたけんね」

 犬澄はあっけらかんと言い放った。

 茶色と金が混じった長髪をかき分け、左の耳たぶを指先ではじいていた。やんちゃをしたのか、耳たぶは根本で二股に裂けていた。

「捜査書類に〝自称〟で書けるのは、身元の確認が取れない時だけだ」

「取れてないじゃん」

「あぁ、お前は身分を証明するものを何も持ってなかった。だが俺はお前を知ってる。お前は犬澄矢那目じゃない」

「あっそ、好きにすれば」

 それだけ言うと、犬澄はそっぽを向いてしまった。

 頬杖をついて、鉄格子の向こうを見ていた。

 黒いレザージャケットの下から、文字盤がやたらと細長い腕時計が顔を覗かせていた。

「お前は昔から変わらないな」

 名前の話をすると、彼女はいつもイライラして、ひどいときには癇癪を起こす。俺はそれ以上の追及を諦め、言われた通り、好きにさせてもらった。すなわち、二号用紙に彼女の本当の名前を書いたのだ。


 新田 夢姫


 それを彼女の方に差し出すと、予想通り、特大の舌打ちが返ってきた。

「気に入らないことがあるとすぐにキレる。こらえ性がないんだよお前は」

「違うし、トダケンが嫌いなだけだし」

「見た目だけ大人になってどうする」

「稼ぐ。胸も大きくなったし」

 犬澄はレザージャケットの襟を掴むと、ヒラヒラと振ってみせた。

 俺はあいつの成長を一瞥し、鼻で笑ってやった。

「そういうことを言ってるんじゃない。ほら、これで合ってんだろ。読み方教えろ」

「知らん」

「そんなわけないだろ、自分の名前だ」

「だから知らんって、言っとんだろうが!」

 フライパンを殴りつけたような音を立て、犬澄は机を凹ませた。

 狭い調べ室の壁に音が跳ね返り、俺は鼓膜の不調に顔をしかめなければならなかった。

「大人が何するか知っとる?自分らの好き勝手ばっか。子供の将来なんてちっとも考えとらん。可愛い名前つけて、可愛い服着させて、自分たちが気持ちよくなっとるだけ。あたしが()だったらどーすんのって話。言うこと聞く時だけ可愛がって、言うこと聞かんくなったらキレて、話し合いすらせん。見た目だけ大人?じゃけどしたんな!まともな大人なんておりゃせんじゃないか!」

