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喰い逃げ屋 左文字  作者: 楠木 陽仁
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


『師匠、屋上の方はOKです。声はちゃんと聞こえていますか?』

 福富町商店街を疾走する中、風を切る音と自分の息遣いのみが届いていた左文字の耳に、小型のイヤホンから百貨店屋上に居る斉場少年の声が聞こえてくる。

「大丈夫です。感度良好です」

 イヤホンに内蔵されたマイクに話しかければ、『了解です』と斉場少年の返答がすぐさま帰ってくる。

 便利なものになったものだ。今時はトランシーバーを使わなくても、スマホのアプリとブルートゥースイヤホンさえあれば同じことが出来るのだから。

『それと最前から師匠の様子は撮影しています。いま、ライブ配信に画像を上げていますからね』

 斉場少年の言葉を受けて、左文字は頭上を見上げる。

 そこには小型のドローンがまるでハチドリの様に浮かんでおり、内蔵されたカメラでジッと左文字のことを見つめている。

 このドローンの撮影した画像が、ネット上の動画配信サイトにライブ画像として配信される仕組みになっている。

「いつも思うのですが、それってどうしてもヤらなくてはならないのですかね?」

 しかし、左文字にとってこの動画配信作業はあまり好むところではないようだ。

「これってこちらの位置を動画で知ることが出来るわけですよね。逃げるにこんなにやりづらい事はないですよ」

 ブーブーと文句を垂れる左文字は、ドローンを取捕まえて電源を切ってやろうかと飛びかかる。

『ダメです! 我慢してください』

 既のところでヒラリヒラリと躱すドローンを操縦する斉場少年から、左文字の暴挙を諌める声が聞こえる。

『今時の食い逃げ屋はこうやって動画配信をして再生数を稼ぐんです! それがお金に成るんですからやらないと成らないのです!』

「金だとか再生数だとか云々(うんぬん)かんぬん。純粋な喰い逃げ屋には不必要なんですよ」

『また師匠、そんなこと言って。食い逃げ屋をもっと多くの人に認知してもらう役目もあるんですから! 我慢してください』

「いっそ印半纏の謎パワーで…」

『マジで止めて下さい!』

 そんな風にワーギャー師弟で言い争いをしている声が大きかったのか「いたぞぉ! 喰い逃げ屋だ!」と追っ手に見つかってしまう。

 ―――ああもう、しつこいですね。…3人ですか。

 追っ手の人数を一瞥して左文字は、逃げる速度をさらに速める。

 人の間を縫い、網の目のような路地に潜り、建物の階段を駆け上がること約15分。未だに左文字は捕まっていない。

 されども、その道中は平穏なものではなく、店の外に出れば7人では到底足りない敵に追い掛け回されているのである。

 その数、総勢60人。よくこんなに集められたものだと感心してしまうほどである。

「コイツ! 待ちやがれ!」

 その追っ手の誰も彼もが敵意剥き出しで、鬼気迫る様相でやってくるのだから、捕まったらどんな目に遭わされるのか、想像するだけで冷や汗が吹き出す。

 しかし、流石は喰い逃げ屋左文字と言ったところか、その敵意の掌をヒラリヒラリと回避してゆく。

 そして、左文字を先頭に続いて3人が袋小路の奥へとなだれ込み、ドタバタと揉み合うような、闘うような物音が数秒間続いた。

その後、静まり返った小路の奥から左文字一人だけが帰ってくる。

「…ふぅ、また一丁上がりですね」

 左文字が振り返ることもなく置き去りにされた小路の奥に、まるで団子にでもなったかのように、三人のハゲ男どもが纏められて打ち捨てられている。

 その全身はプラスチック製の結束バンドによって雁字搦(がんじがら)めに縛られており、到底自力で脱出できるようには見えなかった。

『お見事です、師匠。これで半分以上追っ手を減らしているはずですよ』

「正直、真っ向勝負は極力避けたいのですがね。体力使いますし、お腹も苦しいですから」

 先ほどの大立ち回りも何の事やら意に介さない左文字は、苦笑いしながらそのスペシャルラーメンを詰め込んだ太鼓腹を摩る。

 そんな訳で少し息を整えてからまた逃げ出そうかと左文字は考えていた矢先、路地の向こうからまたしても「いたぞ!」と叫ぶ声が届く。

 ―――うぁ…今度は六人ですか。

 その徒党を組んでやってくる追っ手の数に、今度ばかりは部が悪いと判断した左文字は、兎に角ここは逃げるしかないと、一心不乱に走り出した。

「おおぃ! 助けてくれぇ!」

 左文字が後にした路地の奥。拘束された三人の追っ手が声を張り上げて助けを求める。

 しかし、彼らの声も虚しく、左文字を追いかけた六人は誰一人として彼らに気が付くことなく通り過ぎてしまう。

 まるで世界でたった三人になってしまったようだ。奇妙な物悲しさに襲われるハゲ三人の前に、フラリと影から湧いて出たかのように一人現れたのは石神井 玉藻である。

「ああ、アンタか。イイところに来てくれた。早く助けてくれないか?」

 玉藻の姿を確認した三人は、安堵した表情でウゴウゴと芋虫がごとく彼女の下へと躙り寄ってゆく。

 そんな彼らの無様な様子に、まさに虫けらを見下すような視線を送っていた玉藻は、小さい溜息を一つ吐いた後、ハンドバックに手を突っ込んだ。

 ハサミかニッパーでも取り出すのだろうか。そう思って気持ちが逸る三人の額に、張り手のような一撃手、玉藻は何かを貼り付けた。

「!? 何なんだこれ? 『失格』?」

 三人が互いに見返す額に貼り付けられた千社札には克明に『失格』の二文字が印字されていた。

 これはどういう事なのか。訳が解らず鳩豆顔をする三人に「読んで字の如くよ」と玉藻は素っ気なく言ってみせる。

「ルール説明の際に斉場君が言っていたでしょう? 『完全に拘束された状態で立会人に確認された場合、失格の判定を受ける』ですって」

「ぇぇ!? あれって左文字だけじゃなかったのですか?」

「そんな訳ないじゃない。追っ手側がいくら拘束されても解放されたら復活可能だなんて、追っ手側に有利すぎるじゃない」

「そんな、アンタはコッチの味方じゃないのか? 御目溢しとかしてくれたってイイじゃないか!」

「お黙りなさい! 今の私は立会人。審判なのよ。公平でないとならないの。そんな輩はそこに転がっていなさい。こっちはいま動画の視聴で忙しいのだから」

「聞いてないぞ!」「ケチ! 高慢ちき!」「この女狐が!」

 転がる三人の絶え間無い罵倒の声は、再び玉藻が溶け込んだ影の中へと吸い込まれて消えていった。

 ―――一方その頃。

「ハァ…フゥ…ようやく撒いたみたいですね」

 六人の追っ手に追い回されたがどうにか逃げ切った左文字は、商店街にポツンと佇む寺の境内でようやく一息吐くことができた。

『カタクナ』でチャレンジラーメンを完食し、店を飛び出してからというもの、ずっと走りっぱなし逃げっぱなしだったのだ。

 逃げ走り慣れている左文字の呼吸に乱れはないものの、少々休まなくては走り続けることはやはり難しい。

 それに、気を抜くと腹に収めたものが、口から外に出たいと暴れだす。

 ―――食べたものを吐いてしまったら、その時点で喰い逃げ屋側の負けとなる。

 ルールでそのように取り決められており、尚且つカメラで撮られている状況で、そんな醜態を晒すわけにはいかないので、どうしても休みは必要である。

「しかし、今回の追っ手は手強いですね。私がここまで追い詰められるのは久しぶりですよ」

