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ある時、兄は私の部屋に来た。
「どうしましたの?おにぃ…」
ノックもせずに入ってきた兄はズカズカと早歩きで鏡台の前に座る私の元へと歩みを進める。そのあまりの剣幕に、私は語尾が尻すぼみになった。僅かに合った視線は私を冷たく見下ろしている。
次の瞬間、私は髪を掴まれ、引っ張っられた。
頭のてっぺんからブチブチと音が聞こえる。
心優しいあの兄がこんなことをするなんて夢にも思わなかった私は驚きで一瞬だけ痛みを忘れた。しかし、ジンジンと焼けるような痛みが襲ってくれる。
「痛いわ、お兄様!」
この瞬間の前までは兄は常識人だったはずだ。
それにあの優しくて仲の良かった兄ならば、私が言えばすぐに離してくれると信じていた。
でも、違っていた。
私の髪を握る力強いその手は緩むことなく、私の頭ごと蹂躙する。
「やめて!」
悲鳴にも似た声で叫ぶと、兄は打ち棄てるように私の髪から手を離した。
その反動で私は地面に落ち、這いつくばりながら兄を見上げた。
「…気持ち悪い。」
兄はそう呟く。その時の兄の顔は何か恨みに満ちたような、軽蔑したような、なんとも険しい顔だった。
兄は踵を返すと、すぐさま私の元から立ち去って行った。それは全てをなぎ倒し、去っていく竜巻のように。
ヒリヒリとした痛みと呆然とした顔の私だけが部屋に残される。
じわじわと血が滲むように悲しみが湧いてきた。
私と兄は人と比べても大変、仲が良い兄妹だった。
それが、どうして?
もちろん、兄に触るようなことは一切喋ったりしてはいない。少なくとも今日は無かったはずだ。
お兄様はどうしてこんなことをしたの?
私しかいない部屋に疑問に答えてくれる人はいなかった。
**
私は地方のベルメール伯爵家の長女として生を受けた。容姿も貴族の娘としての能力なども普通であり、少し人見知りすること以外は至って普通の人間だった。
時に、私の事を可愛げのない子どもだと言う人も居たが、そんな事などどうでもよかった。どうでもよい人の言葉などどうでもよいと兄は私に教えてくれたから。すると途端に世界が明るくなって、私の小さな世界で兄が大部分を占めるようになった。
「サラ。」
兄は私の名前を呼び、手を繋いだ。
「お兄様。」
私は兄を呼び、手を繋ぐと自然と笑顔になる。
「髪を結ってあげよう。」
兄は私を木陰に連れて行くと膝に座らせて器用に髪を編み込んでいく。
他の人にいじられるのは嫌なに、兄が私の髪に触れると嬉しくなるのは何故だろうか。
そんなことを考えながら、放り出した足先を無邪気に動かし鼻歌を歌う。空を見れば不思議な形の雲が飛んでいる。今日はいい天気。そして気分もいい。
「はい、できた。」
その声に振り向くと微笑む兄がいて、私はそのまま手を回して兄の胸に飛び込んだ。
「お兄様、大好き。」
手を繋いで笑顔になるのも、髪を触られて嬉しいのも、それが答えなのに幼い私は気づかなかった。
けれど、私はその言葉をいつも兄に伝えていたし、その光景は周りからも微笑ましく見守られていた。何なら結婚したいとも自由に言うことができた、今では遠い日のこと。今はただ、その時の自分が羨ましく思う。