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「それでは、喰い逃げ屋のルールを説明いたします!」
晴れ渡った青空の下、土日の福富商店街、その喧騒を切り裂いて斉場少年の声が高らかと響き渡る。
一週間前の風吹き荒れて凍える様な寒空とは打って変わり、今日は朗らかに温かく、風も柔らかで絶好の食い逃げ日和と呼べるだろう。
この日寄りのためか、それとも先週の騒ぎに盛り上がったのか、『カタクナ』の前には普段にも増して大きな人だかりができている。
「イッタイ何の騒ぎですか?」
そこへやって来た観光客らしき一人の青年。この様子を随分と物珍しげに眺めながら、近くの見物客に声を掛ける。
「あら? ご存知でないのかしら?」
彼の問いに答えるのは、この人だかりの中でも目を引く和装の女性。青年が彼女の事をスタッフだと解ったのは、首に『石神井 玉藻』と書かれた名札ストラップが吊り下げられていたからだ。
「ええ、今日は『カタクナ』でつけ麺が食べたくて来たのですが…どうやら取り込み中みたいで。イッタイ何なのです?これ」
「でしたら、どうぞ、これをお読みに成ってください」
そう言って玉藻が彼に手渡したのは一枚のチラシ。この手作り感満載のチラシ、そう言えばここへ来る道すがら見たな、などと思いながら青年は目を落とす。
「『喰い逃げ屋左文字 VS 麺屋『カタクナ』世紀の大勝負』?」
「ええ、そうです。貴方は『喰い逃げ屋』っていうスポーツはご存知」
「…ああっ! 最近動画サイトとかで話題に成っていますよね!」
「そうなの。その『喰い逃げ屋』が今日ここ『カタクナ』さんを舞台に、真剣勝負で開催されるのよ」
食いに来たつけ麺が食えなかったことは残念ながら、こんなイベントに出会えるなんて逆に幸運なのではないか?
そんな風に考える青年を、玉藻はさらに幸運だと褒め称える。
「しかも、今日のプレイヤーは超一流。喰い逃げ屋のパイオニアにして長い伝統を持つあの『左文字』の食い逃げなのですから」
「…いえ、それは知りません」
左文字って誰ですと聞き返す青年に、玉藻は「やっぱりプロモーション不足なのよ」と呟いて悔しそうな顔をする。
「ともあれ、今日の『喰い逃げ屋』は見ておいて損のない一戦です。ラーメン一杯、つけ麺一杯それ以上の価値は保障しますよ」
玉藻の様な別嬪さんに、そこまで熱心に言われたら、男だったら悪い気はしない。
「そうですか」などと満更でもない様子の青年の鼻の下は伸びきっており、実に締りのない面構えとなっている。
一方、今日の戦士たち、挑戦者『左文字』と対戦者『チーム・カタクナ』は、笑み一つない引き締まった表情を見せている。
今日の決戦の舞台となる『カタクナ』の店の前に左文字と『チーム・カタクナ』が対峙する様に向かい合っている。
静かに黙しながら周りの様子に耳を傾ける左文字。一方の『チーム・カタクナ』は血気に逸った様子がアリアリと窺える。
「アイツ…なんて面の皮が熱いんだ」「澄ました顔しやがって。盗人猛々しい!」「絶対取っ捕まえてやる!」
義憤に逸る『チーム・カタクナ』は今にも飛び掛かってきそうな様子で、親の仇でも見るように左文字を睨みつけている。
それもそのはず、『チーム・カタクナ』の面々には、左文字に空き巣に入られた『カタクナ』の取引先。『免坊製麺所』『矢尾青果店』『井延畜産卸問屋』、その3社の従業員の方々占めて50人が居るからだ。
彼らにとって左文字は自分の会社に無断で入り込んだ無法者。不倶戴天の敵なのである。
もし可能であるならば、喰い逃げ屋なんて回りくどいやり方をせずに、このまま捕まえて袋叩きにしてやりたいことだろう。
しかし、これは左文字と『カタクナ』との喧嘩である。喧嘩の主役は彼らに在る故に、自分たちは裏方で力を貸すことにしたのだ。
そしてその主役の一人である『カタクナ』の店主は、緊張した面持ちで対戦相手の事を見据えている。
そもそも、左文字の口車に乗ったせいでこんな大事に成ってしまって、本当に大丈夫なのだろうか。
周りに人間もそうであるが、商店街そのものを巻き込んでしまい、多くの人に迷惑をかけていないだろうか。
そんな思想が脳裏に過る店主は、此処これに至って急にお腹が痛くなってきた。
今更ながらそんな不安が腹の底から湧き上がって来て、思わず縋る様な視線を玉藻に送ってしまう。
玉藻が言うには、商店街組合と公共機関へは話を通しているため、思う存分やってほしいと言う事だったが、実際の所はどうなのだろうか。
そんな店主の視線の先で、玉藻はドッシリと腰を据えた様子でゆっくりと頷き返してくる。その自信に溢れる彼女の様子に店主の不安は少しだけ和らいだようだった。
そして、ようやく心の平静を取り戻した店主の耳に、斉場少年のルール説明の声がようやく届いてきた。
「基本ルールはシンプルです。『カタクナ』さんで提供されるスペシャルラーメン。それを私の師匠『左文字』が完食いたします」
「なんだよ。普通の大食いじゃないか」
「そこのお父さん。人の話は最後まで聞いてください。今日の対戦はそれで終わりじゃないのです。この左文字、チャレンジラーメンを完食しきったその後に、走って駅まで逃げるのです」
「バカも休み休み言いなよ。俺は知ってんだぞ。ここのチャレンジラーメンは食い切ったら成功なんだって。なのに何でそんなことする必要があるんだよ。そもそも、あんなもの食って走って逃げられるわけがないだろう」