『当てが外れてしまいましたものね』

 そもそも、左文字がまず逃げようとしていたのは、『カタクナ』から最も近い西部鉄道の駅である。

 正直左文字としてもあれだけ大量のラーメンを食してから、全速力で走ることは苦しくて堪らないのである。

 それにいくら腹に収め切ったからといって、今度は腹の中で特製中華麺が膨張を続けており、左文字の胃はドンドンと圧迫され続けているわけである。

それは腹がまるで時限爆弾のようになったかのようである。だからこそ短期決戦を狙って一気に駅まで駆け抜けるつもりだったのだ。

しかし、それは追っ手側にとって想定の範囲内であったのか、左文字がまっすぐ走った先に人の壁が出来ていた。

駅から一本に通じるその道に、卸問屋三社連合50人によるスクラムが完成しており、手ぐすねを引いて左文字のことを待っていたのだ。

店の中に居る『カタクナ』の店員十人にばかり気を遣っていた左文字は、この熱烈な歓迎は予想外であり、危うく彼らの中に突っ込んでいきそうになっていた。

そしてそのスクラムは左文字の姿を認めた途端、暴れ牛の群れがごとく、地響きをさせながら左文字に突進をかけてくる。

これには流石の左文字も踵を返して路地に逃げ込むしかなかったが、それでも追っ手は手を緩めず、それからずっと逃げに逃げて東部駅側まで来てしまったのである。

予想に反した執拗な追跡に、流石の左文字も冷や汗が出てくる。

―――やはり、情報収集のためとは言え、会社に忍び込んだのはまずかったでしょうか。



特にこの逃走劇で難敵であったのが矢尾と井延の二人である。

共に左文字によって会社に無断で侵入された挙句、大切な取引先の情報を盗み出されているものだから、左文字自体して恨み骨髄となっている。

そんなことだからこの二人の追っ手は苛烈を極めた。

矢尾に至っては商売道具である野菜を武器として左文字に挑みかかって来た。

時には(つぶて)のようにジャガイモを投げつけ、時には棍棒のように大根で大上段から殴りかかってくる。

手榴弾のように爆発するトマト。散弾のように大豆を飛ばしてくる蓮根。ブーメランの起動を描くバナナ。まさか人参が壁に刺さるとは。

多種多様な野菜の数々を状況に合わせて使い分け、宛ら収穫でもするように左文字を追い詰めていった。

そして井延もまた左文字の逃走劇に待ったを掛ける強敵であった。

彼は一流の獣使いだったようで、指笛一つで牛、豚、鷄と様々な家畜を自在に操って見せた。 

牛の突進力を活かして人込みをものともしない追跡を演じたかと思えば、豚の類まれな嗅覚を用いてどこまでも後を追いかけてくる。それらの追跡を撒くために狭い路地へと逃げ込もうとも、すぐさま鶏が回り込み、その鳴き声を以て居場所を伝える。

これらの連係プレーによって井延は左文字を捕らえる一歩手前まで来たのである。

そんな二人の強敵に追い詰められ、あわやこれまでかと左文字も諦めかけた。

しかし、天が軍配を下したのは左文字であった。

この勝敗は正に幸運であったとしか言いようがない。

前門の虎、後門の狼宜しく一本道の路地の上、左文字は矢尾と井延に挟み撃ちにされる格好となる。

進むことも引くことも出来ず万事休すとなった左文字を見据え、二人の狩人はニヤリと笑う。

『さあ、年貢の納め時だ』

『逃げようものならラリアットをかましてやる』

 ジリジリと詰め寄ってくる二人。進退窮まる左文字。そんな睨み合いに終止符を打つべく響いた井延の指笛に導かれ、家畜たちが一斉に躍り掛かる。

 躍り掛かる。が、その行く先は左文字では無かった。

 あろうことか家畜たちが一目散に駆け寄ったのは、路地の反対側で構えていた矢尾の方であった。

 これには矢尾だけでなく井延も面食らったであろう。

 そのまま矢尾に飛びついた家畜たちは、彼の持っている野菜を一心不乱に貪り始めたではないか。 

 その勢いは野菜だけに留まらず、矢尾諸共食い尽くしてしまおうと言う程で、これには矢尾も堪らず悲鳴を上げる。

 その一瞬の隙を見逃す左文字では無かった。

 想像を絶する事態に唖然とする井延のもとへ左文字は一気に間合いを詰めよると、電光石火、印半纏の袂からプラスチック製の結束バンドを取り出し、隼の如き動きで井延の事を拘束してしまう。

 そして、動くことが出来なくなった井延を確認すると、悠々とした足取りで、散々家畜に啄まれ死に体となった矢尾の事も拘束したのである。



 ―――あの様子なら二人は再起不能でしょう。

 まさかこんな場所でこれほどの強敵に出会うとは。思い返しただけでもどっと疲れが押し寄せてくる。

 そんな疲れを一度拭い去ろうと、寺の境内に設けられている手水舎(ちょうずや)へと歩み寄る左文字。

 掻いた汗を拭おうと、手水を取った。

―――その時である。

「イョォォォォォぉっ!!」

 独特な掛け声と共に見舞われた一撃が、見事に左文字の脳天を打ち据える。

 堪らずその場に倒れ伏す左文字。星が舞い、白む視界の中に捕らえたのは、白木の棒を構えた免坊の姿であった。

 ―――今の技は、神道(しんとう)夢想流(むそうりゅう)杖術(じょうじゅつ)

『師匠! 大丈夫ですか!?』

 カメラ越しに一部始終を目撃していた斉場少年の案ずる声が、耳元のイヤホンから響いてくる。

「あまり、大声を出さないで下さい。頭に響きますよ」

 不意に見舞われた一撃のダメージが残る左文字は、ヨロヨロとフラつきながら体勢を立て直す。

「ふん、俺の棒の一撃を受けて立ち上がって来るとは、中々にタフな奴だな」

 その左文字を見据える免坊は、手に持った棒を杖のように地面に突き立てて、居丈高な様子で構えている。

「私もこの稼業は長いですからね。踏んだり蹴ったりは何時もの事ですよ」

 返答する左文字は平静を装っているが、その実は内心に焦りが浮かんでいた。

 ―――今の芯の通った重い一撃。とても素人技ではありませんね。神道夢想流杖術。恐らくは師範代クラス。

 まさかこんな所で達人と出会うとは。なんて運の無いと左文字は自分の持ってなさに呆れてしまう。

 神道夢想流杖術は江戸時代初期の兵法家『夢想(むそう)権之助(ごんのすけ)』が興したとされる杖術の流派である。

『突かば槍 払わば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり』

 神道夢想流杖術に伝わる流儀歌(りゅうぎうた)に在る様に、 その特徴は変幻自在に繰り出される技の数々に在ると言っていい。

 状況に合わせて様々に変化し繰り出される技の数々は、相手を翻弄し、確実に仕留めることに特化した武芸と言えるだろう。

 何より伝説では、開祖である夢想権之助はその棒術を駆使し、かの宮本武蔵に勝利したとも言われているのである。

 そんな恐るべき技の使い手が、今まさに自分と相対している。これには流石の左文字も予想すらしていないことだった。

 何と言う事だ。この場は逃げるが得策だ。せめて屋上に辿り着かなければ。

「させるものか!」

 寺の出口に向かって一気に駆けだそうとする左文字。しかし、その動きを瞬時に察知した免坊は、すぐさま先回りして左文字の足元に一撃を入れる。

 白木の棒を脛に食らった激痛に、苦悶の表情で膝を着く左文字。

「フフフ… 年寄りと思って油断したか? こう見えてもこの免坊、客の個別注文や少量生産はこの手で! この長麺棒で麺を打っている! 体力と膂力(りょりょく)ならば其処ら辺の若造などには負けんよ」

