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皮算用

作者: 夜波梓乃


 妻はいつも先のことを考えながら生きていた。付き合う前から俺と付き合ったら何をしたいだとか何をしようかだとか考えて幸せな毎日を送っていたそうだ。付き合うとプロポーズを期待し、同じように幸せに生きていた。だが、毎日が幸せな妻には一つ欠点があった。常に未来を見ているために、ある一定の目標が達するとすぐに次の幸せを見てしまう。例えば結婚式の時などはひどかったものだ。婚約をしたときは結婚式の準備やドレス、美容などどんなものにしようかなど毎日頭を悩ませ希望を抱えていた妻だが、ドレスの試着やエステ等やりたいことが叶うともうハネムーンの計画を立てていた。これが妻の欠点、やりたいことがある程度叶うと現在進行形のものが中途半端にずさんなものになっ てしまうことである。その尻拭いはいつも俺だった。よく言えば切り替えが早い、悪く言えば自分勝手で楽観的である。最初はそんな妻も愛しく思っていたが最近の行動にはもはやついていけない。人生のレールを轢かれ、俺はその上を走るしかない操り人形のようになった気分で毎日を過ごしていた。

 そんな妻の行動に辟易し、毎日部下を連れ飲み歩いていた。家に帰れば思いついたように突拍子もないことを言い出す妻。それに対して苦言を呈すと落ち込み、宥めることで一晩使う。そんな毎日に絶望と苦しみしか見いだせなくなった俺にとって極力家に帰らない方法がこれであった。部下は毎晩俺に付き合い、嫌な顔せずに妻の愚痴に耳を傾けてくれる俺の唯一の癒しであり、希望だった。彼女は俺を気遣い、癒し、まるで伴侶のように俺のことを想ってくれていた。彼女と過ちを犯すには時間はかからず、その関係は長い間続いていた。彼女の隣にいた方が俺も彼女も幸せになれる。そう確信した俺は遂に計画を実行に移そうといつも通り電気の消えた真っ暗なアパートに帰った。もちろん妻は寝て いる。いつ切り出そうか、頭を抱え飲み直そうと冷蔵庫を開けた瞬間、ぱちり、と小さな音が聞こえ、リビングに明かりが灯る。振り返ると寝間着姿の妻が目をこすりながら電気のスイッチに手を這わせ立っていた。いつもならば絶対に起きてこない妻であり、その行動に心臓が一回大きな音を立てて跳ね上がった。


「おかえりなさい」


寝起きのかすれた声でそう囁くとゆっくり俺の元へ歩いてくる。にこ、と笑顔を見せる妻の姿に罪悪感を覚え、鼓動が速く脈打つ。毎晩遅く帰る俺に対し冷めたように接していたが今日だけは何故か違う。


「ごめん、起こしたかな」

「いいえ。毎日起きてました」


 不自然に笑みを崩さない妻に罪悪感よりも恐怖と気味悪さを感じる。開けっ放しの冷蔵庫が警告音を鳴らす。急いで扉を閉めるも耳に響く金属音のような静寂。時計の秒針がちくちくと大きな音を立てて時を刻んでいく。無意識に目を細め妻を見つめるも頑として笑顔を崩さない。脇と背中に異常なほどの汗が伝う。きっと妻は全て知っているのだろう。俺が口火を切るまで時間の問題であることは明白だった。


「なあ、話したいことが」

「あなた、酔っているみたいね、今水を用意しますわ」

「それより!」

「ねえ、私心配なの、毎晩遅くまで接待かしら?飲んで帰ってくるあなたの体が。何か病気でもしていたらって思うと不安で」

「……」


 まるで俺に話をさせまいとするかのように畳み掛ける妻の言葉の棘は俺の胸を引き裂いていく。確かに妻はわがままで自分勝手だったかもしれないが俺のことを思う気持ちは心の奥にあったのではないだろうか。言葉だけかもしれないがどうしても俺は妻のこの言葉が嘘であると思えなかった。


「さあ、飲んでください。お顔が真っ赤よ。これを飲んで落ち着いてくださいな」


目の前に差し出された水は並々と注がれ、水面がわずかに揺れていた。それを受け取ると頭を冷やす意味も込めて一気に飲み干した。妻との体の距離はわずか20センチほど。ふわりと甘い匂いが漂う。結婚する前から変わらない妻の匂いだ。俺はとんでもないことをしてしまったのだとようやく気付かされるももう遅い。全て妻に知られてしまっているのだろう。これから改心する気持ちは重々にあり、自責の念と妻への申し訳なさ、自分の不甲斐なさに体が震え、汗が大量に額に浮かぶ。


「すまない…」

「え?」

「すまなかった」

「何のことでしょうか」

「君を裏切る行為をしてしまって」

「……」


口を噤んだ妻の顔を見ることができない。床に視線を這わせながら今までの自分の行いを悔いた。再び訪れた沈黙。先ほどよりも重い空気がのしかかり、汗がじっとりとワイシャツを濡らしていく。