そうだそうだとチラホラと、この場に集まった聴衆からヤジのような声が上がる。
「静粛に! 普通に考えれば無駄に思うことでしょう! でも! けれども! それをするのが『喰い逃げ屋』なのです! 貴方はマラソンランナーに『車で走ったほうが早いよ』なんて野暮なことを言うのですか?」
喰い逃げ屋とは最早理屈ではないのだ。
まさに粋にして狂。粋がる事への狂い果。己の意固地のぶつけ合い。乱麻のように絡まって、解けぬ糸の引っ張り合い。
それが、それこそが喰い逃げ屋なのである。そこに余人の付け入る隙はない。だから黙って見てなさい。
その小柄な見かけに寄らない斉場少年の巨大な圧に、先程までヤジを飛ばしてきていたオッサン達は押し黙る。
「静かになったところで、ルール説明の説明を続けます」
昂ぶっていた斉場少年も気を取り直して、ルール説明に後戻る。
「先ほど説明したように、チャレンジラーメンを食べきった後、走って逃げるわけですが、『食い逃げ屋側』の勝利条件としましては、商店街の両端にあります東部線および西部線の駅に辿り着き、電車に乗ることができたらば勝利とします」
説明されたとおり、左文字の勝利条件は至ってシンプルで、要は逃げ切ることができたなら勝利ということである、
「対する『店側』の勝利条件ですが、こちらは2通りあります」
そう言った斉場少年は、片手でピースサインを作り、チョキチョキと開け閉めしながら話を続ける。
「一つ目は通常の大食いチャレンジと同じように、決められた制限時間、30分の内にチャレンジラーメンを食べきれない場合、『店側』の勝利となります」
食いに関しては店側のルールに則って行うことも、喰い逃げ屋のセオリーである。
食ったあとに逃げるからといって、時間を長くしたり、量を減らしたりなどは一切しない。出されたものを、定められた条件で、正々堂々と勝負する。それこそが食い逃げ屋の掟なのである。
「そして、もう一つの勝利条件ですが、それは『喰い逃げ屋側』がラーメンを食べ終わり、逃げている最中に、『店側』の追っ手がそれを捕まえることです」
この時のルールとしてもう少し詳しく説明しておくと、捕まえる際には喰い逃げ屋を完全に拘束することが条件となる。
所謂鬼ごっこのようにタッチされたら負けというわけではなく、喰い逃げ屋が例え捕まったとしても、拘束を振り切ってまた走り出すことができれば、勝利のチャンスは幾らでもあるという訳である。
しかし、完全に拘束され、身動きが取れなくなったところを、審判役である『立会人』に確認されたとき、喰い逃げ屋は敗北を喫することになるのである。
その立会人というのが何を隠そう石神井 玉藻である。
審判役が敵の身内なのだというのはどうなのだろうかと思うところだが、それに関して左文字は特に何もいう事もない。
「また、開催する範囲について確認をします。先ず福富町商店街の大通りを中心に、並行する百貨店裏通り、そして西部駅前通りの三本の通りを範囲とし、その間にある路地の行き来は無制限とします」
「つまりはこの範囲ということね」
『カタクナ』のセコンド役に収まっている玉藻は地図を取り出して、百貨店通りと西部駅前通りを長辺とする長方形を赤マジックで囲い込む。
「この長方形の中ならばどこへ行っても逃げても良いということだな」
「その通り。あと建物の中にも逃げ込むこともできるから」
逃げる場所も隠れる場所も赤枠の範囲内ならば自由自在。話を聞く限りだと、逃げに関しては喰い逃げ屋に有利なように思える。
「だからこそ、追っ手側は連携が必要なの。打ち合わせした通り、皆で連絡が取れる手段は用意してあるかしら?」
玉藻に確認され店主は自分の胸に着けたトランシーバーの調子を見る。マイクに向かって語りかけ、スピーカーから返ってくる仲間たちの声を聴き、調子は大丈夫だと安心する。
「いいこと? さっきも言ったけど、これだけ複雑に入り組んだ路地や建物の中に入り込んでしまったら、喰い逃げ屋を見つけることは困難に成るわ」
木を隠すなら森の中。人を隠すなら街の中。今日も今日とて福富町商店街は大賑わい大盛況であり、これほどの人の波に飲み込まれたら、左文字の様な目立たぬ人間ならすぐに紛れてしまい見失ってしまうだろう。
「だから、こちらは目を増やすの。探す人間が増えれば見つける確率が大きくなるでしょう。そして、一人が見つけたらそれを仲間で共有することで、一致団結して追い詰めることが出来るのよ」
それが食い逃げ屋における追っ手側の基本戦術なのだと玉藻は語る。
そうなのかと頷く店主だが、それでも店主は追っ手に関してはそこまで重要視した様な様子は見せていない。
何せ喰い逃げ屋は先ずは食事をしなくてはならない。そして今回左文字が喰らうのは、『カタクナ』が自信を持って送り出すチャレンジラーメンなのである。
そもそも、左文字はラーメンを食べ終わることなく敗北する。店主はそう考えて譲らなかったのだ。
「そうであるならば、ご主人は何か今回のラーメンに特別、何か新しく手を加えたりとかしているのかしら?」
この質問は前に玉藻から聞かされたことである。彼女が協力すると申し出て、追っ手としての練習にアドバイスを貰ってはきたが、さらにラーメンに手を加えるという提案も事前に受けていた。
しかし、これに対して店主はその提案を受け入れることは容認できなかった。