 老いてなお(たくま)しいとは正に彼の事か。彼の言う事が本当であり、先ほどからの彼の動きから察するに、彼自身の体力のスペックはアスリートのそれに匹敵する。

 その上で卓越した武術を繰り出す得物、長麺棒は彼が毎日のように手にする仕事道具であり、まさに彼の手足の延長と言っても良い。

 そんな精密無比な長麺棒から繰り出される杖術は、まさに豪快と繊細を併せ持つ恐ろしい技の切れ味を持っていた。

 ―――本当にマズいですね…。

とくにこちらの目の前で棒の先端が伸びてくるような、間合いの読めない一撃が厄介だった。

 数々の修羅場を潜り抜け、それなりに動体視力と見切りには自身が有った左文字だが、やはりそこは年季の差だろうか、免坊の方が一枚も二枚も上手であり、躱すことも防ぐことも出来ない一撃、また一撃と食らっていく内に、徐々に左文字の体にダメージが溜まってゆく。

「ふん、よく耐えるものだ。だがもう限界だろう? 立っていることも(まま)()らないようだが?」

 悔しいが免坊の見立て通りである。左文字は既に体のあちこちが痛く、その痛みに耐えるだけでも精一杯だった。

 そんな左文字の状況に勝利を確信したのか、ニヤリと免坊が不敵な笑みを浮かべる。

「安心するがいい。命はとらないのが杖術だからな」

 一直線にズィッ…と構えられた長麺棒の先端。それが左文字の眉間に向けられていることは左文字も解っている。

 おそらくは無駄を一切省いた最速の薙ぎでそこを打ち据えて、一気に左文字を昏倒させようと言う魂胆なのだろう。

 もちろんこれは避けるか防ぐかしなければならない。しかし、今の左文字にはどちらも実行できるほどの余力は無かった。

 まさにまな板の上の鯉と言った状況である。

「イョォォォォォぉっ!!」

 そして、今度こそ終わりである。そのような決意を持って免坊は、必殺の一撃を左文字へと見舞う。

 ―――はずだった。

 弘法も筆の誤りと言うように、いかなる達人でも些細なミスを犯すことが有る。

 そのミスがまさかこのような場面で起ころうとは、勝ち誇る免坊も何とか抗おうとする左文字も思いもしなかっただろう。

 その時、免坊が足を滑らせたのだ。

 寺の境内は白く輝く玉石が敷き詰められており、元々足元が悪かった。その上、渾身の一撃を放つために踏み込んだことが災いして、盛大に足を滑らせたのだ。

 いくら達人の一撃と言えども、支えとなる足元が覚束なければ、その行く先は的を外れてしまう。

 それに伴って長麺棒の穂先は左文字の眉間を捕らえることは無く、悪足掻きの如く構えられた左文字の左腕の、印半纏の左袖を掠めた。

 勢いが大分殺されているとは言え、それでも十分に鋭い長麺棒の一撃は、掠っただけでも印半纏の袖を引き裂いてみせる。

 そうすると、どうした事だろうか? 印半纏の裂けた布目から、得体の知れない粉末がサラサラと零れ出し、体勢を崩して膝を着く免坊の頭上から降り注ぐ。

「!? ぎゃあぁぁぁぁぁ!!」

(つんざ)く様な悲鳴を上げてその場でのた打ち回る免坊。

「アツっ! 何ですかコレ! 熱い!」

 当の左文字も何が起こったのか解らない様子で、不意に襲った熱さから逃れるべく必死になって袖を振る。

 イッタイ何だというのだ。何が起こったというのだ。謎の熱が吹き出してきた袖の穴を確認すると、そこから白い紙の様な物がハラリと落ちた。

 ―――これって…。

 左文字にとってそれは拾い上げるまでもなく何なのかは解った。そもそもそれは自分が仕込んでおいたものだった。

『あれは使い捨てカイロ!』

 カメラ越しに状況を確認した斉場少年の声が届く。

 確かにそうだ、ついさっき出てきた白い紙のような物は使い捨てカイロの包装だ。

 大食いの際に丼を加熱するため、左袖に仕込んでおいた使い捨てカイロ。それが免坊の一撃で破けて中身が飛び出してきたという訳だ。

 それも寒冷地用の相当熱いやつだ。そんな物の中身を直接地肌に振りかけられてしまったら、今の免坊の様になるのも頷ける。

 そうとも、いくら免坊が武術の達人であっても、不意にこんな事をされれば怯まずにはいられない。

 ―――好機です!

 次の瞬間には左文字は弾かれるように寺の出口へ向けて駆け出していた。

 これは千載一遇のチャンス。そうであるならば逃げるが勝ち!

 こんな障害物のない開けた境内で真面に戦うには、免坊の使う杖術は分が悪すぎる。

 あんな長ものを自由自在に振り回されたら、左文字がどうやったところで左文字が免坊に近寄ることなんて出来はしない。

 だからこそ逃げる。逃げて場所を移すのだ。

「うぅ…待ちやがれ!」

 左文字が離れていく気配を察したのか、叫んだ免坊はすぐさま体制を立て直して左文字を追跡する。

 そのまま二人が雪崩込んだのは、寺の向かいに建っている百貨店であった。

百貨店の中、そこは通路で区割りされた狭いスペースに、宝飾品やマネキンなどが密集して設置されている場所。

そんな場所を、少々回復したのだろうか草むらを駆ける野ネズミの如く逃げ回る左文字を捉えきれない免坊は苛立ちを募らせる。

そもそも、どうしても免坊はその手に持った長綿棒を十分に振るうことはできないのだ。

追い縋り、間合いに捉え、今まさに左文字めがけて打ち下ろそうとするその棒の先に、『ダイヤモンドネックレス ¥50,000』だの『シャネル レディーススーツ ¥70,000』だのと目にしてしまえば、自ずと寸止めせざるを得ない。

 その上、追走劇を繰り広げる二人の横で、デパートの店員がガチャガチャと電卓を弾いてこちらを睨んでいる。

 ―――やめてくれ、これは俺のせいじゃない。ここにある商品は、妻に強請(ねだ)られても気軽に買ってやれないんだぞ!

 こんな状況では真面な精神状態で戦うなんてこと、例え武術の達人でもn良識ある一般市民の免坊にはできなかった。

「おのれ! 食い逃げ屋。卑怯だぞ!」

 腹の底に溜まった憤りをぶつけてくる免坊を尻目に、キョトンとした表情の左文字がエレベーターのドアの向こうに消える。

 ――― … 屋上か!

