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喰い逃げ屋 左文字  作者: 楠木 陽仁
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1-3

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「あぁぁぁぁあああぁあ…、し、シショー !」

 歯の根が合わない斉場少年が、ガクガクと震えながら左文字のことを呼ぶ。

「…鼻水垂れていますよ」

 差し出されたポケットティッシュに首を振る斉場少年は、まるで掻き毟るように自分の手で自分自身を擦りつけている。

「寒いです! 寒すぎませんか!?」

 急に冷たくなり始めた夜の風が、二人の傍を急ぐように通り抜けてゆく。

 温もり豊かな喫茶店を後にして、日も暮れ冷えゆく路地の上。夕飯時に差し掛かり、腹を空かせた通勤客の胃袋が自然と足を向けさせるのか、昼にも増して人の入りが多くなってきた福富商店街。

 酒の入った歓声と、欲の混じった客引きと、店から漏れる陽気な歌声が寒空に溶けてゆく、そんな時間。

 それにも関わらず『カタクナ』に並ぶ客の列は短くなる様子はない。

 ただ、昼間と違うのは大食いチャレンジを観戦する、鞠のように膨れ上がった人だかりがない事。そして、その人だかりに混じっていた左文字と斉場少年が、今度は一列に並ぶことを選んでいることだった。 

「待ちくたびれたー」「足が痛いー」「ちょっとカップ麺買ってきてくれない?」「これからラーメン食うのに?」

二人がこんな会話の飛び交う長蛇の列に並ぶのは単純明快で、『カタクナ』のラーメンを食べること、ただそれだけだった。

 そのためだけにここに並んで早二時間。西部鉄道の駅のホームから牛歩のごとく、蝸牛のごとく遅々として、ようやく以て『カタクナ』の、店を構える路地の入口までたどり着いたのだ。

ただ、こんな寒風吹き荒ぶ街の路地に、二人揃って黙々と客待ちの列に並ぶのは中々身に堪える。

喫茶店で飲んだコーヒーの、仄かに有った暖かさも、スリのような寒風が懐から奪い去って寒くなっている。

ただ、ホットコーヒーを飲んだ左文字はまだしも、アイスクリームたっぷりのパフェを食べた斉場少年など、喫茶店を出た瞬間からこのように、濡れネズミがごとく絶え間なく震え続けている。

「確かに、急に寒くなりましたね。確か天気予報では大陸から寒波が来るとか。斉場君の防寒着は?」

「師匠の半纏を持ってくるので忘れてしまいました」

 悪いことをしたと思いつつ、ならば何で冷たいものを食べたのだと、謝意とも呆れとも付かない、何とも言えない表情をする左文字。

そんな左文字の目の前で、もはや辛抱堪らないといった様子の斉場少年は、左文字が羽織る半纏を貸して欲しいと強請った。

「ほんのチョットだけで良いんです。一分だけでも貸してもらえませんか?」

 もちろん左文字にも仏心はある。それに斉場少年が寒さに耐えているのも、自分に責任の一端があるのだから、上着の1枚2枚貸すのなんて、普段ならば構いはしない。

「けれども、この印袢纏はダメです。これは『左文字』の屋号を背負う一人前の証ですからね。君が袖を通すにはまだ早すぎですよ。そんなことを許したら先人たちに顔向けが出来ないじゃないですか」

「それは知ってますけれども、ケチを言わないで下さいよ。どうか一つ…、そこを何とか…、慈悲だと思って…」

「ケチとは何ですか。失礼ですね。マッタク…寒さに待つのも味の内ですが…とはいえ、このまま風邪を引かれても大変ですからね。コレをあげましょう」

 そろそろ体の芯から冷えてきたのか、水彩絵具の洗いバケツの中に溜まった色水めいた、ドドメ色のような顔色になり始めた斉場少年に、左文字はまた何かを差し出した。

「これは、使い捨てカイロですか?」

「ええ、それです。まだ未使用ですから気にせずに使って下さい」

 それならば遠慮なくと、左文字少年が包装しているビニールを剥くと、すぐさまカイロが熱を帯び始める。

「おおー…こんなにすぐに温かくなるんですね」

「スゴイですよね。それにそのカイロは特別製の寒冷地仕様なんですよ」

「寒冷地仕様? 何か違うんですか?」

「…そろそろ気をつけて下さいね」

 何を? と、左文字に問いかけようとする斉場少年であったが、「熱いっ!」と叫んでカイロを放り投げた。

「その使い捨てカイロですが、凄く熱くなるのですよ」

「―――それ、カイロを渡す前に言って下さいよ。師匠。しかも(ひとえ)に『熱い』の一言で済ませていますが、そのカイロ尋常じゃなく熱いですよ」

「まあ、北海道とか新潟とか、そういった雪国ではこれだけ熱くないと役に立たないということでしょうね」

 道端に落ち葉の如く投げ捨てられた使い捨てカイロを拾い上げ、「火傷に気を付けて下さいね」と左文字は斉場少年にカイロを手渡す。

「マッタク、もう…」

 宛ら危険物でも取り扱うように、怖々と使い捨てカイロを受け取った斉場少年は、焼き芋でも持っているのかと思わせるような、両手でパスを繰り返しながら使い捨てカイロの放つ熱に耐えていた。