店主にとってラーメン一筋人生を賭けた一杯を、どこの馬の骨とも解らないような女の一言で軽々と変えてしまえるほど軽いものではない。
さらに店主の自信を後押しするのが、数々の猛者たちを打ち破ってきたチャレンジラーメンの戦績であり、そんな絶対の自信を持つラーメンにイッタイ何を付け加え、何を差し引くことがあるのだろうか? そのように考えているのだった。
店主から「何度も言うが特には何もしていない」と聞かされた玉藻は、「あれほど言ったのに」と呟いて苦い顔をする。
「それならば、柔軟体操は念入りにやっておくことをオススメするわ。いざ走り出して肉離れになってしまっては大変だからね」
何を馬鹿な。左文字にラーメンを食べ切られる未来なんて欠片も想像していないのだろう。玉藻の忠告に聞く耳を持たず、店主は厨房へと立ち去ってしまう。
「マッタク…大丈夫かしら」
後を追うように厨房へと向かう玉藻は、そう一人呟きながら渋い顔をした。
一方の左文字。こういった状況には慣れたものなのか、始終一言も喋らずに店の前に佇んでいる。
「師匠、事前のルール説明は済ませておきましたよ」
自分の役割を終えた斉場少年は、フリスビーを口に咥えた子犬のように左文字のもとへと帰ってくる。
「お疲れ様です、斉場君。それでは参りましょうか」
斉場少年を連れ立った左文字が『カタクナ』の暖簾をくぐると、店の中に控えていた店員たちの目が一斉に二人へと注がれる。
その瞳の何れも、怒りや恨み、敵意といった明らかな負の感情が含まれている。
「師匠…店の雰囲気がヤバくないですか?」
「ええ、きっと私が取引先へ忍び込んだことがバレたのでしょうね」
怖々と小声で左文字に伺いを立てる斉場少年は、左文字がアッケラカンと語る内容に戦々恐々となる。
「それってマジでヤバくないですか? だって、師匠のその印半纏で忍び込んだことはバレないはずじゃなかったんですか」
確かに印半纏の謎効果によって決定的な証拠は残らなかっただろうが、それでも状況的に考えて、自分が疑われるのはしょうがない。
それに今思い返してみれば、ギリギリ後ろ姿を見られていたかもしれないし。
「本当に大丈夫なんですか? もしかしたら警察が待ち構えていたりしないですよね」
店の中、厨房の奥、机の下。こちらの様子と出方を伺う怪しい影は居ないかと、獲物に狙われる小動物のごとく、キョロキョロ忙しなく様子を探っている。
一方、左文字の方は妙に落ち着いている。そもそも左文字自身はこうなることはある程度予想がついていた。
おそらくは、『カタクナ』陣営に誰かが入れ知恵があったのだろう
そのため、今こうやって事は警察座他にならず、喰い逃げ屋の形で決着を付けることに成ったのだろう、と左文字は考えている。
―――まあ、そんな事をするのは彼女ですよね。
左文字の脳裏に思い浮かんだ人物が一人おり、実際その彼女、玉藻は相手側陣営に見かけることができる。
ふと、目が合った玉藻と左文字は軽く会釈をし合うと、千切れ雲のごとく交わること無く、それぞれの陣営で試合開始の時を待つ。
まあ、こんな感じが二人の仲には相応しい。今度会ったら例の一つでもしておきましょう、等と左文字はその時考える。
「師匠! とりあえず大丈夫そうです」
左文字と玉藻とのニアミスがあったことなど露知らず、一通り周囲の状況を調べ終えた斉場少年が、心底安心したのかハツラツとそう宣言する。
「ありがとう。とりあえず落ち着いて座りましょう」
落ち着きのない斉場少年を諌めながら、左文字は決戦の席に着く。
テーブルは相変わらず金属製の冷たい作りで、その周囲にある熱を全て吸い込んで大地へ逃がしてしまうようである。
この仕掛けに何人のフードファイターが涙を飲んできたことか。片手で机をなぞる左文字は、彼らへの郷愁の念を巡らせた。
「お待たせしました」
それから約20分後。遂にそれはやってきた。
相も変わらずまさにそれは山である。
あまりの大きさ、あまりの重さ。一抱えはある丼、手で持って運ぶことができないくらいの量であるそれは、カートに乗っけられて運ばれてくる。その上、テーブルの上に置くのも数人掛りで行われる。
遂に左文字と斉場少年の前にチャレンジラーメンが現れた。
改めてその大きさに圧倒され、その頂上を仰ぐ斉場少年。一方左文字は丼を一点に見つめている。
―――やはり丼は鋳物ですね。
熱伝導率の良い金属でできた丼が、刻々とラーメンの熱を奪っていく。これによりスープの煮凝り化の作用が働くことは既に解明済みである。
その上、今尚おからパウダーを練りこんだ麺がスープを吸って増殖し続けている。
つまりは、始まる前からこのラーメンは挑戦者を追い込み続けている訳である。
挑戦者側からしてみれば、サッサとチャレンジを初めてもらいたい気持ちが逸るが、店主を始め従業員一同が集合するのに時間が掛かっている。
「今回は我が『カタクナ』名物のチャレンジラーメンに挑戦していただきありがとうございます」
そして、全員揃ったところで店主が前に進み出て口上を垂れる。
「こちら、チャレンジラーメンは通常であれば制限時間30分の内に完食されたなら、チャレンジクリアとなります」
ツラツラと説明する店主の口調は熟れており、何度となくこのセリフを繰り返し説明してきたのだろう。
それを静かに聞いている左文字は、目を伏せ、瞼を閉じ、まるで瞑想するかのように静かに黙し続けている。
