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「いやはや、お疲れ様です。師匠」
そこは東京豊島区池袋。駅の北口にある中国人街その一角。
週末ともなれば客引きと酔っぱらいと中国人が放つ喧騒が、一晩中引切り無しに響く街の隅に、ヒッソリと小ぢんまりとした、広東省出身の陳 峰兆さん52歳が個人経営する中華料理店『一品香』。餃子などの点心が特に人気の店である。
その2階に間借りする形で左文字は暮らしている。
家賃は月に4万円。ガス、水道、電気などのライフラインは家主である陳さんから請求されないが、その代わりに店の手伝いをする約束になっている。
そこに戻った左文字は一仕事を終えたと、浅い溜息一つ吐いて、ハンガーに屋号の印字された印半纏を掛ける。
「斉場君。お茶を淹れてくれませんか?」
一方、斉場少年はそこに下宿はしていないが、頻繁に通いつめており、甲斐甲斐しくさ文字の身の回りの世話を焼いている。
師匠の頼みとあらば何なりと。飼い主に呼ばれた仔犬の如く嬉しそうに、チャカチャカと細かい動きで薬缶をカセットコンロに掛ける斉場少年が、ふとソファーの方を見やると、幾分疲れた様子の左文字が横になっているのが見える。
「しかし、デパートの屋上遊園地を下見したその足で、一気に3軒も忍び込むのは無茶があったのではないですか?」
何時になく覇気の無い左文字の様子が気にかかり、話しかける斉場少年だが、当の左文字は振り返ることなく譫言を呟くように返答する。
「いいえ、今日で全て回っておかなくてはいけません。何せ事が事ですからね。日を跨いだら他のところで警戒される恐れがあるのですから」
だからってそんなクタクタになるまでしなければならないのだろうか。
斉場少年は左文字の弟子となってまだ数ヶ月の身ではあるが、左文字の食い逃げに対するその焦げて焼き付いた様な黒い情熱の在り処を理解できないでいた。
「まあ、少々危ない橋ではありましたが、こうやって無事に帰って来られたのです。良かったということにしましょう」
あれだけの大騒ぎになったというのに、左文字にとってそれは些細なことだとでも言うように、ケラケラと笑って済ませる。
マッタク、帰りを待っているこちらはどれだけ心配したことか。
誰かに聞こえるか聞こえないかというほどの、ごくごく小さな溜息を一つ吐いて、斉場少年は先ほど左文字がハンガーにかけた印半纏に目をやる。
「しかし、本当にどういう仕組みなんですか? その印半纏。それを羽織っただけで監視カメラにも映らなくなるなんて」
カセットコンロに薬缶がけたたましく笛を吹く中、斉場少年が疑問を投げかける先。左文字はソファーで寝返りを打ちながらテレビのチャンネルを回す。
「ああ、そのことですか… 正直理由は良く解らないのですよ」
あらかた回して興味がないのか、天気予報でチャンネルを止めた左文字は、斉場少年を見るでもなく、虚ろな眼差しのままそう答える。
「そうなんですか? 何かジャミングをするためのチップでも織り込んでいるのかと思ったのですが」
近所の中国雑貨店『陽光城』で購入したプーアール茶を茶碗に注ぐ斉場少年の言葉に「そんなわけ無いでしょう」と半笑い加減に左文字が答える。
「あれは左文字が初代から代々受け継いできたものですから、そんな江戸の昔からあるものに、ハイテク機器が組み込まれている訳がないじゃないですか」
それにそんな物が織り込まれていたならば、いつものように雑に洗濯なんてできるわけがないと、左文字は疲れの滲む笑い声を上げる。
思い起こせば確かにそうだ。斉場少年は左文字が自身の汚れ物を洗濯しているのを何度も見ているが、その中に㊧の印半纏も入っており、特に考えることもなくそのまま洗濯機で洗ってしまっている。
その洗い方は雑も雑。ネットに入れることも柔軟剤を使ったことなんて一度もない。あの印半纏は藍で染めた色柄物なのに。
その雑な扱いに斉場少年は歴代の左文字に申し訳ないような気もしてはいるが、当代の左文字が何ら気にする様子もないため、あえて口を紡ぐことにしている。
それではイッタイ何が作用して、電子機器のジャミングが行われているのか。
改めて問いかける斉場少年に、ムクリと上半身だけ起こした左文字は彼の方を見る。
「そうですねぇ… 強いて言うなれば…」
「言うなれば?」
淹れたてのプーアール茶を卓袱台に、左文字の前に置いた斉場少年に、イタズラめいた笑を見せる左文字は「呪い…ですね」と呟く。
「呪いだなんて、師匠は随分と物騒な話をするのですね」
随分と眉唾な話を抜き打ちでする左文字に、怪訝な表情を見せる斉場少年の様子が面白いのか、左文字はプーアール茶を啜りながらケラケラと笑っている。
「いいえ、強ち的外れとも言えないのですよ。実はこれは私の師匠である先代の『左文字』から聞いた話なのです」
そう言われると何だか隅に置けないような話である。斉場少年にとって師匠である左文字のさらに師匠ということは、つまりは雲の上の存在である。そんな人が言ったことならさぞ意味のあることのように思えてしまう。