 犬澄は阿修羅像のように目をひん剥いて、地獄の番犬のように唸った。今にも俺の鼻っ柱に噛みついてきそうだった。

 それができなかったのはひとえに、犬澄の腰に巻き付いているロープのせいだ。先端に手錠が繋がっているそれは、今、犬澄とパイプ椅子をがんじがらめに結び付けている。

「許せないんだな、親御さんのことが」

「許すぅ?うちが生まれる前に死んでくれたら褒めてやるし!」

「そんな悲しいことを言うな、肉親だぞ。行方不明者届も出てる」

「それが何で出されたんか、トダケン、ホンマにわからんの?」

 犬澄はパイプ椅子が歪むのもお構いなしに尻を打ち付けると、絶望した漂流者のように天を仰いだ。視界に入るのは古い、蛍光灯の明かりだけだろうに。

 俺はしばらく、犬澄の本名を見つめていた。

 犬澄は天井を見つめたまま、身じろぎ一つしなかった。

「俺が知りたいのは一つだけだ。それ以外に興味はない」


神野(じんの)(ゆう)(せい)はどこにいる」


 その名前を出した途端、犬澄はふっ、と笑みをこぼした。

 ふ、という音が段々に増えていって、やがて、吹っ切れたように笑いだした。パイプ椅子をカタカタ鳴らし、調べ室の外まで響く大声で笑った。

「二度と騙されるものか。前は十年、今度は六年、時効までまだ一年ある。言え、神野右蛻はどこにいる」

「ふふっ……ははっ……!あぁーあぁ……トダケンさぁ……ホンマになんも知らんのじゃね」

 犬澄は目じりに涙まで浮かべていた。

 バカにされるのはおろか、憐れみまで込められていた気がした。俺はもうすぐで万年筆をへし折るところだった。

「なにぃ……?」

泥夢(どろぼう)さんがなんで十年も足洗っとったのに、なんでまた出てきたんか、なんで――六年前に姿を消したんか」

 犬澄はため息をつくと、また左の耳たぶをはじき始めた。

 俺はこの時になって初めて、彼女が反対側、右の耳に黄金のイヤリングをしていることに気付いた。金髪がカムフラージュしていたのだ。

 無駄に高級そうなそれを睨みつけることで、自分の中の怒りを少しずつ消化していった。

「あぁ、知らん。だから知る必要がある。あいつは俺が、必ずこの手で捕まえる」

「ムリじゃって、トダケンには」

 犬澄は笑うのをやめ、諭すような視線で俺を見た。

 俺には確固たる意志があった。何物にも遮られず、何者にも止められない正義があった。

 大きな緑色の瞳を見つめ返し、そのスカスカの頭にしっかりと浸透するよう、一言ひとこと、力を込めて言った。

「無理じゃない。被害者の無念を晴らすのが警醒偸(けいさつ)の役目だ」

「ふうん……そこまで言うなら教えたげる」

 犬澄はようやく折れた。

 俺は〝新田夢姫〟と書かれた二号用紙を引き裂き、新たなページに万年筆の先端を這わせた。


 それをもう書き終えることがないなどと、夢にも思わずに。


「そしたらよくわかるよ、大人がどれだけ無責任なんか」


 犬澄矢那目は、見透かしていたのかもしれない。

 新田夢姫はその日も街をぶらついていた。

 彼女の言葉を借りて言うなら、〝品定め〟をしていたらしい。

 まだ三月に入ったばかりで、息を吐けば白く、全身に鳥肌が立っていた。

 制服にカーディガンだけはマズったな。ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、そう思ったそうだ。

 このころの彼女はまだ髪が短く、小さな丸顔を覆い隠す程度だった。今と違って胸は小さいし、身長は……今も小さいままだ。緑色のカラーコンタクトはすでに入れるようになっており、髪の毛も派手な金色だ。

 服装は一応制服に準じていた。ミルクティーとチョコレートを混ぜたようなチェックのスカートをギリギリまで短くして、真っ黒なタイツで素足を隠していた。真っ白なブラウスの上には先述のカーディガンを羽織っているのだが、たしか、これは毒々しいミント色をしていた。