「さらに詳しく説明いたしますと、制限時間の30分が経過した時点で、丼の中に麺の一本、もやしの一本が残っていた場合、失格とさせていただきます」
淀みなく、支える事なく、一言一句全てが型に入れて作ったように、追加の説明をする店主の言葉は自信に満ちている。
もちろんその自信はラーメンに根ざしたものだろう。
「なお、スープに関しては飲み干さずともセーフといたします。…それでは、覚悟は宜しいでしょうか?」
ストップウォッチを取り出して、こちらの覚悟を問い質す店主。
その言葉を耳にして、左文字はユックリと瞼を開ける。
その所作はまるで悟りを開いた高僧のようであり、斉場少年には左文字が深い海の底から、浮力を頼りに自然に水面へと浮かび上がってくるイメージが見えた。
「覚悟は宜しいということで。それではチャレンジ! スタートぉ!」
掛け声とともにストップウォッチのボタンが押されると、聴衆が沸騰した薬缶のように、一気に沸き立って歓声を上げる。
応援する声、騒ぐ声。その隙間を縫うように耳に届いたストップウォッチの電磁音を聞いた左文字は「いただきます」と徐に手を合わせた。
そして次の瞬間、左文字はスプリンターのスタートダッシュのように、放たれた矢のごとく、一直線にラーメンへと箸を伸ばす。
丼を抱えるように、左片腕でガッシリと丼をホールドする左文字の姿。それは格闘技の掴み合いをしているようでもあった。
ドン・キホーテは全身に甲冑を纏い、槍と盾を構え持ち、馬に跨って風車へと戦いを挑んだ。
その姿は想像するだけでも滑稽なものであるだろうが、箸を片手に山の如きラーメンへ取っ組み合いの戦いを挑んでいる左文字も傍から見れば滑稽に映るだろう。
しかし、そこに居る誰一人として左文字を嗤う者はいない。誰も彼もが手に汗握り、固唾を飲んで戦いの行方を見守っている。
それもそうだろう。額に汗を掻き、顔中隈なく真っ赤にし、外見を取り繕うことなく果敢に、大真面目に戦う人間を誰が笑うことが出来ようか?
「ガンバレ!」「気張れ!」「落ち着いてゆけ!」
方々から飛び交ってくる声援にもさらに熱が篭ってゆく。
その声援に後押しされるように、左文字は炭鉱夫の様にチャレンジラーメンの山を切り崩してゆく。
左文字が先ず立ち向かったのは、丼の上に見上げるほど盛り付けられたもやしではなく、竜の鱗のように表面を取り囲むチャーシューでもなかった。
左文字が他に目もくれず向かったのは、スープの海、丼の底に宛らマグマ溜りのように畝っている中華麺であった。
先に麺を食すこと。これは左文字の作戦であることを斉場少年は説明されている。
『先ず、最初に麺を食べきってしまいます。麺を後に残しておくことは非常に危険です』
『…? 上に盛られている具材からじゃないのですか。師匠?』
喰い逃げ屋が開催されるその前日、『一品香』の二階にある自室で、左文字と斉場少年は最終打ち合わせを行なっていた。
『確かに、食べ易さから考えれば、上に乗っている野菜やチャーシューから食べた方が正解でしょう。しかし、前にも実験したとおり、チャレンジラーメンに使われるおからパウダー入りの中華麺は、時間を経るごとにスープを吸って増量していきます』
テーブルの対面で語る左文字の言葉に、斉場少年は無理やり食べさせられたラーメンの、その増殖し続ける中華麺を思い出して胸焼けがしてくる。
『あれは放っておくだけでジワジワと此方の首を絞めてくる難敵です。ですから、先にこの中華麺は食べてしまうことがこのラーメン攻略の緒です』
また、その時に斉場少年が聴いた話では、具材をあとに残しておくことのメリットもあるという。
『そもそも、あのチャーシューですが、結構脂っぽかったですよね』
『たしかに、『カタクナ』のチャーシューは豚のバラ肉を使っていましたから、脂身が多かったですね。けど、僕はあんなチャーシューが大好きですよ』
『斉場君はまだまだ若いですからね。油っぽいものもペロリと食べてしまうでしょう。ですが、大食いにとって脂は注意を払わなくてはならないファクターです』
油や脂。いわゆる脂質というものは、胃の中に溜まりやすく、消化に時間が掛かるため、すぐに満腹感を催す原因になる。
また、脂質は胃もたれを起こす原因にもなり、食事中はもちろん、その後の逃走の段階に至っても死活問題となるのである。
『それから野菜ですが、これは固いのが問題です』
『…? 野菜ってもやしやキャベツですよね? 固いですか?』
丼の中にあってシャキシャキとした歯触りの野菜だが、斉場少年にとって固いというイメージはない。だから左文字が野菜を固いといったことに違和感を持ったのだ。
『固いというのは、中華麺やチャーシューと比較してということですよ』
そう説明されれば確かに納得できる。斉場少年はようやく溜飲が下がった。
『野菜というものは形がシッカリとしていますから、そのまま噛まずに飲み込むと、井の中で無駄な容積を取ってしまい、結果として食べられる量が減ってしまいます』
買い物をした際に、スーパーのレジ袋に商品を詰めるとき、雑多にそのまま詰め込んでは量が入らない。対して隙間を埋めるように、パズルのように詰め込んだならば、一袋だけでもかなりの量を詰め込むことができる。
その隙間を埋めるときに、箱やトレーなど形がシッカリとしたものでは融通が利かないが、ビニールでパウチされたもの、蒟蒻や漬物、レトルト食品のような形を変えることが容易なものは、隙間を埋めるのに実に重宝する。