 その様子が可笑しいのか、口元に笑を浮かべながら「温まってきましたか?」とイタズラっぽく左文字は問いかける。

「もう、暖かいを通り越して熱くなってきましたよ。そもそも、パスして動いてますから、カイロで温めなくてもイイ程ですが」

「役に立てて何よりです」

「そんなに嬉しくありませんよ。そもそも、何で師匠はカイロなんて持っているのです? いくら今晩が寒いとはいえ、時期外れじゃないですか?」

「まあ、それにも使い道があるのですよ」

 それは何かと訪ねようとした矢先、客待ちの列に動きがあり、二人を店の目の前へと辿り着かせる。

 どうやらこの並びだと、次の順番で店に入れるかもしれない。希望の見えた斉場少年は、この寒空を耐え抜いた自分を褒めてやりたくなる。

 すると、店の中から一人の男がやってきた。

 頭はツルツルに剃り上げられ、四角い顔に筋骨隆々。着ているものは店のユニフォームなのか黒揃えのツナギ一丁。その上着の背中と前掛けには店のロゴが印刷されており、それが無ければ見た目は非常に厳つく見えるその男、とてもラーメン屋の関係者とは一瞥では解らない。

 そんな男が百戦錬磨の接客スマイルで手に持ったメニューを見せてくるのだからギャップがヒドイ。

「ご注文をお伺いいたしますー」

 顔に見合った野太い声で恭しく、謙った物言いでそんなことを言うのだから、斉場少年はもちろん左文字自身も気後れしてしまう。

 それでも、ズィと突きつけられたメニューと店員の笑顔が放つ無言の圧力、そして後続の列に並ぶ客が放つ視線に、これ以上待たせては申し訳ないと、急いで二人はメニューを覗き込む。

「メニューは…シンプルですね」

 左文字が言うように、メニューはラーメンとつけ麺の2種類のみで、非常にシンプルだった。

 その味も魚介豚骨醤油の一点張りで、塩も味噌も無く、もちろんカレーなんてものは端から無い。

 あるとすれば、煮玉子や焼豚といったトッピングが数種類あるのみで、サイドメニューなど最初から作る気を感じさせない。

己の提供する一杯に絶対の自信アリ。その心意気の表れなのか、シンプルなメニューからは無骨な職人魂さえ感じさせる。

「斉場君はラーメンでいいですか?」

「煮玉子も付けていいですか?」

「それでは、ラーメンとつけ麺を一つずつ。両方共煮玉子付きでお願いします」

 メニューを受け取ったハゲ店員は「承りましたー」と言い残し、次々と後ろの客たちの注文を取っていく。

 惚れ惚れするほどに手際がいい。おそらく店の席数の上限であろう10人分の注文を取り終えた店員が店の中へと入っていったのと入れ替わりに、中から会計を済ませた客たちがゾロゾロと戸口を潜って出て来た。

