彼岸に続く駅
奴が追ってくる。
飲み込まれるほどに深い闇の中、街灯の明かりだけがうっすらと道路を照らしている。
市には街灯の数が少ないから安全のために街灯の数を増やしてくれと、町内会から要望が何回か行ったそうだが予算の都合で却下され続けているそうだ。
だが今の俺には都合がいい、暗闇で目も効かないなら奴にとってもそうだろう。交差点を右に左に曲がりながら必死で奴から逃げ続けた。
俺は自転車、奴は徒歩、普通に考えれば引き離せるはずだが、奴のことだ、このハンディを埋めるくらいのことはできるかもしれない。
いや万が一にもしくじれないのだ、できる前提で考えるべきだ。
今日は新月、時刻は多分午前2時半といったところか。スマホを見れば時間は判るが漏れ出る明かりで奴に気取られたくない。それにある程度時間は合わせている、縦横無尽に町を走り回っているが目的地には間に合うようにはしている。
田舎の寂れた町だけにこの時間になれば車通りもろくになく、牛丼屋とコンビニの明かりだけが町の中で煌々と灯りをともしている。
深夜で気温も低めとはいえ8月ともなれば汗を引かせる助けにもならない。ましてや自転車で夜更けからこの時間まで自転車で走り続ければシャツも絞れそうなくらいにグッショリだ。途中に自販機でしばしば飲料水を買って飲んでいなければ熱中症で志半ばで倒れていたかもしれん。
だがその苦労もここまでだ、そろそろ時間も近い。
俺は目的地へ向けて最後のひと漕ぎを開始した。
「着いた。間に合ったか」
町の南の外れに小さな駅がある。今はそこが終点だが、かつてはそこから車庫への線がさらに奥まで伸びていた。今は線路は撤去され枕木も外され、かつての軌道には背の低い雑草がはびこり左右に残った柵にのみその残滓を残している。
車庫跡にはコンクリート製のプラットホームが残っている。俺の目的地はその廃駅だった。
自転車を駅の脇に置くとスマホを取り出しつつプラットホームへ続く階段を上った。時刻は午前2時55分。ギリギリだが早くも遅くもないベストな時間だ。
あと5分。噂が本当であれば、それだけ経てば俺は逃げ切れる。
終わりが見えてきて気の抜けた俺は、木材部分が朽ちて台座だけになったベンチの上に腰掛けた。
「ふう。疲れたな」
空を見上げれば満面の星空。実に美しい光景だ。運命の時まで刻一刻と時計の針は進んでいく。
「多分、大人になればこういうときはタバコを吸って一息吐くんだろうけどな」
「……でなければ、彼女と一緒にでも見るんだろう」
俺しかいないはずのプラットホームで、俺の独り言に返事があった。
「まさか……」
俺が昇ってきたここプラットホームに続く階段で、コツリ、コツリと小さな音が響く。
靴音は少しづつ、ほんの少しづつ大きくなってくる。
やがて影に覆われた頭が見え、肩が見え、そして足が最後の段を踏みしめた。
階段を上がった人影は俺の方に一歩、また一歩と歩いてくる。
「来るな、来るなよ……」
「ひどいなぁ。君と僕の仲だろう?」
ニヤニヤと口元に笑みを浮かべた人影は後ずさる俺を面白そうに見やり、嬲るようにゆっくりとこっちに歩いてくる。
「なぜ来た……」
「決まってるだろ?」
人影は俺の目の前に立った。白いシャツにジーンズ、短く刈り込んだ髪のやや小太りの高校生。
眼鏡をかけ、左のまぶただけ一重、左の前歯が1本差し歯になっていてそこが黒ずんでいる。
ちょっとだけ傾いた立ち方も時々見る。
…俺だ。目の前に俺が立っている。
正確に言えば俺は右のまぶたが一重で差し歯も右だ。
鏡写しの俺が目の前に居る。
「なぜここがわかった?」
「やだなぁ、僕は君、君は僕だよ。君の考えることが判らないわけないじゃないか」
「そうか」
怪異の言う事ながら不思議と納得した。
「写し見ならそれももっともか」
「そうだよ。理解したかな?」
「あともう少しだったのに……」
「ん?何か秘策でもあったのかい?なんにせよ僕に面と向かって会ってしまっては手遅れだね。知ってるだろ?写し見に会ってしまったら死ぬ、って」
3日前から妙なことが起きていたのだ。