左文字が語る理屈としてはそんなイメージである。
『かと言って野菜の形を崩すために、よく噛んでから飲み込んでいては時間がかかるだけでなく、咀嚼による満腹中枢の刺激が起きてしまい、結果的に量をそんなに食べられなくなってしまうのです』
飲み込むように腹に詰め込めば容量を圧迫し、噛むようにして飲み込めばそれだけで腹が膨れてくる。
二律背反の二者択一を迫るようでいて、どちらに転んでも倒れ伏すしかないという、酷い話もあったものだ。
『ああいったタイプのラーメンを食す方法として、『天地返し』という丼の底の麺を引っ張り出し、かき混ぜて、野菜をスープに浸すやり方があります』
『それでスープの余熱で野菜を柔らかくして、あまり噛むことなく易々と胃の中に収めることが出来るわけですね』
そういうことです、と左文字は斉場少年に指を指す。確かにそのやり方ならば上手いことあの大盛り野菜を食べることができるだろう。
『けれども、思ったのですが、あの量の野菜を『天地返し』する事ってできるんですかね。だって、山だったんですよ。山』
斉場少年の言うことも尤もである。思い返す彼自身も見上げる素振りを見せるほどの野菜の山を、果たして天地返しをすることが出来るだろうか。
そんなことはまさに神の御技だろうと、斉場少年は匙を投げる。
『師匠だって解るでしょう? あれだけの量の野菜です。きっと天地を返そうとした時に、溢れて山が雪崩を起こしてしまいます。そうなったらラーメンを食うどころではありません。それにそもそも、あれだけの量の野菜が上に乗っている中華麺を、どうやって丼の中から探り当て、ひっくり返すのですか?』
自分で言えば言うほどに、斉場少年はチャレンジラーメンに対して『天地返し』を行うことの困難さを痛感する。
実際に左文字の前にチャレンジラーメンに挑戦していた黒岩も、『天地返し』を使うことなく食していた。
黒岩自身も名の知れたフードファイターである。彼ならば「天地返し」くらい知っていて当たり前だろう。そんな彼がどうして何の策も無しに真っ向勝負を挑んでいたのかと、今にして思えば疑問に思うところである。
しかし、この『天地返し』。黒岩が使わなかったのでなく、使えなかったと考えれば納得がいく。
それでも左文字はやってのけるのか?
期待と不安が入り混じった眼差しで師匠を見つめる斉場少年。その視線の先の左文字は、まるで風に身を任せる薄のごとく、自然体で『まあ無理でしょうね』と言ってのける。
盛大な肩透かしを食らわされた斉場少年は、勢い余って椅子もろとも机から崩れ落ちそうになる。
『やらないんですか? 『天地返し』。どうして?』
『君も思ったとおりですよ。斉場君。あれは、チャレンジラーメンは『天地返し』をやれるような作りに成っていないのです。ですから、最初から『天地返し』をやるのは無理なのです』
―――そうですが。そうではありますが…。
ちょっと期待していたが故に不貞腐れる斉場少年。
それならば、左文字もあのチャレンジラーメンに真っ向勝負を挑むというのだろうか。
これまでの歴戦が語るように、真っ向勝負を挑んであのラーメンに勝利した者は、誰一人として居ない。
もちろん斉場少年は自分の師匠のことを信じている。信じてはいるが不安には駆られる。
そんな斉場少年の様子を笑うように、左文字は『心配いりません』と凪のような心持ちで言ってのける。
『そう心配する必要はありません。確かに『天地返し』は封じられてしまいましたが、手が無いという訳ではありません』
『… ! イッタイどうやるのです?』
早く答えを教えて欲しいと、宛ら餌を強請る飼い犬のごとく斉場少年は左文字へ戯れついてくる。
『まあ、そんな難しいことではありません。実に簡単なことです。―――これを使うのですよ』
その際に、左文字が取り出してみせたもの。それは何の変哲もない、種も仕掛けもありはしない、一般的な『皿』であった。
特徴があるとすれば、いわゆる大皿と言われる部類に入るくらいの大きさであり、少し深めのお盆型になっている。
そして今、左文字はその皿に、チャレンジラーメンの上に乗っている野菜とチャーシューを取り移してしまっている。
―――なるほど、確かにこうすれば、『天地返し』をしなくとも、出されて早速中華麺を食べることが出来るわけですね。
考えつけば実に簡単な左文字のこの作戦が上手くいっている事に、斉場少年は小さくガッツポーズを取ってみせる。
「あら? あれはイイのかしら? ご主人」
その様子を傍から見ていた玉藻は、側で戦いの成り行きを見守っている『カタクナ』の店主に問い質す。
左文字が使っているその皿は、明らかに左文字自身が持ち込んだものである。
そんな物を使うことは、いっそルール違反だとして即座に失格を申し渡すことだってできるだろう。
しかし『カタクナ』がそうしないのは、左文字の側から申し出があった為である。
「左文字の方から送り付けられてきたこの『果たし状』。一見するとルール説明表となってるんだが…ここを見てくれよ」
店主から受け取った挑戦状に目を通す玉藻。細かくツラツラと、喰い逃げ屋のルールが一から十まで書き込まれているその一通。
それをよくよく読み込んでみると、隅の方に小さく書かれている一文に気付く。
「ああ…ここに書いてあるわね。『喰い逃げ屋側はマイ食器・その他道具の持ち込みを良しとする』って。バッチリシッカリと」