 屋上遊園地への直通エレベーター。左文字を乗せたその箱が通過した階層の数字が、次々とオレンジ色に灯っていく。

「逃がすものか!」

 そう叫んだ免坊は次のエレベーターの到着を待つことなく、階段を使って屋上を目指す。

 免坊は完全に頭に血が昇っていた。

 激しい運動と左文字への憤怒から顔は燃えるように真っ赤になっており、白目は先ほどのカイロの灰を受けたためか、これまた赤く充血している。

 さらに形振り構わず階段を駆け上がるうちに、着衣は徐々に着乱れて、彼が屋上遊園地に辿り着いた時には、まるで一匹の鬼が現れたような、そんな様相だった。

 福富町商店街の中で一際大きい建物である百貨店。その屋上には近年では珍しくなっている屋上遊園地がある。

 屋上に存在する1,600㎡のスペースの中にメダルやクレーンなどのゲームコーナー、ヒーローショーが行われるステージ、コインで動くゴーカートのコース、そして観覧車と多種多様なアミューズメントが設けられている。

 そして今は休日の昼下がり。遊園地に遊びに来た子供たちもイッパイいる。

 そんな子供たちが今の鬼のような免坊の姿を見たらどうなるか? 当然の事ながら全員が恐れをなして泣き出してしまった。

 それを見た親御さんたちは明らかに敵意と警戒の感情を剥き出して免坊を睨み、子供たちを庇っている。

 これには焦り、何とか誤解をしようとする免坊だが、近寄ったのが逆効果、さらに泣き叫ぶ子供に現場はさらなる混沌を極める。

―――なんだって俺がこんな目に遭わなければならないんだ。それもこれも元は全て喰い逃げ屋のせいだ。

 怒りに燃える免坊のその赤い眼差しが向かう先、そこにはステージの上でこの状況に我関せずといった様子で佇む左文字の姿があった。

 もはや言葉にもならない憤りが雄叫びとなって口から飛び出してくる。

 向かう先はステージの上、徐に舞台袖へと消えてゆく左文字を追うように、脇目もふらず突っ込んでゆく。

 だが左文字も舞台袖に隠れたところでどうなろうと言うのか。ステージが設けられているのは屋上遊園地の隅角にあたり、そこはそれ以上逃げることもできない行き止まりである。

 そんなところに逃げ隠れても意味はないだろうと、冷静な判断ができるなら、普通はそう考えるはず。

 しかし、頭に血が上りきった免坊はそんなことを考える余裕もなく、ただ左文字に渾身の一激を加える、そのことのみに思考が支配されていたのだ。

 ―――チャリン…

故にこの小銭が放つ小さな音も、免坊は間近にあったというのに聞き逃した。

次の瞬間、舞台袖から爆音を上げながら飛び出してきたのは、遊園地内の遊具の一つ、コインで動くゴーカートだった。

ゴーカートのハンドルを握る左文字は、アクセルを全開に吹かしつつ、スピンをかけて免坊と激突、そのまま彼を跳ね飛ばす。

咄嗟の事、その上予想外の展開に、対応が遅れた免坊は、防ぐことも侭成らず、その場に倒れ伏したまま、轢き逃げ犯がゲームコーナーへと逃走してゆくのを見送る。

それでも、なんとか追い縋ろうと、長綿棒を杖にしてヨタヨタとゲームコーナーへとやってくれば、憎き相手は情けを以て自分を待っていたかのように、多種多様なゲームの筐体の森に鎮座している。

「おのれぇぇぇぃ!」

 もはや辛抱ならんと左文字に突っ込む免坊。ゲームコーナーの騒々しい電子音すらかき消すほどの叫びを上げている。

しかし、この状況、この形。これは先ほどのステージの再現となってしまう。

 すると左文字が取り出したのは、このゲームコーナーで使うことができるメダルコイン。

 それをトスするように放り投げると、吸い込まれるように一台のゲーム筐体のコイン投入口へと滑り込む。

『大当たりィィィ!!!』

 今度はゲーム機が免坊に負けじと大音量を彼の横で発する。その次には筐体の下部に設けられた『メダル取り出し口』から、先ほど左文字が投擲したものと同じメダルが何百枚何千枚と溢れ出し、雪崩の如く免坊に襲いかかる。

 そしてそれも一台限りではない。

 左文字が次々にコインを投げ込んだ筐体からは、底が抜けてしまったかのようにコインが溢れ出し、免坊のことを埋め尽くしてゆく。

 メダルの津波に溺れる免坊。やっとの事でそこから抜け出すと、再度逃げたさ文字を見つけるべく辺りに睨みを効かせる。

 最早左文字は容赦ならぬ。命を取ることも(いと)わない。

 そのような決意を持った免坊が観覧車を見やれば、そこに憎らしい㊧の印半纏がゴンドラの中に見つけられる。

 左文字は観覧車に乗っている。

 そう確信した免坊は、三度勇んで観覧車へと駆け寄るが、ここに来て漸く彼は冷静さの欠片を取り戻した。

 今の左文字は観覧車の中、逃げも隠れもすることができない。

 今は手の届かないところにいたとしても、グルッと一周回ってくれば、自ずと免坊の前に現れるしかないというものだ。

 だったらここで待てばいい。

 観覧車の乗り口で仁王立ちを決め込む免坊は、宛ら太陽が巡るのを日がな一日待つかの様に、今か今かと観覧車が降りてくるのを待っていた。

 そして、左文字を乗せたゴンドラが丁度真上に差し掛かった時、不意に免坊はその方を後ろから叩かれた。

 いきなりの事に驚いて、免坊は後ろを振り向くと、矢庭にその両乳首を鋭く尖らせた指先で、目一杯の力を込めて突き刺されたのである。

 あまりの痛みに免坊はもんどりを打ってゴンドラの中に倒れ込むと、直ぐさま扉の鍵をかけられてしまう。

 理解不能な出来事が立て続けに起こって訳が解らなくなっている免坊が、苦痛を堪えながら扉の外を見れば、そこにはあろうことか手を振る左文字の姿があった。

 そんな馬鹿な。何で左文字がそこにいる。

 困惑している内に免坊を乗せた観覧車は、大地を離れドンドンと高度を上げてゆく。

 そうして今度は免坊のゴンドラが真上に差し掛かったところ、不意に観覧車は動きを止めたのである。

 制御コンソールを操作しつつ、喚き揺れる免坊を乗せたゴンドラを見上げる左文字の前に、下まで戻ってきたゴンドラの扉が開く。

「上手くいったみたいですね。師匠」

 ゴンドラの中から出てきた斉場少年は、取り出した『観覧車 点検中』の立て看板を設置する。

「斉場君もお疲れ様です。助かりました」

 労いの言葉をかける左文字は、斉場少年から印半纏を受け取る。

「しかし、こんな形で印半纏に袖を通すことに成るなんて、思いもしませんでした。でも良かったのですか? あれほど僕が袖を通すにはまだ早いと言っていたのに」

「まあ、先人達には顔向け出来ないかもしれませんが、当代の『左文字』は私ですから、私がイイと言ったら大丈夫ですよ」

 再び印半纏に袖を通す左文字。「ヤッパリその印半纏は師匠が一番似合いますね」と斉場少年に言われると、どうにもむず痒くなってしまう。

「しかし、上から見ていましたけれども、何なんですかさっきの。あの免坊社長の倒し方。乳首当てゲームが得意なんですか? 師匠」

「そんな人のことを変態みたいに言わないで下さい。ああするのが手っ取り早かったからそうしたのですよ」

 思い返してみれば流石にあの免坊の倒し方はあんまりだったと気が付き、左文字は年甲斐もなく赤面する。

「あの免坊社長の使っていた神道夢想流杖術で用いる棒ですが、『乳切木(ちちぎりき)』といって乳首の高さまでの長さの棒を使うのです。だから、乳首の位置が一発で予想できたのです」

 ここまで言っても未だに勘繰るような視線を向ける斉場少年に、左文字はより一層取り繕うように説明を続ける。

「免坊社長のような武術の達人を倒すのなら、不意打ちで急所に一撃を加えるしか無かったのです! 乳首は血管と神経が集中し、皮膚も薄い場所ですから! 一番狙い易い急所だったのです!」

「解りましたから…。そんな必死に成らないで下さい…師匠。それよりも、約束忘れてないですよね?」

「ええ、覚えていますよ。この食い逃げ屋が終わったら、『タカセ』でご馳走してあげるという約束ですよね」

「そうですよ。ゴーカートをステージの舞台裏に運んだり、メダルゲームをあと1コインでフィーバーするように調整したり、観覧車の点検用看板を探したりと、ナビゲートを配信の片手間にやるには重労働だったのですから」

 エヘンと胸を張る斉場少年。彼をこの屋上に待機させたのは左文字のサポーターとしての役割だけでなく、屋上遊園地そのものが追跡者を返り討ちにするための罠に作り変えるためだった。

