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左文字が『喰い逃げ屋』として挑戦状を叩きつけたその数時間後。暖簾を下ろした『カタクナ』の店内では、片付けと掃除、明日の仕込みといった裏方作業が行われている。
看板になったからといって終わりではなく、右往左往店員たちはせわしなく店の中を行き来している。
そして店主はというと、電卓を前に今日の帳簿をつけている。
「お疲れ様です」
店主に話しかけたのは、アルバイト君だった。彼が店を閉める時間まで残っているのは珍しいことだった。
「おう、いいのかい? こんな時間まで居て。彼女さんが五月蝿いんじゃないか」
「ええ、さっきから引切り無しにスマホが鳴っています」
もうウンザリした様な、疲れ果てた表情のアルバイト君は、せめて気分を変えようと激動だった今日一日を振り返る。
「しかし、今日は本当に色々な事がありましたね」
店主も思い返して「そうだな」と静かに呟く。大食いチャンピオンの黒岩の挑戦を退けたと思ったら、今度は得体の知れない『喰い逃げ屋』なるものに挑戦状を叩きつけられる。
まるで一週間を凝縮したような、そんな一日だったと店主はしみじみと思う。
「ところで、今日、挑戦状を叩きつけてきた…なんでしたっけ? 左文字、ですか? 勝算はあるのですか」
「そうだな、大食いチャレンジなら何度か経験があるが、食い逃げだなんて経験がないからな」
店主が不安に思うのは、『喰い逃げ屋』というものをよく理解できていないがためだ。当の左文字もルールは後日伝えると言い残して去ってしまったため、店主は内容を理解できていないままなのだ。
「それなのに二つ返事で受けてしまったのは、安請け合いだっただろうか」
ここに来て不安を顕にする店主に、バイト君は「大丈夫ですよ」と答える。
「食い逃げといっても『食って』『逃げる』わけでしょう? 食うことが達成できなければ話にも成らないということでしょう? だとすればうちのスペシャルラーメンなら大丈夫です。あれこそ難攻不落の要塞ですよ」
事実、『カタクナ』がこの大食いチャレンジを始めてからというもの、あのチャレンジラーメンを食い切ったものは皆無なのであった。
それこそ、今まで幾人の猛者たちを相手にしてきている。テレビで有名になった大食いタレントも、全米ホットドック早食い選手権のチャンピオンでさえ、このチャレンジラーメンを攻略することができなかったのだ。
「そうかな? そうだよな…」
ひとまずの安心を得た店主は笑みを浮かべる。そして、食い逃げに対する意気込みを新たにした。
「ごめんくださいな」
ちょうどそんな時だった。店の入口から嫋やかな女性の声が響いた。
二人が振り返るとそこには和装の女性が、店の中に急に前触れもなくポンと置かれたように佇んでいた。
歳の頃なら20代中盤。おおよそ今日見た左文字と同じくらいに見える。
そんな若い女性が時代錯誤な和装の出で立ち。青海波の留袖に紺の帯、髪は油で整えて足袋と雪駄で足を包んだその姿。元から見目麗しい彼女がそんな姿をしているのだから嫌が応でも目を引いた。
だが、その日本人形のような美しさが逆に人間味がなく、どことなく血が通っていないのではないかとさえ思えてしまうほどの、そんな女性だった。
「すみません、もう今日は閉店なんですが…」
営業時間は過ぎており、スープも既に底をついている。もはや今日は大人しくお引き取り願う他ないといった状況なのにも関わらず、女性は遠慮なしにツカツカと、店内へと入ってきてしまう。
「申し遅れました。私、こう言った者でございます」
呆気にとられる店主と店の従業員たちを尻目に、女性はその青海波の袂から一枚の名刺を取り出した。
「…イベントコーディネーター、『石神井 玉藻』?」
今日は随分と名刺を貰う日だなと、シゲシゲとその文面を読み上げる店主に「左様でございます」と、どうにも猫でも被っているのではと疑いたくなるほどの丁寧さを玉藻は見せる。
「いや、その、取材とかそう言った類のことは事前にアポを取ってからでないと困るのですが」
「オホホ…いえいえ、今日こちらに罷り越しましたのは取材のためではありません。ちょっと私の小耳に挟んだことがありまして」
面倒臭そうな輩だと、なるべく穏便に引き取ってもらうつもりでいた店主は、早々に出鼻を挫かれる。
『カタクナ』は有名店だけあって今までに幾つものラーメン専門誌やテレビ取材などをこなしてきてはいる。