 ヤだよ、だってあのブレザー、お古でダボダボだったもん。


ということで、彼女は制服の上着を着たことが無かった。

 カーディガンがミント色の理由は、控えめな女だと思われると舐められるから、だそうだ。金髪もカラコンも同様の理由だろう。

 ショーウィンドウの中には、女性向けの下着をつけたマネキンがナイスなポーズを決めていた。

 夢姫はピンク色でフリルのいっぱいついたやつが欲しくてたまらなかった。時間がある時はよくそれを見ていた。

「はーあ」

 口紅も何もつけていない小さな口を開き、この世に対する不満を全部はきだした。

 ショーウィンドウに真っ白な円が出来上がり、欲しかったブラが見えなくなってしまった。

「雨、やまんなぁ」

 ガラス越しに、路面電車が走る大通りが見えた。そこはまさに土砂降りの真っ最中だった。

 アスファルトの上に水たまりができ、歩道のタイルで雨粒が滅茶苦茶な方向に跳ねまわっている。

 道行く車も路面電車も、ワイパーをせわしく動かして視界を確保している。

 歩道を歩く人たちは、みな長靴をはいて、傘をさして足早に歩いてく。

 夢姫には目もくれない。真っ昼間から学生が出歩いているというのに、大人たちは誰一人気付かない。ふりをしている。

 夢姫の前を通り過ぎる時だけ、みな、示し合わせたようにコートの襟を立て、視線を下げるのだ。

 そんなことしなくても見えないよ、あたしは小さいし。

 夢姫は大人たちに代わって言い訳してやった。

「あの、お客様……」

 遠慮と侮蔑の混じった声が聞こえてきたので、顔を傾けてやった。ランジェリーショップの女性店員だ。

「お買い物をなさらないのでしたら――」

「はいはい、うっせーなババア!」

 せめて悪態だけはついて、夢姫はショーウィンドウを後にした。




 雨雲は分厚く、先が見えない。

 いつやむのかわからない雨の中を、夢姫はずぶ濡れになりながら歩いた。

 街中は人でごった返していたが、夢姫の周りだけは結界でもはっているかのように隙間ができていた。

 アーケード街まであと少しというところで、信号に引っかかってしまった。

 地元の小さな交差点なら平気で無視するのだが、ここは広島一車の密度が高い。深夜になればタクシーしか走っていないのを夢姫は知っていたが、昼間はダメだ。神様の嫌がらせで全身水浸しになったからといって、死ぬにはまだ早い。夢姫はまだ十四だ。

 水を吸って漬物石のように重たくなった学生カバンが、ズルズルと落ちて行った。心の中でそい、や!と叫び、もう一度肩にかけなおした。

 朝、家を出た時には晴れていたのだ。傘なんて持って行くような雰囲気じゃなかった。

 夢姫は交差点にある大型ビジョンを睨みつけた。降水確率が終日90%だと、悪びれもせずでかでかと表示している。ふざけんなマジで、あたしん()の前で言ってくれなきゃ、わかんないじゃん。

「お嬢ちゃん、なにしてんの」

 洗濯板にこすりつけられたようなざらざらとした声の後、とっぷりとくれた闇夜のような色で視界を遮られた。


 雨がやんだ。


 夢姫は髪先からしずくを落とし、振り返った。

 歩行者用信号が青に代わり、ぴっぽ、ぱっぽ、とさえずり始めた。

 色とりどりの傘が白い縞々に足を踏み出していく中、闇夜の切り抜きだけは一歩たりとも動かなかった。差し出された傘の中で、夢姫がじっと男を見つめていたからだ。

 彼女の言葉を借りて言うなら〝品定め〟だ。

 傘の柄を握る手は皮膚が分厚く、ごつごつして職人気質。身長は180程ありそうな巨人、しかしデブじゃない。くたびれたスーツに、腐った苔のような深緑色のモッズコート、ネクタイはよれよれの赤茶色、革靴も傷だらけでへしゃげている。

 顔はどうだ。傘が黒いせいでよく見えないが、顎髭を剃っていないのはわかる。あの感じだと、最後に手入れしたのは三日前くらいだろう。髪はベビースターラーメンのようにちぢれた黒髪だ。とはいえ、耳にかからない程度の長さだ。そこまで不潔感はない。

 ラッキィ!当たりじゃん。

 夢姫は指先をこすり合わせて鳴らした。

「ね、おじさん」

「あ?おじさんじゃない」

 おじさんはざらざらの声で否定した。

 夢姫は傘の柄に巻き付いている男の手をつっついた。

「いいから、ね、あたしのこと買わない?」




 バスタオルに身を包み、夢姫はドライヤーで髪を乾かしていた。

 やたらと鏡の大きな洗面所だ。壁一面を覆いつくして、部屋中を余すことなく反射できるようにしてある。

 需要と供給のバランスというやつだ。全身が見えないと意味がないらしい。

 熱風で金髪を浮かすと、左耳につけたシルバーのピアスがキラリと光った。大きめの、リング型のピアスだ。右耳にはまだ、何もついていない。

「ふぅ、ん」

 ドライヤーの電源を切って、洗面所の棚に戻した。

 死人の顔から白い布をはぎ取るように、折り込んでいたバスタオルを恐るおそる広げた。

 大きな鏡のおかげで、全身を隅々まで見渡すことができた。

 人一倍小さい胸よりも、その横についている痕が気になった。腕の付け根についている痕も気になるし、太ももについている痕も気になってしかない。

 体中についた痕を、何度もなんども指先でなぞった。大丈夫、消えないなんてことはない。もう痛くないんだし。大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 もうドキドキしない。不安にも、泣いてしまいそうにもならない。ここからは仕事だ。




