自分の居場所
梅津和子は縁側に座り、ぼんやりと庭を眺めていた。
昼の穏やかな陽射しが、庭に注いでいる。雑草が伸び放題になっているが、虫の姿は見えない。ついこの間までは、あちこちから虫の声が聞こえていたのに。
虫だけではない。以前は、鳥や小動物の姿も頻繁に目にしていた。ところが、今はまったく見なくなっている。
何とも寂しい話だ。もっとも、生き物の姿がないのは結構なことではある。こんな場所に留まっていても、何もいいことはない。寿命の短い生き物なら、慣れ親しんだ場所であろうと、ためらうことなく移動できるのだろう。
ふと、空腹を感じた。何もしていなくても、腹は減る。不思議なものだ。こんな場所でも、人間の基本的な営みは全く同じ。食べて、寝る。この部分だけは、どこにいようが変わらない。
和子は立ち上がる。既に、家の電気は止められていた。したがって、家電の類は一切使えない。不思議なことに、水道はまだ通じている。ひょっとしたら、水道局が止め忘れているのだろうか。
いずれにせよ、今となっては大した問題ではない。電気がなくても、やりようはある。和子は、ボンベ式のガスコンロで湯を沸かした。昔ながらのやり方でご飯を炊き、味噌汁を作る。
食べるのは、自分ひとりだ。作る手間を考えれば、カップラーメンでも構わない……はずだった。事実、ここしばらくはカップラーメンばかり食べていた。
だが、今日は米の御飯と味噌汁が食べたかった。
おかずは、鯖味噌煮の缶詰だけだった。何かあった時のための非常食として、家の中に備蓄しておいたものだ。これを食べるのは、何年ぶりだろう。不思議なもので、今日はいつもより食欲がある。やはり、米の御飯のおかげだろうか。
その時だった。がさりという音がした。和子ははっとなり、そちらを向く。
直後、庭の草むらから何かが姿を現した──
和子は、出現したものをまじまじと見つめる。
そこにいたのは、一匹の黒猫だった。とても美しい毛並みをしており、体型も痩せすぎず太りすぎでもない。前足を揃えて佇んでいる姿からは、気品すら感じさせる。瞳は、美しいエメラルドグリーンだった。
そんな不思議な雰囲気を漂わせている黒猫には、他の猫とは決定的に違う点がある。長くふさふさした尻尾が、二本生えていたのだ。その二本の尻尾を優雅にくねらせている。
和子は、ポカンと口を開けている。一方、猫の方はじっと彼女を見つめていた。
ややあって、和子が笑みを浮かべた。
「ふふふ、これは夢なのかしら。だとしたら、本当に素敵な夢ね」
「夢じゃないニャ。お前の頭はおかしいみたいだけどニャ、まだ幻覚を見るほどイカレてはいないニャよ」
流暢な日本語で、黒猫は言葉を返す。日本語を喋り、人間と会話が可能な猫……これは、偉大な大発見である。学会に発表すれば、生物学の常識を一変させるかもしれない。
もっとも、和子にそんな気はなかった。
「やっぱり、本当にいたのね」
呟く彼女の頭の中で、懐かしい映像が再生される──
・・・
和子は、周りを見回した。
日は沈みかけ、空には星も見えてきた。にもかかわらず、今いる場所がどのあたりかわからない。帰る道もわからない。周囲には鬱蒼と木が生い茂り、地面には雑草が伸び放題だ。どこを向いても、似た風景に見える。
まるで、迷宮の中に入り込んでしまったかのようだ。
ほんの少しだけ、もう少しだけ、森の奥に行ってみよう……そんな軽い気持ちでどんどん奥に歩いて来たら、完全に道に迷ってしまったのだ。
ここから、どうやって帰ればいいのだろう──
その時、茂みがガサリと音を立てる。和子は、びくりとなった。もし、怖い獣だったらどうしよう。
しかし、現れたのは可愛い黒猫だった。猫は、ちらりと和子を見る。
直後、とんでもないことが起きた──
「人間の小娘が、こんなところで何してるニャ」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。だが数秒後、ようやく異常事態であることを理解する──
「ね、猫が喋った!」
叫び声を上げ、その場にへたり込む。
だが、猫の方は涼しい顔だ。
「あたしは、何してるのかと聞いたんだニャ。お前は、言葉がわからないのかニャ? バカなのかニャ? アホなのかニャ?」
小馬鹿にしたような態度に、和子は怖さも忘れ立ち上がった。思い切り地団駄を踏む。
「バ、バカじゃないもん! バカ言う方が、バカなんですうぅ!」
言い返したが、黒猫の態度は変わらない。目を細め、尻尾を揺らしながら毛繕いを始めた。よく見れば、長い尻尾は二本生えている。