 その客の顔の誰も彼もが満足そうな顔をしている。それほどの、身も心も満たす一杯がここには有ったという事だろう。

「お次のお客様、どうぞ此方へ―」

声に呼ばれた左文字と斉場少年を含めた十人余りがゾロゾロと、先ほど出て行った客の逆再生の様に戸口から店の中へと入って行く。

 店に入った二人がまず思ったことは、店が想像以上に狭く、気温が低いと言う事。

そして次に目が行ったことは、店の中に居る店員たちの誰もが、件のツナギハゲと同じ姿をしているという事だった。

 黒揃えの上下と前掛けがユニフォームなのは解るが、いくらなんでも全員がハゲ頭である必要は無いだろう。

 筋骨隆々のイイ男どもが、揃いも揃ってハゲ頭。高校野球部の部室もかくやと言った様相を示している。

「きっとラーメンに頭髪が入るリスクを避けるためなのでしょう」

 冷静に判断しているように見えて白目を剥いている左文字に、斉場少年も狭い店内にハゲ男が高密度で存在している空間に、コメントを控えざるを得なかった。

「お客様―、どうぞ此方へお掛け下さいー」

 店の入口でたじろいで、足を止めてしまった二人を促すその声に、我に返った左文字と斉場少年はソソクサと自分たちの席に着く。

 縦長に細い間取りの『カタクナ』は、カウンターのみの席に、わずか10人余りの客が、横向き一列に並んで座る作りに成っている。

 その席に、先頭の客から順に奥から詰めて座って行けば、四~五人目が二人の席。丁度店主のド真ん前で、カウンター越しに目と目が合う位置に居る。

「先ほど黒岩氏が座っていたのが、丁度斉場君の席ですね」

 思い起こすこと数時間前、馬号事無くこの場で行われた激闘の残滓をなぞる様に、斉場少年は感慨深げに机の上に手を置いた。

「…特に机には何も無さそうですね」

 左文字も斉場少年を真似、彼と自分の前の机を丁寧になぞる。街の中華飯店でよく見かける、赤くコーティングされたカウンター。どうやら一枚の鉄板を使っているのか、一面に継手は見られず、また清掃も行き届いているため、手触りに何ら取っ掛かりを得ることは無い。

 まさに清廉潔白、一点の汚点も無い。そんなシンプルなカウンターテーブルだった。

「確か、師匠の見立てでは、何かしらのトリックが有るということですが、カウンターには見当たりそうもありませんね」

 そうなると、やはり仕込みはラーメンに在ると睨むべきだろう。

 麺を茹で、湯切りを行う店主の一挙手一投足を注視する二人の視線にも熱が入る。

「お待たせしましたー。ラーメンですー」

 ホカホカと湯気を湛えながら運ばれてきたのは、斉場少年が注文したラーメンだった。

「つけ麺は後ほどお持ちしますー」

 斉場少年の前に、去りゆく店員が置き残したラーメンは、黒岩が挑戦したような冗談めいた量ではなく、常識的な一人前のラーメンだった。

 これを目の前に思うことは『とても美味しそう』であり、『とてもじゃないけど食いきれない』ではない。

 湯気が運ぶその香りさえも美味しいその一杯を覗き込むと、麺とスープの上にはチャーシュー、メンマ、焼き海苔とネギ。そして追加の煮玉子が斉場少年の食欲をお迎えしてくれる。

 それに加えて茹でたモヤシとキャベツがこんもりと、富士の嶺を彩る白雪の様に、丼の上に積み上げられている。

 もちろんその量はチャレンジラーメンに比べれば遥かに少ない量ではあるが、それでも丼の上を覆い尽くして底知れない。

「それでは師匠、お先にいただきます」

 つけ麺を待つ左文字に断って箸を取った斉場少年は、もう待ちきれないとばかりにラーメンを手繰った。

 その一瞬で斉場少年の脳髄は理解する。このラーメンは只者じゃなく美味いと。

 先程から二人の食欲を刺激し続けてきた香りは、麺を啜った瞬間、ダイレクトに鼻に抜ける。

よほど丁寧な仕事をしているのだろう、臭みなく香りと旨味だけを十二分に抽出しきった豚骨に、カツオの芳醇な香りが合わさって、えも言われぬこのスープをこれだけ間近で感じることのできる幸福感を鼻が先触れとして感知する。