 洗面所を出ると、部屋の三分の一を埋め尽くす巨大なベッドが置いてあった。

 なぜか枕もとが幅広な三面鏡で囲われていて、反対側の壁にかけられた巨大なテレビを写していた。

 需要と供給のバランスだ。反対側を向いていても、顔が見えるのがいいらしい。

 男はモッズコート羽織ったまま、つまらなそうにベッドの端に腰掛けていた。テレビをつけてビデオを見るわけでも、女子中学生の制服の匂いを嗅ぐわけでもないようだ。

 ま、雨でびしょびしょだしな、仕方ないか。

 そんなことを考えながら、夢姫は銀色のピアスを何度も指先ではじいて、自分の中のスイッチを押した。

 誕生日パーティみたいにテンションを上げて、初恋みたいにこみあげた表情を作って、楽しくもないのに笑顔になるスイッチを。

「おーじさんっ!」

 バスタオル姿のまま、ベッドに腰掛けたおじさんに抱き着いた。

 おじさんは、この手の知り合い方をしたおじさんにしては珍しく、うひゃあと言って飛び上がり、身をよじって逃げようとした。

「バッ……服を着ろ!服を!」

「えぇー?おじさんだって、期待してこんなとこにはいったんじゃないの?」

 慌てふためくおじさんの頬に人差し指をつき立て、穴あけドリルのようにぐりぐりと回した。

 おじさんはボーボーの眉毛に隠れていた一重まぶたをぴったりと閉じ、夢姫の突貫工事に耐えていた。

「助けてくれたし、普段なら二か三はとるけど、いちごーでい、い、よ」

「手慣れてるねぇ、お嬢ちゃん」

 おじさんはガサガサの手で夢姫の手首をつかんだ。夢姫は当然押し倒されるものだと思って、受け身の体勢に入った。

 ところが、おじさんは夢姫をベッドの上にきちんと座らせると、後ろ向きに離れていった。

 思わぬところで解放された夢姫は、ぶりっこみたいに手首を肩に乗せた格好で固まった。

 おじさんはまぶたを薄っすらと開いた。どろどろに暗い色の瞳が覗いていた。

「ずっとそうやって、稼いできたのか?」

 おじさんは教頭先生のようにもったいぶって言った。

 夢姫はムカムカして、胸元のバスタオルをかきむしった。

「いいじゃん別に、あたしの体だし、どうしたってあたしのじゆーじゃん」

「いいか、自分を売って稼いでも、何もいいことはない。意地汚い大人か、悪い大人か、ろくでもない大人しか寄ってこない。そいつらに利用されて、利用されて、心も体もぐちゃぐちゃになるまで使われて、その辺のごみと一緒になって道端で捨てられるのがオチだ。噛みすぎて味のなくなったガムみたいな人生になるってんだよ、そんなんでいいか?お前」

「は、なに、説教?あたしがそんなこと(・・・・・)知らないとでも思ってんの?」

 夢姫は語気を荒げた。

 汚いのも、危ないのも、惨めなのだって知っていた。嫌というほど思い知らされてきた。それをこんな、道端で体よく声をかけてくるようなじじいに指摘される覚えはない。

 気色悪い。イラつく。マジでムカつく。

「知ってたって!そーするしかないからやってんじゃん!おじさん何?私服けーかんか何か?マジうざ、メンド、ふざけんな、補導ばっかしやがって、お前らいっつも、弱いものいじめばっかり――」