毛繕いをしながら、黒猫は喋り出した。
「もう一度聞くニャ。お前は、ここで何をしてるのかニャ?」
「な、何って……べ、別に何もしてないよ……」
口ごもる和子を見て、黒猫はフンと鼻を鳴らした
「ははーん、わかったニャ。どうせ、道に迷って泣いてたんだニャ。情けないガキだニャ」
その途端、和子はまたしても地団駄を踏む。
「泣いてないもん! 道になんか、迷ってないから! 帰るのなんか簡単だし!」
「そうかニャ。さあて、小便臭い小娘なんかほっといて、遊びに行くかニャ」
「えっ……」
和子を不安が襲う。もし、この黒猫がいなくなってしまったら……。
自分は、たったひとりで森の中に取り残されてしまう。
そんな和子を尻目に、黒猫は向きを変えた。直後、とんでもないことを口にする。
「確かこっちに行けば、人間の住む村があったニャ。さーて、魚でも盗んでやるかニャ」
言った後、ゆっくり歩き出した。和子もまた、慌てて歩き出す。人間の村に向かっているなら、この黒猫に付いて行くしかない。
すると、黒猫は足を止めた。こちらを振り返る。
「なんだ小娘、付いて来るのかニャ?」
「ち、違うもん! あんたなんかに付いて行くわけないでしょ! た、たまたま行く方向が同じだけですうぅ!」
「ふーん、そうかニャ。まあ、勝手にしろニャ」
そう言うと、再び歩き出した。和子は距離を置き、後を付いていく。
やがて、見覚えのある場所にたどり着いた。あと少し歩けば、森を抜け村に帰れるはずだ。
ホッとした和子は、その場に座り込んだ。その時、黒猫が声を発した。
「さて、帰ろうかニャ」
直後、向きを変えた。森の方に歩いていく。和子は、はっとなった。
「ま、待ってよ! あんた、魚盗みに来たんじゃなかったの!」
「気が変わったニャ。魚盗むのも、面倒くさくなったニャ。やっぱり森に帰るニャ」
とぼけた口調で答え、のんびりと歩いていく黒猫。和子は、思わず叫んだ。
「ちょっと待ってよ!」
すると、黒猫は足を止める。
「なんだニャ。用があるなら、さっさと言えニャ」
「あ、あの……あ、あ、あ、あ……」
ありがとう、と言いたかった。だが、素直に言えない。口ごもる和子を見て、黒猫は面倒くさそうに首を振った。
「何言ってるニャ。やっぱり、お前はアホ娘だニャ」
「ア、アホじゃないよ! アホ言う方がアホなんですうぅ!」
「はいはい、よかったニャ。さてと、忙しいから帰るニャ」
言いながら、黒猫はとことこ歩いていく。和子はいたたまれず、もう一度叫んだ。
「待って!」
「なんだニャ。言いたいことがあるなら、はっきり言えニャ」
「あ、あ、あ……」
ありがとうの一言が、どうしても出て来ない。代わりに、別の質問が出ていた。
「あ、あんたの名前は!?」
「ミーコだニャ。もう会うこともないだろうから、覚えても仕方ないけどニャ」
・・・
あれから、七十年近く経つ。
にもかかわらず、和子の中では未だに鮮明に残っている記憶だった。今、目の前にいる黒猫に助けてもらった思い出は、彼女にとってかけがえのないものだ。
「やっぱり、夢じゃなかったのね」
呟くように言った。
幼い和子は、村に帰った後、森の中での出来事をみんなに話した。が、誰も信じてくれなかった。お前は夢でも見ていたのだよ、と大人たちは笑いながら言った。
もっとも、和子はずっと信じていた。自分の見たものは夢ではなく、現実だと。
そして今になり、自分が正しかったことが証明されたのだ──
「あの時のお礼がまだだったわね。助けてくれて、ありがとう」
ペこりと頭を下げる。すると、ミーコはぷいと横を向いた。
「ふん、別にお前を助けたわけじゃないニャ。あの時は、暇だっただけだニャ。ちょっと暇つぶしに、バカな小娘をからかってやっただけだニャ」
「あら、そうだったの。で、今日はわざわざ何しに来たの?」
尋ねたが、ミーコは無視して毛繕いを始める。傲慢ささえ感じられる態度だが、和子は不快にはならなかった。むしろ、微笑みながら黒猫の動きを見ている。
不意に、ミーコが顔を上げた。
「小娘、お前はここに残る気なのかニャ?」
「うん、残る」
答えた途端、ミーコの口からため息のような音が漏れた。
「お前は、昔からアホだったニャ。そのアホさは、今も続いているようだニャ。お前のアホは、死ななきゃ治らないようだニャ」
「違いますうぅ。アホ言う方がアホなんですうぅ」
昔と同じように、口を尖らせて言った。だが、ミーコは無言でこちらを見つめている。その瞳には、先ほどまでとは違う感情が浮かんでいた。黒猫は沈黙したままだが、言葉にならない訴えを感じた。