 そのために斉場少年には無理難題を押し付けてしまった、それを卒なくこなしてしまう彼には左文字も頭が下がる思いである。

「じゃあ、サーモンステーキとライスカレー。デザートに半生チーズケーキ頼んでもいいですか?」

「いいですよ。何ならケーキもう一個付けていいですよ」

 ヤッタと歓喜の表現を飛び跳ねる斉場少年を、左文字は微笑ましく眺めている。

「…それで、斉場君。そろそろ状況を教えてくれないかな」

 そんな歓喜の舞が2分も続けば、流石の左文字も現実に引き戻してやらなくてはと思うのである。

「そうですね。チョット待ってください」

 師匠からの質問に漸く我に返った斉場少年が、取り出した数台のタブレット端末を、慣れた手つきで同時に操作する。

「ええと、確か最初にいた追っ手の数が大凡(おおよそ)60人。それで、今さっき閉じ込めた免坊社長を含めて再起不能となったのが34人。そうなると26人の追っ手がまた健在だということになります」

 我ながらよくもまぁ、たった一人そこまでやったものだと、左文字自身自分を褒めてやりたくなる。

「しかし、まだまだ敵が多いですね。少しも油断はできない、そんな状況には変わりないですね」

「それでも数は大分減ったから、包囲網に穴が出来ているようですよ」

 ここを見てくださいと、斉場少年がタブレットを操作すると、別のウィンドウに街頭の様子がいくつも映し出される。

「確かこの映像って他のドローンカメラの画像を映しているのでしたよね?」

「そうです。師匠がチャレンジラーメンに挑んでいる間に、何機か商店街のあちこちに配備しておいたのです。これを見る限り…ここです、ここに穴があります」

 斉場少年が指さす場所。そこは何を隠そう西部駅前方面であった。

「ほう、面白いですね」

 映し出された情報を、左文字は興味深げに、実験の成り行きを見守る科学者のように覗き込む。

「しかし、なんでまたココだけがポッカリと穴が空いたみたいに手薄なんでしょうね? ほら、逆に東部駅方面は結構人数が集まっているのに」

「それは、恐らく私が東部駅の方へと逃げたからでしょう。それを追ってこれだけ集まってきたわけです。それに、最初彼らが待ち受けていたのが西部駅の方でしたから、私と鉢合わせした結果、そっちには来ないと考えたのかもしれません」

 理由はどうあれこれはチャンスである。敵の数は未だに多いものの、コツコツと削って来た甲斐があって、ようやく突破口が現れたわけである。

「それでは行ってきますね。ナビゲート宜しくお願いします」

 羽織った印半纏の襟を正し、戦士の如く再び商店という戦場へと赴く左文字に、背中から「ご武運を」と掛ける斉場少年の言葉が聞こえる。

 ここまで来たらいよいよ大詰め。左文字が勝つにしろ負けるにしろ、この喰い逃げ決着の時は刻一刻と近づいている。

 そんな心持ちで気持ちを新たに引き締めた左文字は、斉場少年のアドバイス通りに西部駅方面へと走り出す。

 なるほど、斉場少年の言っていたことは正しかったようだ。

 確かに西部駅方面へと向かう道すがら、追っ手の数は目に見えて少なくなっているように感じる。

 偶に追っ手を見かけたとしても、数の有利を活かせないのか、少し隠れただけで見つかることなくやり過ごせてしまうのである。

 そんなこんなで難なく西部駅前まで来てしまった左文字は、少し拍子抜けしてしまう。

 こんなに簡単に事が運んでしまっていいのだろうか。上手く行き過ぎてしまって逆に怖くなった左文字は、再度注意深く周りを見渡す。

 ―――ヤッパリ、追っ手の影はないですね。

 改めて確認しても、西部駅前大通に追っ手の影も形もない。

 そもそも今回の追っ手は解り易い。それは先ほどのカメラの画像からもハッキリと見て取れるくらいに。

そもそも『カタクナ』の追っ手は揃いのツナギに光り輝くハゲ頭。100m先からでも、100人の中に居てもハッキリと居ることが解る追っ手である。

また、卸問屋三社連合の追っても、全員がそれぞれの作業着を身に纏っているため、こちらもかなり分かり易い。

 そんなハゲ頭も作業服の集団も左文字の視界のどこにもない。ハッキリ言ってこれはチャンスである。

 ならばとばかりに左文字は一気に決着をつけるべく、路地からトップスピードで駆け出していく。

 駅前大通りを横切る青に変わった信号を、同じ側から歩む人、向かい側から進む人、その人垣の間をスイスイと縫って左文字は西部駅の入口近くまでやってきた。

 このまま電車に乗ってしまえば自分の勝ちだと、自分のパスケースを懐から取り出す。

「うぁぁぁぁぁ!!」

 そんな不意をついて雄叫びを上げながら、少年が一人左文字に飛びかかってくる。

 唐突なタックルを成す術なく受けてしまった左文字は、受身も取れず倒れこむ。

 イッタイ何なのだ。何が起こったというのだ。

 訳が解らぬままコンクリートに頭を痛打した左文字は、白みかける意識の中にほんのり漂う豚骨スープの香りで覚醒する。

 ―――この人、豚骨臭い!

 今日の追っ手のツナギハゲと同じ匂いを漂わせるこの少年。しかしその髪はフサフサで、体の線も細く到底追っ手どもと一緒だとは思えない。

『師匠! そいつは『カタクナ』のバイトですよ!』

 確かに、どこかで見た覚えがあると思えば、彼は『カタクナ』のアルバイトだった。

 正直左文字は油断していたのだ。『カタクナ』の追っ手であるならば、ツナギのハゲに違いないのだと。

 しかし、彼はアルバイト。正社員ではないのだ。だからこそ彼は例外的に『カタクナ』のユニフォームとも言うべきその姿を取らずに済んでいる。

 だからと言って彼のその必死さは正社員たちに勝るとも劣らない。獲物に食らいついた獣のごとく、いくら振りほどこうとしても左文字を掴んで離さない。

「放して下さい! せめて距離を置いてください! 豚骨の臭いが移ります!」

「! アナタも俺のカノジョと同じことを言うのですね!」

 左文字の言葉が逆鱗に触れたのか、アルバイト君の腕に篭る力がさらに強くなる。

「コッチは! カノジョがアレが欲しいだのアソコへ行きたいだのと! ワガママ叶えるために頑張って働いているのに! 臭うからお風呂入ってきてだって巫山戯るな!」

「八つ当たりでしょう!」

「喰い逃げ屋を捕まえたらボーナスが出るんです! しばらく働かずに彼女のワガママを叶えられるほどのボーナスが! だから大人しくしろって言うんだよ!」

「そんなんでまだ愛しているのですか!?」

 ドタバタ揉みくちゃと、往来で人目も憚らず、二人は見るにも聞くにも堪えきれない取っ組み合いと罵倒の応酬を繰り広げる。

 そんな事を白昼の往来で行っていたものだから、何だ何だと遠巻きに人が様子を見守り始める。

「喧嘩かな?」「痴漢かな?」「犯罪かな?」

 見物客は思い思いに好き勝手なことを言っているが、どれもこれも穏やかでないことを口にする。

 ―――そうか、その手があったか!