しかしこの玉藻という女性はそんな事などどうでもイイと、興味は全く無いと言わんばかりに、大上段からバッサリと切り捨ててしまった。
「こちらのツイッターを拝見させていただきまして… どうやらこちらのお店には熱心なファンがいるようですね」
そう言って玉藻が自分のスマホの画面をこちらに向けると、そこには今日の事の顛末が書かれている。
「これによると、こちらの…『カタクナ』さん。『左文字』から『喰い逃げ屋』の挑戦状を叩きつけられたそうですね」
間違いはないかと念を押す玉藻に、店主も隠すことではないと思って素直に答える。
「ああ、よかった。最近は『喰い逃げ屋』が流行り始めて来たせいか、面白半分で嘘を書く輩がいるんですよ」
さも安心したと言わんばかりに手を打って溜息を漏らす玉藻に、店の一同は何のことやらと言った面持ちで彼女を見据える。
「しかし、ご主人の男ぶりには惚れ惚れいたしますね。何せ左文字の挑戦状を真っ向から受けて立とうというのですから」
「いえ、それほどでも」
玉藻のような美人に持て囃されて気分が悪くなる男はおらず、店主もまた頬を上気させて苦笑いを浮かべる。
「それで、何か勝算はお有りなのですか? 何か秘策をお考えですとか?」
「…いえ、特にこれといって何か特別なことをやるということは」
「え? 出す料理に何か特別な工夫をしたり、追っ手の人数を増やしたり、練習したりとかしないのですか?」
「ええ、特には…」
店主の返答に玉藻は言葉を失ったようだった。信じられないといったような表情で店主のことを見据えている。
「もし、大変失礼ですけれども、ご主人は左文字のことをご存知でないのですか?」
左文字も何も喰い逃げ屋なんてものも全く知らないと、店主は彼女が何でそんな態度を取るのか分からぬままに答える。
「ああ、これはもう…勝負は見えているわね。ご主人、正直に言いましょう。貴方は左文字には勝てないわ」
「!? 何だよ急に、失礼な」
「そうだ、そうだ!」「何を根拠に!」
最善までの取り繕ったような恭しい言葉遣いから一転、飾ることのない言葉で玉藻から抜き打ちの如く言い放たれた敗北宣言に、流石に店主も従業員たちも腹に据えかねたのか語気が強くなる。
いくら玉藻が美人だからといって無礼は無礼だ。店員たちはしゃもじ、菜箸、お玉を片手に今にも飛び掛らんばかりの臨戦態勢をとっている。
「まあまあ、落ち着きなさい。そんなに怒らないで欲しいわ。確かに、私の発言は不躾だったけれども、事実は事実よ」
玉藻が追い討ちをかけた更なる敗北宣言に、ガタっとさらに店員たちが青筋を立てたその顔を連ねて身を乗り出してくる。それを店主は片手で制して再び玉藻を見据えた。
「あんた…玉藻さんだったっけ? さっきから随分と食い逃げ屋の肩を持つんだな」
「いえ、別に肩を持っているというわけではないの。ただ、左文字さんのことはよく知っているから、そこから客観的に判断しているだけよ」
「あんたこそ、ウチのことを知らな過ぎるんじゃないのかい? こう見えてもウチのチャレンジラーメン、自慢じゃないけど今までどんな猛者たちも返り討ちにしてきたんだよ。そう易々と食い切れるものじゃない」
店主がこれほどの自信を持つほどに、チャレンジラーメンは百戦錬磨の土付かず。どんな強敵だって返り討ちにしてきたという自負があるのだ。
「それに、最近の流行りだか何だか知らないが、ポッと出のよく解らない輩にどうこう出来るとは思えない。山のような量のラーメンを食って、さらに走って逃げるだなんて。まともな人間だったら途中で食べた物を吐いてしまうよ」
店主の意見に「そうだ! そうだ!」と店員一同は声を合わせて同意する。
人間の生理的に食後すぐに運動をすると、胃が痙攣を起こして食べた物を戻してしまう恐れがある。
学校で給食の時間の後、すぐさま体育の時間でマラソンを走らされたことが有れば経験があるだろう。
それ程に、元から食い逃げとは無謀な事であるのだ。
そもそも件のチャレンジラーメン、作っている本人ですら、やり過ぎたかもしれないと思っているくらいの量なのだ。万が一にも食いきれたとしてその後に走って逃げようだなんて誰が出来る。あまりの重量にそれを腹に収めた後、椅子から立ち上がる事さえ出来ないのではないだろうか。
「それでも、そんな無理を遣って退けるのが『喰い逃げ屋』と言う人間なのよ」
あれだけの啖呵を切って見せた店主に、真っ向から玉藻は左文字をぶつける。