やがて和子は黒猫から目を逸らし、家の中を見回す。木造の平屋に、様々な物が置かれている。どこにでもあるようなものだ。高級品などない。
でも、そのひとつひとつに思い出がある。もちろん、楽しい記憶ばかりではない。むしろ、つらいことの方が多かった気もする。
それもまた、自分の生きてきた証だ。
「あなたには、わからないでしょうね。人間はね、長く生きていくうちに大切な思い出がいっぱい出来るの」
「そうかニャ。あたしには、その思い出が重くなりすぎて、お前の足かせになってるように見えるニャ。人間という連中は、本当にアホだニャ。年をとるにつれ、くだらない思い出をいっぱい引きずって生きるようになるニャ」
ミーコの言葉に、和子は笑みを浮かべた。確かに、その通りなのだろう。
「ふふふ、そうかもしれないわね」
言った後、和子はもう一度家の中を見回した。自分が、人生の大半を過ごしてきた家だ。
ややあって、口を開く。
「ここにはね、私の思い出がいっぱい詰まってる。私の住む場所は、ここだけ……そう決めて、今まで生きてきた。人間はね、生まれる場所を選ぶことは出来ない。でも、最期の居場所を決める権利くらい、あってもいいんじゃない?」
和子の言葉を聞き、ミーコはふんと鼻を鳴らした。
「そうかニャ。だったら、勝手にすればいいニャ。まったく、お前は昔から意地っ張りだったからニャ。言っても聞かないだろうしニャ。それに、あたしの知ったことでもないニャ」
そう言うと、ミーコはひょいと飛んだ。楽々と縁側に上がり、とことこ近づいて来る。
「ところで小娘、缶詰がもうひとつ残ってるはずだニャ。さっさと開けろニャ」
その態度に、和子は思わず苦笑する。
「何よ、よこせっての? だいたい私は、小娘なんて呼ばれる歳じゃありませんよ。もう、お婆ちゃんて呼ばれる歳なんですからね」
「ふん、二百年生きてる化け猫さまから見れば、お前なんかまだまだヒヨッコの小娘だニャ。だいたい、せっかく訪れた客に、ご馳走も出せないのかニャ? お客をもてなすのは、家の主人の務めだニャ。本当に、気の利かない小娘だニャ」
「わかったわよ。もう、わがままなんだから。だいたいね、本当は猫に人間の缶詰あげたらいけないのよ」
「アホ言うニャ。あたしは、三百年も生きてる化け猫だニャ。そこらの猫と一緒にするニャ」
「はいはい、私の負けですよ」
笑いながら、彼女は鯖味噌煮の缶詰を取り出す。缶を開けた後、皿の上に中身を盛りつけた。
「どうぞ、召し上がれ」
皿を差し出すと、ミーコは無言で食べ始めた。目を細め、とても美味しそうに味わっている。その姿は可愛らしく、見ている和子の表情も綻んでいた。
が、彼女はあることを思い出す。
「ミーコ……あんた、ここにいて大丈夫なの?」
尋ねると、ミーコは顔を上げた。
「あたしは四百年も生きてる化け猫さまだニャ。お前ら人間と一緒にするニャ」
「そう」
言った後、彼女の表情が真剣なものになる。
「今日、あなたに会えて本当によかった。来てくれて、ありがとう」
「ふん、お前なんかに会いに来たわけじゃないニャ。偶然、ここらに寄ったら、周りに誰もいなくて面白くないから、ここに来ただけだニャ」
ミーコは鯖を食べながら、言葉を返す。昔と変わらぬ口調に、和子はくすりと笑った。
その後、人と化け猫は時を忘れ語り合った。まるで、古くからの親友のようだった。和子は村での様々な思い出話を語り、ミーコは小憎らしい口調で話に茶々を入れる。家の中からは、久しぶりに笑い声が聞こえていた。
数時間後──
暗くなった部屋の中で、微かな寝息が聞こえていた。和子は、ちゃぶ台の上に頬を載せ眠っている。その顔は、とても幸せそうだった。久しぶりに他者と会話が出来て、よほど楽しかったのだろう。
ミーコは、そんな彼女の寝顔をじっと見つめる。
しばらくして、ぷいと目を逸らした。その表情は、どこか悲しげであった。
次の瞬間、黒猫の姿は消えていた。
既に夜の帳が下り、空には星が輝いている。その星明かりは、和子の家にも届いていた。
いや、届いている……などという生易しいものではない。今夜の星の光は異様であった。さらに、彼女の家の周囲からは、生き物の気配が完全に消え失せている。
やがて、ひとつの星がどんどん輝きを増していく。輝きとともに、大きさも増していった。
その星は、真っすぐ降っていく……そして、大地に衝突した。
次の瞬間、膨大な量のエネルギーが解放される。周囲数十km四方にあるものは、全て消し飛んだ。
和子の家も、跡形もなく消滅した。