「そうなんだよ、こんな細かい文字で書かれているなんて。セコいと思わないか?」
しかもこのこと、まるで念を押すように、『カタクナ』が挑戦状を受け取って、承諾したあとに左文字は思い出したかのように言及したのである。
「ちゃんと読み込みをしておかなかったウチらの責任ではあるが、こんな隠すようにやらなくてもイイだろうよ」
ブツブツと文句を呟く店主だが、彼の表情からは不満は在れども怒りの感情は感じることはできない。
「でも、言えば良かったんじゃない? 交渉の余地は在ったでしょうに?」
「ああ? まあ、あれくらいはイイんだよ。別にあのやり方を使ってきたのは今日が初めてと言う訳じゃない。何人かあんな風に野菜とチャーシューを取り出して食う方法で挑んできたことが有る」
しかし、その結果は知っての通り、上手くいった訳ではない。
だからこそ店主は余裕の表情で、左文字が持ち込んだ皿を使うことを黙認しているのである。
実際にこの皿に具材を取り出すと言うやり方にはデメリットが存在する。
それは、取り出すことに時間が掛かるということだ。
山の様な具材を取り出すにはそれ相応の時間を要する。実際にこの作業を終えるのに、左文字は貴重な時間の内5分もの時間を掛けている。
それからようやく麺を食し始めるわけだが、5分もの時間が有れば免防錆麺所と共同開発した特製中華麺はスープを吸い込んでムクムクと膨れ上がっている。
その量は提供された時点から比較して既に1.5倍に増量していることだろう。
提供している側からしても、とんでもないラーメンだと冷や汗が出てくる。良くこんな物を食べようだなんて思うものだ。
現にラーメンを食べている左文字だって、まだ半分しか食しきれていないではないか!
―――あれ?
そこまで言ってようやく気が付いたが、左文字の麺を食べるスピードは相当速い。
時間はまだ始まってから10分しか経っていないにも拘らず、既に半分の麺を食べきっていることに主人は驚きを露わにする。
遮二無二、我武者羅に、一心不乱に麺を手繰る左文字は鬼気迫る表情で、途切れることなく口に啜りこんでゆく。
左文字は宛ら麺を啜る事だけに特化した、一個のマシーンに成ったかのように、無駄な動き一つなく、効率化された動きでラーメンを食べている。
なにより凄まじいのはスピードで、麺が増殖するスピードを遥かに凌駕しており、中身をガンガン減らしていく。
むしろそんな左文字が10分と言う時間を掛けているのは、この増殖し続ける中華麺だからだろう。普通の中華麺だったならば、左文字は5分も掛からずに平らげていた。そう思えるほど天晴な食べっぷりであった。
「大丈夫です? だいぶ左文字は調子イイみたいだけれども」
始まって15分。丼の中にある麺の量は刻一刻と少なくなっていく現実にたじろぐ店主に、玉藻は我関せずといった様子で問いかける。
それを受けて店主は冷や汗を拭い、取り繕ったような平静を見せる。
「ああ、大丈夫。大丈夫だとも」
それは玉藻に答えるわけではなく、まるで自分に言い聞かせるように呟く店主は、それでもチャレンジラーメンに一縷の望みを託している。
店主がチャレンジラーメンに組み込んだ大仕掛け。このラーメンの生命線とも言うべき仕掛け。即ちスープの煮凝り化を待っているのである。
チャレンジ開始からそれ相応に時間の経過した丼の中からは既に湯気が消えており、一目で出来たての熱は無くなっていることが見て取れる。
そうしたならば、スープに溶け込んだゼラチン質が徐々に固化し、スープ全体を固めてしまうのである。
自慢ではないがこのチャレンジラーメンは実に冷めやすい。熱伝導率の良い鉄製の丼に、テーブルも鉄で出来ている。
この二つが合わさればスープに溜め込まれていた熱など瞬く間に吸いやられ、テーブルの脚から地面へと放出されてしまうのだ。
しかも天が『カタクナ』に味方をするように、ここ連日の寒気の流入により、店も、家具も、地面も、商店街全体が底冷えしているのである。
この天気、この気温の下ならば、通常スープが凝りだすまでには20分を要するものの、おそらくはもっと早い15分の時間で事足りるだろう。
更に次の瞬間に起こった出来事に、店主は思わず手に力が入る。
なんと、目の前で左文字が皿の上の具材を丼の中に戻したのだ。
きっと左文字からしてみれば、麺をすべて食べ終わり、今度は具材を食べるに至った。
それに伴って何の味付けもしていない野菜では食が捗らないと考え、スープを絡めて食べればイイとの判断を下し、丼の中へ再び具材を戻したのだろう。
しかし、それは明らかに悪手。自分の首を絞めるだけである。
丼の外に取り出しておいた具材たち。ラーメンから具材を分離させることによって一直線に麺を食するメリットがあるものの、それと反するようにデメリットも存在する。
外気の寒さ、金属の机。それらが奪ってゆくものは別に丼の中の熱だけに留まらない。
同じく机の上に置いてあった野菜とチャーシューからも、確実に熱を奪われていたのである。
現に皿に盛られていた具材は、既に熱を奪われ冷え切っているのである。
そのためか傍目から見た限りでも、野菜やメンマは今しがた冷蔵庫から取り出したばかりのようになっており、炙り焼きチャーシューに至っては、脂身は疎か表面に浮かんでいた脂も白く固まっている。
そんな物を再びスープに、しかも冷めて冷たく成りかけたスープに戻そうものならイッタイどうなってしまうのか?