「それに、何か勘違いをしているようだけど、左文字はそこらの食い逃げ屋とは訳が違うわよ」
「なっ…」
ズイッと急に身を乗り出して顔を寄せ、玉藻の息が掛かるほどの距離に近づいて来たことに、店主は気圧されて後ずさる。
「一つこれも勉強ね。イイでしょう。食い逃げ屋ビギナーの貴方がたに『喰い逃げ屋 左文字』が何者なのか教えてあげましょう」
「いや、別に要らないが」
「確かに『喰い逃げ屋』はここ最近の流行として、少しずつその存在を認知されるようになってきたわ」
やはり聞く耳を持たないのか、玉藻は一人、頼まれても居ないのにツラツラと解説を始める。
「けれども、食い逃げと言うものはこう言ったエクストリームスポーツとして取り上げられる遥か以前から存在していたも」
―――むしろ其方の方が一般的だろう。
「今の常識に囚われて薄らいでしまっているかもしれないけれども、食い逃げは刑法で罰せられる立派な犯罪なのよ」
―――そうでしょうね。
「しかし現代のブーム以前から食い逃げを生業としてきた無法者ども、所謂『喰い逃げ屋』は、それこそ自分の足と胃袋を頼みに無銭飲食をまかり通してきた、生粋の無法者どもなのよ」
―――あれ? とんでもない物に首を突っ込んでしまったかもしれない。
俄かに不安の色が店主の顔に滲み出すその向かいで、弁が載ってきたのか玉藻の語り口が色めき立つ。
「その中でも『左文字』と言えば別格中の別格。江戸の中期に端を発し、幕末の動乱、大正昭和の大戦火、そして戦後の闇市さえ駆け抜けて今に至る。一子相伝、喰い逃げ屋の中の喰い逃げ屋だけがその名を継ぐことが許される。それの程の『大名跡』なのよ」
歌舞伎役者に例えるなら『市川團十郎』。力士に例えるなら『谷風』『雷電』。噺家に例えるなら『三遊亭圓朝』。
「と、までは言い過ぎかもしれないけれど、喰い逃げ屋にとって『左文字』はそれ程に『重み』のある名前なのよ」
それでも、流行りに乗っかった新参者たちは知らないでしょうがね。と、一頻り畳み掛け終えてオホホと笑う玉藻に対し、店主は唖然としたまま固まっていた。
―――いやはや、とんでもない事になってしまった。
確かに軽い気持ちであった。確かに舐めてかかっていた。
今に流行りだした若者の、粋狂極まりない遊びなのだとばかり思っていたが、その実は食い逃げに人生をかけた本物の大馬鹿者だったなんて。
「話が違うじゃないか! バイト君」
「ひぇぇ! 僕だってそんな変人が居るなんて知らなかったんです!」
あまりの頭の混乱に思わずアルバイト君を怒鳴りつけてしまった店主だが、知らなかったならばしょうがない。何せ自分も知らなかったのだから。
「参ったぞぉー。参ったぞォー」
店主はいつもの癖なのか、その場でグルグル左回転をしながらブツブツと呟いている。
店主を駆り立てるのは左文字の『得体』の知れ無さだった。
数百年という膨大な時間を食い逃げのために積み上げてきたという不可解さ。左文字本人の会話しただけでは表裏推し量れない人間性。そして無法に根差すが故の底知れない闇の深さ。
その全てが渾然一体となって混ざり合った『陰』。それに店主は恐怖していた。
そして、今まさにその『陰』はムックリと隆起し、虚ろの底へと店主を飲み込んでしまおうと大口を開けている。そんなイメージを得たのだ。
「改めて言っておくけれども、『喰い逃げ屋』は無法者。『外道』ですから。使う手管は数あれど、その清濁に選り好みは付けないでしょうね」
玉藻の言葉に店主は、パンドラの箱にニヤけ顔で手を掛ける左文字の姿が幻視する。
「ああぁ! どうすればいいんだ!」
パニックが極まったのか、店主はその場で3回転半ジャンプを決めながら暴れまわっている。
「まあ、落ち着いて下さいな、ご主人」
取り乱す店主が店員達では手に負えないと見て、玉藻は店主の襟元をムンズと掴んで席に付かせる。
「姐さんと呼ばせて下さい」
「オホホ、おヨシになって」
玉藻のその行動に、周りから歓声が上がるのを、玉藻は恥ずかしそうに咳払いをする。
「まあ、ご主人も初めての食い逃げだというのに、初っ端からトッププロを相手にするとなれば不安に思うでしょう。それは解るわ。―――けえれども、心配ご無用よ。ご主人には心強い味方が居るのだから」
味方と言われてトンと思い当たる節のない店主の頭上には、大きな疑問符が幾つも浮かび上がる。
―――味方とは誰だ。店の従業員たちだろうか? いや、彼らもきっと食い逃げだなんて経験が無い筈なのだから、頼みの綱になるとは思えない。