 そして、嗅覚が呼び起こされたことを皮切りに、残りの五感にもスイッチが、まるで夜の街に明かりが一斉に灯るかのように動き始める。

 スープの味、モヤシの食感、煮玉子とチャーシューの飴色加減。麺を啜るその快音。どれもこれもこの一杯に得られる快感。

 食べるほどにその次は何を以て自分を刺激し、満たしてくれるのか。それを追い求めて一心不乱に箸を進める。

「スゴい食べっぷりですね、斉場君。私のつけ麺が来る前に食べ終えてしまいそうですよ」

 清々しくも天晴れな斉場少年の食べっぷりに、さすがの左文字も勝算の声を上げる。

 声を上げたのは左文字のみならず、左文字自身の腹の虫も我慢の限界だとばかりに大声を上げる。

「つけ麺おまたせしましたー。つけダレの器が熱くなってるので気をつけてくださいー」

 それを見計らったかのように左文字が注文したつけ麺が運ばれてくる。

 待ってましたと、喜び溢れて勇み足をする腹を諌めながら、左文字はまず一口、つけダレを味見する。

「なるほど、これは随分濃厚ですね」

 つけダレをレンゲで掬うその手に伝わるズシリとした手応え。口に流し込めばトロリと後を引き、口の中で長い時間香りと味が踊り続ける。

 それほどに十分な粘度を持ったつけダレに、冷水でキュッと締まったコシの強い中華麺を浸せば、器の底までゴッソリと連れ去ってしまえそうなほど、誰は麺に絡んでくる。

「まるでカレーうどんのようですね」

 思わず想いが口をついて出た左文字が、とろとろツルツルにタレを纏った中華麺を啜り上げれば、自ずとつけダレの秘密に気づく。

「やはりコラーゲンですね」

 とんこつを長時間、手間を惜しまず根気よく炊き上げた白濁のスープには、豚の一頭や二頭では足りないほどのコラーゲンが溶け込んでいる。

 ―――ですが、このコラーゲン。骨だけじゃありませんね。…おそらく他のゼラチン質。そうですね…豚足ですね。

 そうでないと、片栗粉でも使ったのかというこのとろみは説明ができない。一口二口食すたび、左文字はその脳裏にこのラーメンを構成するパーツを思い浮かべていく。

 ―――ニンジンにタマネギと…野菜もそれこそ煮崩れて、形が無くなるまで煮込んである。つまりはポタージュというわけですね。

 粗方(あらかた)つけダレについての解析を終えた左文字が、次に目をつけたのは丼の中身ではなく、丼そのものだった。

「鉄で出来た丼ですか。珍しいですね」

 左文字がその左手を添える丼は、鈍色に光る、紛れもなく鉄できた一品だった。

 鉄の器で思いつくのは冷麺の器だが、件のそれのステンレス製の器とは違い、『カタクナ』で使われている器は鋳物であり、職人の手間と情熱、そして人生さえ感じられるような、職人技の塊とも言うべき器だった。

 それを手で触れてみればダイレクトにつけダレの熱が伝わってくる。口や鼻だけではく手のひらを通じ、この一杯を堪能できるという趣向なのかもしれない。

 シャクシャク、モグモグとつけダレの上に彩られた野菜、チャーシュー、煮玉子を口に運び、その逃げも隠れもしない正道をゆくような具材を味わったあと、左文字は再び麺へと箸を伸ばした。

 ここで一口、左文字はつけタレに付けず素のままで麺を啜り、何かに感づいた後、改めてつけダレとともに食せば、気付きは確信へと変わる。

 ―――これですね。

「どうかしましたか? 師匠」

 何を悟ったか、左文字がしたり顔をするのを、斉場少年が惚けた顔で覗き込んでいる。

「いえ、だいたい解った。というところです」

「えぇ!? 本当に解ったんですか?」

「斉場君、君は何も気が付かなかったのですか?」

「えぇと… その、とても美味しくて濃厚だなって…」

「…斉場君。食事を楽しむというのは重要なことですが、私たちには仕事があることを忘れないで下さい」

 左文字から静かに叱責された斉場はしおらしく、ずぶ濡れの仔犬の如く小さくなってしまった。

「まあ、それが悪いということではありません。斉場君は食べることに関しては満点だといえるでしょう」

「あれ? 褒めてます?」

「ええ。ですが今の君は25点です」

「思った以上に低い!」

「それはそうですよ。車はタイヤ1本だけで走るわけは無いでしょう? 『食い逃げ屋』も同じです。支える4つの車輪があって成り立っているのですよ」

「えぇ…そんな大層な話だったんですか?」

「逆に今まで何だと思ってたのですか。マッタク…我が弟子ながら情けない」

 心底呆れ果てたのか、左文字は深々と、まるで心の中身をまるまる吐き出してしまうほどの溜息を吐いた。

「イイですか、斉場君。君も左文字に名を連ねるつもりなら心しておきなさい。君にこれから語る4つの事が『喰い逃げ屋』に必要なのだと」

 師として弟子に語る『喰い逃げ屋』の心構え。

 改めて居住まいを正して語り始める左文字。その様子はまるで海千山千の修行を収めた徳の高い僧侶の様であり、自然と斉場少年も箸を止め、耳を傾けざるを得なかった。

「いいですか、先ず必要なことは『食べる』ということです」

そもそも大食いでなければ話にもならない。天を突き、視界を覆い、丼を埋め尽くすほどの大食いチャレンジ料理。この料理を食べきってこそ逃げられる。

そして、食べること自体を愛して、好きでなければならない。そうでもないとこんな狂った事をやろうだなどということを実行しないだろう。

つまりは、底なしの胃袋と愛が必要だという話なのだ。

「二つ目に必要なのは『脚』、走る『速さ』が必要です」

 食い逃げにとって料理を食い切ることはゴールではない。言うなれば折り返し地点ということだろう。

 読んで字の如く、『食い』そして『逃げ』るのである。例え料理を食い切ったとしても、その太鼓腹に押しつぶされて逃げきれないのであっては元も子もない。

『喰い逃げ屋』は逃げ切ってこそ初めてゴールを迎えるのである。

「三つ目は『頭脳』です。これが今の君に一番足りないところです」

そもそも『喰い逃げ屋』は素人とは違う。これを生業とするのなら、場当たり的な行動はするべきではなく、十全に段取りを組んで望むべきなのだ。

 仕事である以上、何だってミスは許されない。それが許容されるものであったとしても、それを減らすための手筈は整えておかなければならない。

 例えば電車や旅客機などの交通機関にとって、ミスは大事故など多くの人命に関わるものであり、電気やガスなどのインフラで事故が起きればそれこそ災害レベルの大惨事を引き起こしかねない。