「なにせあの印半纏は数百年という時間を『左文字』と共に食い逃げして来た訳ですからね。それこそ愛も憎も喜怒哀楽も悲喜交々(こもごも)綯交ぜになった人間の思いを絡め取っているかもしれないですよ」
非科学的な話ではあるが、長く使い込まれた道具には魂が宿り付喪神に成ると言う。
その上、食い逃げという生業ならば様々な人の恨みを買うことが多く、それを数百年と続けてきたのなら、印半纏にはどれほどの業と怨念が積み重なっていることだろうか。
また、強い霊気を持つもののそばに行くと機械が誤作動を起こすことがあると言う。深夜の寺院や廃病院、薄暗く湿ったトンネルなど、それはプラズマか不可思議なガスか、何かの要因で機械の調子が可笑しくなる現象があるのは事実だ。
つまりはこの印袢纏自体が放つ莫大な霊気が機械を狂わせて、監視カメラを作動不良にしているのだということなのか。
―――なるほど、理に叶っている。
合点が入った斉場少年は、手を打って晴れやかな表情をするが、「まあ、そう言っても先代は随分といい加減な人でしたから、口から出任せかもしれませんけどもね」などと左文字が笑い飛ばしてしまったら、一体何が本当なのか解らなくなってしまう。
「それはそうと、今日の偵察の首尾はどうだったのですか? そもそも、師匠はイッタイ何をしに忍び込んだのですか?」
斉場少年はこの機会にと、常々思っていた疑問を口にする。
いつも左文字は食い逃げ屋を行うことが決まると、必ず相手の店や取引のある商店に忍び込んでいる。
しかし店に忍び込んだからと言って何かを盗むわけではなく、何一つ手を付けずに帰ってきてしまう。
そのことがイッタイ何の意味があるのか、斉場少年は長く疑問に思っていたのだ。
「ああ、そのことですか」
事も無げに答える左文字は茶碗の中身を飲み干すと、居住まいを正して斉場少年を見据える。
「端的に言うと、私は情報を盗んできているのですよ」
「情報? ですか」
そうそうと頷く左文字。弟子である斉場少年に自分の話をすることが楽しいのか、その表情にはしたり顔を浮かべている。
「今日、『カタクナ』さんにラーメンを食べに行って、その内容の8割を理解したという話はしましたよね?」
「ええ、確かに」
「しかし、残りの2割は解らないままだったのですよ。ですから、その2割を知るために、私は今晩『カタクナ』さんの取引先へと忍び込んだのです」
まさか、そのために。たった2割の謎のために、危険を冒して罪まで犯すような真似を師匠はしたのか。
そのことに驚きを隠せないでいると、左文字はこの2割が重要なのだと語る。
「確かに、私は一杯食べれば大概の料理の材料と調理法は解ります。…解りますが、それはあくまで想像の範疇です」
イメージでしかないのなら、真実と何かしらの違いが生まれえる可能性がある。その懸念こそが命取りなのだと左文字は語る。
「『㊧の印半纏』を背負うのなら、食い逃げにおいては全力を尽くさなければならない。それが左文字の名を継ぐ者の誇りであり、積み上げてきた伝統なのです。だからこそ、1ミリの不安要素も残しておけないのですよ」
そのためならば何だってする。それこそ喰い逃げ屋は外道なのだから。
「何度も言いますが左文字の名を継ぐということはこういう事なのですよ。人様に後ろ指を刺される外道に誇りを持って疾走するということなのですよ。…幻滅したでしょう?」
「いえ、そんな…」
「取り繕わなくて良いのですよ。こんな道を歩むのは『人でなし』なのですから。斉場君も真っ当な道を歩みたいというのなら、いつでも引き返してイイのですからね」
こちらの腹の中を探るような左文字のセリフ。しかし、その声色は真剣そのもので、冗談や笑い話で言っている様子は全くなかった。
確かにこの道は真っ当な道じゃない。確かに喰い逃げ屋は人から見れば日陰者の道だろう。だが、斉場少年は「師匠は意地悪ですね」と苦笑いを浮かべる。
「僕にはもはやこの道しかないことなんて、師匠が一番よく知っているじゃないですか。あの日に師匠に出会って、弟子入りした時から僕の道は踏み外せない一本道に乗っかってしまったのですから」
「そんなに高尚なものでもないのですがね。この道は」
一途な姿勢を見せる斉場少年破れかぶれになっていないかと心配になる左文字。そんな心配を知ってか知らずか、斉場少年は先ほどの質問の続きをする。
「それで、忍び込んだ理由は解ったのですが、どんな結果だったのですか? ちゃんと10割全てが解ったのですか?」
「それは大丈夫です。バッチリですよ。…ところで斉場君。3日後なのですが時間がありますか?」
「…? 特に予定はありませんが」
斉場少年こう見えて学生であり、日々学業に勤しんでいるものの帰宅部である。そのため放課後は階下の中華料理屋でアルバイトをして糊口を凌いでいるが、それ以外の時間はかなり自由が効く。
もちろんそれは師匠である左文字も預かり知ったる所ではあるが、当の本人は「それは丁度良かった」と安堵したような様子を見せる。
「チョット、ですね、協力して欲しいのですよ。斉場君」
「何をするのです?」
「いえ、特に大層な事ではないのですが、まあ、時間は開けておいて下さい」
随分と曖昧な言い方をする左文字に不安な色を滲ませる斉場少年。