―――製麺所や八百屋といった出入りのお店の旦那衆だろうか? いや、これはうちの問題なのだから、彼らを巻き込むのは筋違いだ。
―――それならば俺の親父…は、ギックリ腰をやってしまってダメだった。
一瞬の思索を巡らせる店主に「思い浮かばないですか?」と問いかける玉藻。
しかし、いくら考えても誰が味方なのか解らない店主は、遂にはギブアップしてその答えを求めた。
「そうなのね。ですが、答えは何の事はないわ。この私が貴方の味方なのよ。ご主人」
鳩が豆鉄砲を食らったようなと言うのは、正にこの時の『カタクナ』の従業員一同の顔だった。
「いやいや、待ってくれ玉藻さん。本当にアンタ、俺たちの味方なのかい?」
「もちろんよ。この石神井 玉藻。この名に誓って貴方がたの味方になるわ」
「でも、アンタはあの左文字と知り合いだって言うじゃないか。そんなやつ、どうやったって信用できないよ」
「…さっきも言ったように、確かに左文字さんとは長い付き合いしているけれども、別にあの人の味方という訳ではないからね」
玉藻が言うには、彼女と左文字の関係はあくまでビジネス。例えるなら、よく使う通販の電話の対応者が何度か同じ人だった。その程度の関係に近いものらしい。
だがら左文字にそこまで肩入れする事はないと言う。
「それなら、何で俺たちの側に付くんだ? 左文字の側でもイイじゃないか。アンタに何か得があるのか?」
「それもまあ、ビジネスよ。私の職業はイベントコーディネーター故。この手のお祭り騒ぎは、盛り上がる方に加勢する信条なの」
「打算的なんだな」
「それに、このまま行けば、どの道左文字の勝利と勝敗は見えているから。宛ら子供が横綱に挑むような無謀だからね」
流石にこれには店の従業員一同グウの音も出ない。ここは大人しく彼女の助力を仰ぐとしよう。
「それではよろしくお願いします。まず、何をすればイイのですか?」
よろしいと頷いた玉藻が店主に指を指す。
「それでは、ご主人。先ほど私の問いかけたことを覚えています?」
「…? 俺の味方は誰かということだったか」
「そう、それ。その時、ご主人。貴方は誰を思い浮かべましたか?」
何だったか。確か店員一同と出入りの業者と、それからウチの親父だったか。
「先ずはその思い浮かべた人の全員に協力を取り付けることが必要よ」
「!? ちょっと待った」
何です、話の腰を折らないでほしいと、怪訝な表情をする玉藻だが、それでも店主は彼女を手で制す。
「今回の話はウチの店の喧嘩だ。店員ならば問題はないが、出入りの業者は部外者だろう。そんな彼らを巻き込むなんて出来る訳がないだろう」
「…イイこと、ご主人。今回の戦い、『カタクナ』さんが用意できる最大の武器は『数』よ」
ひと呼吸を挟み、急に神妙な声色で語り始める玉藻に、店主は黙りこくる。
「戦争は『数』だ等とよく言ったものよね。『技術』は時間を掛ければ差を埋めることができるし、言ってしまえば盗むことができるのよ。けれども、『数』に関してはどうしようもないわ。地の力、元の体力、そういったものに直結するのだから」
「急に戦争論を言われても…」
「失礼。話が脱線したわね。私が言いたいのは『数』は『技術』に勝る力だということなのよ。―――アリの大群が象を倒す話もあるくらいにね」
映画『黒い絨毯』ではアリの大群が過ぎ去った後には何も残らず、それは人智を超えた数の暴力がすべてを丸呑みしてゆく様を描かれた。
「そして何よりもイイのは、『数』というのは手っ取り早く用意できる力だということなの。『技術』に関しては時間がないし、積み重ねの段階で数百年の差があるのだから、これは捨て置きましょう」
「しかし、こんなバカなことに付き合ってくれるのかな。業者とは仲良くしているけども、チョット心配だね」
その言葉を聞いて玉藻はダンッ! と、カウンターを手で叩く。
「ご主人。勝つ気がないのなら、今すぐ左文字の所へ行って土下座をしてきなさい。しかし、勝とうと思うのであれば、是が非でも人を集めるのよ。そんなことを心配している暇があったなら!」
唐突な玉藻の激昂に、店員一同は何かマズイ事でも言ったかと思う。
「でも、これって遊びでしょう? そんなに怒らなくたって」
しかし、店側の今回のイメージとしては、これはあくまでレクリエーション。『喰い逃げ屋』とは遊びでしかなく、互いにベストを尽くして笑って終わればいいな、とその程度の感覚しかなかった。