 そこから先のことを、夢姫は憶えていない。

「残念、オレはデカじゃない。ロリコンのクズ野郎でもない」

 おじさんの口が異様に遅く、ノロノロと動いて。

 洗濯板に押し付けられたみたいな、ざらざらの声で何かを言っていて。

 それに合わせて、視界が、部屋中の色が、絵の具を混ぜるように回って、混じって。

「目的が違うだけさ」

 そして、真っ暗になった。




 波の音がする。

 夢姫は水着を持っていなかったから、まともに海に行ったこともない。それでも、つたない記憶をたどれば、母親に潮干狩りに連れて行かれた情景が、わずかに蘇る。


『そーお、そーお、じょーずねえ』

 ろくでもないあの人の顔が浮かぶ。

 年がいもなく真っ白なワンピースを着ていた。それも、あなた通り魔にでも逢ったんですか、と突っ込みたくなるくらい、ザックリと胸元が空いたやつを。

 帽子もたしか真っ白で、オーケストラで使うシンバルみたいにでかいやつだった。

『おかーたん、みて!みて!』

 あたしもまだ子供だったな。ちっちゃなプラスチックの熊手ではしゃいじゃって。

 楽しかったんだ、あんなのが。

 楽しかったんだよ。あれだけが。


 そうだ、やはりそうだ、海水が砂粒をゴロゴロと転がして、鼓膜をこしょばるような音が鳴る。ざざあん、ざざぁんと絶え間なく鳴る。

「はっ!」

 夢姫は飛び起きた。そして、声にならない悲鳴を上げた。


 世界が破滅するその瞬間まで、寝過ごしてしまったのだと思った。


 空一面が、防犯用のカラーボールをぶちまけたようなピンク色をしていた。入道雲はブルーハワイにつけたような水色で、太陽は黒焦げになったミカンのようになっていた。

 ギャア、ギャア、と鳴いて飛んでいるのは頭のないカラスだ。十羽以上で群れをなし、獲物を探すように頭上で旋回している。

 夢姫は砂浜にいるはずなのに、正面には巨大な一級河川が流れており、それを目で追っていくと、飛沫(しぶき)を上げる海につながっている。河口にできた海水浴場など、広島にあっただろうか?

「えぇ……えぇぇ……」

 目の前の景色が現実のものとは思えなくて、夢姫は激しい寒気を感じた。辺り一面、真っ黒な太陽に照らされて真夏のように熱いのに、だ。

(にい)ちゃん、(にい)ちゃん」

 誰かに肩を叩かれ、夢姫は肝を冷やした。

 転げそうになりながら振り向くと、そこには同級生の姿があった。

「の、叶愛(のあ)ちゃん……?」

 夢姫と同じように髪をまっきんきんに染めあげ、両耳に小さなピアスをつけた女の子だ。

 叶愛(のあ)ちゃんはなぜか、胸元まぶしいビキニ姿だった。

「えっ……なんで……」

「なんでって、(にい)ちゃん来たいって言ってたじゃん、海!」

 叶愛(のあ)ちゃんはきょとんと首をかしげていた。透明なビニールのボールを抱きしめていたから、胸が押しつぶされて大変けしからん状態になっていた。

 自分とは発育が月とスッポンだなと思って、視線を落とした途端、身に覚えのないビキニが目に入った。

「はっ!?へっ!?いやっ、ちょっ、まっ――」

 自分でも気づかないうちに、下着よりも布面積が狭い、黄色と白の縞々のビキニに着替えていたのだ。

 夢姫は大慌てで胸元を隠した。太ももを隠した。腕の付け根を隠そうとしたところで、手を二つしかくれなかった神様を恨んだ。自分の体についた痕を、叶愛(のあ)ちゃんにだけは見られたくなかった。

 しかし、腕の付け根を凝視した夢姫は、ある異変に気が付いた。

 ピンク色の空や薄水色の雲よりも、はたまた、真っ黒こげな太陽よりも異常だった。

「ない……」

 ホテルの洗面所であんなに気にしていた痕が、どこにもなかった。胸と太ももから手を離してみると、こちらも、ゆで卵のようなツルツルの肌になっていた。

「ない……!」

 文字通り、生まれたままの姿でいられることに、夢姫は激しく感動した。笑えばいいのか、泣けばいいのか、混乱して頬が痙攣した。

 叶愛(のあ)ちゃんが呆れてどこかへ走っていったが、夢姫はしばらくの間、自分の体を隅から隅まで撫で回した。

 神様にごめんと謝り、むしろ感謝さえした。

 安心して笑うと、叶愛(のあ)ちゃんの方に走っていった。

 叶愛(のあ)ちゃんは、叶愛(のあ)ちゃんも、学校で見せたことのないキラキラした笑顔ではしゃいでいた。

 こっちに向けて投げられたビニールのボールを、夢姫は無我夢中でキャッチした。

 塩の味を感じながら、砂粒を蹴飛ばし、ボールを投げ返した。

〔いしや~きいも~……おいもっ……〕

 叶愛(のあ)ちゃんからのキラーパスを受け取った時、冬の風物詩が聞こえてきた。

 夢姫は、今まさに自分が夏真っ盛りであったことを忘れ、振り返った。

 一級河川の上に、巨大な水門が水面と垂直に(・・・・・・)かかっていた。というより、一級河川そのものが直角に跳ね上がり、夢姫の位置から見て壁のようになっていた。川の水は重力に逆らって流れ続け、大いなる海へ水を供給し続けていた。