答えは簡単で、まるで過冷却水が衝撃を受けると瞬く間に凍る様に、一瞬で丼の中身を凝らせることになる。
そう成ったらばこっちのもの。スープに生まれた猛烈なとろみは、左文字の箸を捉えて二度と離さない。
実際、店主が以前に一度実験したときは、凝ったスープの中から箸を持ち上げようとした時、丼ごと持ち上がった程なのだから。
あの時と同じような乾いた笑いが、店主の腹からこみ上げてくる。
―――さぁ、御終いだ。とろみの底なし沼で溺れてしまえ!
左文字の名前も『カタクナ』の、チャレンジラーメンの墓碑に連ねるんだよと、ここで勝利を確信する店主。
そんな店主の勝ち誇った顔が、徐々に崩れ出し、唖然としたものに変わっていくまでに、10秒という時間は必要なかった。
信じられないことに左文字は茶漬けでも食うように、サラサラサクサクとスープに浸した野菜を平らげてゆく。
その動きはマッタク以て淀みなく、箸を取られることも、レンゲが止まることもない。
そんな訳がない、有り得ないのだ。
今この瞬間、丼の中身は凝りに凝ってどうしようも無くなっているはずだ。
凝ったスープは野菜の隅々にまで絡みつき、絡め取り、食することを困難にしているはずだ。
それなのに、どうして左文字は苦もなく野菜を食っているのだろう。
さらに信じられないことは、今しがた左文字が箸ですくい上げたチャーシューである。
先程まで皿の上に乗っていた時には、脂身と浮かんだ脂肪が白く成っていたはずだ。
ところが今、脂身はその鮮度を取り戻し、脂の色は白から透明に変わっている。
何か可笑しい。絶対何かある。
訳が分からず目を白黒させている店主を尻目に、左文字は両手を合わせて「ごちそうさま」と感謝の言葉を言い放った。
時間にして26分32秒。長らく難攻不落として君臨し続けてきた『カタクナ』のチャレンジラーメンを、左文字は見事食い切ってみせたのだ。
「ついに食べきったか!」「これは歴史的事件だぞ!」「記念写真! 記念写真を撮れぇ!」
この事実に周りで戦いを見守っていた観衆たちが大いに沸き立つ。
前人未踏の頂に至った左文字の偉業を、その目で間近に見ることができたのだから、彼らの熱狂は計り知れないだろう。
「おっと! 道を空けて下さいね!」
そんな感動に後押しされて、観衆たちは左文字に掛け用ろうとするのだが、それを遮るように斉場少年が立ちはだかった。
そうである。ここが終わりではないのである。
ここから第二の本番が始まるのが『喰い逃げ屋』というものである。
食い切って早々に左文字は席を立つと、一目散に店の出口へと向かって走り出す。
そう、『食い』において今しがた勝負が付いたので、今度は『逃げ』による勝負が始まったのだ。
「宜しいですか! ルール説明したとおり、追っ手が挑戦者を追いかけるのは、挑戦者が席を立ってから30秒後からです!」
逃げ出した左文字に置いていかれた斉場少年が、喧騒を切り裂く声でそう叫ぶ。
その声に我を取り戻した店主が、その手に持ったストップウォッチを覗き込む。
十秒、二十秒。時間が数倍に引き伸ばされたような感覚の中、ようやく迎えた30秒。
「行けぇ! 追いかけろぉ!」
檄を飛ばす店主の声に、店の中で控えていた店員たちが弾かれたように左文字を追いかけてゆく。
あまりに人が多かったためだろうか、出入口とその先の人垣で渋滞気味に成りかけたが、追っ手は各々福富町商店会に散り散りに成ってゆく。
その後を追うように、斉場少年も駆け出してゆけば、店の中に残ったのは店主と玉藻の二人だけに成っていた。
一気に静かに成った店の中で、余程のショックだったのだろうか、覚束無い足取りで食べ残された丼に近づいてゆく店主。
「…イッタイ何故。…どうして」
譫言のようにそう呟きながら、丼に手を伸ばした店主は更なる驚愕を受ける。
何と丼の中身はあろう事かゼリーの様に凝っておらず、粘度なくサラサラとしたスープの状態を保っている。
その上、丼から店主の手に伝わるのは確かな熱であり、彼の予想に反してラーメンは冷め切っていなかったのだ。
「馬鹿な! 俺のチャレンジラーメンは完璧だったはずなのに!」
あまりの憤りに声を荒げる店主。その彼が持つ丼のそこから何かが剥がれ落ちたのを玉藻は見逃さなかった。
「これって…あら熱い」
落ちた謎の物体を拾い上げた玉藻は、そう言うと手に持ったそれをテーブルの上へと放り投げる。
「――― !!! ―――」
その物体を目の当たりにした店主は言葉を失う。
「見ての通り、『使い捨てカイロ』ですわね。左文字さんが使ったものでしょう」
どうしてこれに気がつかなかったのか。それ程に身近なものを左文字はチャレンジラーメン攻略の秘策として用いたのだ。
「それに、見た限りこの使い捨てカイロは寒冷地仕様の特段熱くなるやつね。この熱を使ってスープを温めていたってことかしら」
「しかし、左文字は何時こんな物を仕込んだんだ? そんな素振りなんて全然なかったはずだぞ」
左文字のことを誰よりも警戒し、その一挙手一投足を見逃さないように監視していたのは誰あろう店主自身なのだ。
その彼が気付かない内に、左文字はこんなカイロを仕込んでいたなんて、まるで手品か魔法の類ではないだろうか。
「恐らくだけど…」
そう呟きながら、玉藻は彼女が身に着けている着物の左袖、その袂を右手で摘みながら、何か抱えるような素振りを見せる。
「左文字さんがあのチャレンジラーメンを食べるとき、こんな感じで丼を左腕で抱え込むようにしていたじゃない?」
「そういえば…、あまり気に止めていなかったが、言われてみれば不自然な格好だったかもしれない」
丼を持つならば左手は添えるだけでいい。ガッツクにしても抱える必要はない。むしろそんな体勢では食べづらいではないかと、思い返してみれば気が付くことである。
「きっと左文字さんの左腕。羽織っている印半纏の左の袖に幾つも使い捨てカイロを仕込んでいたのでしょうね。そうやって仕込んでおいた使い捨てカイロを左腕で丼に押し付けることで、カイロの熱を丼に移していたんだと思うわ」
丼からラーメンの熱がドンドン逃げてしまうのなら、何か別の熱源を用意して温めてやればいい。
だからと言って、カセットコンロや良くあるような焼け石を入れるといったような熱源の取り方では、いくら何でも『カタクナ』の店主が止めに入ることになるだろう。
そこで使い捨てカイロである。使い捨てカイロなら着衣に貼り付けることが可能で、大きさも薄さも隠して使うには打って付けの熱源である。
しかし、いくら使い捨てカイロが寒冷地用の強力な物であったとしても、果たして逃げる熱と同等の熱量を丼に伝えることができるだろうか?