実際に動画に挙げられている『喰い逃げ屋』の様子は、街一つを使ったイベントといった感じで、皆が熱狂して楽しそうにしている様子があったのだ。
だが玉藻が言うには左文字の食い逃げはそんな生っちょろい物じゃなく、それこそ命を賭けた真剣勝負なのだという。
「失礼だとは思わないの? あの人たちは…左文字は全力で事に当たろうとしているのよ。あの人たちはいつも真剣なの。喰い逃げ屋に全身全霊を注いでいるのよ。…それに対して貴方達はなんなの。巫山戯ているの?」
「いや、そんなことを言われても」
左文字が幾らどうであれ、自分たちが命を賭けるのはラーメンを作ることであって、食い逃げなんて本気になることではない。あくまで片手間にやることだ。
やるからには勿論真剣にやる。しかしそこまでだ。それ以上は、業務に支障が出てしまうようならば有り得ない事だった。
「まあ、玉藻さんも随分と怖いことを言って来ますけれども、そんな、左文字たちも人の子ですよ。無茶苦茶なことを平気でしてくる訳じゃあないでしょうが」
「…そう思っているの?」
ハハハッと冗談めいた口調で言ったつもりの店主だが、玉藻は真剣な顔を崩すことなくそう呟く。
一体何なのだ。怖いことを言わないで欲しい。
玉藻の様子に一抹の不安を覚える店主の視界。その端に、夜も遅いというのに店の中へ駆け込んでくる男の姿が映り込む。
「あぁあ! 大変だ『カタクナ』さん。大変なことになった」
息せき切って駆け込んできたその男。よく見れば店主にとって顔見知りの人物だった。
「あれ?『免坊製麺所』の社長さんじゃないか。一体どうしたんだい? そんなに血相変えて」
店主の言うとおり、駆け込んできたその人物は自分たちが普段取引をしている製麺所の免坊社長だった。
免坊製麺所は地元でも有名な製麺工場であり、大手チェーン店との取引のあるものの、『カタクナ』のような個人経営の細かなオーダーメイドにも対応する柔軟性がある店として知られている。
そのため、周辺のラーメン店に絶大な人気を誇り、大抵はここ免坊製麺所の麺を使っていると言われるほどのシェアを誇っている。
恰幅の良く、ロマンスグレーの髪が靡く50過ぎの紳士が、普段の様子では考えられないほど、慌てふためきつつ、危機を叫びながらやってきた。こんな状況が尋常ではなくてなんだというのだ。
とりあえずと渡された水を一杯飲み干して一心地ついたのか、免坊は改めて店主の方へと詰め寄ってくる。
「聞いてくれ『カタクナ』さん。大変なんだ。ウチに泥棒が入ったんだよ!」
「何ですって? 穏やかじゃないですね」
随分と物騒な話を持ってくるじゃないか。警察が出張ってくる様な話がまさか身近にあるなんて、今朝には夢にも思わなかった。
「それで、何を盗まれたんです? 被害が額は? 警察には連絡したのですか?」
それは心配か好奇心か。矢継ぎ早に質問を繰り返す店主だが、免坊社長は腕を組み、神妙な顔をする。
「そのな、こう言っては何だけれど、妙なんだよ」
妙とは? 免坊社長の口から発せられたその意外な言葉に、店主も店員たちも何のことだと疑問符を浮かべる。
「いや、確かに泥棒は入った。警察も呼んで調べてもらった。その結果…、その結果だがな…何も盗まれてないんだよ」
「…? 何なんだいそれ」
そんな事があるのだろうか。金銭目的で泥棒に入ったのなら、財布や通帳の一つ二つ持って行かれても可笑しくはない。
しかし、免坊社長の話を聞く限りでは、特に荒らされた形跡はないらしく、金庫も工場も、机の上のペン一本に至ってまで動かされた形跡がないとのことだ。
そんな状況でありながら、免坊社長が泥棒に気が付くことができたのは運が良かったということで、彼がいざ寝ようと思い、一杯の水を飲もうと台所へ向かう廊下、母屋と工場とを繋ぐ扉越しに動く人影を見たからだ。
「すぐさま飛び込んだんだが逃してしまった。でも間違いなく誰か居たんだよ」
それは考えようによっては幸いだったかもしれない。店主はふと思いついた持論が脳裏に浮かぶ。
それはつまり泥棒はまだ侵入したばかりで、これから事に当たろうとしている矢先に、免坊社長に見つかったのではないだろうか。
「まあ、何にせよ免坊さんにも工場にも被害がなくて良かったです。
先ほどの血相を変えた綿棒社長の様子からただ事ではないことを予想していた店主だが、話を聞けばどうやら丸く収まりそうであり、ホッ胸を撫で下ろす。
当の免坊社長も「そうなんだよ」と店主に同意し、先ほどの自分の取り乱した姿を思い出してか、バツの悪そうな顔をした。
「ただな、ちょっと違和感があるんだよ」