 水門はコンクリート造りの四角い塔を三つ並べ、その間の鋼鉄の扉を開けていた。水門の脇には薄緑色の鉄橋がかかっていて、人と車とが通れるようになっていた。

〔おいしい、おいしい、石焼き芋だよ〕

 エッシャーのだまし絵を見ているようだった。鉄橋は、夢姫からみて右手側の河川敷から始まっているのに、反対側は、頭上をぐるぐる回っている首なしカラスより高い位置にかかっているのだ。事実、焼き芋屋は、鉄橋の上をリクガメのようにノロノロと登っていた(・・・・・)

 夢姫は口をへの字に曲げ、焼き芋屋の行方を目で追った。なぜこっちに落ちてこないのか、考えるだけで頭がパンクしそうだった。

 おまけに、焼き芋屋のすぐそばを、どこかで会ったおじさんが駆け抜けていくのが見えた。

(にい)ちゃーん!どおしたん?」

「ごめん!」

 うわの空で叶愛(のあ)ちゃんに返事をして、夢姫はビニールのボールをその辺に投げ捨てた。

 無意識に履いていたビーチサンダルで、雑草生い茂る河川敷を駆け上がった。

 夢姫が近づくと、鉄橋がどんどん吸い寄せられてきた。通り過ぎた河川敷や、叶愛(のあ)ちゃんが取り残された砂浜は、ありえない速度で遠ざかっていき、遠いとおい場所で点のようになっていた。

 目まぐるしく回転する世界に驚愕しながらも、夢姫はおじさんを追いかけ続けた。重力の方向もぐんぐん変わり、夢姫は今、背後に川の水面を背負って走っていた。

 焼き芋屋の横を駆け抜け、対岸までたどり着くと、今度は世界そのものがひっくり返った。

「うわっ……!」

 真っ逆さまに落ちた気がして頭を抱えたが、目を開けると、両足はしっかりと地面についていた。

「え……」

 あと何度驚けばいいのだろう。

 じいじいというアブラゼミの大合唱と、ギラギラ照り付ける灼熱の太陽、そしてなぜか、ビキニではなく制服、それも夏服の半袖に変わっている。

 毛穴という毛穴から汗が噴き出して、顎の先からポタポタ落ちていく。

 ここは住宅街のど真ん中だ。

 夢姫が、この世で一番嫌いな場所だ。

 正面に、今にも崩れそうなアパートが鎮座している。木造の二階建てで、屋根は三角で、廊下と階段が外側に張り出している。部材の一つひとつが悲しいくらいささくれ立っていて、ベタベタに塗られていたはずのペンキは、ほとんどが剥げ落ちている。屋根が黒かったのか、壁が白かったのか、もはや夢姫にも思い出せない。

 なぜか、外階段だけは夢姫の知っている形と違った。おしゃれもへったくれも、それこそ安全性すらなかったただの階段が、フォークで巻き取られたパスタみたいに、ぐにゃぐにゃになっていた。