「いやぁ! 触らないでぇ!」

 何を思ったか、どうしたことか。急に左文字の口から絹咲くような黄色い悲鳴が飛び出した。

 もともと中性的な左文字の声であったが、裏声にすると途端に女っぽさが増す。

 そんな声で悲鳴を上げるものだから、ギョッとしたアルバイトが周りを見回すと、明らかに自分を非難するような視線が集中する。

「ねぇ、助けてってさ…」「やっぱり犯罪なんじゃない?」「近くに交番あったよな」

 その上、左文字の一見すると男女の区別が付かない外見は、そこで繰り広げられる一部始終に一気に犯罪集を漂わせる。

 こうなってしまえば誰が加害者か被害者か、遠巻きから勘ぐるしかない観衆は、そうだと決め付けてそれぞれ動き出す。

「違っ! 違うんです!」

 取り繕うとすればするほど怪しくなる。それは左文字もついさっき経験済みの事柄であり、彼の意識が周りに逸れている内ならば、彼のスマホをポケットからスリ取ることも容易(たやす)く出来た。

 ―――ありました! これですね!

 そのままセキュリティを難なく突破して、無料通信アプリにある履歴から、ある人物へ通話を繋げる。

『もしもし、タカくん? どうしたの急に?』

 スピーカーモードで投げ出したスマホから聞こえた声に、アルバイト君ことタカくんは青褪めた顔になる。

 ―――ビンゴですね。あれだけの通話履歴、ヤッパリ読み通りでした。

 左文字の狙い通り、スマホは今タカくんの彼女さんと通話が繋がっている。

「いや、何でもないんだ。間違って掛けちゃったんだ」

 苦笑いを浮かべてなんとか穏便に済まそうとするタカくんだが、スピーカーモードのスマートフォンは近くで叫ぶ左文字の悲鳴まで捉えてしまう。

『…ねぇ、タカくん。今のは何なの? 何をしているの?』

「いや! 違うんだって! これは間違いなんだって!」

「お願い! もう放して! 乱暴にしないで!」

『―――今の何が違うの? 何が間違いなの? 犯したの?』

 左文字のダメ押しの一言が効いたのか、彼女さんの声のトーンがさらに一弾低くなる。

 タカくんはよっぽど彼女さんの尻に敷かれているのだろう。彼女さんに質問されるたびに、元から青かったその顔は見る見る内に土気色に変わってゆく。

そして、それに比例するかのように徐々に彼の口数も少なくなり、終いには言い訳の言葉すら出てこなくなってしまった。

 もしも自分が付き合うことがあったとしても、こういう異性は嫌だなと、他人事ながら心胆寒からしめる左文字の耳に、『もうイイ』と彼女さんが会話を遮るセリフが聞こえる。

 これは破局か? チョット悪いことしたな等と、自分の行いを棚に上げて思う左文字だが、次に聞こえてきた『位置情報アプリは…』のセリフに耳を疑う。

『西部駅前通りに居るのね? 解ったわ。三十分以内にそっちに行くから動かないでね。仮に逃げても解るから』

 最後が猫を撫でるような優しい声で逆に怖くなる。目の前のタカくんも目に見えて萎縮しきった様子で不憫になってくる。

「その、まあ…頑張って下さい…」

 それは声をかけるのも忍びないものの、せめてもの良心の呵責を晴らすためのセリフだった。

 ブルブルと震えてその場で頭を抱えるタカくんに、これ以上関わり合いに成らない方がイイと、左文字は忍び足でその場を去ろうとする。

「おっと、責任逃れか?」

 しかし、その行く先を通せんぼする人垣が目の前に現れる。

 その誰も彼もがハゲ頭に揃いのツナギ、最近のラーメン屋がよくやる腕を組んでの仁王立ち。傍目からは見分けの付かないこの集団。見間違いようもないコイツらはご存知『カタクナ』の追っ手たちである。それに卸問屋三社連合の姿も見える。

 いつの間に囲まれていたのだろう。タカくんにばかり気を使っていたせいか全く気が付かなかった。

その中で頭一つ大きいハゲ頭が左文字に語りかけてきた。もちろんそれは『カタクナ』の店主である。

「アルバイトにはお前さんの足止めをするように指示していたが…、うちのアルバイトに酷いことをしただろ?」

「いえ、したのかされたのか…。どちらとも言いがたいですね」

「問答無用。詳しい話は事務所で聞かせてもらおうか」

 左文字を囲む円陣がジリッジリッと幅を狭めていく。

 漁師が地引網を手繰るように、中の獲物を逃さぬように、猫の子一匹逃がさない包囲網が左文字を追い詰めてゆく。

 周りの圧に気圧されて後ずさる左文字の足に、「頼むよ! 一緒に折檻受けてくれよ!」とタカくんが泣き腫らした顔で縋り付く。

 それだけはこっちこそ、頭を地面に擦り付けてでも御免被りたい。だからどうか放して欲しい。

 なんとかタカくんを振り解こうとするも、先程までの必死とはまた違う心境の彼は、どうやっても放してはくれない。

 このまま此処にいては喰い逃げ屋としても敗北するし、タカくんの彼女の折檻に巻き込まれるしで色々とヤバい。

 それは解っているものの、進むも引くもどうしようもない。

『師匠! 伏せて下さい!』

 そんな状況を打破する声が左文字の耳のイヤホンから響く。

 言われた通りにしゃがみ込むと、頭上を燕のごとく飛び交う影が幾つも通過する。

 突っ込まれた先で待ち構える追っ手達が怯んで狼狽えるそれは、プロペラを細かく震わせて空を飛ぶドローンの群れだった。

『今蹴散らしますから! その隙に逃げてください!』

 言い終わるや否や、ドローン一機をタカくんの顔面に直撃させた斉場少年。

 拘束から解放された左文字は出来た隙を突いて一気に走り出す。

「あっ! 逃げたぞ! 追うんだ!」

 叫ぶ店主に弾かれるように追っ手達が左文字の跡を追いかけようとするが、一歩目を踏み出す前に全員がその場でズッコケる。

 気づけば全員の足に目に見えないほどのワイヤーが絡みついている。そのワイヤーの端っこは、先ほど飛び交っていたドローン達に繋がっていた。

 ―――してやられた!

 それに気がついた瞬間、店主は自分で左文字を追いかけていた。

 今動けるのは自分しかいない、だからこうするしかない。それを瞬時に判断しての店主の行動だった。

 だがしかし、普段から運動不足の店主では、逃げの巧者である左文字にはどうやっても追いつくことさえできない。

 そんな二人の差が広がったまま西部駅に突入した左文字は、そのまま改札へ向かって駅の中を駆け抜ける。

 西部駅構内、そこは今日も大盛況であり、商店街以上の人口密度を誇っている。

 それでも左文字は押し寄せる人の波を苦にすること無く、スイスイと無人の野を行くがごとく進んでゆく。

『店主はいま駅の入口に着いたところですよ! 余裕ですね!』

 これは最早勝負は付いた。タブレットのモニター越しに様子を見守る斉場少年も、思わず勝ち誇ったように状況を伝えた。

 フラグっぽいな等と斉場少年の言葉に左文字が思った矢先、その目の前にまたしても人垣が現れる。

 全く何度目の通せんぼなんだと、驚きつつ呆れる左文字だが、今度の人垣は追っ手によるものではなかった。

「お母さん、待ちくたびれたよぉ」

「我慢なさい。もうチョットしたら、とっても美味しいラーメンが食べられるから」

 今のは親子連れだろうか? その後ろの若者二人連れの会話も聞こえる。

「しかし何時間かかるんだろう。足も疲れてきたし」

「それは君、待つ時間もまた味のうちさ」

 駅の構内、それこそホームの先からずっと万里の長城のごとく続くその人垣。これら全員が『カタクナ』でラーメンを食すために並ぶ客だと左文字は気がついた。

 日本人のお国柄か、行儀よくキッチリと整列した彼らは、間に割り込もうとする人間への敵愾心は並大抵のものではない。絶対に割り込ませないという確固たる意思を感じ、一枚の(いわお)のようにピッチリ隙間なく整列している。