そのことに関して左文字が執拗に何てことのない、怖いことはないとの台詞を重ねることにさらなる胡散臭さを感じる。
「まあ、事は箱を開けてのお楽しみ。フフフ…三日後が待ちきれないですね」
そんな斉場少年の内心とは裏腹に、先ほどの泥の如き倦怠は何処へやら、生き生きとした様子の左文字がニヤニヤと笑っていた。
それからの三日はアッと言う間だった。
斉場少年は何時ものように学業とアルバイトとを両立する生活をして過ごしている。
左文字が間借りしている『一品香』の店主である陳さんが作った料理を手伝いとして配膳し、引き上げた皿を洗う。これの繰り返し、単純なルーティーンなのだが、この中華料理店、存外に人気店であり、夕食の時間帯ともなれば息吐く暇もないとは正にこの事と実感できる盛況ぶりを見せる。
それに伴って忙しく、目が回る程に働く斉場少年の視界の隅、厨房の奥の方で左文字の姿が映り込む。
普段、何も用事が無ければ左文字もまた店の手伝いをするのだが、三日と宣言したあの日から、昼夜問わず付きっきりで寸胴を睨みつけている。
陳さんからは左文字にも少しは手伝って欲しいと文句一つを言われるが、ガンとして左文字はそれに答えず、只々何か考え倦ねている様だった。
そして宣言通り三日目の夜。店の暖簾を片付けた斉場少年に「出来ました」と左文字が声を掛けてきた。
「…出来たって、そういえば何か作っていましたけども、何なのです?」
「それは見てのお楽しみです」
フフフ…と含んだ笑いを浮かべる左文字に誘われながら斉場少年は店のテーブルに着くと、続いて左文字に連れられてきた陳さんが席に着く。
「イッタイ何事ヨ」
ここ数日、梨の礫を貫いてきた左文字が急に声を掛けてきた事に、陳さんは訳が解らないといった様子で質問してくる。
そんな事を聞かれても、斉場少年だって解らない。
二人で不安を抱えながら厨房の方を眺めていると、数分後に左文字がノソノソと這い出してくる。
「お待たせしました。どうぞ食べてみて下さい」
テーブルの傍までやって来る左文字。その手は店で配膳に使うカートを押しており、そのカートには見上げる程の山となった丼が2杯乗せられていた。
「! 師匠、これって」
訳が解らず目を白黒させる陳さんの向かい側、その山に覚えのある斉場少年が驚きの声を上げる。
「そうです、例の『カタクナ』さんのチャレンジラーメン。アレを再現してみました」
さも一仕事終えたというように、ヤレヤレと言った様子で充実の溜息を吐く左文字に、斉場少年は言葉を失う。
いくら師匠が食い逃げに全霊を傾けていると言ったとしても、まさかここまでやるだなんて想像だにしなかった。
左文字の姿勢はもはや遊びではない。比喩でも例えでも何でもなく、この人は食い逃げということに命を賭けている。
再現出来るというのも驚くべきところだが、出来るからといってそれをやるというのもまた左文字の常人には推し量れないところである。
常人には理解が及ばないだろう。粋人でさえ共感を得られないだろう。狂人にも笑い飛ばされるであろう。
誰かに事を伝え切れるような、そんな言葉は存在しなく、きっと左文字のことを理解しきれる人間なんて、指折り数える程もいるのだろうか。
実際に一緒にテーブルに着いている陳さんは、理解が及ばないといった様子で、宛ら水面で喘ぐ金魚のように口をパクパクとしている。
それでも、斉場少年には、その左文字の在り方に微かながらの輝きを見ていた。
左文字が持つ、焦げ付いたような黒い情熱。その焦げが折り重なって、積み重なって、地層のように圧縮されて、その中で偶然の一粒が偶々輝きを放つようになったような。
理解の外ではあるものの、美しさを、憧憬を感じてしまう。そんな感情が斉場少年の心の片隅にはあった。
しかし、彼の心の大部分はその事よりも、『どうしてこんな途方もないことを』と思う呆れが支配しており、その次に『これからこの丼を俺に一体どうしろというのだろう』と言う不安が大部分を占めていた。
―――まさか、食えと。
ふと頭の中に過ぎった考えに脂汗が吹き出す。思わす顔を上げて目の前を見やると、向かいに座るこちらも脂汗を流す陳さんと目が合った。
「…? どうしたのです。早く食べないと伸びてしまいますよ」
やはりと言うべきか、左文字はこの『スペシャルラーメンモドキ』を食べることを強要してくる。むしろ斉場少年と陳さんがラーメンを前に喜び勇んでいないことを不思議がっているくらいだ。
どうしたものかと斉場少年は己の眉間を摘む。彼はこれを自分が食い切れるだろうかと思い悩む。
確かに目の前のラーメンはモドキ、紛い物ではあるものの、左文字が持ってきたラーメンはかなり再現度が高い。ことその量に至っては本物と寸分違わないではないか。
数多くの歴戦のフードファイターを退けてきたラーメンを、まさか今夜この場で自分が対峙することになろうとは。全くもって思いもよらなかった。
「その、師匠は食べないのですか?」
「私は味見で何度も口にしたので、お腹がイッパイなのです」
こっちだって陳さんに出してもらった賄い料理を食べた後なのだ。無理を言わないで欲しい。
とはいえそんなことなど露知らず、左文字はワクワクとした、人生で初めて料理をした子供のような純粋さでこちらを見つめてくる。