 しかし、そうならない為にも、仕事に従事する人間は、対策をマニュアルとしてまとめたり、研修を行って訓練を積んだりと、予めミスを起こさずまたは最小限に止めるための努力を行うのである。

 当たり前を当たり前にするための下準備。それこそがプロにとって最も初歩的で、最も怠ってはならないことと言えるだろう。

 それは『喰い逃げ屋』であっても例外ではなく、『食べきれない』と『逃げきれない』といったミスを犯すことなく、常に勝ち、常に逃げ切ることを念頭に置くのであれば、『食べる』と『脚』による己の力を信じ頼るのみならず、相手の特質および戦略について充分知り尽くしておかなければならない。

「そのためにも、食と調理への膨大な知識が必要になり、それを元に出された料理を分析する技量が求められるのです」

 普段よりも熱を持って語る左文字に、斉場少年も感心したように頷いて返事をする。

「現にいま私がこのつけ麺を食してみたのですが、今日の大食いチャレンジで黒岩氏がなぜ失敗したのか、その理由は大方解りました」

 ザルの上に乗っていた麺は既に空になり、もはや割りスープを待つだけになったつけダレをレンゲでかき混ぜながら、左文字は確信に満ちた表情で『カタクナ』のカラクリを見抜いたと豪語する。

「そうなのですか!? イッタイそれは何―――」

「お客様、少々よろしいでしょうか」

 斉場少年の質問を遮って、カウンター越しに二人に声をかけてきたのは、先程までラーメンの調理を行っていた店主だった。

「お食事がお済みでしたらお会計の方をお願いいたします。お(くつろ)ぎのところ申し訳ありませんが、あとのお客様がお待ちになっておりますので」

 (うやうや)しく丁寧な言葉遣いで、『カタクナ』の店主は出口にあるレジで会計を済ませるようにと二人を促してくる。

 だが、その言葉の裏に潜む店主の緊張感を持った眼差し、そして店員の全てが自分たちを見つめていることに左文字は感づいていた。

「いえ、ご馳走様です。すみませんでした。『食い逃げ』だなんて物騒な話をしていたものですから」

 まるでガラスに一瞬でヒビが入った様に。左文字が『食い逃げ』の言葉とともに席を立ったその時、店の空気が一瞬で緊張したことが斉場少年にも感じられた。

「…お客様。失礼ですが、お代の方は頂けるのでしょうか?」

 店の空気と同じように、店主の口から発せられる言葉も先ほどの一瞬で一変していた。

 確かにその言葉遣いは礼儀を弁えた、客と店との、迎える側と迎えられる側の関係に起因する丁寧な言葉を選んでいる。

 しかし、その奥の声色に、明らかな警戒の、疑いの心が滲んでいる。

「斉場君。最後の一つをまだ言っていませんでしたね」

 剣呑な雰囲気にオロオロと取り乱す斉場少年を流し見て、左文字は落ち着いた様子で不敵に笑ってみせる。

「イイですか? 斉場君。私はこの稼業に必要なものは4つだと言いましたが、むしろ今から話す最後の一つが最も重要なことです。これこそが肝です。これを欠いてしまったら『食い逃げ屋』は『食い逃げ』に、ただの犯罪者となってしまいます」

 店主が鋭い睨みを利かせる中、一人の店員が入口に陣取り、別の一人の店員が携帯を取り出し通報するような素振りを見せる。

 そんな周りの状況など何処吹く風と言わんばかりに、左文字は弟子への教授を止めようとしない。

 もうイイからと、ここでは無い別の場所で話そうと、周りを気にして制止する斉場少年を、左文字は「いえ、今だからこそ丁度イイのです」と彼を振り払いながら言い放つ。

「最後に最も必要なこと、それは『誠実さ』、『正々堂々』とあることです。それをこれから見せましょう」

 イッタイそれが何なのだ、この状況をどう打開できるのか。解らないといった表情をする斉場少年を尻目に、左文字は店主と正対する。

 店主の顔はまさに鬼の形相となっていた。蛙を睨む蛇、ネズミを目掛ける鷹の目。先程までの客と店員の関係は霧散し、今は獲物と狩人、犯罪者と義憤の民の関係だと周りの人間の大半がそう思っている。