 これでは前に進めない。そうこうして手を拱いている内に店主があとから追いついてきてしまう。

 左文字と店主。駅の構内で出会った二人。互いに間合いを測るように、睨み合い、二人の間で火花散る。

「あれ? あそこにいるの『カタクナ』の主人じゃない?」「ホントだ。何やってるんだろう?」「そういやSNSで『喰い逃げ屋』をやるって言ってたな。あれって今日だったんだ」

 突然目の前に現れた目的の店の店長に、順番待ちで退屈していた客たちは、波が広がるように色めき立つ。

 ザワめきが波及して、左文字と店長に視線が集まる。

この状況に固唾を呑む左文字の瞳に、何を思い付いたのかニヤリと不敵に笑う店長の顔が映る。

「皆様、日頃からの当店へのご愛顧、有難うございます」

 急に客へ向けて感謝の言葉を述べる店長。左文字はこの不可解な店長の行動に嫌な予感しかしない。

「さて、既にご存知の方も多いと思いますが、本日当店『カタクナ』はこちらの『喰い逃げ屋』の大御所である左文字さんと真剣勝負の真っ最中であります」

「なんだよ。じゃあ店は営業していないのかよ」

「その点はご心配なく。通常営業は滞りなく行っておりますので、変わりなく当店のラーメンおよびつけ麺をご堪能いただけます」

 それを聞いてよかったと、安心した様子で胸を撫で下ろす待ち客。

「ですが…」

 店主が口にしたその文句に続く言葉はイイ情報が盛り込まれた試しはない。

「現在、ご覧の通り、私自身がこちらの左文字さんを追いかけている始末なので、店はほかの従業員に任せてあるものの、私手ずから作ったラーメンをご堪能いただけない状況となっております」

「それは困る!」「わたし店長のラーメンを楽しみにしていたのに!」「だったらサッサと終わらせてくれよ!」

 降って湧いた非難の声に、左文字はマズい流れだと感じ取る。

この状況、アウェーのプレイヤーが敵チームからブーイングを受けているみたいだった。

「そこで、私から一つ提案があります」

 周りの客を完全に味方に付けた店長は、指を一本立てながら周りを見渡し声を張る。

「私に協力して、かつこの左文字さんを捕まえて下さった場合、お客様、その皆様方に麺の大盛り無料! トッピング一品無料をお約束しましょう!」

 その一言に周りからどよめきが起きる。

「おいマジかよ」「トッピングはチャーシューでもイイのか?」「私は煮玉子がイイのだけれども、大丈夫かしら」

「喜んで!」

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「 だったらやるわ! 」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

 仲良く並ぶ羊の群れかと思っていたら、一転して狼の徒党と成った。

 左文字がヤバいと思った時にはもう遅い。長蛇の列は蜷局を巻いて左文字を絡めとってゆく。

 四方八方から手が伸びて、前後左右から掴まれて、上下も解らぬまま左文字は押さえつけられてしまう。

「神妙にしろ!」「暴れるんじゃないよ!」「これでラーメンが豪華になる」

 流石の左文字もこうなってしまっては手も足も出せない。硬いアスファルトに力の限り押さえつけられては叫ぶどころか息を吸うことすら侭ならない。

「うぅ…あまり押さえ付けないで下さい。食べたものが出てしまいます」

「…店長、クリーニング代も見てもらえない?」

「喜んで!」

 その一言で左文字を抑える腕力は容赦が一切なくなった。

『今回の戦い、『カタクナ』さんの最大の武器は『数』なのですよ』

 何時ぞや言っていた玉藻の台詞が店主の頭に浮かんでくる。

 なるほどその通り。数は強大な力だと目で見て解る光景が目の前に広がっている。

 あれほど手強く、どんなに策を弄しても太刀打ちできなかった左文字が、圧倒的な人数の前に成す術なくひれ伏しているのである。

「あら? 上手いことやったみたいね」

 するとそこへ噂の影から立ち上がるように現れたのは、立会人を務める玉藻である。

「丁度イイところに来てくれた。どうだ見てくれ! これでどうだ!」

 意気軒昂(いきけんこう)と言った様子で店主が指差す人の山。それを遠巻きに眺めるように一瞥した玉藻は、静々と歩を進め、山の麓で孫悟空のごとく押しつぶされている左文字のもとへと近づいてゆく。

 ルールでは完全に拘束され、身動きが取れなくなったところを、『立会人』に確認されたとき、喰い逃げ屋の敗北が決定する。

 そして説明された通り、今まさにその、喰い逃げ屋が敗北する状況が整ったのである。

 このままでは左文字は負ける。その瞬間が刻一刻と迫ってくる。

 絶体絶命だ。そんなことは当の左文字が一番よく理解している。

 だが左文字はこのまま手を拱いて敗北を受け入れるつもりは毛頭ない。最後まで足掻いて、暴れまわって、見苦しくとも戦い続けることが左文字の流儀である。

 だから、左文字は活路を見出すために頭をフル回転させた。

 数と力ではどうにもならない。どんなに本気で暴れ回ろうとも、次から次へと手が伸びて押さえ込まれてしまう。

 練って仕掛けた作戦は既にネタが尽きた。屋上遊園地のトラップで迎え撃とうにも、抜け出してそこまで行けないし、ドローンのワイヤーも使ってしまった。

 誰かが助けにやってくる可能性は考えられない。そもそも味方は斉場少年一人だけであり、百貨店の屋上からここまで来るのに少なく見積もっても10分は掛かる。それではとても間に合いそうもない。

 考えろ、考えるんだ、考えなければこのまま負ける。

 一心不乱に打開策を講じる左文字。その時、勝ちを悟ったのか押さえつける客たちの会話が聞こえてくる。

「いやはや、しかし『カタクナ』さんも太っ腹だね」「コイツを取っ捕まえるだけでトッピングサービスしてくれるなんて」「オレこれが終わったらチャーシュー麺チャーシュートッピングを頼むんだ」

 わあわあギャアギャアと、客たちは思い思いに好き勝手なことを言っているが、これが左文字にとっての天啓となる。

 ―――そうです、烏合の衆でした。

 左文字を押さえつける数多の客たち。彼らは『カタクナ』のファンであっても味方ではない。

 それはトッピングという利によって繋ぎとめられた脆く儚い絆。

 それは強大で堅牢な力に見えてその実、砂上の楼閣に過ぎないのだ。

 ―――それならば。

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

 店主の耳に左文字が何かを叫ぶ声が聞こえる。距離が離れているためか、それとも往来を行き来する車のエンジン音にかき消されたためか、その時、左文字が何と言っていたのか聞き取ることは出来なかった。