どうかその表情はやめて欲しい。余計に胸が苦しくなる。
「ソレじゃあ一口だけ頂くヨ」
数分のラーメンとの睨めっこの後、このままでは埒があかないと思ったのか、陳さんがまるでダンベルでも持ち上げているのかと思うほど、重い手取りで箸を持ち上げる。
陳さん。貴方も賄いを食べてお腹が膨れているだろうに。
それでもこのラーメンに箸を入れようとするのは、料理人として出されたものに感謝の意を示すためか、将又別の理由なのか。
ともあれ、陳さんが見せたその姿勢に、左文字の弟子を自称する斉場少年としても引き下がるわけには行かなくなった。
「それじゃあ、僕も少しだけ…」
その斉場少年が見せる消極的な姿勢に、左文字は詰まらなそうに口を尖らせる。
左文字からしてみれば数日かけて再現した力作なだけに、斉場少年と陳さんに心ゆくまで堪能して貰いたいと思っていたのだろう。
「まあ、イイです。冷めないウチにどうそ」
それでも箸も付けられないよりはマシなのだと思ったのか、早々に食べるように勧める左文字に、テーブルの二人は恐る恐る箸をラーメンに伸ばした。
「…ん !? とっても旨いですよこれ!」
一箸、麺を啜って早々に斉場少年の口から漏れたのは、実にシンプルな驚きの声だった。
濃厚にして淡麗、繊細にして大胆、長蛇の列を連日の如く作り上げる人気ラーメン店の珠玉の一杯。それがこの一杯に見事に再現されていたのだ。
「ウン! 好吃ネこれぇ!」
斉場少年に続いて一口啜る陳さんも、先程までの怪訝な雰囲気は霧散して、目を輝かせながら絶賛する。
「ヤッパリ日本のラーメンは美味しいネ。故郷でも人気なのヨォ」
随分と気に入ったのか、陳さんは自分の店で出してはどうかと提案するが、丸パクリ料理を提供するのは、流石に止めといた方がイイと、斉場少年も左文字自身も引き止める。
「しかし、凄いですね師匠は。たった一杯食べただけなのに、ここまで完璧に『カタクナ』のラーメンを再現してみせるなんて」
あまりのラーメンの味の良さに、思わず二口目の箸を進める斉場少年に、照れた様子を左文字は見せる。
「そんな事はないですよ。喰い逃げ屋として経験を重ね自然についた力ですから、特にスゴいという訳では無いですよ」
「いやいや、そんなご謙遜を。…この食っても食っても減らないところもソックリですね、マッタク嫌になります」
丼の中で無限に自己増殖しているのではと疑いたくなる程の底知れなさ。挑む者の心を捩じ切ってくるようなその量の多さに、斉場少年はやはりどうやってもウンザリしてしまう。
ここまで再現してくれなくても良いものを。そうで無かったらこの一杯を美味しく食べきる事が出来ただろうに。
こんなことを思うのはきっと僕だけではないはず。陳さんだってウプっと苦しそうなゲップを今し方しているではないか。
箸の進みが明らかに遅くなっている斉場少年と陳さんの二人。その様子を見てガッカリするどころか、その逆にしてやったりと、機嫌が良いような左文字が微笑む。
「どうやら上手くいっているみたいですね。そのラーメンの仕掛け。細工は私が見立てた通りだったというわけですね… フフフ、重畳です」
「え? 師匠、イッタイこのラーメンに何したのです」
「ヘンな物でも混ぜたんじゃないよネ?」
急に怪しい雰囲気を醸し出した左文字に、斉場少年も陳さんも不安を煽られて自らの腹をまさぐっている。
「いやいや、そんな変なものは混ぜてないですよ。混ぜたものは自然由来ですから大丈夫です。…大丈夫ですとも」
なんで二度も言ったのか。余計な一言が不安を煽る。
それに自然だからと言って全く安全だというわけではないだろう。フグの毒だって自然由来なのだから。
「ホントに恐れる物でも何でもありませんよ。ほら、これです。これを麺に練りこんでいるのです」
左文字が取り出したのはポリ袋。その中に白いフワフワとしたものが詰め込まれている。
何なのだろうと斉場少年が袋を開けて見た途端、フワリと大豆の甘い匂いが舞い上がってくる。
「『おから』じゃないですか、これ」
左文字も同意した通り、ポリ袋の中身は豆腐を作るときに出る大豆の搾りかす。『卯の花』とも別名で呼ばれる所謂『おから』だった。
「そうです、あの『カタクナ』さんの麺の中にはこのおからが練りこまれていたのです」
「へぇぇ、全然気が付きませんでした」
「麺にそんなものを入れるなんテ、チョット考え付かなかったネ」
生粋の日本人である斉場少年も、麺の本場出身の陳さんも、『カタクナ』が仕込んだ秘密には驚きの声を上げる。
「おそらく、昨今の低糖質ブームの影響があるのでしょう。麺の中に小麦粉以外のものを混ぜることで、糖質の量をセーブしているのです」
「それでも食味は変わらないですね。そんなボソボソとした物を加えたにしては、麺の喉越しは最高ですし」
「最近は便利なもので、おからを粉状にした『おからパウダー』なるものが簡単に手に入るのですよ」
それを使えば簡単に、且つ麺の食感を変えずに糖質をセーブした麺を打つことができる。
もちろんこれは一朝一夕で出来るものではなく、『カタクナ』の店主と免坊製麺所の不断の研究が作り出した賜物なのだろう。