 だから左文字がその印袢纏の袂に手を突っ込んだ瞬間、湯切りで鍛え上げられたのだろう、電光の如き速さのスナップを効かせた店主の右腕が、左文字の片腕を捻り上げる。

「妙な真似をするんじゃない」

 もはや言葉に飾りは不要だと、荒い言葉を吹き掛けながら、店主は左文字を睨みつける。

 いつでも店主に加勢できるよう身構える店員たち、事の重大さを察知して距離をとる他の客、大事に成ってしまい半ばパニックの様に右往左往する斉場少年。

「まあ、落ち着いて下さい。ご主人」

 それでも相も変わらず、冷静さを貫く左文字の手から、捻り上げられたその片手から、何かがポロリと零れ落ち、カウンターテーブル上に転がった。

「お代ならちゃんと払います。何でしたらお騒がせした分も含めて、迷惑料を上乗せしてお支払いいたしましょうか?」

 テーブルの上に落ちたもの。それは分厚い黒皮の財布だった。

「!」

 一瞬、それを目にした店主の目が丸くなり、周りで見ていた客と店員からも息を呑む音が聞こえてくる。

 それもそのはず。チラリと覗く黒皮の財布の中に見たこともないような大金が、それこそ財布を引き裂かんばかりに詰まっていたのだから。

 厚みから見ても100枚は優に超えているだろう。それのすべてが一万円札なのだから、金の味を知っている人間だったら誰だって目が離せなくなってしまうのは仕方がない。

「もう離してもらっても構いませんか?」

 その返事を聞く間もなく、財布に気を取られて力の緩んでいた店主の腕を振り払った左文字は、「二人分で」と財布から何枚か抜き取ってカウンターテーブルに乗せる。

「… ! いえいえ! こんな、多すぎますって」

 さっきの険悪な雰囲気は何処へやら。気勢を削がれたのか、店主は鳩が豆鉄砲でも食らったかのように、目を白黒させながら手を振って受け取ろうとしない。

「ですから、迷惑料も込みで。どうか受け取って下さい」

「そんな、滅相もない! こっちが勝手に勘違いをして、しかもお客様に手を上げてしまったのに、さらにお代まで頂くなんて」

 追加で金を払うと言う左文字と、ラーメンのお題すら要らないと言う店主。互が互いに加害者だと思い込んでいる二人の押し問答は3往復を繰り返した・

「そうですか…では、つけ麺とラーメンの分だけ置いておきますね」

「いえ、そんな、結構です」

「これもケジメですから。…ところで、一つ相談があるのですが」

 お釣りが出ないよう、キッチリと額を揃えて支払った左文字は、唐突に話を持ちかける。

「今度、そうですね…一週間後なんてどうでしょうか? また来るときに私にあれを挑戦させて貰えないでしょうか?」

 左文字がアレと言って指をさしたのは、壁に貼られていたポスター。それにはクッキリと『大食いチャレンジ』の文字が印字されている。

「えっ? お客さん、アレに挑戦されるんで?」

 意表を疲れた様子の店主がシゲシゲと、左文字の姿を頭から足までなぞる様に眺める。

 歳は若いが細身の細面。身長も隣で様子を伺っている少年ほどではないが小柄であり、力強さは微塵も感じられない。

 それどころかこの若者は男なのか女なのか? 中性的な見た目の若者が、どう見ても大食いには見えないのにあのチャレンジメニューに挑戦しようとするなんて。

「…失礼ですが、お客様。自身はお有りなのですか?」

 店主も失礼だとは思いながら、聞かずにはいられなかった。それほどに左文字があの量のラーメンを食い切りことが信じられなかった。

「大丈夫ですよ。こう見えて大食いなので、私」

 本当かなと疑るような視線を向ける店主に、「それともう一つ」と左文字はさらなる提案を示す。

「私はあのチャレンジラーメンを食します。そしてその後に走って逃げますから、私のことを追いかけてきて下さい」

「…えっ、それはどう言う…」

「まあ、有り体に言ってしまえば『食い逃げ』です。『食って』『逃げる』。その二つをやり遂げたら私の勝ちです。逆にあのラーメンを食い切れなかったり、逃げる途中で捕まってたりしたら私の負けということです」