 だが、どうせ負け惜しみだろう。それとも悔し紛れの雄叫びだろうか。

 この切羽つまった状況において左文字が何かを言うとしたら、その位の負け犬の遠吠えに等しい戯言だろうと、店主は高を括っていた。

 だが、次の瞬間、目の前の客の山がザワめき出す。

「えっ? マジで」「ホントにやってくれるの?」「何時でも? それも全員分を?」

 ザワめきは水面に落とした一滴の雫のように、波打って留まらず、広がってまた新たな波紋を生む。

 その様子を見守って足を止めた玉藻は動じた様子はなかったが、店主は一体何が起こったのか解らず狼狽える。

 目の前で起こっていること全てが店主にとって信じられないことだった。

 先ほど、それこそ数秒前まで一体となって左文字に襲いかかっていた客たちが、その団結に綻びが見え始める。

 このことが店主の自信を揺らがせる。

 彼らは自分の客なのだ。自分のラーメンをどうしても食べたいがために、どんなに時間をかけようとも構わないという人たちなのだ。

 彼らの満足げなご馳走様は何度も聞いてきた。彼らの食べ終わった後の笑顔をいくつも見てきた。

 その自信が今揺らいでいるのだ。

 それは店主にとってこの光景は、宛ら亀裂の入ったダムの目の前に立っているような、今まさに亀裂が軋む音を聞くような、そんな恐怖に他ならなかった。

 そして、その恐怖は現実となる。

 一人、また一人と、左文字の上に伸し掛っていた客が立ち退いてゆく。

 それは集めた木の葉が次第に風で吹き飛ばされてゆくように。

 それは時計の砂が下に落ちて無くなってゆくように。

 うねる程に集っていた数という力は削げ落ちて、最早左文字を押さえつけておけない程になってきた。

「やめてくれ…どうか…やめてくれ…」

 先程までの威勢は何処へやら、店主は消え入りそうなほどにか細い声で、離れていく客を必死に引き止めようとする。

 されども、トッピングの数を増やそうとも、麺の量をさらに増やそうとも、それこそラーメン一杯サービスの大盤振る舞いに打って出ようとも、店主に客が離れてゆくのを止めることはできなかった。

 そうして、左文字は解き放たれた。

 起き上がり、大地に立ち上がる左文字の姿は、まるで長い冬を耐え抜いて、凍った地面を割り芽吹いた若葉のように力強かった。

 そして、この時すでに決着はついていた。

 左文字は要石を取り払われたナマズのごとく、大地を揺るがすほどの気力と戦意に満ち溢れている。

 一方店主の方はというと、刃折れ矢尽きて打つ手なしといった状況の上、信じていた客たちが離れていったことにショックを隠しきれないでいる。

「ラーメン御馳走様でした。とても美味しかったです」

 そして踵を返した左文字は「また、近い内に伺います」と、捨て台詞のように呟くと、急ぐことも焦ることもなく、悠々と歩んで改札を抜ける。

 勝者は走らない。凱旋は歩んで行うものである。ただ、それを祝福する者は居らず、周りは行き交う人ばかりだが。

 左文字が電車の席に座ったところ、それを待っていたかのように扉が閉じ、電車は動き出す。

「今回もまた勝ったみたいね」

 声をかけられた方を左文字が見やると、隣に和装の女性、玉藻が静かに座っている。

「やっと落ち着いて話ができますね。お玉さん」

 何時あそこから移動してきたのだろうか。

 虚空から滲み出るように、気配なく唐突に現れた玉藻のことを、驚くこともなく、さも当然のことのように左文字は彼女に話しかける。

「まずは判定を下すわ。今回の勝負は『喰い逃げ屋』の勝ちよ。特に最後のアレはどういう手品だったのかしら? 素晴らしい手管だったわ」

「それはどうも」

 湧くことも昂ることもない。静かに、噛み締めるような、左文字のそんな勝利の言葉だった。

「まあ、アナタにとって勝利はいつものことでしょうが」

「そうでもないですよ? 私も負けるときはありますし」

「知ってるわよ。アナタとは付き合い長いもの」

 何処となく素っ気無かった二人の間に、笑いが零れ落ちる。

 実に気の置けない仲といった様子の二人。それでも親しい仲にも礼儀はある。

「今回も色々と手配していただき、ありがとうございます。お玉さんにはいつもお世話に成りっぱなしで申し訳ないです」

「いいえ、気にしないで欲しいわ。これも私の仕事だもの」

「どうなのですか? その仕事、確かイベントコーディーネーターでしたっけ」

「そうよ、それも『喰い逃げ屋』を売りにしたね」

「左文字だなんて屋号を掲げている私が言うのもなんですけれども、それって市場として成り立つのですか?」

「だからこそブームが必要なのよ。盛り上がればその分、うちのサイトの動画の再生数が伸びるし、話題になる程に新しいファンも増えるのよ」

 だから頑張ってねと玉藻はニコやかに左文字に語りかける。

「結局はそれって私頼みなんですね」

当の左文字はその奥に隠された巌のような圧には気が付いていたが。

「そんなことを言わないで。最近では新しく喰い逃げ屋を始めた人も増えてきているんだから。そういう人たちの指針となるように頑張ってもらわないと」

「そんなお為ごかし。結局は自分の手元にお金が転がり込んでくるのを狙っているわけでしょう?」

 玉藻の事を良く知っているためか、左文字はオブラートに包み隠さず、核心を突いた言葉を告げる。

「あら? 解ってるじゃない」

 それに対する玉藻も自分を飾ることなく、悪びれもせずそう言った。

「けれども、それでアナタが損をするわけじゃないでしょう? 私も得して嬉しいし、アナタも喰い逃げ屋が広く認知されるほど仕事がし易くなる。まさに共存共栄、WIN(ウィン)WIN(ウィン)の関係というやつよ」

「いきなりカタカナ言葉を使われると胡散臭く感じるんですがね…。まあ、仕事がやり易くなるのは大歓迎ですが」

 心の底から賛同したわけではないが、共感の態度を示す左文字の様子に、玉藻は満足そうに頷いた。

「さて、私はここで降りるわね」

 駅のホームに乗ってきた電車が滑り込むと、玉藻はドアに向かって席を立つ。

「それじゃあ、また近い内に会うことになるでしょうけど、その時はまた頑張って場を盛り上げなさいね」

「もちろん真剣にやるつもりですが、別にそれは自分のためであって、お玉さんのためではありませんからね」

 玉藻の台詞に若干不貞腐れて、嫌味のつもりで言った左文字の言葉だが、当の玉藻は「なら尚更良かった」とどこ吹く風といった様子である。

「よく『誰かの為』とか舌触りのイイ台詞を言う輩が居るけれども、それってトドのつまりは自分の行いを他人のせいにしているのと同じなのよね。特に喰い逃げ屋だなんて外道の場合、それこそ人のせいにしたら外道にも劣るクズだから」

 だからこそ、自分のために喰い逃げ屋をする左文字のことは信用できると玉藻は言い残すと、そのまま電車を後にした。

「マッタク…相変わらず好き勝手言ったりやったりしてくれますね」

 電車に残った左文字は、玉藻と語り合って余計に疲れが募ったのか、さらに深く沈むように席へ腰掛ける。

 確かに喰い逃げ屋は外道である。それは重々自覚していることではあるし、度々公言していることでもある。

 しかし、自分の口から自虐的に言う場合と、他人から指摘される場合とでは、心に伸し掛かる言葉の重みは全く違う。

 ―――まさか未だにこんなに気が沈むとは…。

 既に心は根腐れしたと思っていたのに、清廉潔白であることに後ろ髪を引かれているなんて。自分の青臭いところに気がついて、どうにも嫌になってしまう。

 だが、これも一瞬の気の迷いだろう。今日は色々とあったから、きっと疲れたからこんなことを思うのだろう。

 そう思うことにすると左文字の体にどっと疲れが伸し掛ってくるのが解る。そのまま立ち上がることも億劫になる。

 ―――まあ、イイですね。このまま終点が池袋ですし。

 次の瞬間には左文字は瞼を閉じていた。窓の外に流れる景色も、電車の中の揺れる広告もシャットアウトして、左文字は夢の世界に迷い込む。

 数分前の激闘と喧騒がウソだったかのように、静寂で穏やかな世界。電車の振動とレールの音だけが紛れ込んでくる。

 ―――ああ、でも、あんな約束しないほうが良かったですね。

 意識が完全に落ちるその一瞬、安寧を濁す一抹の不安と後悔が左文字の頭を過るが、数秒後にはそれすらも考えられなくなった。

 そして、列車は左文字の寝息を置き去りにして、左文字という荷物を池袋へと淡々と運んでいった。


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