毒婦と猫又
私が最初に殺したのは、愛する人だった。
あの時、壊れてしまえばよかったのに。
あの人は、咄嗟に私をかばい、胸に抱きこむようにして事切れた。
まだ付喪神として自我を持たなかった私は、ただ胸が痛いという事に必死で、それから数年は記憶がとても曖昧だ。
「こんな薄気味悪いグラス、売ってしまえばいいのに」
彼を愛していた妻は、それでも大事にしていた彼を想い、私を売る事で全てを忘れようとした。
骨董品店の主は、元々随所に細工が施されていた私を気に入り、引き取っていった。
それからは、どうしてか渡る人渡る人、誰かを殺して生きて来た。
そんな生活に疲れ果てていた私を拾い上げてくれたのが、猫又の時雨だ。
この恩は返せるものではないけれど、それでも、あの人が笑ってくれるならば、それでいい。
どこか愛した人に似た私の父は、こんな私の為に婿を探してくれている。
あぁ、笑わなければ。
あの人とお別れする、その時が来るまで。
「そろそろ、時間の筈ですが・・・」
今日は、先日無理難題とも言える『お見合い』のセッティングを依頼してきた、猫又の時雨とグラスの付喪神『桜花』(おうか)を葵は呼び出していた。
時雨は意気揚々とやって来たが、その側で控える桜花はどこか笑顔がぎこちない。
何とも分かり易い二人だと葵は思うが、こういうものはどうにも当事者には分かり難いようで、何時の時代もすれ違うものだ。この二人も然り。
「申し訳ありません。もうしばらくお待ちいただけないでしょうか?お相手の方は制約の多い身、なかなかこちらの時間に合わせて動くことが出来ないのです」
「・・・分かりました。こちらも無理難題を言っています。多少の事は目を瞑りましょう。しかし、これが嘘や謀りであったならば、その命無くなるものと思え」
「・・・十分、承知しております」
すっと、周りの空気が冷えていくのに溜息を吐きたくなる。新聞に書かれていた月の情報では、もう満月が顔を見せる筈だというのに、まだ月は昇っていない。
今は、玲に言って店のあるテナントビルの屋上を借り、机やイスをセッティングし、そこで待機しているのだが、そろそろ時雨の我慢も続かなくなってきている。本来、店の鏡から抜け出てきた妖怪や神様などは、その場所から出ることが出来ない。それを無理やり葵が連れて来ているので、若干体へ何らかの負担がかかっているのだろう。その場を占める静寂が痛いくらいに感じられ始めた時、机の上に置いていた白磁のグラスが淡く光り始めた。
葵はそれに気付くと、グラスの中を覗き込む。ゆらりゆらりと満月が揺蕩う姿は美しく、ほんの数秒光っていたかと思うと、しばらくしてそれは収まった。
そして、不思議そうな顔を向ける時雨と、桜花へとそのグラスを差し出す。
時雨は困惑と、疑念の眼差しで葵を見つめていたが、そっとそのグラスを受け取った。
「それが、お探しの物です」
「このグラスが、桜花の婿だというのか?」
「いいえ。正確にはそのグラスの中身が貴方達の探していた物なんです」
「私・・・達?」
「はい。桜花さんの毒を消し体内で抗体を作り出す薬、と言えば良いでしょうか」
「それでは・・・」
「えぇ、貴方は誰でも好きな人を愛する事が出来るんです。自分の毒で、誰かを殺す事も無くなる。さぁ、あとは貴方次第です」
桜花は、何かを決意し時雨へと向き合う。
時雨は、未だ納得がいかないのか、手の中にあるグラスをじっと見つめている。
もう、この後の展開に葵はいらないだろう。そう思った葵は、静かに屋上から店へと帰って行くことにした。屋上に、二人が帰る為の鏡を設置し、そこに付箋を貼り付けてから。
『御代は極上のまたたび酒を三本、ご用意ください』
御代をいただける日が楽しみだ、そう思いながら葵は静かに屋上の鍵を閉めた。
もう一話で猫又の話はお終いです。