 簡単でしょうと朗らかに、笑みを浮かべながら説明する左文字を見て、当の店主は目を丸くする。

「いえ、その… そもそも何で逃げるんです? あのラーメンは食べ切ったらそれでチャレンジクリアなのですが」

「まあ、その意見も尤もですが… 変な風習だと思って聞き流して下さい」

 店主の疑問を瑣末なものだと、片手で払うように受け流した左文字は「それで、やりますか? やりませんか?」と返答を求める。

「ちょっと待ってもらえますか」

 そう言い残し店主は従業員を集めて店の奥へと引っ込んでゆく。

「何だあの人は。急に食い逃げをするなんて堂々と言い出したぞ」

 困惑する店主は左文字が気でも触れているのではないかと思い、どうしたものかと首を傾げる。

 普通に考えればそうだろう。自分たちが提供するあの尋常じゃないラーメンを平らげることすら難しいと言うのに、それを完食した上で走って逃げようだなんて。もはや正気の沙汰でない。

「そもそも必要性が解りません。何だって食い逃げなんてするんですか?」

 店員たちの口からも意味が解らないとの声が上がり、ここは丁重にお断りして帰ってもらうのが無難なのではないかとの意見が飛び交う。

 そんな中。

「あの、少しイイですか」

 手を挙げたのは最近アルバイトとして『カタクナ』で働き始めた男子大学生。

彼は正式な店員でないためか、頭は丸刈りになっておらず、フサフサの天然パーマがハゲ集団の中で異彩を放つ存在だった。

「おぅ、帰ってきたか。しかし、引切り無しだな、お前の彼女は」

「ええ、今さっきSNSで返事してきたところです」

 少々ウンザリとした感じのアルバイト君は、それはさて置きと話を戻す。

「その、僕もSNSとかで見た話なのですが、最近『喰い逃げ屋』がブームに成っているらしいのです」

「えぇ…何それ」

「いえ、その、僕も詳しくは知らなんですけども、何でも最近流行りの『エクストリームスポーツ』として、『食い逃げ』の動画をサイトにアップしては人気を博しているらしいですよ」

 アルバイト君は「見てみます?」と言いながら、自分のスマホで動画を再生してみせる。

 そこに映し出されていた画像は、先ほど左文字が提案してきた事そのもので、山のような料理を完食し、なおかつ走って逃げるという地獄めいた様相を包み隠さず明からさまにしていた。

「今の若者ってそんなに粋狂なの?」

 あまりにもの文化の違いに店主も他の店員たちも引き気味で、最近の若い人たちは解らんと、ブツブツと車座になって話し合っている。

「でも面白そうじゃないですか。やってみましょうよ」

 しかしアルバイト君はやはり若い感性なのか、偏頭痛を起こしかけている店主たちとは正反対に、興味津々の体で動画を眺めている。

 ホラホラと進められるまま、アルバイト君に再び動画を見せられた店主たちは、仕方がないと言いたげな表情で彼に付き合う。

 動画の中では相変わらず粋狂で、何だこれは、と思わざるを得ない様な内容が流されている。

 こんな物が流行っているとか世も末だとは思うものの、動画を一本二本と見ている内に、その奥にある『熱気』に気がついた。

 その動画に映り込む誰も彼もが汗をかき、顔を上気させ、燃え上がるような熱量を持っている。

 挑戦者は汗まみれで我武者羅に、殴りつけるかの様な勢いで料理を食し、店員たちは汗まみれで、逃げる挑戦者を宛らアリの大群の様な大勢で追いすがる。

そして、それを遠藤から眺めている観衆は、サッカーの国際試合でも観戦しているかのような、一丸となって肩を組み、挑戦者のことを応援している。

 動画の中には冷めやらぬ熱狂と、何だこれは、と思わざるを得ない様な迫力が溢れ出してくる。

「もしも、これと同じ熱狂を、僕たちも作り出すことができたなら、きっとこの街もさらに活気付けることが出来るんじゃないですか?」

 アルバイト君のその言葉を聞いた後、店主はポンッと膝を打ち、決心した様子で厨房へと戻ってくる。そして、しばらく待っていたのだろう、スマホをイジっていた斉場少年を諌める左文字に正対する。

 改めて左文字のことを観察すると、その外見にだけ囚われて気が付かなかった左文字の真剣な眼差しに目が合った。

 ―――なるほど、これはイイ面構えだ。

 目の前の相手は戦う者の目をしている。それに気が付かず、蔑むような評価をしてしまったことは無礼極まりないことだった。

「良いです。その挑戦受けましょう」

 その言葉に左文字と店主の当事者二人のみならず、周りで固唾を呑んで様子を伺っていた観衆も一気に沸き立ち歓声が上がる。

「面白いことになったぞ!」「これは大変なことになったな!」「おい! ツイートしろ、ツイート!」

 ワアワアギャアギャアと観客は各々好き勝手に叫んでいるのか、そのほとんどが聞き取れない。しかし、皆が皆この『食い逃げ』を楽しみにしている様子が手に取るようにわかった。