「なるほど、麺の秘密は解りました。しかし、これがどうして無限増殖ラーメンになるのです?」
「ああ、ソウ言うことネ。おからは確かにそうネ」
「流石です陳さん。解りますか」
勿論ヨぉ!とニッコニコの笑顔でサムズアップを返し合う陳さんと左文字。一人解らず蚊帳の外になってしまった斉場少年は、困惑した様子で二人を交互に見返した。
「斉場君。覚えておくといいです。おからという食品は、非常に保水力が高く、腹の中で水分を吸って膨れるため、ダイエット食品として非常に重宝されているのですよ」
つまりはこの麺に練り込まれたおからパウダーが、ラーメンのスープの汁気を吸い込んで、ムクムクと増殖を続ける細胞の如く麺を無限に増やしてしまうということなのだ。
麺がスープを吸って増えるのは、宛ら九州のうどんを思わせる。
あれもうどんが無尽蔵に増えてスープの量が減ってしまうため、薬缶やポットに追加のスープが入っており、それを継ぎ足して食べるのだ。
それと同じ現象が、この丼一杯の中で起こっていると左文字は言う。
「私もチョット実験をやってみたのですが、普通の麺とこのおから麺。その伸びる速度と量を比較してみたのです。すると何とおから麺の方が伸びる速度もその量も、通常の麺の5倍になっていたのですよ」
驚きの結果をウキウキと語る左文字。そして衝撃を受ける斉場少年がふと丼に目を戻すと、件のおから麺がさらに増殖したのだろう、麺が丼から溢れ出しかけている。
「ああ、だから早く食べて下さいと言ったのですが」
蛸壺の中でミチミチと蠢く蛸のごとく、余りに増えすぎて収集の付かなくなった丼を二つを眺めてあーあ、と左文字は溜息を漏らす。
「それから、スープと具材の上にタップリ掛かっている『鰹節粉』も難敵ですね」
鰹節粉の主成分であるタンパク質は、摂取すると満足感が得られることと、その成分が食欲を抑える作用を持っているため、それが大食いを妨げてしまう。
「なるほど、よく解りました」
あの手この手でチャレンジを妨げてくる、この堅牢な城のようなラーメンにそんな秘密があったとは。
もはや十分に理解できたと、斉場少年はもう十分だと丼をテーブルの隅へ通しやる。
「…いえ、斉場君。まだまだこんなものではありませんよ。むしろそろそろです」
ところが押しやった丼は、左文字の手によってまた斉場少年の前に戻される。テーブルの対面では同じ光景が左文字と陳さんの二人で繰り返されていた。
もう勘弁して欲しい。こんなに増殖したラーメンなんて食べきれるわけがないだろう。
先ほどよりも量が増えたのではないかと思えるチャレンジラーメンモドキを前に、途方にくれる斉場少年だが、そんな彼などお構いなしに左文字はラーメンを食べるようにと強いてくる。
「本当に食べなくちゃダメですか」
「食べて下さい」
「もうお腹がイッパイなのですが…」
「食べて下さい」
「来月の家賃は要らナイから、ギブアップさせて貰えないネ?」
「キッチリ払いますから食べて下さい」
二人がどんなに懇願したところで左文字の意思は巌の如く固く動かず、ジッと二人を見据えて動こうとしない。
ああ、これはもうダメだ。左文字のその様子を見た斉場少年は覚悟を決める。
どうあれ、最早食うしか自分達は許されないのだ。
可哀想に、陳さんは丼山の向こう側で俯いてブルブルと震えているではないか。
頼れるのは自分だけ、孤独な戦場ただ一人、邁進するしかない。
―――ええぃ! どうにでもなぁれ!
破れかぶれ気味になった斉場少年が丼に箸を差し込み、気力の続く限り中身を掻き込んでやる。その決意を以て丼に躍りかかる。
しかし、斉場少年の気勢はそこまでだった。彼の箸は丼に突き刺さったまま止まって動かなくなっていた。
それは斉場少年の心が折れたのか、それとも彼に限界が来て立ったまま気絶してしまったのか。
心配になった陳さんが覗き込むと、そのどちらでもなく、真っ赤な顔をした斉場少年が、呻きながら箸を持ち上げようとしていた。
「イッタイどうしたのネ! 何があったヨ!」
あまりの斉場少年の剣幕に、陳さんも思わす驚きの声を上げる。それ程に彼の表情は鬼気迫り、とてもじゃないがラーメンを食べる時に見せるような顔ではなかった。
「…重いんです。麺がとっても重いんです!」
苦しそうに、呻くように、斉場少年は箸から伝わる麺の重さを訴える。
数分前まではこんな感覚は全くなかった。
彼の手に伝わるのは宛ら箸でダンベルを持ち上げているような、箸だけで丼丸ごとラーメンそのものを持ち上げているような、そんな重量感だった。
しかしこれは明らかに異常だ。いくら麺がスープを吸ったからと言って、ここまで麺が重くなるだろうか。
「はぁ…はぁ…、何がどうなっているんですか? これ」
テコでも動かないといった様なチャレンジラーメンモドキに流石に音を上げた斉場少年。その様子を見て「大成功ですね」と左文字は小さくガッツポーズをとる。
「一体何なのです、師匠。どうしてこのラーメンはこんなに重くなったのですか」
思い通りの結果に小躍りまでし始めた左文字に、縋るような斉場少年の質問が投げかけられる。
「ああ、そうですね。論より証拠。それは見たほうが早いです」