違和感とは何のことだろう? さっきも聞いたとおり、免坊社長はお金も通帳も取られたわけではない。しかし、免坊社長が言うには何かが無くなっているような気がしてならないと言う。
「もちろんその事は警察には言ったさ。それでちゃんと捜査もしてもらった。けれど結果はさっき言ったように、何も取られていないという結論だったのさ」
そこまで話が進んでしまっていたのなら、それはもう思い過ごし、被害妄想ではないのだろう。
店主の言葉に免坊社長も「そうかもしれないけど…」と呟くが、その様子は煮え切らないものがある。
宛ら喉に刺さった魚の小骨のように、今回の泥棒騒動が気になって仕方がないのだろう。
「そう言えば。確か、免坊さん所って総合警備会社入れていましたよね? それってどうなっているんです?」
ふと、店員の一人が何か思いついたようにそんな事を言う。そう言えばそうだと店主もそのことに思い至る。
今のご時世便利なもので、24時間寝ずの番の警備を金でやってくれるありがたいビジネスがある。
こちら家主からしてみれば、戸締まりとそれに任せておけば、泥棒その他諸々の心配事から解放され、無事に高鼾を掻いていられるというものだ。
元に『カタクナ』にも警備会社のセキュリティが入っており、夜の間は監視カメラが目を光らせている。夜目も昼目も関係ないこの目がある限り、泥棒のその一挙手一投足は逃すことはないはずだ。
「それじゃあ早速、警備会社に連絡して、泥棒した奴のツラを拝んでやりましょうよ」
意気揚々と、宛ら錦の御旗を掲げているかのように、これで万事解決だと意気込んでいる『カタクナ』一同だが、一方免坊社長は困ったような顔をする。
「そうしたい所なんだけども、それは出来ないんだ」
「何でです?」と問いかける店主だが、免田社長曰くところ、既に警備会社の人間が工場の方には来たあとらしい。
「もちろんその際に備え付けてあった監視カメラの画像を見せてもらったよ。警察も一緒にな。しかしなぁ…」
「だからどうしたのです? 泥棒の顔は確かめたんですか?」
「うぅん… そのな、写ってなかったんだよ。監視カメラ」
そんな事があるのだろうか。免坊社長の話を聞くと、監視カメラの画像はまるでポッカリと穴が空くように、人為的に編集したかのように、前後の画像はあるものの、泥棒が侵入していた当時の画像のみが写っていなかったのだ。
「確かに録画をしていた形跡はあるらしいだが、画像と音声の乱れが酷くて、データ自体が壊れているらしく残っていないんだ」
警備会社の専門家も監視カメラの様子を確かめてみたが、特に機械に故障は見られず、どうしてこんな画像の乱れが出たのか見当が付かないという。
「それじゃあ、今回の犯人の手がかりは何もないってことですか?」
「それがね…」
打つ手無しなのかと諦めかけた店主を見て、免坊社長は口を開きかけた。
―――その瞬間を見計らったかのように店主のスマホが鳴り響く。
店主が綿棒社長を一瞥すると、話の腰を折られたにも関わらず、免田社長は朗らかな様子で電話に出るように促してくれる。
「もしもし、ああ、矢尾さん。こんな時間にどうしたんです?」
電話の向こうの矢尾は『カタクナ』が取引をしている野菜の卸問屋である。鮮度はもちろん、味や品質にも定評があり、店主は矢尾に絶大な信用を置いている。
「うん、え? 大変なこと? 何があったんです」
そんな矢尾がずいぶんと困り果てた様子の声色で、電話の向こうから語りかけてくる。これには店主も心配になって事の次第を聞かずにはおれなかった。
「うん、うん… うん? 泥棒が入った?」
どこかで聞いたような話だと、ふと顔を上げれば免坊社長が目を丸くしている。
電話の向こうの矢尾の話をよく聞いてみると、何か盗られた様子はないものの、確かに誰かが彼の事務所に忍び込んでおり、何かをやっていたそうだ。
そして、もちろん警察も警備会社もやってきて状況を調査したものの、監視カメラにも警報装置にも何も情報が残っておらず、塵一つ指紋一つの手がかりも掴むことは叶わなかったと言う。
そのまま免坊社長の話と丸きり同じではないか。あまりの偶然の一致に店主も店員も免坊社長も交えて首を捻っていると、今度は店の裏手から「大変です!」とゴミ捨てを行なっていた店員が駆け込んでくる。
「店長! 大変です! 肉問屋の井延さんが…」
「ちょっと待て、…まさか、泥棒が入って、何も盗られてないけど、犯人が監視カメラに写ってなくて解らない、って話か?」