「ありがとうございます。それではこれを受け取ってください」

 恭しく首を垂れながら、左文字は印半纏の袂から一枚の紙を取り出した。

「これは私の名刺です。それと挑戦状だと思って下さい」

 店主は左文字の手から受け取った名刺を繁々と眺める。

 名詞としては何の変哲も無い一枚の紙切れ。表には職業なのか『喰い逃げ屋』の文字と、左文字の名前が記載されている。そして名刺を裏返せば、シンボルマークなのだろうか、『㊧』と不思議なマークが印刷されている。

「確かに、受け取った」

 名詞を前掛けのポケットに仕舞い込んだ店主は、改めて闘志に満ちたその眼差しを左文字に向ける。

「それと、今回の『喰い逃げ屋』ですが、その宣伝は私たちの方でやっておきます」

「? 宣伝なんて必要なのか」

「もちろんです。周りに説明をしないまま食い逃げなんてやったならば、事情を知らない人たちが出張ってきてそれこそ警察沙汰に、犯罪になってしまいます」

 そうなったら捕まる自分たちだけでなく、片棒を担いだ店の側にも迷惑をかける恐れがある。だからこそ宣伝し、事前に『食い逃げ屋』をすることを、皆に周知しておく必要があるのだ。

「それでは、詳しいルールの説明は後日書面でお届けします。…これ以上長居してはほかのお客さんたちに迷惑になってしまいますからね」

 左文字が気にして入口を仰ぐと、長蛇の列は以前にも増して蜷局(とぐろ)を巻くが如く連なっている。

 それはそうだろう。左文字が店主に『食い逃げ屋』の挑戦をしてから、誰も客をさばいておらず、ラーメンの一杯も作っていないのだから。

 その現実に我に返り、急いで客を招き入れる店員達に、「それではまた、後日改めて」と言い残し、左文字と斉場少年は店を後にする。

「どうもお待たせしてすみませんでした」

 店を出た左文字は、すぐさま店の前の行列の一人ひとりの客に向かって謝罪を述べる。

「そんなの別にイイってことよ」「それよりも喰い逃げ屋頑張れよ!」「見に行くからな! 応援してるぜ」

 対して行列の客たちは怒ることなど一切なく、誰しもが激励の言葉を左文字に掛けてくれる。その様子はこれから食い逃げを行う左文字に対して、実に好意的な様子だった。

「解りましたか? 斉場君。これが『誠実』さですよ」

 正々堂々と、逃げも隠れもせず、後ろ暗い所なく真剣勝負で挑むなら、食い逃げと言う常識に照らし合わせれば普段は犯罪的行為であろうとも、筋の通った道理として受け入れられ、(あまつさ)え応援を受けることが出来るのだ。

 そしてこれこそがただの『食い逃げ』と『喰い逃げ屋』の明確たる境界であり、『食い逃げ屋』の矜持なのである。

「ただ、私たちは『食い逃げ』という犯罪行為を…外道を生業としていることを忘れてはいけません。それこそ一歩踏み間違えば罪の境界線を越えてしまう、そんなギリギリの立場でひた走っているのです」

 それはまるで研ぎ澄まされた刃の上を、恐れを知らず走る様なもので、踏み外せば奈落の底、進むままにも身を削るという一本道。

 だからこそ己の身を守る術を身に着けなければならない。それこそこの道は誰も助けてくれないのだから。

「解りました。心しておきます」

 斉場少年の返答に左文字も嬉しそうに頷く。二人の関係は実に師弟していた。

「それで、師匠。この後はどうするのです?」

 店の前に蜷局を巻く人垣を抜けて、夜の喧騒を歩む中、斉場少年の質問に「そうですね…」と、左文字は思案するように天を仰いでみせる。

「今日、実際にラーメンを食べてみて、あのチャレンジラーメンの秘密は8割方解明できたのですが…」

「8割!? たった一杯食べただけでですか?」

 流石ですと持て囃す斉場少年に対し、左文字は難しい顔を崩さない。

「ただ、残りの2割、それが解らないのです。この2割が私を踏み止まらせます」

「? 8割なんてほとんど解ったようなものじゃないですか。何を臆する必要があるのです」

「…斉場君。私が『食い逃げ屋』に必要だと言った4つの車輪。覚えてます? その中で君に一番必要だと言ったもの、(そら)んじられますか?」

 投げかけられた質問に、誤魔化すように可愛い笑顔ではにかんで見せる斉場少年。

その様子に今日は既に何度目か、またも斉場少年に呆れた様子の左文字は、自分の指導不足が問題なのではないかと少々自信を無くすのだった。


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