そう言って左文字はラーメンの上に乗っかっている大量のもやしをどかすようにと促してくる。
一体何が原因なのだろう。恐る恐る具をどかした斉場少年と陳さんは、そこに見えた丼の中身に思わす息を呑む。
「これって!? スープが固まっている!?」
斉場少年が言うように、咲くほどまで丼の中で液体だったスープは、今はまるでゼリーの様に、煮凝りのようにプルプルと固まっていた。
「そうです、それがこのチャレンジラーメン最大の仕掛けです」
重々しい口調で語る左文字を見やる斉場少年。その視線の先、左文字はいつになく神妙な面持ちでいた。
「そもそも、このチャレンジラーメン。そのスープのベースは魚介豚骨です。豚骨スープというのは知っての通り豚の骨を長時間、白濁してくるまで煮込み続けたスープのことです。この時、骨に蓄えられたゼラチン質が大量に溶け出しており、それが冷えて固まったのが、これだというのです」
お菓子作りによく用いられるゼラチンも動物の、特に牛や豚の骨や皮から作られている。そうであるならば豚の骨を大量に用いて作る豚骨スープには、寸胴一杯のスープを凝らせるほどのゼラチンが溶け込んでいても不思議ではない。
「しかも『カタクナ』さんはコレに豚足を加えて出汁を取っています。豚足も知っての通りゼラチン質の固まりです。それによって『カタクナ』さんのラーメンのスープは温かいままでもあれだけのトロ味を持っているのですよ」
左文字が言うところによると、このゼラチン質こそが『カタクナ』のチャレンジラーメンが、数々のフードファイター達を退ける難攻不落鉄壁の要塞であるその『要』なのだと言う。
「大食いにとってコップの水や麺類のスープなどの水分。これが大敵であることは常識だということは知っていますね?」
「もちろんです、師匠。水を飲むと胃腸が冷えて消化が悪くなったり、胃の中で水分を吸った麺が膨張して、余計に食べられなくなったりすると言いますよね」
「その通りです。ですので、大食い選手たちは食事中に水を飲むことを控えたり、麺類のスープを飲まずに食べたりするのです」
だが、それを許さないのがこのチャレンジラーメンなのである。
「見ての通り、このラーメンのスープは、時間が経つごとにその粘度を増し、宛ら『あんかけ』の様に麺に絡まってくるわけです。これによって摂取しなくていいスープを否応なしに食べることになります。その上、麺がスープの水分を吸ってしまうため、このラーメンを食べきるということは、スープを含め丸々丼の中身一杯を食するという事に他ならないのです」
とんでもない物を考えたものだ。左文字の説明を聞いて斉場少年は驚きのあまり逆に感心してしまい、思わず溜息を吐く。
山のような具材、無限に増える中華麺、そして呪縛の如く纏わり付いてくるスープ。
この一杯の中にある全てがまさに総力を挙げてチャレンジャーにクリアさせまいと対抗してくるのである。
なるほどこれならば今まで誰もクリア出来なかったのも頷ける。斉場少年はこれには感動すら覚え拍手を送りたい気持ちになってしまった。
「しかし、チョット解らない事があるネ」
一方の陳さんは何か納得がいかないといった様子で首を傾げている。
「何でしょうか? 忌憚ない意見を伺えないでしょうか」
「いやネ、ちょっとイクラ何でもスープが固まるのが早すぎると思うネ」
確かに陳さんの言う通りだと斉場少年も思い至る。
実際左文字がこのチャレンジラーメンモドキを運んで来てから、未だ十数分しか時間が経っていない。しかも、運ばれてきた時のラーメンは確かに熱々だった。そして、そもそもゼラチンが固まるには冷える必要がある。
つまりは、一杯のラーメンが冷めるにしては時間が早すぎるということである。
「確かゼラチンが固まるのは20℃前後だったはずネ。それなのにこのラーメンのスープのゼラチンがもう固まっているなんてオカシイヨ!」
なにか不正か仕掛けがあるのだろう、そんな感じで食ってかかる陳さんに、左文字は落ち着いた様子で器を見るように促す。
「… !? 師匠、この器って」
驚く斉場少年も頷ける、そのラーメンの器は金属で出来ていたのだ。
「そうです、金属のラーメン丼なのです。『カタクナ』で使われていたのは鋳物の器でしたが、代わりに冷麺の器を使ってみました」
「アア、確かにこの器、ウチの冷麺のヤツネ」
ツルツルとした手触りの金属丼を触る陳さんは、納得した様子で何度も頷いている。
「ご存知のように、金属というものは熱伝導率が良いため、早く熱を逃がすことができるのです。その上、『カタクナ』さんのテーブルは同じく金属で出来ているため、ラーメンから丼、丼からテーブル、テーブルから床へとドンドンと熱が奪われていってしまう。そういう仕組みになっているのです」
それこそがこのゼラチン化するスープのマジック、そのトリックなのだと左文字は語る。
まさかこんな仕掛けがあるなんて。ラーメンの中身だけに注目していたら、とてもではないが気付くことも考え付く事も無かっただろう。
「しかし、どうするのです? こんなのどうやって攻略したらいいのですか」
そしてここに来て斉場少年がポツリと不安を漏らす。