 これ以上この場所にいたくなかった。暑かったからではない。できることなら、回れ右して一目散に走り出したかった。

 だが、夢姫の思いとは裏腹に、あのおじさんがアパートの外階段に足を踏み入れていた。

 小さく見せようとしたのか、腰をかがめていたが、元が180近い巨体だ。そうやすやすと隠し通せるものではない。

 おじさんは一段一段、抜け落ちないか確認するかのように、慎重に上っていた。二階にたどりつくと、海賊映画の主人公みたいにほくそ笑んだ。

 夢姫は血の気が引いた。

 おじさんは間違いなく、明確に狙いを定めて歩いていた。

 夢姫は、二度と見たくもないと思っていたアパートに脱兎のごとく駆けこんだ。

 なぜかシンデレラ城のようにねじれてしまった螺旋階段を、一段も二段もすっ飛ばして上った。

 廊下が見えた瞬間、まさにおじさんが、201号室のドアノブを握って、周囲を伺っている最中だった。

 もはや一刻の猶予もない。夢姫は階段から飛び出し、廊下の手すりに激突しながら叫んだ。

「待って!」

 夢姫の声を聴いた途端、おじさんはトリックを暴かれた犯人のようにおののいた。

 201号室のドアを半分開いたところで固まり、ボサボサの眉毛や、三日前に手入れしたきりであろう髭を、ハリネズミのように逆立てていた。

「なんでわかったの……私の……家……」

 夢姫は息も絶え絶えに言った。手すりにぶつかった時、肺の中の空気が空気砲のように飛んでいったのだ。

 おじさんは、ホテルではほとんど興味を示さなかったのに、一重まぶたを見開き、目をピンポン玉のようにして、夢姫の体を上から下まで余すことなく見た。

 おじさんの暗くてどろどろした瞳を捉えた時、夢姫は、その奥底に絶えきらない命の輝きを見た気がした。

「なんで動けるんだ……お前……まさか……!」

 おじさんは意味不明な確信を叫ぶと、ドアを完全に開け放ち、盗塁王もはだしで逃げ出す速度で突入した。

 夢姫は手すりを引っ張って反動をつけた。おじさんを逃がすまいと、201号室に飛び込んだ。

 中に入った瞬間、頭上から巨大な塊が降ってきた。

 宇宙船でも落ちてきたのかと思った。夢姫は頭を抱えて横っ飛びによけた。

 頭を上げると、さっきまで自分が立っていたところに、()()よう(・・)()巨大(・・)()()()()があった。

「なに、なに、なになになに!?」

 勝手知ったる我が家に、とてつもない巨人が入り込んでいる。大きすぎて、頭どころか肩すら見えない。

 違う、自分が、ゴキブリのように小さくなっているのだ。周囲の状況を素早く見渡した夢姫はすぐに悟った。

 フローリングへ上がる玄関の段差ですら、刑務所の壁と見紛う高さになっており、そのすぐ向こうにあるベニヤ板の台所は、今まで見たどの高層ビルより巨大だ。

 そして巨人は、足の指一本だけで夢姫と同じ大きさだ。顕微鏡で拡大したように、すね毛の間を走り回るダニが見える。

「ひっ……」

 巨人が何百倍にも拡大されたグラビア雑誌を丸め、スカイツリーのように巨大な筒を作り上げた。それが富士山より高い位置まで振り上げられたとき、夢姫はもう、おじさんなんてどうでもよくなっていた。

 巨人に背を向け、今来たドアに向かって、命からがら逃げだした。

 しかしダメだ、コンクリート敷きの玄関はマツダスタジアムのグランドより広い。千切れるほど手足を動かしているのに、一向にドアにたどり着かない。自分が走った分だけドアが遠ざかっているのではないかと錯覚するほどだ。

 頭の上から巨大なグラビア雑誌が降ってくる。風を切る音が台風のそれと同じだ。走りながら見上げると、これから自分が通るであろう道全てを、巨乳のサンタクロースが押しつぶしていく。衣装の上からでもわかる。忌々しい爆乳だ。まさか乳に挟まれて死ぬとか、夢姫的にありえない屈辱だ。間に合わない。もう助からない。嫌だ死にたくない。巨乳に殺されるのだけは、絶対に――。

「きゃああぁぁぁぁ!」

 夢姫の魂の叫びを知ってか知らずか、颯爽と助けが現れた。

 おじさんだ。おじさんが、モッズコートを翼にして、ムササビのように滑空してきた。

 巨乳に押しつぶされる直前、夢姫はおじさんにさらわれた。

 お腹のあたりに強い衝撃を感じ、息が詰まって、目の前に星が舞った。おじさんの左肩が、鳩尾にめりこんでいた。

 間一髪、夢姫の大嫌いなグラビアアイドルが、コンクリートに負けてへし折れた。

 ものすごい突風が巻き起こり、おじさんのバランスが崩れた。

 夢姫はおじさんの肩に死に物狂いでしがみついた。

「えっ……えぇ……」

 もう、意味が分からなかった。

 夢姫は意図せぬ世界旅行に疲労困憊していた。

 なぜか、夢姫とおじさんは、森が生い茂る秘境の上を飛んでいた。

 ただの秘境ではない。空に浮いた大自然だ。

 数えきれないほどたくさんの小さな島が、眼下の地上が視認できないほど高い空に浮かんでいる。小さいと言っても、一つ一つがその辺の山くらいはある。神の御霊以外に、こんなに質量のあるものが、雲と同じ高さを飛んでいる理由があるだろうか。