学校で補修を受けているはずの俺が、コンビニで友人に会ったという。
家に帰れば親に激怒され、ドアから蹴りだされた。
途方に暮れる俺がふとカーブミラーを見ると、誰かが俺を見ている。
そいつは鏡越しにニヤニヤしながらこちらを見て、俺がそちらを見やるとフっと姿を消した。
そして3日。俺は以前聞いた怪談をたよりにここに逃げ込んだ。
ピロリン、と電子音が鳴る。タイマーを合わせておいた午前2時59分だ。
遠くから2条の光が無いはずの線路上を照らしてこちらにやってくるのが見えた。
「なんだ?廃線のはずなのに……幽霊電車、とでもいうのか?」
「ギリギリ間に合ったか、な」
「……お客様の皆様……願いいたします。電……停車するまで、黄色い線……側に立ってお待ち……さい」
廃駅にどこからか放送が入る。電気が通っていないどころかスピーカーすらないはずなのに。
そして重い音を立てて一両の電車がホームに入ってきた。今は使われていない形式の1両編成の普通電車だ。
外装に塗られている小豆色の塗装もところどころ剥げ、一部はうっすらと錆びも浮いている。
プシューという排気音とともに両開きのドアが開いた。
車内からドッと押し寄せた冷蔵庫ほどもある冷気が、俺たちふたりの肌を冷やす。
「……ただいま到着い……ました電車は彼岸行……通電車、彼岸行き普……車になります。お乗りの際は足……ご注意の上、ご乗車く……い」
無人の車内には薄っすらと白い何かが漂っている。
その白い何かは俺たちの足元まであふれ出し、そして満ちたそれはホームの地面を白く染め、俺たちの足元すらも見えなくなった。
「う、うわぁ!」
突然、奴がうつぶせに転んだ。立ち上がろうともがく奴の腕に白い何かが絡みつく。
……いや、もう白い何かじゃない、手だ。
タコのように何本も何本も伸びた手が、奴の手といい足といい絡みつき、掴み、そしてズルズルと車内へと引きずろうとする。
「くそ!謀ったな!こんなことでこの僕が、この僕が!」
「待て!行くな!」
伸ばした俺の手をすり抜け、鏡写しの俺が車内へと消えていく。
そして目の前で無情にもドアは閉まった。
「彼……き普通電車発射いたし……。次は黄……坂、黄泉平坂、発車の際……ムのお客様はご注……ださい」
電車が動き出した。
最後尾の窓から青白い能面のような顔の車掌と目が合う。
一度車内に目を向け、驚いた顔でこちらを二度見した車掌を載せて電車は紅いテールランプの跡を残し闇に消えていった。
時刻は午前3時3分。もはや電車の影かたちもなく、俺を追ってきた写し見も電車に連れていかれた。
蒸し暑い夏の夜の熱気が冷気に満ちたホームの空気を押し流していく。
「くそ……なぜだ……なぜあと数分が待てなかった……」
悔しさのあまり俺はホームにひざまずく。
「あと3分、いや1分でも来るのが遅れれば俺が連れていかれたのに……」
そうだ。
俺は奴をあの世送りにしたかったのではない。
俺が幽霊電車に乗り、写し見と入れ替わりたかったのだ。
俺を虐待するばかりで顧みもしない親、揶揄といじめのターゲットとしか思っていない同級生、事なかれ主義の教師、そんな連中しかいない日々に未練などあろうはずがない。
もともと写し見が現れることがなくても俺はここにくるつもりだったのだ。
だがこの新月数日前に現れた写し見の存在が俺の計画を少し狂わせた。
伝承によれば写し見は鏡写しの自分、俺にできないことは奴はできるらしい。
この世に未練は無いが、俺をないがしろにし玄関マットとして踏みにじった連中に対しての憎しみはある。
それを放置したまま消えるつもりだった俺に写し見は未練を生じさせたのだ。
俺は「俺としての存在」を写し見に託し、ひとり消えるつもりだった。
俺と入れ替わった写し見は、自転車で逃げ続けた俺を徒歩で追いかけたように肉体的には俺の上書きコピーだ。
写し見という特性上、精神は俺のコピーであるが、性格は優柔不断で情けない俺の正反対であろう期待の存在だ。
だが計画は崩れた。怪異は消え、怪談は終わりを告げた。
俺は最大の理解者であり、俺を救ってくれたはずの男を失った。