左文字にチャレンジラーメンの説明をされるほど、その難易度の高さ、仕掛けられた仕組みの数々に、とてもではないがこれを攻略できるような気持ちには成らない。
やはりこれは魔物なのだ。只人が挑んでイイ物ではないのだ。
恐れをなして弱腰に成ってしまっている斉場少年。これは無理だと匙を投げる陳さん。
しかし、左文字のその胸中には静かな闘志が炎の様に灯っている。
「いえ、策はあります。おそらくそれが上手く行くのなら、このラーメンを完食することが出来るはずです」
「策とはイッタイ何なのです師匠?」
クリクリとした興味の瞳で師を見つめる弟子の斉場少年に、左文字は「これを使います」とポケットから取り出した物を手渡した。
「うわ! 師匠、これって」
手渡されたものを放り投げて、斉場少年は狼狽える。あまりの狼狽ぶりを見た陳さんが、斉場少年が捨てたものを見やるが、何を驚いているのか解らず、不思議そうに彼の顔を覗き込む。
「これを使えば食べ終わるまでスープを凝ることなくラーメンを食すことが出来るという寸法です」
確かにこれを使えばスープの仕掛けを攻略することができるだろう。納得して頷く斉場少年に対し、それでも陳さんは否定的である。
「イヤイヤ、どうヤったって無理があるネ。カリにスープがどうにかなかったッテ、量が減るわけじゃあるまいシ。そもそも、こんなものを食べきれるヤツなんて、それこそバケモノヨ」
陳さんの意見もごもっともである。普通ならこれに挑もうと思う時点で既にどうかしているだろう。
しかし左文字は喰い逃げ屋。只人ならぬ外道を行く者である。
「大丈夫ですよ。まあ、何とかします」
そこに戦場が、食い逃げの舞台があるのなら、有無を言わさず駆け抜ける。それこそが喰い逃げ屋であり、『左文字』の名前を背負う者の宿命である。
誇らしく、そして気負うことなく含羞んだ左文字を見て、呆れたような表情を見せる陳さんとは裏腹に、斉場少年には何か確信めいた、信じるに値する力強さをその笑顔から感じることができた。
「ドウでもイイけども、コレどうするネ。モウこれ以上、ワタシ食えないヨ」
もはやラーメンとは呼べず、手の付けようのない残飯と化したチャレンジラーメンモドキに見切りをつけ、陳さんは付き合いきれないとでも言うように、席を立って店の奥へと消えていく。
「仕方がないですね。勿体無いですが、片付けましょうか」
思った以上に残されたのがショックだったのだろうか。ポツリとつぶやく左文字の背中には軽い落胆の色が滲んでいる。
反対にこの尋常ならざるラーメン地獄から解放された斉場少年は、助かったことに安堵の溜息を一つ吐いた後、左文字のことを手伝うと、テキパキとラーメン丼を片付け始める。
「とりあえず、師匠。これでラーメンを食い切る算段は出来たというわけですね」
中身を空けた金属製の丼を洗う二人。隣で話しかける斉場少年に、左文字は「うん」と静かに返事をする。
「しかし、これを食い切ったとして、その後に走って逃げるわけですよね。師匠はそこをイッタイどうするつもりですか?」
スポンジを片付けて、水切り籠に丼を置いた斉場少年が何時になく真剣な表情で左文字を見据える。
「だって、ついさっきもそうでしたが、ここまでチャレンジラーメンを運んできたから解ることですが、あの重さはヤッパリ脅威です」
その事は左文字も十分承知していることである。あのラーメンを出来立ての状態、つまり重さ100%の状態で運んできたのは他ならぬ左文字である。
左文字も試作の段階でラーメンの計量を行った時、その数値は丼の重さを差し引いても10kgを超えていたのだ。
これには左文字も驚いたが、実物はこれに匹敵するか、それ以上であるかという量なのは左文字も重々承知している。
10kgという重量は思いのほかキツいものがある。
仮に太って体重がその数値分増えたとした場合、体が繰り出すパフォーマンスは著しく低下する。
さらに問題なのは、通常の体重増加と訳が違い、急激にその体重が10kgも増加することの影響は想像を絶するだろう。
イメージし易く話せば、ダンベルを腰周りに吊り下げて走るようなものである。
その上、ウェイトが体内にあるということで、筋肉や血管、内蔵を圧迫することになる。それによってさらにパフォーマンスの低下が起こってしまうのだ。
こんなことでは勿論、全力なんて出せるはずもない。さらにその上、食べたものを吐いてはならない。それが、喰い逃げ屋のルールなのだ。
普通に考えて食い逃げをやる側が絶対的に不利な条件である。それに、こちらは逃げるが一人。対する追っ手は無数にいるのだ。
これは無理ゲーなのではないか。話を聞くたびに、斉場少年は左文字が行う喰い逃げ屋の理不尽さに途方も無くなってしまう。
「まあ、食った以上、腹に入れたものを減らすなんて時間に頼るしか他ないですしね」
左文字も逃げにおいて自分がどれほど不利なのかは重々承知している。斉場少年の言うような状態で、本当に逃げ切ることができるのだろうか? それは左文字であっても今はわからない。
「だからこそ、斉場君、君の協力が必要なのです」
だが、左文字は自信に満ちた声でそう言った。
「一人で食って、一人で逃げる。確かにそれでは心細いですし、最終的に追い詰められてしまいます。ですが、斉場君のフォローがあれば、きっと乗り越えられると思うのです」