「よく解りましたね!?」
まさかこんな偶然があるのだろうか。シンクロニシティーにしても『カタクナ』の取引先に、立て続けに泥棒が入るなんて。
それもどれも犯人の影すら掴めない、得体の知れない何者かに狙われたなんて。そんな謎めいた一致に恐れを感じ、店主は一人震えを感じた。
「ちょっとイイかしら?」
そんな折に口を挟んできたのは、未だに居たのか石神井 玉藻だった。
こっちは今まさに取り込み中だから、黙って帰ってくれないかと思う店主だったが、玉藻はそんな心中察するに値せずといった様子で、免坊社長に話しかける。
「確か、貴方、免坊さん…と言ったわよね。そう、そうね。―――さっき何か貴方言いかけていたけれど、何かしら?」
そう言えばそうだった。先ほど免坊社長が何か言いかけてところに矢尾から電話が掛かってきたので遮られたのだ。
「そうだ、そうだった。言い忘れていたけれど、チョットだけだが犯人の姿を見たんだよ。俺」
思い出した免坊社長が口にしたのは重大な事実だった。なんと彼は警察も警備会社も掴めなかった犯人の姿を見たというのだ。
「それで、イッタイどんな奴だったんですか?」
興味津々な一同が一斉に免坊社長に押し寄せる。それを押し止める免坊社長は、少々バツの悪そうな顔をする。
「いや、その、見たと言ってもほんのチョットで、後ろ姿ぐらいなのだよ」
免坊社長が言うには、工場の事務室に怪しげな人影を見つけ、すぐさま飛び込んだモノの、それに感づいた犯人は電光石火の反応で逃げていってしまったらしい。
だからその顔を見てはおらず、せいぜい後ろ姿だったという。
つまりは犯人を特定する決定的な手がかりには成らないらしい。謝罪の言葉で意気消沈する免坊社長に、玉藻は何か訳知りの様な面持ちで問いかける。
「顔を見てはいらっしゃらないということだけど、他に何か犯人の特徴的なことは見てはいないの? ―――例えば、そう、服装とか」
服装。その一言に免坊社長の脳内で、何かの回路が繋がったように閃が訪れる。
「そう! そうとも。その犯人だったが、何だかよく解らない上着を着ていたよ」
犯人のその後ろ姿を思い返す免田社長がその犯人の姿を語るには、犯人は上着として藍色の簡素な着物を羽織っていたらしい。
「ああ言う上着を何と言うんだったか? 法被? 袢纏だったか? それに確か…色は全体的に藍色だったけど、背中に何か『マーク』が掻いてあったような…」
「それはこんな感じでしたか?」
その言葉を受けて、玉藻が紙に描いて示したのは、まごう事なく㊧の印だった。
「そうそう! これこれ! 確かにこんなだったよ!」
「おいおい、そのマークってまさか…」
見覚えのある㊧。それを背負った犯人など一人しか思い当たらない。
「それとご主人。まだ矢尾さんとは電話が繋がったままかしら?」
怒涛の如く押し寄せる現実に忘れかけていたが、店主が手に持つ携帯からはモシモシと遠くから呼びかけるような声が未だに聞こえてくる。
「其方の矢尾さんにも聞いてご覧なさい。犯人を見たかどうか。それと見たならば何か特徴を覚えていないかどうかと」
玉藻に言われるがまま、電話の向こうの矢尾にも確認したところ、彼もまた㊧の印を背負う袢纏を羽織った人物を見たという。
こんなバカな。何だこの一致は。
まさかと思って先ほど駆け込んできた店員に目配せをすると、彼もまた自分の携帯で電話の先の井延と話している。
「ええ、えっ!? 井延さんも見たのですか? 『㊧の藍袢纏』の人物!」
ここまで来ると最早決まりだろう。今夜起こった3つの泥棒。その犯人は左文字しか有り得ない。
「決まりだ、決まりだ!」「ふてぇ野郎だ!」「早速通報しよう!」
義憤に沸き立つ店の中、誰もが左文字を取っちめようとイキり立っている。その熱はまるで焼けた鉄のように輝いていた。
「でも、それって難しいんじゃないかしら?」
しかし、それに玉藻は水を差す。
「確かに、免坊さん。貴方は㊧のマークを見たと言ったけれども、あくまで『見たかもしれない』ということなのよね? 元に私がこうやって描いて見せるまでは朧げなイメージしかなかったのだから」
「それは…」と言葉を濁す免坊社長。先程は勢いで見たマークを㊧と断定したものの、改めて追求されると自信が無くなってしまう。
「そうだとしても、他にも矢尾さんも井延さんも見たと言ってるんだよ。それだったらもう間違いがないじゃないか」