「すごい汗」

「ああ……」

「横になった方がいいんじゃない?」

「だが…」


 抵抗する俺とは裏腹に妻は俺の肩を抱え、寝室まで運んでくれた。人間として、男として、夫として最低なことをした俺に対するこの気遣いと優しさに涙が溢れて止まらない。女々しく妻の肩に抱かれながら声を押し殺して泣いた。そんな俺を優しく包み込むように何も言葉をかけずただ傍にいてくれる妻。こんなにも優しい女性を苦しめて自分だけいい思いをしていたなんてなんと浅はかで愚かなのだろうか。


「君の夫失格だ…」

「ええ…そうね」


 予想通りの発言だが、頭を金づちで殴られたような強い衝撃を感じる。くらくらとめまいがし、吐き気さえも襲ってくる。もう妻は俺を見限った。ただその事実だけが残った。


「俺は…」

「私はあなたを許すつもりはありません。だから最期は私の為に死んでください」

「え…」


許さないという言葉は覚悟していたが死ね、という言葉には驚く。冗談だとしてもすこしきつくはないだろうか。まさか本当に死んでほしいなどとこの優しい女性が思うだろうか。子供好きで、甘えたがりの思いやりある妻をこのようなことを言うまで放っておいたのは紛れもなく自分である。さらに自分を責め立ててしまう。


「そうだな…俺は死ぬべきなのかもしれない」

「死ぬべきじゃなくて死ぬの」

「何を言って…」

「さっき飲ませた水に入れたのよ薬を」

「なんだと…何の薬だ!」

「もうすぐ死ぬ人に言っても仕方ないじゃない」


 吐き捨てるように言い、冷酷に俺を見下す女はもう妻ではなかった。ひどく冷たい目をし、感情はなかった。鬼のようなその姿に震えが止まらない。もしかすると先ほどからの震えと発汗はその薬とやらのせいなのだろうか。


「大丈夫、すぐには死なないわ。新鮮な臓器が必要だからその時まで仮死状態にするの」

「なん…だと…」

「そろそろ記憶が遠のいていく頃だろうから教えてあげる。私、ずーっと家が欲しいって言ってたわよね。それをあなたは一蹴した。どんな利点を述べてもあなたは曲げなかった。だから私考えたのよ。家を手に入れる方法を。そしたら臓器売買っていいお金になるらしいじゃない。浮気する亭主も始末できるし、お金も手に入るし、何より家が買えるのよ!どんな間取りにしようかしら、家庭菜園できるようにお庭も広くして…」


 饒舌になった妻は家を購入した後のことを幸せそうな表情で語り出す。その半分も聞き取れず、妻の顔もぼやけてきた。薄れゆく意識の中、妻はやはり変わってなどいなかったことに嘆き悲しみ、そして激しく恨んだ。中途半端でずさんなあの女のことだ、何か決定的な証拠を残し逮捕されるに違いない。その時まで俺が生きていればあの女を地獄よりも辛い目に合わせてやる。その思いを強く抱きながら瞼は完全に落ち、暗闇の中へ引きずり込まれた。


 どのくらい眠っていたのだろうか、金属同士が触れる音で目を覚ました。小さな太陽が眼前にあるかの如き眩しさと身を焼くような熱さの中、俺は横たわっている。自身の身に何が起こったのか測り知ることはできない。体中、首一つさえ動かすことができないほど体は重く、眼球を回して伺えば手術服を身に纏った人間が何人も俺を取り囲んでいるではないか。


「まるで生きてるみたいだな」

「そりゃそうだ。まだこいつは生きてるからな」

「んじゃあ新鮮な臓器が取り出せるってことか。こいつぁ高く売れるぜ」


いやらしく笑いながら談笑をする男達。銀色に鋭く光るメスを手に持ち、俺の腹にゆっくりと降ろしていった。その瞬間、激しい痛みが腹部を襲う。まさか、生きたまま俺を解体するというのか。条件反射でびくり、と大きく体が揺れると男達から驚嘆の声があがる。


「魚みてえだな」

「それだけ新鮮ってことよ」

「こいつもしかして痛いのかな?」

「んなわけねえだろ、あの奥さんに渡した薬は完全に仮死状態になるんだ。意識も戻らねえし痛みなんて感じるわけねえよ」

「それもそうか」


 男たちの会話までしっかりと聞こえ、理解できるほど俺の意識ははっきりしている。彼らの話が本当ならば何故俺は生きており、こんなにも痛みを感じるのか。薬が効かない体質なのかと疑うも脳裏にあの女の忌むべき特徴を思い出してしまった。あの女は…


「まあ、あの奥さんがちゃんと要領用法守ってればの話だけどな」


 未来への計画に没頭している時は中途半端でずさんな仕事をする――。



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