左文字のその言葉からは、斉場少年のことを何よりも信頼しているという心持ちがヒシヒシと伝わってくる。
「そんな、買い被り過ぎですって」
信頼されていることに慣れていないのか、斉場少年は恥ずかしがるように顔を背けてしまう。
「いいえ、むしろ君の力が無ければきっと勝ち得ないでしょう。この喰い逃げ屋で、逃げにおいて勝つための仕掛け。その鍵を握っているのは他ならぬ君なのですから」
「だからこそ、そうなればこそ心配なのです。僕のミスが師匠のことを邪魔してしまうのではないかと心配になって…」
小柄な彼がいつもより一回りも二回りも小さく見える。不安に心を捉えられた斉場少年は、雨に濡れた子犬のように頼りなく震えている。
そんな彼の頭の上に、暖かな熱を帯びた掌が添えられる。
斉場少年が顔を上げると、左文字が南風のような温かな笑顔で声をかける。
「大丈夫です、失敗しても。例えそうなったとしても、それで私が斉場君のことを嫌いになるわけはありませんから」
添えられた掌が斉場少年の頭髪を撫でるたび、どういうわけか彼の心は落ち着いて行く。
まるで不安のささくれに薬を塗られているような、そんな気分に陥った。
「さてと、もう大丈夫ですか?」
一頻り撫で終えて満足したのか、落ち着きを取り戻した斉場少年の様子に、左文字も安堵したように息を吐く。
「もしも不安に思うなら、今のうちにやれる事は何でもやりましょう。動かないということは、心配の種を根付かせます。先ずは当日に全力が尽くせるようにコンディションを整えておく必要がありますね」
心配事は尽きないが、それが恐怖となるわけではない。
心配事とはブロックで出来た山の様なもので、一つ一つ取り除いてゆけば、その山は確実に小さく、乗り越えて行ける高さになってゆくのである。
「それと、食い逃げ屋を開催するチラシを刷っておいて下さい。それを今度、福富町商店街のあちこちに貼りに行きましょう」
これも不安を払拭するための行動の一つ。左文字が喰い逃げ屋をやる際には、いつも必ず喰い逃げ屋を開催することを告知するチラシを刷り、それを開催する地区の道のあちこち貼る作業を行うようにしている。
もしもこの作業を怠ると、この行事が喰い逃げ屋であることを知らない人間が、勘違いをして最悪警察沙汰になる恐れがあるのである。
その危険性を回避するために、この喰い逃げ屋広報作業を左文字は何よりも重視しているのである。
その熱の入れようは、チラシのデザインを自らパソコンで作ったり、自腹を切り、印刷屋に金を払ってまでチラシを刷ったりしている程なのだから。
そして、この行為にはもう一つメリットがある。
刷り上がったポスターを自分の足で歩きながら、路地のあちこちにそれを貼り付けてゆけば、自ずと商店街界隈の道の入り組み方が頭に入るのである。
地図の上から眺めたり、ナビに頼って歩むのも道を覚える手立ての一つではあるものの、実際に足で歩いて目で見て感じることには遥かに情報量として劣るのである。
だから幾ら時間が掛かろうが、例え幾らお金が掛かろうが、自分の足で歩いてポスターを貼ること。これをすることこそ左文字が再重要視している下準備の一つなのである。
「それが終わったら機は熟したと言えるでしょう。そうしたら、いよいよこれの出番ですね」
片付けを終えた左文字が、印半纏の懐から取り出した一通の封筒。
「『果たし状』…いよいよ本番というわけですね」
斉場少年が言うように、その封筒には『果たし状』と書かれている。左文字食い逃げの流儀、その締め括りとして果たし状を対戦相手に送る習わしがある。
「勿論、言葉では宣戦布告していますけれども、形として証拠を残しておくことで、私も相手も言い逃れが出来ない様にしておくのです。これをやっておかないと、色々と締まらないですからね。これをやることで一心地付くというか、臨戦態勢になるというか」
「それに、その果たし状には、確か喰い逃げ屋の細かいルールが書いてあるんですよね」
そうともと、頷く左文字は封筒を開ける。そして、中に認められた文章に目を通す。
「うぁ、相変わらずビッシリと書いてありますね。白い部分の方が少ないと思う程」
流石にそれは言いすぎだろうと、斉場少年の言葉に失笑する左文字だが、すぐに真剣な表情になり、文章に目を戻す。
「ルールは大事です。正々堂々とやること。それが食い逃げに正当性を持たせます。そのためにはちゃんとしたルールが設けられていて、且つ間違いがない事が大切なのです」
だからこと、左文字にとっては読み慣れたことであろうその文章を、注意深く、何度となく読み返しているのだろう。
「まあ、何よりも今回の相手の『カタクナ』さんが喰い逃げ屋初心者ですからね。解りづらい所があったら事ですし、もう一度ちゃんと読んでおこうと思いまして」
だから、君にも確認して欲しいと、左文字は斉場少年に声をかける。
それならば、と斉場少年は左文字の隣の席に腰をかけ、その文章を読み上げる。
左文字の弟子となって数ヶ月の斉場少年にとっても、今一度喰い逃げ屋というものは何なのか、それを振り返るいい機会だったのだ。