「彼らもチラッと見ただけでしょう? 確証があるというわけではないのだから。もちろん、それで左文字を警察で調べる事は出来るでしょうが、きっとすぐに釈放されるでしょうね。何せ犯人は現場に証拠の何一つも残していかなかったのだから」
あえてこの場で口にしなかったが玉藻は知っている。証拠がどうのこうのという以前に、左文字がその長い歴史で紡いできた後暗い繋がりが、左文字たちが罪に問われることを退けてしまうことを。
「それじゃあ泣き寝入りしろっていうのか?」
鰻のごとくぬらりくらりと尻尾を掴ませない左文字に怒り心頭の店主たちだが、警察も警備会社も当てにならないという。
打つ手無しかと諦めかけた一同だが、玉藻の一言がポツリと口をつく。
「有るじゃない。手段が。挑まれてたわよね? 『喰い逃げ屋』」
その場で俯いていた一同が、暗闇を切り裂く一条の光を見たように、ハッとして顔を上げる。
そうだ、そうだった。自分たちには左文字に一矢報いる戦場があるのではないか。それもあろう事か下手人が用意した戦場が。
何のことだと面食らっている免坊社長に事情を説明したところ、なるほど合点が入ったと、キリッと眉を吊り上げた表情になる。
「そうゆうことなら『カタクナ』さん。この免坊、一枚噛ませていただきますよ」
意気込んでそう宣言した免坊社長は、工場の従業員一同を総動員して左文字のことを追い詰めてやるという。
「いや、そんな、そこまでして貰うなんて悪いですよ免坊さん。これはウチが勝手にやっていることなんですから」
「そう言うなよ『カタクナ』さん。今度のことは俺も当事者なんだ。むしろその左文字とやらに復讐する大義が俺にはある」
そんな様子でやる気満々の免坊社長。彼の工場の従業員、総勢25人が加わってくれるのならば、追っ手としてはかなり心強い。
「店長、聞いて下さい! 矢尾さんと井延さんの所も、事情を説明したら協力を惜しまないとのことです!」
これにより、今回の左文字と思われる謎の泥棒の被害を受けた3人は、皆が一致団結して『カタクナ』に協力するという。
続けざまに齎される朗報に、店の中はいよいよ色めき立つ。この満開の帆に風を満杯に受けているような感じ。まさに大舟に乗ったような感覚だ。
しかし、この状況、図らずも玉藻が思い描いていた状況となったわけだ。
さぞかししたり顔をしていることだろうと、玉藻のことを見てみれば、彼女は鼻に付く様なすまし顔をしている。
「良かったわね。心強い味方を得られたようで」
「ああ、アンタが思い描いたようにな」
「ええ、そうね。私としても今回のことが盛り上がってくれるようなら、興行的にも美味しいですからね」
オホホと笑い、悪びれずそんな事を言う玉藻の本心はやはり測り知ることは出来ないのだろう。
「それじゃあ、さっき言っていた俺たちに協力してくれるという話。あれは嘘じゃないだろうな?」
しかし、今度の食い逃げについて本気で勝ちを取りに行くというのなら、玉藻の力を借りるのは必要なことなのだろう。
「あら? イイの。私みたいな得体の知れない女を引き入れて」
正直玉藻は未だに怪しいと思っている。やけに左文字のことに詳しかったり、今夜の泥棒の全容を言い当てたりと、きな臭いところが彼女にはある。
「それならそれで利用価値はあるということだ。取り敢えず、アンタが知っている左文字の秘密を洗いざらい話してもらおうか」
確かに玉藻の登用は吉と出るか凶と出るか解らない恐れがある。それこそ実のところ玉藻が左文字のスパイであり、こちらの不利になるような工作をするような事も考えられる訳だ。
しかし、毒を食らわば皿まで。そして毒と薬は紙一重。
ここまで来たならば利用できるものは何でも使ってやろうというその店主の意気込みが気に入ったのか、玉藻も「イイでしょう」とニコッと笑って協力を快諾する。
「よぉし、こうなったら本腰だ! 食い逃げ勝負に絶対勝つぞ! 左文字何某に目に物を見せてやるんだ!」
店主の放った気合に、応と周りから声が帰る。打倒左文字の意気の下、一つに纏まった『カタクナ』陣営は燃え上る火球の如き勢いで満ち溢れていた。
そんな中一人、アルバイト君は首を傾げる。左文字はイッタイどうやってセキュリティを掻い潜って忍び込んだのだろうと。そして、何も盗まれていなかったとのことだが、何を目的に泥棒なんて働いたのだろうと。
その事が気に成るアルバイト君だったが、店主から「おら! これから作戦会議だ」と呼びつけられると、「せめて彼女に一報入れさせてくださいよ!」と、もはやその事を考えることなく駆けてゆくのだった。