普通に考えれば無理だろう。だが、その答えは誰あろう店主が一番先に気が付いた。
「鋳物の…丼」
チャレンジラーメンその一番の大仕掛け、凝るスープを実現させるための金属製の丼。
店主が思い描いた通りならば、丼の中の熱を外へ容易に伝達する働きを担うはずだった。
だがその逆に、外から熱を与えられたとき、その熱を逆に丼の中へと伝えてしまうことになる。
つまりは金属製の丼の熱伝導率が逆に仇となった結果である。
「そうか…そういうことだったのか」
シンプルで大胆ながら、こちらの意表を突いてくる。最大の仕掛けとして用意したこちらの武器を逆手に取り、逆にこちらに止め刺す切り札とする作戦に、店主は左文字のことを敵ながら思わず感心してしまった。
「それで、どうするの? 抗議する手もあるけども…。ああ、そういえばこの条件を飲んだのよね?」
玉藻が突き突き付けてくるのは左文字から渡された挑戦状。そこには細かく小さく書かれた『食い逃げ屋側はマイ食器・その他道具の持ち込みを良しとする』の文字。
これに則れば、左文字が黙って使い捨てカイロを使ったことはルール違反でも何でもないという事になる。
そのことに横暴だと喚いて試合を無効にする手立ても確かにあるかもしれない。しかし、店主は静かに首を横に振った。
「いや、イイ。その必要はない」
その表情は実に精悍なものだった。
正直な話、今まで店主は左文字のことを舐めていたのだ。
いくら『喰い逃げ屋』が未知なる競技だからと言って、いくら左文字がその道の覇者なのだとしても、それでも『カタクナ』はラーメンだけで返り討ちにできるのだと考えて譲らなかった。
だが、そこが隙であった。そこを突かれたのが敗因だったのだ。
「この負けは甘んじて受けよう。それが敬意を表すということだ」
結果が示すように、もしも通常の大食い勝負を挑まれていたのなら、この時点で『カタクナ』の敗北であったのである。
だから、店主は敗北を受け入れたのである。
「でも、まだ勝負は付いていない。そうでしょう?」
玉藻がそう問い質すとおりだと、店主はその瞳に赤々と燃える闘志が灯っている。
そうとも、敗北したのは第一ラウンドだけ。勝負はまだ続いている。
ならば真剣に立ち向かおう。真摯に全力を以て、手を抜かず気を抜かず、真正面から戦いを挑もう。
そうでなければ左文字を打ち倒すことはできない。それほどの強敵を自分たちは相手にしていたのだ。
「左文字なら、まだそれほど遠くまで行っていないでしょうね。今追いかければまだ追いつけると思うわ」
玉藻の声を受けて店主は店の出口を見やる。
店の中も寒いが、表はさらに寒い。されど出口から差し込む陽の光は、薄暗い店内を切り裂いて目に染みる。
だが、そこに向かって走らないとならない。そうずるべきだと店主はわかっていた。
その一歩が新たなるスタート。ここから飛び出して行くことが、新たなる戦いの幕開け。
決意を固めた店主が、いざ駆けだそうとした矢先、机の角に足をぶつけて俯せに倒れてしまう。
彼にとって走るのなんて久しぶりだったのだろう。もつれた足が絡まってしまったのだ。
「ああ…だから準備運動はちゃんとやっておきなさいって言ったのに」
呆れたように溜息を吐いた玉藻は、未だに倒れ伏している店主を避けて店先に歩み出る。
きっと飛び出していった左文字たちを追いかけて行ったのだろう。先ほどまで店の周りに輪をかけるように集まっていた観衆たちは既になく、いつもの休日の福富町商店街の様相を取り戻している。
「まあ、左文字さんも『カタクナ』さんも、精いっぱい頑張ればいいわ。盛り上がった方が楽しくなるのだから」
玉藻は誰に言うでもなくそう独り呟くと、懐からスマホを取り出して、動画サイトへとつなげる。
その画面には今まさに福富町商店街を疾走する左文字の姿が映し出されていた。