 小島には、南米でよく見る大きな葉っぱの木がたくさん生えていて、ところどころ、岩肌が塔のように細長くのびていた。

 森の中からはごうごうとうねる水の流れが聞こえてきて、小島の端から滝のように流れ落ちていた。

 滝の行方を目で追うと、別の小島に落ちていくか、あまりに高すぎて空中で蒸発しているかのどちらかだった。

「ったく、危なかったな」

 左脇の下がざらざらした。おじさんだ。よれよれの赤ネクタイが、夢姫の顎にぺちぺちと当たっていた。

「ど、どうなっとんのこれ……」

 夢姫は景色とおじさん、両方につぶやいた。

 おじさんのモッズコートはパラグライダーのように綺麗な三角形を描き、空気をはらんでピンと張っている。手で触ってみると、ほどよい弾力で押し返してくる始末だ。

「まーなんだ、これは――」

「見つけたぞぉ!神野ぉぉぉ!」

 どこからともなく聞こえてきた怒号に、おじさんは口をつぐんだ。

 夢姫は太陽に一番近い雲に視線を走らせた。

 声は、その雲の向こうからやってきた。

 瞬きをすると、雲の中から若い男――とはいっても、夢姫よりは年だ――が現れた。かっちりとした味気のないスーツ姿で、こちらは本物のパラグライダーを操っていた。

「予定変更だ!自分でなんとかしろ!」

「えっ?」

 おじさんの声がした次の瞬間、夢姫は空中に放り投げられた。

 嘘だと思って辺りの空を手でまさぐったが、おじさんは本当にいなくなっていた。モッズコートをはためかせ、先ほどの怒号とは逆方向に、ジェット機のように雲を引きながら逃げていった。

「えっ!えっ?い、いやああぁぁぁ!」

 足下がひゅんとするとか、そんな生易しいものではない。夢姫は自分の心臓が口から飛び出したのを見た。驚きすぎて呼吸が止まり、全身が石になったように固まった。

 なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃなんとかしなきゃ!頭の中で念仏のように唱え、くしゃみでもなんでもいいから起これと思って両手を強く握りしめた。

 すると、巨大風船を叩き潰したような破裂音がして、得体のしれない何かに上に引っ張り上げられた。あまりの衝撃に、もうすぐで両肩が外れるところだった。

「ふえっへ……」

 音の正体を知って、夢姫は喉の奥に生まれたぞくぞくを飲み込んだ。安堵と恐怖が全身を駆け巡って、意味もなく涙が出そうだった。

 自分の背中から、真っ白なパラシュートが飛び出していた。理由などもはや知りたくもないが、制服のブラウスが変形したようだ。

「ふ、やっぱりな!」

 遠くの方で、なぜかおじさんが勝ち誇っていた。

「やっぱりじゃねーよ!じじい!」

 普通に腹が立った。

「くらぁ!だぁれがじじいじゃ……げっ!くそっ!」

 いつの間にかパラグライダーがすぐそこまで接近していた。

 おじさんはモッズコートを折り畳み、雲の下へ向かってぐんぐん加速した。

「待てぇぇぇ!」

 存在をすっかり忘れていたスーツの男だったが、夢姫はこの一連の流れで完璧に顔を覚えてしまった。

 なにせ、男は叫んだあと、パラグライダーを乗り捨て、死ぬほど綺麗な気を付けの姿勢で、おじさんめがけて一直線に墜落(・・)していったのだ。

「うぉっ!……おいっ!げふぉぁ――」

 夢姫は優しい気流に揺られながら、おじさんの背中にドロップキックがクリティカルヒットするのを眺めていた。

「ははっ、ざまあ」

 俺はいつか言おうと思っていたんだが、夢姫、お前口が悪すぎだ。

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